神癒技術者訓練 – セッション2

神癒技術者訓練 – セッション2
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

セッション2

もう気がついているかもしれませんが、私は肩書きを重要視しません。私が武術をしていた当時は、十段で黒帯を持っていても路上の喧嘩に勝てない人達を知っていました。肩書きや帯や階級などは重要ではありません。重要なのはどのような実を結ぶことができるかです。私の証を少しずつシェアしていきます。何故かというと、もし私が実を結ぶことができない人なら、私の話を聞いていても時間の無駄だからです。

いつもは最後に言うことを、今回は今言いたいと思います。もし最後まで待っているなら、言う必要もなくなるので今言います。私を良く知る前に、私の意図と動機の誤解を避けるために言っておきます。

まず第一に何かを学ぶ上で、取るべき姿勢は、私達はそのことについては何も知らないと考えることです。すべてを一から始めるということです。何故なら、もし既存の考えを使って学ぼうとするならば、いつも「どうしてこれやあれは私が今まで学んだことと一致しないんだ」と疑問を抱くでしょう。もし今まで学んだことが本当なら、セミナーには来なかったでしょう。何故このセミナーに来たんでしょうか?私は癒やしのセミナーには行きません。その理由は私のしていることは結果を出しているからです。私はいろいろなことをを学んでも、何も結果を出せない人達を見てきました。あなた達がここに来たことは、もっと人の役に立つようになりたいと思っていることの証拠です。

食事療法は教会の中で神になってしまいました。人々は神の力に頼って健康でいるよりも、食事療法に頼るようになりました。私は神の癒しを信じないと生きていけないような生活をしています。私はファーストフードや、チップスやコーラなどを食べて生活しています。他の人がそれについてどう思うが、関係ありません。私の癒しの集会だからです(笑)。それを食べていても、私は健康です。私に完璧な栄養を取る必要があるなどとは言わないでください。それに今日では完璧な栄養をとることは不可能です。たとえ栄養ある食事をしてもです。

私は一度も野菜を食べたことはありません。野菜とは緑色や黄色やそのような食べ物のことです。ジャガイモは食べます。ジャガイモはマッシュしても、揚げても、焼いてもおいしいです。緑や黄色などの野菜などは健康にいいですが、私は一度も食べたことはないし、食べる気もありません。

私がこのようなことを話す理由は、あなた達が信頼するものはいつかは期待を裏切ることになるからです。単純なことです。適度な運動には反対ではありません。私も運動をします。運動が役に立つと信じていますが、運動は訓練のためにします。それは大切ですが、運動をしている人でも突然心臓発作にあって死んでしまう人もいます。運動するからいつも健康でいるというわけではありません。食事療法はすべての問題を癒すことはできません。食事療法をしていても、栄養失調の病気で死ぬ人もいます。私は神が私を生かしてくれることを信じます。ちゃんと食べて、栄養を取り、運動をするべきであることには賛成します。でも、これは食事療法のセミナーではありません。大抵は、私達が食事療法のことについて話し出すと、すべての話はそちらに向かってしまいます。確かに、栄養が足りない為に起きる病気もあります。壊血病はビタミンCの欠けによって起きます。他にも栄養が足りないことによって引き起こされる病気はあります。

人々は訊きます、「このような栄養のことは病気は悪魔からのものであるという考えとどう関係があるんですか?」人間のからだの滅びと、死や病気などはすべて悪魔の分類に入ります。病気であろうと、悪霊であろうと、大気汚染や、行動や、食物などによって引き起こされる害はすべて悪魔からのものに分類にされます。ヨハネ10:10にはこう書いてあります。盗人がやってくるのは、盗み、殺し、滅ぼすためである。しかし、私が来たのは羊がいのちを得、それを豊かに持つためです。盗人がやってくるのは、盗み、殺し、滅ぼすためです。私が病気に向かって話す時、すべての病気を悪魔と同じように扱います。私達は人に話しかけるようにそれらに向かって話します。それらにしてほしいことを言います。もしあなたが癌を持っているなら、「悪魔よ。今、去れ!」と言います。悪魔と言う代わりに、癌や、他の名前で呼ぶこともできますが、とにかく、私は、盗み、殺し、滅ぼすものすべてについて話しています。病気自身も、からだも、癌も、悪霊も、盗み、殺し、滅ぼすことは悪魔の分類であることを知っています。

どのように祈るかについて正しい祈りの型を捜しているかもしれません。「あのために、このために、どのように祈ったらいいだろうか?効果的に祈るためにはどのように祈ったら良いか?効果的な癒しをするためには何と言ったらよいか?」などと考えるでしょう。でも、実際には、何を言うかよりも、誰として言うかの方が重要です。悪霊は正しいことばを使うからといって聞き従うのではありません。悪霊が私達に聞き従うのは、私達の名前が天に記されているからです。彼らが聞き従うのは、私達が誰であって、誰とつながっているかを知っているからです。正しいことばを使うからではありません。

私達は祈りの正しい型をつかって癒しを行おうとして、それでは効果がないことを学びました。時にはそのような型にはめた祈りがうまく働いているように見えた時もありましたが、多くの場合は失敗しました。なので、私達の教えは祈りの型についてではありません。一般的な祈りの手段はありますが、祈りの型はありません。その祈りの手段は:その問題の名前を見つけることです。もし名前を見つけることができないなら、その症状を見つけてください。そしてそれらが去るように命令してください。

その時には、神に願うことはしません。例えば、誰かが私の前に立って、癒してくれるように頼む時には、私は神とは話しません。癒しに関しては、私はすでに神と話しました。もし私が神と癒しについて話すなら、彼は何と言うと思いますか?1ペテロ2:24です。「彼のうち傷によって私達は癒された。」です。そうですよね?神は他の意見を言うことができますか?神は自分の言ったことばを破らない限り、違う意見は言うことはできません。だから、なんで神と癒しについて話す必要がありますか?神に訊く必要はありません。「神よ。この人を癒すことはあなたのみこころですか?」と訊く必要はありません。彼は何と言うと思いますか?すべての人を癒すのは神のみこころではありませんか?すべての人が救われるのが神のみこころではありませんか?癒しは救いの一部です。救われることと、癒しのためには同じことばが使われています。なので、重要なことはイエスキリストにあって私達が誰であるかを知ることです。

このセミナーは癒しについてですが、他の癒しの教えとは異なった視点から学びます。それは私達がキリストにあってどのような者であるかについての視点からです。癒しの具体的なことについて学ぶよりも、私達がキリストにあって誰であるかについて多くのことを学んでいきます。

私が武術で学んだことは、見栄えの良い動きは、ただの見せかけだということです。役に立ち、敵を倒し、戦いを終わらせることのできる動きはすべて基礎的な動きだということです。癒しについて、いろいろな教えを聞いたことがあるかもしれません。でも、真実はとても単純な基礎的なことです。動きが複雑になればなるほど敵により多くの邪魔する隙を与えます。しかし、動きが、単純であればあるほど、より直接的であればあるほど、簡単であればあるほど、より基本的であればあるほど、素早ければ素早いほど、勝率は上がります。もしあなたが悪霊を追い出すのに6時間もかかっているなら、私達は使い物にならないでしょう。聖書は悪霊にカウンセリングをして去らせるようには教えていません。追い出すように言っています。

カウンセリングをするのは弟子訓練をする時です。だから、カウンセリングは確かに役に立つものです。でも、弟子訓練が始まるのはその人が自由になった後です。まず人を自由にしなければいけません。その後でその人を弟子訓練するほうがよっぽど簡単です。一声、「悪霊よ!出て行け!」と言うほうが、何時間もカウンセリングをするよりもよっぽど簡単です。私達も疲労することはありません。

私達が教会でしようとしていることは、多くの場合、専門家になることです。彼らは何か専門家として見られようとします。私達は学説や~主義などを探求して、それらを学んだ私達が何か重要な者であるかのように考えます。ただ単純に考えようとはしません。ある時、一人の人が私に頼みました。「私達は神癒技術者訓練(DHTT)に一度参加したことがありますが、もう一度戻ってきて、もっと上級のDHTTを教えてくれませんか?」私は答えました。「いいですけど、でも、教えはもっと単純になるだけですよ。もし前回に私が上手く私のなすべき仕事をしたなら、それは私が教えを単純にしたからです。」いいことわざがあります。「いい教師は複雑なことを単純にします。でも、イライラする教師は単純なことを複雑にします。」イライラする教師の方が、いい教師よりも多いです(笑)。

聖書は単純です。簡単です。聖書には隠されたことは多くはありません。でも人々は言います。「でも、私はそのことばの背後にある隠れた意味を探っています。行間を読もうとしているんです。」行間の間には何もありません(笑)。多くの人は「それでは今から聖書の堅い肉について学んでいきましょう」と言います。でも、言わせてもらいますが、堅い肉は、私達が考えるようなものではありません。堅い肉は深い隠された意味などではありません。多くの人々はキリスト教をナルシズムに変えました。私達は何か秘密を知らなければならず、この秘密を知っている秘密のグループの仲間に入らなければならない、というようなものです。でも、そんなものはキリスト教ではありません。イエスは言いました。「私は何も隠れてはしませんでした。私はすべてのことを人々の前で行いました。私は堂々と教えました。私は皆の前で癒しを行いました。すべてのことを堂々と人前で行いました。」(ヨハネ18:20)私達は人々を奥の部屋に連れて行く必要はありません。私達はすべてをその場で行います。癒しは見世物ではありません。実際、私達は癒しを大げさに行わないので、ある人々は怒ります。正直、大半の人々は私達を疑います。それは私達は癒しを大げさには行わないからです。

私は普通、説教をする前には誰とも話しません。何故なら、私はその教会で何が起こっているか知りたくないからです。多くの場合、もし何が起こっているか知っていると、私達はその問題について話す傾向があります。なので、私は集会の前には誰とも話さないことにしました。そのようにして説教することによって、それで、もし私がそこで起こっている事について話すなら、それは神の御霊によって話したことだと分かります。それは、誰かが耳元で、「この問題に対して説教してください。」と言ったからではないからです。私は私の口から出てくることばそのままを話します。これが私の説教の仕方です。そうすれば何も先入観を持たなくて済みます。

セミナーの最終日の癒しの聖会の時に音楽を流す時があります。癒しを行う時に、もしワーシップミュージックがあるなら、それはかまいません。でも音楽は癒しの為に必要不可欠なものではありません。癒しを行う上でいくつかのことを学ぶことになります。そのうちの一つは、癒しのためには雰囲気は必要ないということです。ある人々は癒しの為にはそれにふさわしい雰囲気が必要であると言います。もし、癒しにふさわしい雰囲気がその場にあるのならそれは良いことです。でも、イエスはそのようなものを必要とはしませんでした。イエスはアメイジンググレイスの音楽をガリラヤなどを周る時にいちいち持ち歩くことをしませんでした。「皆さん、歌を歌ってください。油注ぎを感じます。癒しのために雰囲気を作る必要があります。その歌を歌ってください。もう少し歌えば、神の御霊が下ると思います。」そんなのではありませんでした。

ショッピングモールに行く時には、お客様用のカウンターに行って癒しのCDを手渡して、「これをかけてください。癒しを行うための雰囲気を作るために音楽が必要です。」とは言いません。私達自身がその場の雰囲気そのものです。私達がある場所に歩いて入る時、その場の雰囲気が変わるべきです。何故でしょうか?それは私達がその場所に入る時、自分が誰であるかを知っており、悪霊もそれを知ります。そして、その場所で一番の霊的な権威を持つので、その場の雰囲気は変わります。私達が入り口まで歩いていく時、その場の物事は変わります。実際に、私達がその場所にはいる時には、多くの人々はその場所から出て行くでしょう。何故なら、病気や悪霊は私達に捕えられたくないからです。

人々に手を置くと彼らが突然倒れ出すのを何度も見てきました。そのようなことが起きる時には、毎回、私達も自動的に彼らと一緒に手を置いたままかがみました。何故でしょうか?多くの場合、悪魔は私達に触られることを嫌います。なので、私達は手をそのまま置いたまま彼らと一緒にしゃがみます。一旦彼らが地面に倒れれば、もう何処にも逃げることはできません。

私達は教会の中で建て上げられてきた人の教えを発見してきました。そのような教会の中で教えられてきた伝統的な教えに反しても、癒される場合も見てきました。例えば、ある人々は「あなたが罪を犯すことを辞めて神に立ち返らない限りは、神はあなたを癒しません」と言います。それは真実ではありません。私達はクリスチャンよりも、罪人のほうが早く癒されるのをよく見ます。それはクリスチャンはよく自分自身の良い行いに頼るからです。「神様。私は十分の一献金をしました。日曜学校の先生をしました。礼拝に毎週出ています。」などです。しかし、それらは癒しとは何の関係もありません。罪人はやって来て、「私は何も持っていません。神様、もしあなたが私を癒してくれるのなら、あなたが良い神であることを知ります、何故なら私は癒される値のない者だからです。」そして彼らは癒されます。何故でしょうか?それは誰も癒されるに値しないからです。

それを私達は理解しなければなりません。私達は誰が癒されて、誰が癒されないかは選びません。イエスは言いました。「病人を癒し、死人をよみがえらしせ、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)これは~してはどうですか?というような口調ではありません。このイエスの言ったことばは時には献金を集める時に利用されます。「(お金を)ただで受けたのだから、ただで与えましょう。」というような感じです。イエスはそんなことは言いませんでした。彼はこう言いました。「聞きなさい。病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出しなさい、私はあなた達にこの力をただで与えます。だから、ただで与えなさい。」誰でも、どこでも、いつでも、どんな病気でも癒しなさいと言いました。単純ですよね?そのように考えるなら、私達はいちいち「神は今この人を癒そうとしているんだろうか?彼には何が起きているんだろうか?病気は種蒔きの法則によって得たものなのか?」と考える必要はありません。

私はいつも移動しているので家を留守によくします。留守中には一般的な聖霊に満たされたと主張するクリスチャン達に警備する人として家を見張らせません。もし彼がいわゆる聖霊に満たされた人なら、盗人がステレオを持って私の家の窓から出てくるのを目撃したとすると、まず最初にすることは本部に連絡することです。そしてこのように言うでしょう。「こちらXXXです。いまカリー・ブレイク氏の家からステレオを持った男が出てくるのを目撃しました。私に何をしてほしいですか?」本部は「あなたは何をするべきだと思いますか?」と尋ねます。そして彼は言います。「まず本部からの許可を待っているのですが。」本部:「私はあなたに何て言いましたか?あなたは法の権威を守ると誓いませんでしたか?」彼:「はい、そうです。」本部:「たしか法によると、他人のステレオを盗むことは犯罪になりますよね?」彼:「そうだけど。でもカリーを知っていますか?彼は種蒔きの法則で、何かステレオが盗まれるようなことをしたかもしれません。」

こんな感じだから私は一般のクリスチャンに家を見張ってほしくありません。この様な考えは許されると思いますか?法の権威はなんと言うか知っていますか?法は言うでしょう。「その男を捕まえて、逮捕しなさい。そして、私のところに来て、銃と警察バッチを返しなさい。あなたは首です。警官になるには愚かすぎです。」これで分かりましたか?警官としてはこのように考えることは間違っているのに、クリスチャンとしてこのように考えることは受け入れられることだと思いますか?愚か者はいつも愚か者です。

今の人達と同じようにイエスが扱った人達は皆罪人でした。もし今日も世代ののろいが真実なら、イエスが歩いた当時も同じだったと思いませんか?では、何でイエスは世代ののろいを扱かわなかったのでしょうか?イエスは誰よりも大きな癒しを行いました。イエスには群集がつきまとっていました。群衆とはどれくらい大きいかわかりますか?私達はあるときにはイエスには5千人の群集(男性だけで)がいたことを知っています。なので少なくとも妻と子供を含めて2万人はいたと考えることができます。

私達はクリスチャンです。私達は健康であるべきです。私達は癒される病人であるべきではありません。いつも健康で、病人を癒しているべきです。私はクリスチャンを癒すために多くの時間を費やしてきました。私はわざと出て行って、病気である罪人を見つける必要がありました。それが聖書がするように言っていることです。でも、イエスには2万人の群集が付き従っていました。私が見つけたことは、私がセミナーを行う人達の90%は癒しを必要としているということです。クリスチャンでも、クリスチャンでなくても同じです。教会でも、教会の外でも同じです。イエスの時代でも、その統計は同じだとして、人間の性格と性質は代わっていないと考えます。

聖書には5箇所ほどに、「そして、彼はすべての病人を癒された。」と書いてあります。(マタイ4:23-24,8:16,9:35,12:15,ルカ4:40,6:19,使徒の働き10:38)では、例えば、もし2万人の群衆がいて、そのうちの90%が病気なら、病人は1万8千人です。もし病人が1万8千人だったなら、イエスが彼らをすべて癒しました。もし癒されるためには病人は信仰を持つ必要があるなら、イエスは世界一運の良い人でした。2万人のうち、1万8千人が癒しが必要だったからです。それでそれらすべての人達が癒されました。その理由は次のうちのどちらかです。その1万8千人は癒されるために自分で信仰を持っていたか、それとも、イエスは癒しを彼らに信仰があったからではなく、しるしとして行ったかのどちらかです。それとも、それはたまたま神がそのすべての人達を皆癒そうと決めた日だったんでしょうか?それとも、そこにいた人達はたまたま世代ののろいを持っていなかったので、いちいち過去の罪を調べる必要が無かったんでしょうか?考えてみてください。

イエスは世代ののろいや病人は信仰を持たなければいけないとかそういうことを一切扱うことはしませんでした。それなら、私達はそれらを扱う必要はあると思いますか?私達は、キリストを代表する者として、彼が行わなかったり、言わなかったことを行い、言う権利はありません。そうですよね?ある人は言います。「あなたが癒されるに十分な信仰を持ったら癒しのために戻ってきなさい。」でも、もしその人が癒されるために自分で信仰を持つなら、その人は戻ってくる必要はありません。自分で癒しを受取ることができるからです。私はよく人々がこのように言うのを聞きます。「ある人は私にはもっと信仰が必要だと言いました。」イエスは誰にもそんなことは言いませんでした。彼らに必要だった信仰はイエスのところに来ることだけでした。イエスのところに来たということは、ある程度の信仰は持っていたということです。それでも、人々は言います。「自分の癒しのために自分で信仰を持たなければません。」本当ですか?じゃあラザロは信仰を持っていましたか?もし彼が信仰を持っていたなら、癒されていたはずです。死ぬ必要はなかったはずです。彼は信仰を持っていなかったので死にました。誰が彼がよみがえるために信仰を持っていましたか?イエスです。

ジョン・ウェズレイのミニストリーでは247の癒しが起こった例が記録されています。多くの人は知りませんが、ウィリアム・ブースの頃には、彼が救世軍を始めた時には、病気が癒されるだけでなく、死人もよみがえった記録があります。救世軍は昔歩んでいた道から少し逸れましたが、まだいい仕事をしています。ジョン・ウェズレイにはハンクと呼ばれる馬がいました。彼はその馬に乗って何処にでも行きました。彼は馬で4万Km走り回りました。私も私の車で、2万7千Km旅をしてきました。2年前には9千6百Kmでした。なので、過去2年間で、私達は17400Kmを追加したということです。ウェズレイは馬で4万Km旅をしました。ある日、彼の馬が足を故障しました。馬の為に祈り、馬は癒されました。私はいつも人々に言います。「ハンクが自分が癒されるために信仰を持っていたのはよかったですね~」(笑)。人々は癒されるためにはその人には信仰が必要だと考えるからです。もちろんハンクは信仰は持っていませんでした。どうして人々はそんな考えをするんでしょうか?

これが私達には大きな責任があると言った理由です。何故なら、癒されるための信仰を持つことは病人の責任ではないことを学ぶからです。癒す者である私達の責任です。いいですか?病人は他の病人を癒すようにという命令は受けませんでした。病人を癒すことは命令です。イエスはもし病人が信仰を持っているなら癒しなさいとは言いませんでした。彼は病人を癒やすように言いました。何故でしょうか?何故なら、癒しは戦争だからです。それは癒しは悪魔のしわざを打ち壊すことだからです。私達は他人のために信仰を持つことができます。一度、癒しは戦争だと理解すると、癒しはとても単純になります。何故なら、私達は目の前にいる人は扱う必要はありません。

私がこのように言う意味を理解してください。私が病人の前に立つときには、私は考えません。確かに彼らの状況を見て、私のあわれみと愛は彼らに注がれます。そういう意味では彼らは重要です。手段や方法よりも、人々は大切です。でも、癒しとなると彼らは重要ではありません。私は彼らがいることも意識しません。私が病人の前に立った時に、私が見るのは2人だけです。私と悪魔です。何故でしょうか?何故なら神が共にいるからです。神は私のうちに生きていて、私を通して働き、その病人は戦場です。そういう意味で彼らは重要ではありません。私が「人々が重要ではない」と言う意味が解りますか?もちろん彼らは重要です。彼らを気遣います、でも、彼らが何を信じ、何を信じないかは関係ありません。なぜなら悪魔は私に聞き従わなければなりません。病人が何を信じていてもです。そうですよね?イエスは彼には悪魔に対してのいっさいの権威と力が与えられていると言いました。(マタイ28:18)

イエスはいつも弟子たちに彼の持っていたすべての権威を与えました。彼は2つのことをしました。ひとつは福音を宣べ伝えるように命じました。そして、すべての悪霊と病気に対する権威と力を与えました。(マタイ10:1,7-8,マルコ3:14-15,マルコ6:7,ルカ9:1-2,10:9)聖書によるとイエスは決して病気やわずらいを癒すための権威と力を与えないでは、誰も福音を宣べ伝えるために遣わしませんでした。

ルカ10:19には私には蛇やさそりや敵のあらゆる力に打ち勝つ権威があると言っています。もし私にすべての悪霊に対しての権威があるなら、悪霊は私に従わなければいけません。彼らが誰で、どこにいるかは関係ありません。彼らが人のうちにいるからといって、例外ではありません。彼らは私に従わなければなりません。ある人は言います。「でも、もしその人がその悪霊をほしがっていたらどうですか?」それでも追い出してください。また言います。「でも、もし彼らが本当に悪霊をほしがったらどうするのですか?」もし彼が悪霊をほしがっていたら、再び得ることができます。今度は7倍にして喜ぶことができます(笑)。考えてみてください。イエスは悪霊がある人から出て行って、その人が変わらなかったので、他の7つの霊を連れて戻ってくる話をしました。彼らは7倍悪くなりました。(マタイ12:43-45)これはもしその人が悪霊をほしかったら、又再び得ることができることを証明します。

これはその人が悪霊をほしがっても、私達はその悪霊を追い出すことができることを証明します。そうであれば、もしその人が悪霊をほしがらなければ、それを再びあることはありません。なので、人が悪霊を得るためには何か罪などを行います。同じようにして、望むなら再び悪霊を得ることもできます。

ここで言おうとしていることは、「その人は自由になるに値する人であるか、その人は本当に自由になることを望んでいるのか?」です。あなたがその人に尋ねるとします。「私があなたを自由にした後に、あなたは自由の中に生きますか?」彼は何と答えると思いますか?もし彼が「いいえ、私は再び元の状態に戻っていきます。」、と答えたとしても、どのようにしてそれは悪霊ではなくて、その人が答えたことだと判断できますか?大半の人は自由になることがどのようなものなのかを知りません。ある人が「神はある足を負傷した人を癒すことはしない」と言ったとします。何故なら、「その人は癒されたら、すぐにクラブにいって酒を飲み、踊るだろうから。」と言います。でも、神はそのような人でも癒します。私達はどうやって救いを受けましたか?救われた日も、罪を犯すことを止めませんでした。その後もまだ間違いを犯しています。でも神は私達を救いました。私達がすぐに罪を犯すのをやめなかったのにです。

このように私達が今まで教会で建て上げてきた人による教えは聖書や個人的な経験に基づいて論理的に考えてみれば意味が通りません。もちろん、私達は自分の経験ではなく、聖書に沿って物事を判断する必要があります。人々は言います。「もし私達の間に不信仰があるなら、神は働かないので、私達は一致を保たなければいけません。」それはただの言い逃れです。何故なら、イエスはいつも人々の不信仰の中で癒しを行ったからです。ある男はイエス達のところまで来て言いました。「主よ。私は信じます。不信仰な私を助けてください。」(マルコ9:24)この場合、彼の不信仰がありましたが、その人は癒されました。それでもある人は言います。「そうだけど、じゃあ聖書が、彼は人々の不信仰のために何一つ力あるわざを行うことができませんでした。(マタイ13:58)と書いてあるじゃありませんか?」これを覚えておいてください。宗教的な人々はいつも聖句の半分だけを引用します。その聖句の残り半分はこう言っています。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いて癒されただけであった。」(マルコ6:5)不信仰の中でも、病人は癒されました。じゃあ、どのような力あるわざを行わなかったんでしょうか?わかりません。聖書は何もいっていません。でも、イエスは力ある癒しのわざは行いました。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いて癒されただけであった。」と書いてあるからです。これより不信仰の中でもいくらかの力あるわざは行われたということです。そして、そのわざは病人を癒すことです。それは何故でしょうか?それはイエスはすべての病気や悪霊に対しての権威を持っていたからです。

このように私達は教会で学んできたことは意味が通らないことばかりです。それらの教えが驚くほど私達を役に立たない人にしてしまいました。私達はそれらの教えを作り出して、神が働く為には、人々を自由にできるようになるためには、すべてのことがきまり良く整っていないといけないと信じるようになりました。私達は10人のために祈り、1人でも癒されたら興奮します。確かにその癒された人にとってはうれしいことでしょう。でも、残りの9人はどうなりますか?イエスはすべての病人を癒しました。私達がイエスのように癒しを行うことができるようになるまでは、この世にあってイエスを完全に正しく代表することはできません。

まず始めに、私達がどのようにしてマニュアルを手に入れたかについては話しました。そのマニュアルを勉強し始めて、祈り方や信じることを変えました。それ以来9ヶ月の間、多くの人達が私達の家に定期的に癒しのためにやって来ました。その中には一人、プロビリヤードプレイヤーがいました。彼は水銀の毒から癒されました。その毒のために彼はエイズにかかったように見えました。彼らは一度は彼はエイズにかかっていると思いましたが、実際には、彼を嫌いな人達が彼の飲み物に水銀の毒を入れました。それを飲んでから、4から5年かけて、彼は次第に弱っていきました。彼のからだは食べ物を保っておくことができなかったので、彼は一定の食べ物しか食べることができませんでした。彼は本当に死人のように蒼ざめていました。私達は教えていて、彼はその場でそれを聞いていました。彼の友人が彼をつれてきて、私達は彼のために祈りました。神は彼を完全に癒しました。

彼が祈ってほしいと頼んだ日の夜に、彼は他にも祈って欲しい人々を連れてきました。彼は私達が癒しのために祈っていることを聞いていました。私達が祈っていると、彼が来て言いました。「私のために祈ってくれますか?私はこの病気から癒されたいです。」私は訊きました。「何が問題なんですか?」私達はしばらくの間はなして、その水銀の毒について知りました。私は祈ることさえしませんでした。彼に訊きました。「その毒の影響はどのようなものですか?」彼は答えました。「私はほとんど何も食べることができません。」私は訊きました。「じゃあ、もし何でも食べることができるとしたら、何を食べたいですか?」彼は言いました。「そうですね。今は、ジャックインザボックスのバニラミルクシェーキです。」それはファーストフードです。私は彼を見て言いました。「じゃあ行って、それを飲みなさい。」彼は言いました。「それじゃ、さようなら」彼はそのようにして集会の途中で去りました。それから、2週間の間彼を見ませんでした。2週間後に、彼をショッピングセンターで見かけました。彼は口に楊枝をくわえて、ちょうどメキシカンレストランから出てきたところでした。私は言いました。「元気ですか?」彼は答えました。「最高ですよ。何でも食べられるし、バニラミルクシェーキも飲みました。」

ある人はこのように言うかもしれません。「あなたがあのように彼にシェ-キを飲みなさいとを言ったのは、神の霊が何を言ったらいいかことばを与えたからです。」いいえ、神は何も言いませんでした。そしたら「じゃあ何でそのように言ったのですか?」と訊くでしょう。私はスミス・ウィグルワースの話を覚えていました。それは足の無い男の人についてでした。ウィグルワースは彼に言いました。「じゃあ、行って、靴を試し履きして、その靴を一足買いなさい。」 その男は片足しかありませんでした。そして、ウィグルワースは気が狂っていると思いました。でも、彼は考えました。「彼は神の人なので、彼の言ったとおりに、言ったとおりにしよう。」彼は靴屋に行き、そこにいる人に言いました。「~サイズの靴を見たいのですが、持ってきてもらえますか?」その人は彼の足を見て考えました。「なんでそんなことするのだろう?」その男は言いました。「いいから、言ったようにしてくれますか?」その男は靴を持ってきました。彼は足首から下の足はありませんでした。彼がその足を靴に入れた途端に彼の足は伸びて完全な足になりました。何故でしょうか?それは彼は神の人が言ったことに従ったからです。

その時、神はウィグルワースにどのようなことばを言ったらいいか、言いませんでした。それが私達が理解しなければいけないことです。私達はいつも「これを、あれをするように」と言う神の声を聞く必要はありません。それを理解するべきです。もし、神の声を聞くなら、それは素晴らしいことですからそれをしてください。でも、もし聞かないなら、ただ聖書の言うことを行ってください。人々はいつも導きを待っています。聖書は私達がいつも導かれていると言っています。ローマ8:14では神の御霊に導かれる人は、だれでも神の息子達です、と言っています。御霊に導かれるとは、ギリシア語では絶えず御霊に導かれるという意味です。人々が何かを行おうとするときには、この聖書箇所は文脈から外れて引用されます。聖書の何処にも、特に新約聖書には、私達は何かするためには神の導きを待つようには言っていません。聖書は私達が自分自身を聖霊で満たし、そうすれば、神は私達を導くと言っています。私達が御霊に満たされていない限りは、神は私達が導かれているようにすることはできません。私達の仕事は常に聖霊に満たされ続けることです。それが重要なことです。

よく見落とされていることは、ローマの8章は私達が導かれて出て行って、病人を癒しに行くことなどについて話してはいないことです。肉の行いを殺して、御霊に導かれて歩むことについてです。言い換えると、私達が肉の行いを殺している限り、御霊に導かれて歩んでいるということが分かるということです。(ローマ8:12-14)何故なら、私達の肉は私達を導いてはいないからです。ローマ8章は、導かれて病気を癒しに行くことについてさえ話していません。聖書の何処にも、導きを待つようには言っていません。私が聖書という時には、大抵の場合は、新約聖書のことを指しています。何故なら、今私達は新しい契約の下にいるからです。

私達は新しい契約を持っています。それは以前の契約よりもすぐれたもので、さらにすぐれた約束を伴なっています。(ヘブル8:6)古い契約は私達には適用されません。私達は新しい契約の下にいます。でも一番の問題は99.9%のクリスチャンは新しい契約的な考え方ではなくて、古い契約的な考え方をしていることです。古い契約の下にある聖徒のように行動する限り、私達はしもべでしかありません。しかし、私達が新しい契約の下にある聖徒として行動すれば、息子のように歩むことができます。

種蒔きの法則を信じますか?それは変わることの無い法則です。そうですよね?私達は自分が蒔くものを刈り取っています。この法則は創世記の頃から存在していたことを知っていましたか?種蒔きの時期と、刈り取りの時期です。同じことです。それは創世記にも書かれています。(創世記1:11-12,8:22)神はしもべ達を刈り取るために、息子を蒔くことはしませんでした。神は息子達を刈り取る為に、息子を蒔きました。聖書にはイエスは多くの息子達を栄光に招き入れると書いてあります。(ヘブル2:10)しもべ達ではありません。

私達の問題はしもべの考え方をしていることです。いつまでも何を、どこで、いつ、どのようにしたらよいかをするように言われることを望んでいます。それは息子の考え方ではありません。それはしもべの考え方です。ガラテヤ4:7では「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、息子です。息子ならば神による相続者です」と書いてあります。何故でしょうか?それは私達は息子だからです。彼は、アバ、父と呼ぶ、御子の御霊をあなたに遣わしてくださいました。(ガラテヤ4:6)問題は私達はしもべになりたがることです。私達はよく紹介しています。「この人は神のしもべです。」違います。私は仕える息子です。この違いが分かりますか?しもべには何の権利もありません。イエスは言いました。「しもべは主人のすることを知りません。でも、息子はそれを知っていて、そして息子は息子のように行動します。」(ヨハネ15:15,5:20)

「でも、私は女性ですが、どうなんですか?」と言うかもしれません。キリストのうちには男子も女子もありません。(ガラテヤ3:27-28)私達は神のうちにあり、イエスのうちにあります。私達は自分のわざを終え、私達が今していることは、イエスが私達を通してしています。(ヘブル4:10)なので、神の息子であることは男性や女性についてではありません。私達が女性であれ男性であれ、私達は神の息子です。何故でしょうか?それは、私達は皆神の息子であるキリストのうちにいるからです。そして、その息子が私達を通して働いています。イエスが私達を通して働いています。それは神の息子のわざであり、神の息子の霊の働きです。そういう意味では、私達が本来誰であるかは関係ありません。

私達は多くの女性をミニストリーで採用しているので、多くの批判を浴びます。私達は女性をミニストリーのために任命します。彼女達を同じように訓練します。私は、民族や、性や、国籍などは気にしません。それらは何も重要ではありません。もしその人に実力があるなら、その人はその立場につくことができます。単純です。ポール・ヨンギチョは言いました。「もし教会を始めたかったら、女性を送ってください。彼女は仕事を成し遂げます。」何故でしょうか?それは女性は男性に仕事をやらせることができるからです。そうですよね?もし女性の方が「お願いします。」と言ったら、男の人はそのことをします。夫の場合はもっと時間がかかりますが(笑)。

この訓練で学ぶことは驚くほどの「自由」です。私達はいつも自分が正しいかどうかについて確かめなくてもいいからです。ただ私達が持つ必要があるのは正しい心、正しい動機だけです。

前に話したように、私の父親は警察官でした。最近、私は権威について研究していました。私達は実際に権威についての教えもしました。それは「偉大な信仰の秘訣」と呼ばれるものです。イエスは2人の人達だけを偉大な信仰持った人として賞賛しました。そのうちの一人はローマの百人隊長でした。何故なら、百人隊長は権威を理解していたからです。イエスは彼のことをさして言いました。「私はこのように偉大な信仰はイスラエルのうちにもいまだかつて見たことがありません。」(マタイ8:10)ローマの百人隊長の証は次のようなものでした。「私は権威の下にあるものです。なので、私は権威を理解しています。」それが彼がイエスにこのように言った理由です。「あなたが来られる必要はありません。ただおことばをください。」(マタイ8:8)ローマの百人隊長は大半のクリスチャンよりも大きな信仰を持っていたことが分かりますか?

私達はまだイエスが現われてくれるように願っています。「イエス様、降りてきてください。あなたの栄光をください。主よ、力を注いでください。主よ。現われてください。」と言うような感じです。彼に私達の家に現われてほしがります。本当に彼に現われてほしいと思いますか?もし彼が現われたら、もしかしたら、彼はそんなに優しくないかもしれません。彼は「ここで何をしているんですか?」と言うかもしれません。イエスが来る時には、彼はすべての人の働きをさばきます。(ローマ2:5-6,2コリント5:10)彼はそれぞれの人の報いを持ってやって来ます。本当に今彼に現われてほしいですか?

いつも、こう言う人達がいます。「私達は祈っています。主が早く来られるように祈っています。」それに対して私は言います。「まさか、私はそのようには祈っていません。」私はこのように祈ります。「主よ。もう少し待ってください。まだ病気の人達がいます。まだ救われていない人達がいます。だから、もう少し待ってください。」私は携挙をこの地上から逃げ去るための手段とは見ていません。私達には成すべき仕事があります。私達には任務があります。私は、イエスが来る時には、準備ができています。でも、マタイの福音書25章21節 ではこう言っています。その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』彼が来る時には、彼は忠実な人々を捜します。マタイの福音書24章46節にはこう書いてあります。『主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。』そのようにしている、とは何のことですか?神の働きに忙しくしているということですよね?私達はすべての預言の聖書箇所を考慮しなければいけません。私はいつイエスがやって来るかわかりません。彼はいつ戻って来るとは言いませんでした。彼はそのしもべを見て、「あなたは賢いですね」と言うとは言いませんでした。彼は忙しくしている人達に、忠実な人達に、仕事をしている人達に「よくやった。」と言うと言いました。忙しくする代わりに、私達は集まって彼の足元に座り、話を聞こうとします。それはいいのですがレイク氏は言いました。「人々は私によく祈って、答えを得てから、その後に、走り出しなさいと言いました。でも、私は神の御霊によって、祈りながら、走ることを学びました。」

私がミニストリーを始めた時には、いろんな話を聞きました。私はある神の人が、アーカンソー州の山にこもった話なども聞きました。彼は小さな山小屋をそこに持っていました。そこにこもって30日の間断食して祈りました。彼はそこへ行き言いました。「よし!私は今から神の力を得ます。」彼には神の力が強く働いていました。私も同じように考えていました。「私もオーザークで山小屋に行って、断食して、祈ることはできます。神に感謝します。そこに行って、だだ聖書をひたすら勉強します。私がそこから出てきた時には、内側から光を発して浮遊して歩く位になるでしょう。私が戻ってくる時には、神の力に満ちているでしょう。」それはいい考えで、これが私の持つべき姿勢だと思っていました。

そして、オーザークへ出て行く準備ができていました。そこに行って、その山小屋に泊まるつもりでした。行こうとした時に、神の御霊が話しました。彼は言いました。「あなたが私を見つけようと探している間に、何人の人達が死ぬことになりますか?もしあなたがここにいて、人々に手を置くことができるなら、何人の人が生きることができますか?」彼は続けて言いました。「実際に、もしあなたがそこに行って、私を見つけて、帰ってきたとしても、どうして私をそのままとどめておくことができるのですか?」それで、私は理解しました。人々の中で生きることができないなら、それはキリスト教ではありません。

どこかの修道院の僧侶になるのは楽なことです。一人で生活して清くあることは簡単です。人々と一緒に生きるからこそ、それは難しいのです。私達が必要なのは、私達が人々の中にいながらにして働くキリスト教です。私達が一人の時にだけに働くものではありません。もし私達が周りから孤立して一人だけなら、何の役に立ちますか?私は神との親密な時間を過ごすことについて言っているのではありません。でも、大半の場合には、私達はそれを言い訳にします。

もう一つのことは私達はもうすでに得ているものを捜していることです。例えば私達は「私は力を得るために祈ります」というかもしれません。本当ですか?イエスは聖霊があなたの上に臨むとき力を受けますと言いました。(使徒の働き1:8)聖霊を受けましたか?もしそうなら私達は力を受けました。でも、私達は「でも、力があるようには感じない」と言うかもしれません。でも聖書は私達が聖霊を受けた後に力を感じるとは書いてありません。みことばは「あなたは力を受けます」とだけ言っています。そうですよね?力を持っていると感じることと、力を持っていると実際に知ることは別なことであり、全く違うことです。力を持っていると感じるという人の大半は実際には力を持っていません。本当に力を持っていると知っている人は、実際に力をもって歩んでいます。

まさにレスター・サムラル氏はそのようだったので私が彼を好きな理由の一つです。私は彼の周りにいました。彼は私達は霊的であると同時に、実践的でいることができることを教えてくれました。彼は私達は人々の周りにいながら、霊的でいて、人々から離れる必要もなく、そして、大半の時間を祈って断食をして過ごす必要はないことを教えてくれました。世界の人々は今苦しんでいることを忘れないでください。

実際に、聖書が私達に待てと言っているのは、たった一度だけであることを知っていますか?イエスはたった一度だけ言いました。今は新約聖書について話しています。イエスは言いました。「あなたがたは父の約束を受けるまで、エルサレムにとどまりなさい。」(ルカ24:49,使徒の働き1:4-5)これを聞くと、私達は自動的に言うでしょう。「ほら、私達は待つ必要があります。」でも、それは違います。もし、私達がそのことばに忠実に従うのなら、エルサレムに行って、そこで待たなければいけません。私達は何を待っているのでしょうか?ここで待っていることはできません。エルサレムまで行かなければいけません。私達が待つように言われたのは、その時一度だけです。それ以外はいつもイエスは言いました。「行きなさい。出て行きなさい。」でも私達はいつもその「待ちなさい」に捕らわれています。何故でしょうか?それは私達は出て行きたくないからです。

大半のクリスチャンは勉強にほとんどの時間を費やすことを知っていますか?私達はいつも新しい教え、本、CDなどを学んでいます。私達はテモテへの手紙で言われているように学んではいるが決して真の知識には至らない人々になってしまいます。(2テモテ3:7)何故でしょう?それは私達は学び続ける限り、安全で、成長していると考えるからです。私達は言います。「私はまだ準備ができていません。私はまだ神に成長させられています。」私達は、勉強を止めた途端に、何かしなければならないことを知っています。私達は実際に何かをしたがりません。私達は学んだことを、私達の好きでない人々の周りで実行したくはないので、仲のいい人々とだけ座り、自分を受け入れてくれる人々の周りで学び続けます。

ある時、私はある教会にいました。ある男の人が入ってきて、前列の席に座りました。そして、案内人の人が来て、彼を他の場所に移しました。彼がきれいな服を着ていなかったからです。彼は路上に住んでいる人でした。そして、彼らはテレビの収録をしていたので、彼がカメラに入らないように彼を動かしました。それが私がその教会にいた最後の時でした。聖書ははっきりと私達は人々を服装によって差別はしてはいけないと書いてあります。(ヤコブ2:1-4)彼らは聖書の教えを破っていました。彼は耳が悪かったので、近くに座って聞く必要があったのかもしれません。後ろに座らせられたので、メッセージを聞くことができなかったかもしれません。もしかしたら、彼が前に座ったのは、どうしようもない宗教的な人達を苛立たせるためだったのかもしれません。もしかしたら神がその人をそこに送ったのかもしれません。もしかしたら、彼は天使だったのかもしれません。

私達はなんで今ここにいるのかを理解する必要があります。このDHTを学んでいるのは、それはあなた自身のためではありません。あなたのことについてでさえありません。それは、助けを必要としている人達のためです。もし私達が神を知っているなら、今死んでも大丈夫です。

ある時、私と息子は軍の新兵を募集している人達の側を通りかかり、彼らと話しました。彼らは見栄えのいいパンフレットを持っていました。当時、私達は彼らと同じようなことをしようと思っていました。そこにいた人が私が何に興味があるのか訊きました。私は彼に言いました。「もし私が15歳若かったなら、志願したと思いますが、志願条件を40歳から42歳に引き上げても、私はまだ当てはまりません。」それを聞いた途端に、私の息子の方を向いて言いました。「あなたはどうですか?」そして、私はパンフレットを取り始めました。彼は言いました。「何のためにパンフレットを取っているんですか?」私は答えました。「ただ、アイデアをもらおうと思っているんです。」そうしたら、彼は私達にすべてのパンフレットを一つずつくれました。それから、私達がそこを去るにつれて、彼らが本当は何をしているかに気が付きました。

私は以前にも同じことを考えたことがあります。神は腕のいいリクルーターであることに気づいたことはありますか?軍は私達が志願する為に、すべてのもの約束してくれます。「わかりました。あなたに教育も、学校に行くことも与えます。また、何処で仕えたいですか?ハワイでですか?問題ありません。ただここにサインしてください。」その人はハワイに行って働くことができるかもしれませんが、その前に、アラスカかかどこかに先ず飛ばされるでしょう。これを神と比較しても問題ないのでしょうか?そうです。神は私達にうそをつくことはありません。神はその願いを叶えてくれます。リクルーターがあなたと話している時には、すべてはあなたについてのことです。「何がほしいですか?あなたの目標は何ですか?あなたの計画は何ですか?」などです。でも、一旦志願したら、「あなたはもう軍にいます。今は軍があなたに何をしてほしいかについてです。」軍の目標と計画についてです。私達の最後の自由意志の選択は、軍に入隊する時の決断だけです。その後は、私達はすべてのことを命令されます。選択の余地はありません。

これがキリスト教です。私達の最後の意志選択は、私達が「私はイエスを主として受け入れます。」といった瞬間まででした。一度彼が私達の主になったら、私達には自由意志はありません。ある人は「でも癒しの務めは私のものではありません」というかもしれません。それでは、簡単です。新生してください!イエスはいちいち癒しの務めを持ってはいませんでした。事実、パウロは癒しの務めについては何も言いませんでした。パウロはこう言いました「神は私達に和解の務めを与えました。」(2コリント5:18)あなたも私も癒しの務めを持ってはいません。和解の務めを持っています。私は和解の務めのために働く者です。私は人の霊を神と和解させます。それは救いと呼ばれます。私は人のたましいを神と和解させます。それは解放と呼ばれます。私は人のからだを神と和解させます。それは癒しと呼ばれます。これらはすべて和解です。

もし誰かが私の目の前に来て、「私は助けが必要です。」と言うなら、私は訊きます。「じゃあ、問題は何ですか?」もしその人が、「私は怒りっぽい性格の問題を持っているのです。」、と言うなら、「すみません。私は悪霊を追い出すミニストリーはしないのです。私はただ病気を癒すだけです。でも、~さんなら助けることができると思います。」とは言いません。イエスは決してそのようなことはしませんでした。彼は言いました。「すべて求めるものには与えなさい。」(ルカ6:30)そうですよね?私達の仕事は何ですか?しいたげられている人達を自由にすることです。

一般に、教会はこのように考えます。「私達は癒しを行うための油注ぎを、悪霊を追い出すための油注ぎを、死人を甦らせるために油注ぎを、福音を宣べ伝える為の油注ぎを得る必要があります。」そうではありません。神のみことばは油が注がれています。新生してください。キリストの霊を受けてください。私達は油をそそがれています。みことばをあなたのうちに住まわせてください、そうすれば油を注がれたものになります。何故なら、私達のうちに宿っている聖霊は、油注ぎだからです。私達は特別な油注ぎが必要だと考えます。私達にはそれぞれの得意な分野はあるかもしれません。それには何も問題はありません。私達は実際には地元の教会を代表するのではなく、キリストのからだである教会を代表します。誰もが癒しの賜物を持っていても問題ありませんが、もし教会のすべての人が持っているものが癒しの賜物だけなら、その教会は偏っています。もし私が癒しだけを教えていたら、私もそれと同じです。もしそうなら、それは自動的に偏ったメッセージになってしまいます。でも私の教える癒しは悪霊追い出しのためにも働くでしょうか?はい、働きます。その原則は同じです。

私が今教えている癒しの原則は悪霊追い出しにも、救いにも適用することができます。これは神の教えであることが分かります。何故なら神の原則はどの領域でも働くからです。だから私達は癒しと悪霊追い出しを別のものとして学ぶ必要はありません。イエスはすべて同じように行いました。彼は「何をしてほしいのか?私に何をしてほしいのか?」と訊きました。病人は「癒しを受け取りたい」と言いました。イエスは「癒しを受取りなさい」と答えました。彼らの願いは癒しのためのものだったので、その病人は癒されました。(ルカ18:40-43)イエスは同じことを悪霊を追い出すためにもしたことを知っていますか?ある人がイエスに癒しを願うと、イエスは彼に「私にはそれができると信じますか?」と訊きました。その人は「はい、主よ。信じます」と言い、イエスは「それなら受取りなさい」と言いました。(マルコ9:23-27)

私も全く同じことをしたことがあります。癒しを求めている人々が私のもとに来て言いました、「癒されたいです。」そして私は彼らに「じゃあ、あなた達は私が癒すことができると信じますか?」と訊きました。これ聞くとおそらく大半の人は「うっ!!!!!」とたじろぐでしょう。おそらく、拒絶反応をします。何故なら人々は「もちろん、あなたには癒すことはできないけれども、イエスはできます。」と考えるからです。じゃあ、今なんで私の目の前に癒されるためにいるんですか?それなら何で神はその人を家にいるときに癒すことができなかったのですか?何故いちいち私の所にまで来たのでしょうか?これは癒しには誰かしら関わっているということですよね。私はこの癒しを行うことができる理由を従順と言います。しかし、多くの人は油注ぎと呼びます。これが私と一般のクリスチャンとの違いです。私は油注ぎを探さないし、待ちません。私は自分を兵士とみなします。私はキリストのための戦士です。私には果たすべき仕事があります。私は敵を打ち負かします。私の司令官は敵を倒す為のすべての武器を与えてくれました。ある人々は癒す力を油注ぎと呼ぶかもしれません。その力をまるで霊的に聞こえの良いように油注ぎと呼んで、何か特別なもののように呼ぶかもしれません。私はそんなことは無視して、人々を癒すことに専念します。癒しを行うことは自分が祝福されることについてではありません。

ある時、私がこれらのことについて考えている時に神の御霊が私に教会の礼拝がどのようであるべきかを見せてくれました。それは幻などではありませんでしたが、とにかく理解させてくれました。私達はベストな礼拝はそこにいるすべての人達が礼拝していると考えます。そして、突然何かが起こり、私達は神の御霊を呼んで、すべての人達が地面に倒れます。そのまま45分間過ぎてしまいます。神の御霊がそのように現われた時には、人々はそのように倒れます。それが本当の時もあるし、そうでないこともあります。時にはそれはただの心理的な時もあります。人々は他人によってわざと感情的、心理的に反応するように駆り立てられます。それが私達は普段は音楽を使わない理由です。また私が興奮してメッセージを話さない理由でもあります。

私はいつも今と同じように教えます。何故でしょうか?私は四六時中リバイバルしています。いちいちリバイバルする必要はありません。私はリバイバルを求めません。私にはリバイバルは必要ありません。大半の人が呼ぶリバイバルはただの良い音楽と感情を高ぶらせるようなものが伴なった礼拝です。でも、神の御霊が私に教えてくれたことは、聖霊が現われる時はいつも彼はクリスチャンと共に働こうとします。聖霊は人を通して他の人々を自由にしたいと思っています。それが聖霊の現われる理由です。聖霊は自由の御霊です。それは彼のアイデンティティーです。もし御霊が現われるなら、人々は自由になるはずです。

大抵、聖霊が現われた時には人々は地面に倒れます。聖霊は彼らと共に働く準備ができていますが、クリスチャンは床に倒れているので使い物になりません。聖霊は言います。「私は今から何か仕事をなす為に現われたのに、誰もその気はないみたいです。」何故こうなのでしょうか?それは私達はいつも誰かに祝福を与えるよりは、祝福を受取りたがるからです。私は神の力を感じる時もあります。それはすばらしいことです。でも、それはいつも集会での起きるわけではありません。それは私の神との個人的な時間の時です。よく私は散歩に行きます。路上で歩きながら、神との個人的な時間を持ちます。神は生きています。

人々は言います。「私達は神の臨在を感じるためには特別な礼拝に行かなければいけません。」あなたが手を置いた人が倒れるのを見たことがありますか?あなたは倒れなかったと思います。何故ですか?もし神の力が彼らを倒すほどに力強いものなら、何で倒れなかったんですか?倒れることが嘘であると言っているのではありません。私達は神からの使者として、神の力に圧倒されずにそれを保つことができる必要があります。大半のクリスチャンはそのようなレベルにまで達しません。多くのクリスチャンは力によって倒れるレベルにとどまります。彼らは倒れたがります。彼らは祝福されたがります。私達が他の人に仕えている時には、それは祝福される時ではありません。祝福される時は、それが終わってからです。

土曜日の癒しの集会に何人の人がやってくるかわかりませんが、すべての人が癒しのための祈りを受けます。約束します。でも、私は部屋の隅から隅まで歩いて、その途中にいる人の頭にだけ手を置いて祈ることはしません。私は癒しが必要なすべての人達のために祈ります。単純です。私はイエスは誰を癒して、誰を癒さないか選ぶとは思いません。でも、私はよく牧師達が疲れてしまうので、彼らが祈る人を選ぶことをすることを見てきました。私は神の御霊は何人かだけ癒すとは思いません。別に彼らが神の御霊を持ってはいないと言っているのではなく、誰を批判しているわけでもありません。ただ私達は成長しなければいけないです。

どの例を使って説明したらいいかわかりませんが、私はイエスは癒しの必要な人を残して去ったとは考えることができません。(ルカ9:11)イエスは神の御霊の力が強いので、それに圧倒されて癒しを行い続けることができなくなったとは思いません。私はイエスは人々と普通に話し、普通に癒しを行ったと信じます。実際に、私はそれが人々がイエスに対して何も変な反応を示さなかった理由だと思います。彼は世間一般的な霊的ではなく、おかしな行動もしませんでした。

このことを理解するべきです。これは自由です。この事実は癒しを行うことを簡単にします。全然難しくはありません。私が癒しを始めた頃は、汗をかいて努力しました。祈るときに、よく力を振り絞りました。他の人の手の上に手を置いて祈りました。今はもうそのようなことはしません。その方法は間違いではありませんが、私はもうそのようなことはしません。そのようなやり方を好まないからです。私は両手を前方にまっすぐにして、彼らの手を取ります。これには他の理由もあります。それは祈りながら彼らと話すことができるからです。私は普段は彼らと話している間に、いのちを彼らに向けて流します。これが先ほど説明していたことです。多くの人は癒しの油そそぎが病人のうちに入っていくのを待っています。しかし、すべての癒しは神のいのちが病人のうちに流れ込み、病気や死を追い出すことです。十分ないのちが彼らのうちに入った時に彼らは癒されます。あなたの仕事は人々に十分ないのちが流れ込み病気や死が追い出されるように導管の役目をすることです。私は癒しを与えるというよりも、いのちを与えます。これはとても単純です。それは、いのちは死に打ち勝つからです。いのちは病気やわずらいに打ち勝ちます。癒しはとても単純なのが分かりますか?癒しは私達が行っていくことによって簡単になっていきます。詳しいことは知る必要はありません。例えば、「どれくらいこの問題を抱えていますか?どんな症状がありますか?病名は?どのようにしてこの問題は起きましたか?」などです。イエスはそんなことはしませんでした。ただ数回、「どれくらいの間この子はこのような状態ですか?」や「どのくらいの間彼はこの問題を抱えていますか?」というように訊いただけです。(マルコ9:21)ある人はこれらを例に取り言います、「このように私達もどれくらいの間その人が悪霊を持っているかを知る必要があります。」それは違います。イエスはそのようなことを知る必要はありませんでした。それはただイエスの人間性でした。彼がそのように尋ねた後に、彼がその人をあわれんだことが書いてあります。それは彼らへのあわれみでした。

私も実際に行うまで、真に癒しを理解できませんでした。このセミナーで学ぶ大半のことは実践するまでは、本当に理解できません。それらについて聞くこともできるし、考えることもできるし、分析することなどはいくらでもできます。でも、私が初めてある人に、「どれくらいの間彼はこの問題を抱えていますか?」と訊いたのは、ある両親が大切な子供を連れてきたからです。私はその状況を見て、心が痛くなりました。私は彼らを見て訊きました。「どれだけの間ですか?」彼らは言いました。「彼が五歳の頃からです。」私は言いました。「神よ。これは正しくありません。これは正しくありません。」私はその子供に手を置いて、両親に返して言いました。「この子はもう大丈夫です。」そして、その子は完全に癒されました。神は私に、「彼らにどれだけの間、その問題を持っているのか訊きなさい。」とは言いませんでした。神は私にそのように尋ねるように言う必要はありません。神はそれを私に教えることはできます。別にどれだけの間その問題を持っているのかを知る必要はありませんでした。私がそのように尋ねたのは霊的な理由からありませんでした。その悪霊はその子を強く縛っていたので、その霊を追い出すためにより強い攻撃態勢に入るためでした。その子に対してあわれみを持ったからです。

ナインのやもめのことを覚えていますか?人々は死んだ息子を担ぎ出していました。イエスはそのやもめである母親を見て、彼女をあわれみました。聖書にはイエスは彼女をかわいそうに思ったと書いてあります。(ルカ7:11-15)イエスは死んだ息子をかわいそうに思ったのではなく母親をかわいそうに思いました。イエスは母親をかわいそうに思ったから、息子を生き返らせました。考えてみてください。イエスが母親のために愛を持ったので息子は死人からよみがえりました。この教えは「よみがえったら、残りの人生どのように生きるつもりですか?何故死んだのですか?何故このような病気を持っているのですか?」などのせんさく好きな質問は全く無益であることを教えます。イエスはやもめの女を見て、その子がただ一人の彼女の子であることを見て、彼女をかわいそうに思ったので、息子をよみがえらせました。私達は死者をよみがえらせるのは、正しいことばや、預言、特別な油注ぎが必要であると考えます。違います。あなたが必要なのはあわれみだけです。これが一番の問題です。聖書はこう言っています「終わりの日には」「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:3,12)そして、彼らは神よりも、自分の快楽を愛するものとなります。」(2テモテ3:4)

私達は悪霊を追い出すために、断食をして祈る必要はありません。私は断食も、祈ることもしないで、悪霊を追い出します。私はそれらをしないでも、てんかんの霊を追い出したことがあります。その悪霊はマタイの福音書の17章に書いてあります。でも、人々は言います。「でも、そこでイエスはこの種のものは断食と祈りによってしか追い出せません、と言っています。」(マタイ17:21)でも聖書を見てみると、その聖句は(英語では)イタリック体で書かれています。イエスはそのようなことは言いませんでした。その聖句は、聖書を数百年コントロールしていた人達によって付け加えられたものです。彼らは、金曜日に魚を食べる事に熱心でした。彼らはこれらの事が好きで、だからこれらを聖書に書き加えたのです。それでもある人は言います、「何でそんなことが言えるのですか?」それは、それは、イエスは彼の弟子達にするなと言った事をしていないからといって、彼らを責めることはできません。覚えていますか?このマタイ17章のことが起こる少し前に、ヨハネが彼の弟子達をイエスの所に遣わした時に、彼らは言いました。「なんであなたは弟子達に、断食をするように教えないのですか?ヨハネは弟子たちに断食をするように教えました。」イエスは答えました。「私が彼らと共にいるときには彼らは断食しますが、私がいなくなった時には彼らは断食します。」(マタイ9:14-15)その当時は、イエスはまだ彼らと共にいましたか?はい、いました。イエスは弟子達に、「信仰の薄い人達よ。あなた達がその悪霊を追い出せなかったのは、断食をしなかったからです。」と言うことはできませんでした。何故なら、イエスはちょうど彼らに断食をしなくてもよいと言ったところでした。私達も他人にすでにしなくてもよいとイエスが言ったことをしないからといって、彼らを責めることはできません。

私達はその話の全体を読む必要があります。イエスはちょうど山から降りてきて、弟子達が誰が一番偉大であるかについて議論しているのを見つけました。恐らく、彼らのうちの一人(議論をしていたうちの一人)はペテロだったでしょう。何故なら、彼はいつも口が達者だったからです。彼は恐らく言っていたでしょう。「ほらそこをどいて、見せてあげるよ。私はイエスがこのような悪霊を追い出しているのを見たことがある。どのように行ったかを見せよう。イエスの一番のお気に入りは私だ。さあ下がって。」そして、彼は失敗しました。それで終には彼はイエスの所に戻っていき訊きました。「主よ。何で私達はそれを追い出すことができなかったんでしょうか?」イエスは言いました。「あなたの不信仰のためです。」イエスは彼らを信仰の薄い、曲がった世代だと言いました。(マタイ17:14-20)

曲がったとは、何かを自分の利益のために曲げるという意味です。イエスが彼らを曲がった世代と呼んだときには、イエスは彼らが物事を曲げていると言いました。彼らは何をしていたんでしょうか?彼らはイエスに訊いていたことでしょう。「主よ。誰が罪を犯したんですか?それはその子ですか?それともその子の父親ですか?」同じようなことを私達は今でも言っていませんか?「それは父親の罪ですか?母親の罪ですか?それともその子の罪ですか?誰が罪を犯したのですか?」と言います。イエスは言いました。「どちらでもありません。」この会話が、イエスが世代ののろいについて語った一番近いところでした。(ヨハネ9:1-3)彼はいつも定まった焦点を持っていました。彼は言いました。「神のわざがこの人に現われる為です。私達は、わたしを遣わした方のわざを行わなければなりません。」イエスは人々を責めることに焦点を当てませんでした。彼は神のわざを成すことに焦点を置いていました。

今日の私達の問題は、私達はアダムと同じことをしていることです。神がアダムを見つけようとして、「アダム、どこにいるのか?」といったことを覚えていますか?終に、神はアダムを見つけ、アダムは神に言いました。「私はあなたがやってくるのを見て、裸なので、恐れて隠れました。」神は言います。「誰があなたは裸だといったのですか?」そして、アダムはエバを指して言いました。「あのあなたが与えた女がこのようなことをしました。」(創世記3:8-12)アダムが誰を責めているかわかりますか?彼は神が彼に与えた女を責めました。アダムは他人と神を責めました。

今日、人々はこのように言います。「あなたが癒されないのはあなたの罪のせいか、神のみこころではないからです。」彼らはアダムと同じことをしています。イエスは決してそのようなことはしませんでした。イエスはいつも責める者を指差しました。もし誰かが癒されなければ、弟子達を指差しました。病人を責めることはしませんでした。彼はいつも弟子達を責めて、厳しく批判しました。イエスは唯一宗教的な人々を批判しました。彼らは見えるところは敬虔であっても、その力を否定したからです。(2テモテ3:5)イエスの姿勢は今日も全く同じものです。

イエスは決して宗教を作るためにこの地上に来ませんでした。イエスが来たのは、聖霊を持って歩むことがどのようなものか、神との関係をもって歩むことがどのようなものかを見せる為にやって来ました。キリスト教がイスラエルから始まった時には、それは神との関係として始まりました。それがギリシアに渡り、哲学になりました。そして、それがローマに渡り、宗教になりました。そして、それがアメリカに来たときには、企業活動のようになりました。でも、すべての外見だけの飾りを捨てて、私達は神との関係に戻らなければいけません。人々は宗教が好きだからです。何故なら、宗教はこぎれいで、分類されているからです。宗教は汚くなりません。宗教は灰色の領域とは混ざろうとしません。もし私達が、ある事柄をある規則に沿ってするなら、よしとみなされますが、もしそのよう規則に沿ってしないなら、問題と見なされます。でも、そのような見方は人の見方です。

私の父は警察官であると言ったことを覚えていますか?彼はある警官は誤って人を逮捕することがあると教えてくれました。そのようなことはよく聞きますよね?例えばある人が18年の禁固刑を終え、釈放された後に、DNA検査の末に、彼は無罪であると証明され、彼が政府検察を訴えて、賠償金を得たとします。驚くことは、政府がその賠償金を払うということです。その人を逮捕した警官はお金を払いません。私は父に訊きました。「もし警察官が間違った人を逮捕してしまったらどうなるの?」彼は答えました。「もしその逮捕が正しい確信によってなされ、言い換えると、その警官が正しい情報に基づいてその人を逮捕したなら、その人に何が起ころうと、その人が無実だと後に証明されても、その警官はとがめられることはない。もしその警官の意図が、法の支配を守るものであるなら、彼はとがめられることがない。」それは政府が間違えを犯した人のためにお金を払うことです。わたしは訊きました。「だれがどのような警官にそのように人々を逮捕する権威を与えるの?」彼は答えました。「警官の権威は地元の政府や、法機関からのものではない。彼らの権威は国の司法長官からのものなんだ。彼は国で一番の警官なんだよ。」すべての警官の任命は司法長官からのものです。

このことを理解してください。私達には聖書があります。聖書の中には法が書かれています。それは新約聖書と呼ばれています。それに書かれていることは私達の行動の基準です。もし私達が誠実に御霊とみことばに基づいて、人を助けるために、働いているなら、間違いを犯しても、神は私達の間違いも修正して、成し遂げようとすることを成し遂げてくれます。何故なら、たとえ方法は間違っていても、私達はそれらのことを正しい良心と動機からしているからです。ある大きな集会で人々のために祈ったことがあります。その時は音楽がうるさくてほとんど何も聞こえませんでした。ある人は、頭痛の問題があると言ったと聞こえましたが、実際には心臓の問題でした。私は彼の手を取って言いました。「イエスの御名によって、今、この頭痛よ去れ。イエスの御名によって命じる。私はこの人を自由にします。」そかれら、2週間後にその人がやって来て言いました。「私を覚えていますか、祈ってくれましたよね?」私は答えました。「あ、はい、覚えていますよ。確か頭痛のために祈りましたよね?」彼は言いました。「いえいえ、違います。私の心臓が癒されました。」何故彼は癒されたんでしょうか?それは私の意図したことは、彼が自由になることだからです。人々は正しい型を追い求めます。彼らは、正しいことばを語り、正しい方法で、正しい手段で、完璧でないといけないと考えます。問題は彼らは何が正しいかを知らないことです。実際に、もし私達が完璧な祈りをしたいなら異言で祈ればいいだけです。どのように祈っていいかわからないときには、だた聖書が言うように異言で祈ってください。それが完璧な祈りです。

癒しを行うとき:通常人々は一つの問題を教えることはするかもしれませんが、すべての問題を教えることはしません。多くの場合、彼らは自分がどのような問題を持っているのかも知りません。またある時は、人々ははずかしくて問題を伝えません。なので、祈る時は、できるだけ包括的に祈ってください、そして必要なら具体的に祈ってください。例えば、私は人の手を取り、「イエスの御名によって、自由になれ、あなたを自由にします。癒されよ。」と言います。このように言えば、たとえその人が10個の問題を持っていても、それら一つ一つをいちいち呼び上げる必要はありません。私が「癒されよ」といえば、それはすべての問題が去り、その人が完全に癒されることを意味します。細かく祈り、何かを逃すことはありません。私は人々が不完全に癒されることに飽き飽きしました。でも人々は言います。「あのね、私達はこの問題は打ち負かし、あの問題も打ち負かしました。でも、この問題はまだ残っている。」そのようなことが起きるのは、具体的になるからです。私達が具体的になる時、悪魔も具体的になります。彼は私達をその細かい点に捕らえようとします。(そして、その他の問題から目をそらせようとします)私達はイエスのように包括的になる必要があります。彼は単純に「癒されよ」と言いました。

Neylor Stevo