神癒技術者訓練 – セッション9

神癒技術者訓練 – セッション9
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

セッション9

質問:「イエスは、死とハデスの鍵を持っています。ですので、サタンは命を取去ることはできません。そうですよね?」それは違います。言いたいことは分かります。確かに、サタンは命を奪い去ることができるべきではありません。でも、彼は盗人です。盗人は盗み、殺し、滅ぼすためにやって来ます。(ヨハネ10:10)ですので、強盗が銀行からお金を盗む権威が無いように、サタンは命を取去る権威はありません。それでも、銀行強盗は、お金を盗みます。サタンも同じです。それが、私達は神の警察である理由です。だから、私達は、彼を阻止する必要があります。なので、サタンを見かけたら、何処でも彼を阻止してください。

基本的には、贖いには、いのち、敬虔、繁栄、癒しなどは、すべて含まれています。それでは、イザヤ53章に戻ってください。イザヤ53章については、この後話していきます。聖書の贖いに関する聖句は、人が生きていく為に不可欠な、すべてのものに関係しています。聖書には、聖霊に導かれることや、聖霊の導きについての聖句があります。神は、はっきりと言っています。「私は、私の目であなたを導こう。」(King James訳詩篇32:8)言い換えると、私達の見ること、つまり、もし私達の考えが、神のことばに従って一新されるなら、私達は、神の視点から物事を見始めます。何が正しくなくて、正しくなるべきかを見極めます。神は、私達を彼の目で導いてくれます。彼の視点は、神のことばと一致しています。私達の考えも、聖書と一致する必要があります。そして、私達は状況をみて、「これは正しくない」と言えるようになります。

小児科病院に行った時に、そこにいる子供達や幼児達を見て、「こんな小さな子供達が病気なのは、間違っている。」と考えるのには、別に霊的になる必要はありません。それは当たり前のことです。今から、少し変に聞こえることを言いますが、私がそのように言うのには理由があってのことであることを知ってもらいたいと思います。もし小児科院に行って、子供達を見て、「これは間違っている。」と思いながらも、神がそのような状況に関わっていると考えるなら、そんな病気を与えるような者が神でなくて、あなたが神であるべきです。(もちろん神は病気は与えません。)私の言っていることが分かりますか?

 

このように言うと、人々が驚くのは分かります。でも、理由があってこのような言い方をしているのです。私達が病気の子供達や病気を見て、子供だけではありませんが、ここでそう言うのは、子供は純粋で無邪気だからです。彼らは何も間違った事をしていない事を知っているからです。多くの場合には、大人はそれを見て、「でも、彼らは何の罪を犯したのか?」というようなことを言います。でも、そのような病気の状況を見ても、あわれみを持つことができることは、それは神からのものであることを証明します。何故なら、通常、私達は、人間として自分のことしか考えないからです。自己中心的です。それでも、大半の人間は、その病気の子供達の状況を見て、それは正しくないと考えることができます。それは、その人のうちに神の知識が少しでもあることを証明します。

私は、何度も多くの場合、医師は、教会よりも神の心をよく知っていると言ってきました。何故なら、少なくとも、彼らは病気を根絶するという誓いをするからです。私達は、教会として、「病気は根絶されなければならない。」と言おうとするべきです。

心理学を勉強すると、人間は、防衛機制というものを持っていることを学びます。例えば、戦争で捕らわれた人や、ルワンダの虐殺を経験した人々は、地獄のような悲惨な状況を経験します。そのような経験は、言葉に表すことができないので、正気を失わないように、彼らは自己防衛機制を働かせます。そして、そのような悲惨な状況が起こった理由を捜し始めます。防衛機制は、彼らが正気を失わないように守るための自己防衛として働きます。そのような考え方では、彼らは、このような経験から何か良いことが生まれるに違いない、この様なことが起こったのには、何か理由があるに違いない、と考えます。

ナチスによる虐殺の中では、「私がこのような状況を経験しているのには、理由があるに違いない」と考えた人々だけが正気を失いませんでした。彼らは、人間というものは、自分自身を完全な悪に明け渡して、悪魔に取り憑かれて、理由や理性など全く関係なく人々を傷つけ、殺し、全くの悪になることができると考えませんでした。でも、そのような悲惨な状況にあっても、防衛機制を持っている人々は、「これはひどい状況だけれども、何故私が今このような状況を経験しているかの理由を見つけなければならない。」と考えます。

心理学は、そのような考え方を防衛機制と呼びました。アウグスティヌスはこれと同じものを「(極端な)神の主権」と呼びました。もし、私達が、神の主権を極端に理解してしまうと、神に仕えるか、仕えないかを選ぶ人間の自由意志を無くした考え方になってしまいます。人々は、「では、それはアルメニウス主義ですか?それともカルヴァン主義ですか?」と尋ねます。

人々はよく私に、「あなたは運命予定説を信じますか?」と訊きます。はい、もちろん信じます、私は、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたと信じます。(ローマ8:29)これが、私が運命予定説について信じていることです。そして、私は、神に与えられた自由意志によって、私の意志を、神の御心とより一致させることによって、より御子のかたちと同じ姿になり、神に栄光を帰す、と信じます。では、私は、神は物事の背後にいて働いていると信じていると思いますか?もちろんです。神は、人々を導いて、すべてのものを同時に、天に居ながら働かせていることを知っていますか?そして、神の物事の行い方はいつも驚くべきものです。

同時に、私達は、神の主権を、何もしない言い訳や責任回避の口実として用いてきたことを認識するべきです。そうです。現実に、私達がしなければならないことは、神が命令したこと実行することです。人々は、「あなたは神の主権を信じますか?」と尋ねます。はい、私は信じます。神は、その主権によって、聖書に病人に手を置けば、病人は癒されると書きました。ですので、私はそれを信じます。そうですよね?でもある人は、「それでは神の主権はどうなるのですか?」と質問します。神は、あらかじめ私が聖書を読み、それを行なうことを知っていたので、その主権によって、聖書に癒しのことを記述し、私は、それに従って癒しを行います。それでも、ある人は、「でも、あなたはすべての人が癒されるべきである、と言っているので、神の主権を取り去っています。神の選択の余地を無くしています。」と言います。でも、はっきり言って私はむしろ神の主権をより拡大しています。何故なら、神の絶対的な権威を神を信じていない人々の上にも拡大しているからです。

私は、いつも癒しだけについて教えるわけではありません。ただ、私は癒しの分野において秀でているだけです。それは、私の人生で起きた多くのことや経験が関係しています。それらが、私を今いる時点に到達するのを助けてくれました。人々は言います。「それはすべて神のわざです。」いいえ、違います。それは悪魔が間違えを犯したからです。彼は、私を放っておくべきでした。彼はそうするべきでした。私は、彼が私から奪った娘の命を、彼の奪った命の中で、最も代価の重い命の一つにしてやろうと決心したからです。だから、彼に、私を放っておくべきだったと後悔させてやりたいのです。彼は、私達に手を出すべきではありませんでした。彼は代価を支払うことになります。それが私の人生の義務です。彼に代価を支払わせることです。

でも、私は、この癒しについて勉強してきましたが、言ったように、癒しは聖書の教えのすべてではありません。もし、癒しだけを知って、それだけを学んでいたら、その人は偏った人になります。通常は、そのような人は、おかしな教義に陥ります。彼らはバランスの取れた人にはなりません。でも、ここで私の教えている原理はあらゆることに通じるものです。それは、悪霊追い出しにも、救いにも、癒しにも、繁栄にもです。

繁栄と言っても、自分だけのための繁栄ではありません。私の意味する繁栄は、申命記18章18節に書いてあるようなものです。神は、私達に富を築く力を与えてくれます。それは、神がこの地上で彼の契約を確立するためです。私の持っているものは、何でも神のものです。なので、私が得るものは、何でも神の国の拡大の為に用いられるべきです。死んだ時に銀行口座に多くのお金を持っておくためではありません。

私の目的は何も持たずに死ぬことです。私は子供達にはすでに言いました。手に入れることができるものは、今のうちに手に入れておきなさい。何故なら、私が死んだ時には、すべてのものは分配されてしまうからです。

ジョンウェズレイについて言われたことと同じようなことが、私が死んだときにも言われることを願います。彼が死んだ時には、彼は4万の説教と、ポケットに彼の棺を担ぐ人に支払う為の6つの銀と、旅行をするときに持って廻った銀の食器と、その当時、彼が生きていた頃の地上での神の力の働きであったメソジスト教会を残しました。でも、今ではメソジスト教会は、その当時と同じような力が無いことは認めます。でも、私はそのような遺産を残したいと思います。

私は、サムラル氏のいるサウスベンに、彼がなくなった後も何度か行ったことがあります。彼が生きている頃には、私達によく言った事を覚えています。「私が死んだ時には、彼らに私の墓石に‘ここに信仰の人、レスターサムラル眠る’と書いてほしい。」なので、ある日私は彼の墓に行きました。彼が埋められた時に、その場にはいなかったからです。彼の3人の子供達に会うためにも行きました。ステファン、ピーター、フランクです。実際にサムラル氏の生きている頃に、私達が彼の所にいる時に、ステファンは私の息子に洗礼を授けました。私が彼の墓石を見るためにサウスベンに行くと、墓石にはレスターサムラルという名前と、没年月日と、「ここに信仰の人、レスターサムラル眠る」という言葉が刻んでありました。

レイク氏が1935年に亡くなった時に、レイク氏と働いていたB S へブデン氏が読んだ賛辞を忘れることができません。彼は、「レイク氏がスポーケン市にやって来て、病気や打ちひしがれた人々を見た時に、私達は、勝利は、私達が前進した先にあると信じていました。しかし、レイク氏は、病人を癒し、彼らを自由にして、勝利は先にあるのではなく、すでにここにあることを教えてくれました。」と読み上げました。又、別の人は、「レイク氏は信仰を聞き手に与える能力がありました。」と読みました。私が死んだ時にも、そのような言葉を言って欲しいと思います。

例えば、もし、私が息子に、全財産を与えるのなら、彼はそれをすぐに使って、お金はなくなってしまいます。そして、彼は、またお金を求めなければなりません。でも、もし私が、彼に神に対する信仰の知識を与えるのなら、彼は決して神に見捨てられるように感じることもないし、一文無しになることもなく、何処にいても彼は生き延び、繁栄することができることを知ります。何故なら、彼は神が彼と共にいて、神が彼の源であると知っているからです。これが鍵です。私達は次の世代に、このような教訓を残すべきです。

朝のセッションで言ったように、教会の中で、私達は、癒しが日常茶飯事になる点にまで達しなければなりません。癒しの為に祈る時に、癒しを前面に持ち上げ見世物にする限り、私達はそのような点には達することはできません。そのようなことはするべきではありません。では、もしウォールマートに行って、病人の為に祈る時には、神がその人を癒すことには、何の疑問もありませんよね?では、次のことについて考えてみてください、病人の為に祈る時には、その人をいちいち人数の少ないところに連れて行って祈る必要はありませんよね?いちいち、「あそこに行って祈りましょう」と言う必要はありません。そうですよね?もし、あなたが本当に神がその人を癒すと信じているなら、かえって、「(病人に向かって)ここで少し待っていてください。みなさん、こっちに来て癒しを見ませんか?見てください。」と言って人を集めるでしょう。でも、実際に多くの教会がしていることは、福音を宣べ伝えることで、人々の信仰が増されることによって癒しが起こることを望みます。イエスも、彼の弟子達も、そのようなこともしませんでした。人々は聞くことによって信仰を得ましたか?はい、得ました。人々は自分の信仰によって癒されましたか?はい、癒されました。何故なら、使徒の働きでパウロは、ある人に癒される信仰を見て、彼の手を取って立たせました。(使徒の働き14:8-11)そうですよね?そして彼は癒されました。それが間違っているとは言っていません。ただ、他人の信仰にいつも頼ることを間違っていると言っているのです。癒しを行う時には、癒しの前に、いちいち人による教えや習慣を打ち壊す教えをする必要はありません。ただ病人の為に信仰を持ち、彼らを自由にできる必要があります。

私達が、神が私達の問題だと考えている限り、信仰によって歩むことはできません。何故なら、そのような考え方では、彼らが癒されるかどうかを確信することはできないからです。信仰は知ることです。信仰は必ずしも信じようと試みることではありません。信仰は知ることです。違いが分かりますか?一度そのような信仰を訓練すれば、信仰はただ信じることを越えて、知ることになります。私達は、今までに少なくとも7万人のために祈ってきました。そのうち、私はてんかんの為に祈って、癒されなかった人を知りません。知っている限りは、皆癒されています。私達は、ほとんどすべての記録を残しています。その他のある病気に対しては100%の癒しの成功率があります。全体的には、私達の祈ってきた94%から97%の人々は癒されています。ある病気は、他の病気に比べて瞬間的に癒されたりします。誰でもそうだと思いますが、私は段階的な癒しは嫌いです。もちろんその人が癒されるなら良いですが、通常は瞬間的な癒しを求めます。

癒しを行う時には、人々については忘れなければなりません。私の人柄から、この言葉の意味を分かってほしいと思います。それは私達の目の前に立っている人について、神については、癒しの時には忘れる必要があります。言い換えると、祈る時には、誰とも話さずに、神に向かっても話すべきではありません、その癒しを行う前に、すでにする必要があることについては、すべて神と話し終えているべきです。

病気の人の前に立った時は、神と話す時ではありません。問題が持ち上がった時、すなわち危機に陥った時は、祈り始める時ではありません。分かりますか?問題が起こった時には、その問題は準備のできていない人にとっては問題であり、準備ができている人にとっては機会です。問題に対して予め備えているのなら、それは機会であり、そうでないのなら、危機です。

話していることの意味はこういうことす。例えば、店の中を歩いていたとします。そして、あなたの目の前で人が倒れて死ぬとします。あなたには時間がありません。今の教会は、そのように人が目の前で死んだとしても、「それでは少し待ってください。今はとりあえずその人を冷凍庫に入れておいて、まず3日間断食をして、祈り、準備ができた後に、そして戻ってきてその人をよみがえらせます。」と言います。これが今の教会の姿勢です。彼らは危機を待っていて、危機が来ると準備をしようとします。聖書的な姿勢ではありません。それが、私がこの軍隊的な考え方を取り入れようとしている理由です。今の教会は、そのような考え方ではありません。

海軍の特殊部隊は、いつも、まるで明日が戦いのように訓練します。それゆえ、いざ戦いになった時には、「では、どれだけ早くチームが戦場に着くことができるか?」と訊かれた時、「私達は少なくても彼らを訓練する為に30週間必要です。」なんて言いません。30週間なんて長すぎです。私達は、いつも準備ができた状態で生きている必要があります。いいですか?私達は毎日訓練します。私は毎日電話を受けます。いつかかるかわかりません。私は、このような神癒技術者セミナーの最中に電話を受けたこともあります。今携帯はバイブレーション状態ですが、教えている最中に電話が鳴る場合もあります。そのような時には、私は言います。このセッションを始めてまだ15分ですが、少し早く休憩にします。そして、休憩中に私は携帯を見て、電話に出ます。それが緊急の電話だと知っているからです。それが緊急の電話だと分かるのは、名前が無名となっているからです。その緊急のコールは私の緊急の番号とつながっていて、もし誰かがその番号に書けると、「これは緊急のコールの為です。誰かが24時間以内に亡くなりそうです。」と言います。緊急の祈りの為の番号(現在はJGLMのウェブサイトに掲載してあります。現在2017年の時点では、主にJGLMスタッフが対応します。)に掛けると言います、「もし誰かが24時間以内に死ぬなら、このボタンを押してください。」そのボタンを押すと、私の携帯にかかります。緊急の番号は、私に誰からかかってくるのか表示しないので、無名と表示されます。なので、私は、それが緊急の番号から来ているのと、急ぎを要する電話であることが分かります。なので、私はその電話を取り、休憩にします。私は次に何が起きるかわからないので、いつもその電話を取ります。もしかしたら、電池が切れるかもしれません。それは誰かが川で溺れ死んだのかもしれないし、癌で死んだのかもしれないし、それは死んだ人が生き返った証かもしれません。それらのどれであっても不思議ではありません。それで、人々が電話してきた時には、最初は、彼らは叫んでいるので、彼らを落ち着かせるまで、何が起こっているのかわかりません(笑)。叫んでいる時には、可能性は2つです。誰かが死んだか、生き返ったかです。大半の電話は、誰かが死んだというものです。誰かが死んだか、死にそうか、そのようなものです。ここで私が伝えたいことは、私は未来を見て何が起こるかを知るという贅沢はできないということです。今から3日以内に、どのような電話がかかるかは分からないということです。人々の生死は、私が準備ができていることにかかっています。個人的には、私は早い時期に、決して誰にも私の命も、子供達の命も、私の家族の命も、誰か他の人の手に任せないことに決めました。何故なら、彼らがその時にどれくらい準備ができているか分からないからです。彼らがどのような精神状態か知ることはできないからです。

クリスチャンの家族の中で一番喧嘩が多いのは日曜日に礼拝に行く前です。何故でしょうか?それは、私達はある一定の雰囲気で、教会堂で、礼拝しなければいけないと考えるので、悪魔はそれを阻止しようとします。例えば、悪魔は、私達が教会に来ても、心から礼拝して、みことばに耳を傾けることができるまで45分もかかるように試みます。悪魔は、できるだけ私達が礼拝やみことばを聞き、受取ることができないように、さまざまな問題や戦いを引き起こします。

でも、理解しなければいけない事は、どのようなことが起きようとも、私達の霊的な状態(姿勢)は、いつもその出来事により変わるわけではないということです。聖書は「怒っても、罪を犯してはいけません。」と言っています。(エペソ4:26)しかし、「もし怒ってしまったら、心理状態は正常ではないので、祈ることはできません。」と言う人もいます。私達の心理状態は祈ることとは、全く関係ありません。祈ることは霊的なことです。心理状態は感情であり、たましいのことです。2つの別の分類に属していることです。私達がたましいを燃え立たせることと、霊を燃え立たせることは別のことです。たましいが霊であると考える限り、私達はたましいに縛られたままです。これに気がつき始めると、次は、「ではどのように霊に従って歩んでいると知ることができますか?」と訊くでしょう。それは簡単です。霊に従って歩んでいる時、私達はみことばを行っています。私達がみことばを行っていないなら、私達は霊に従って歩んでいません。

私がミニストリーを始めた頃、私はサムラル氏に会いました。私は、「みことばの爆発」という1981年にジョン・オースティンの教会で開かれた集会に参加しました。そこに行きましたが、私は任命を受けた牧師でも資格を持っているのでもありませんでした。その集会で、彼らは言いました。「この集会では、人々の質問に答えてもらう為に牧師達を招いています。ケネス・ヘーゲン氏、ジョン・オースティン氏、R・W・シャンバック氏、レスター・サムラル氏やTL・オズボーン氏達を招いています。彼らは信仰の運動で知られている大物達でした。そこで、私は考えていました。「私はその集会に行きたいが、私は牧師でもありません。」そして、確か彼らは人々を扉のところでチェックしていました。なので、彼らがチェックを始めた途端に私達は紛れ込んで、座って、注目を集めないようにして聞いていました。人々は質問をしていました。そして、それが終わりに近づいてきた時に、私は言いました。「私はサムラル氏に質問があります。」私は彼に質問して、彼がその質問に答えて、座ると私に言いました。「どれだけ早くサウスベンに来ることができますか?」私は答えました。「できるだけ早く行きます。」彼は言いました。「来たら、私に会いに来なさい。」と言いました。私は答えました。「分かりました。」そして、私は妻のところに帰り、そのことを伝えました。残りの家族は皆この集会に参加していました。私は妻に言いました。「私はサウスベンに行ってきます。」彼女は言いました。「何故ですか?」私は答えました。「サムラル氏がサウスベンに来るように言われたので行ってきます。」彼女はOKしてくれました。でも、私は何も持っていませんでした。車や、何か移動する手段は、何も持っていませんでした。結局、妻を残して、バスでそこに行くことになりました。そこに着いた時にでも、何も持っていませんでした。服は持っていましたが、住む場所はありませんでした。誰も知らなかったし、何も知りませんでした。バスを降りて、市バスで教会に向かいました。そのバスを降りて、教会の扉を通ると、そこには受付がありました。そこで私は言いました。「ここにサムラル氏に会いに来たのですが」彼女は言いました。「面会の約束はしましたか?」「いいえ、でも彼は私が来るのを知っています。彼は私に会いに来るように言いました。」彼女は言いました。「分かりました。この廊下をまっすぐに行って、その右側です。」私は「分かりました」と言い、その扉まで行き、ノックしました。「入りなさい。」という深い、どら声が聞こえました。その扉を開いて中に入ると、それは長い部屋でした。部屋に入って歩いていくと、ソファや壁に掛けられた様々なものがあり、その先を見ると、机があり、彼は、私の方向を見て、座って、何か書いていました。その当時、私は妻に言っていました。もし2つの質問への答えが得られるなら、すべてが変わります。一つ目は、どのようにして神の御霊に導かれていることが分かるか。もう一つは、どのようにして神の御心を確信することができるか、です。つまり、神の御心は何かです。私はこれらの質問への答えを知ることができるなら、すべてがうまくいくと考えていました。なので、私はそこのソファに座って待っていました。でも、彼は顔も上げないで書いていました。座って、周りを見回して、世界中からのめずらしいものを見回していました。すると、突然彼は書くのを止めて、顔を上げて言いました。「神の御心を知るためには、聖書を読みなさい。聖霊に導かれる為には、聖書を行いなさい。」そして、彼はまた書き始めました。私は彼を見て思いました。「さて、これらの質問の為にここに来たので、じゃあもう用はないので家に帰ることができるみたいです(笑)。」

結局、私はサウスベン市に戻って、そこに仕事を見つけて、しばらくの間滞在しました。とうもろこしの房を他花受粉させる為に取り除く仕事をしましたが、今までそのような事をしたことはありませんでしたが、それは大変な仕事でした。とうもろこしの間を通りながら、それらを強く握らなければいけません。そのようにしてお金を貯める為の仕事を得て、お金が溜まると、私は戻って行って、家族を呼び、そこに引っ越しました。私達は、実際にその教会のスタッフにはなりませんでしたが、祈りの奉仕で働きました。でも昼間は働いていたので、その祈りの奉仕の代わりをしてくれる人を見つけなければいけませんでした。結局見つからなかったので、代わりに夜の祈りの奉仕を勤めることにしました。誰も夜にしようとする人はいなかったからです。

毎晩、私達は起きて働きました。礼拝堂の明かりは暗いものでした。このような話をしているのには理由があります。ただの余談ではないです。そこには礼拝堂があり、長い椅子が並んでいました。子供達は、それらの長い椅子の上で、私達が祈りの奉仕をしている間に寝ました。その奉仕の中で、私達は初めて離れている人々でも電話などで癒されたりする経験をしました。ある人に新しい心臓が与えられたりなど、様々な事が起きました。

ある夜のことです。まだ薄暗くて、静まっている朝の4時位の時です。その教会の建物は、私達に貸しきられたようなものでした。教会の前から、ある物音を聞きました。私は軍隊の経験を持っているので、この物音を聞いていた時に思いました。「これは調べなければいけないな。もしかしたら誰かが建物に入り込もうとしているかもしれないから。」この教会のある地域はあまり治安のいい場所ではなかったからです。それに入り口の扉には、大きな灯りもついていたからです。そして、その入り口のところには大きな地図があって、このように書かれていました。「宣べ伝えられたことの無い何百万人、さらに、何百万人」。そこにはその地図と、灯りがありました。その地図には世界中が描かれていました。その地図には灯りが当てられていましたが、それ以外は暗くなっていました。なので、私はこっそりとそこの後ろにある柱つたいに隠れながら、誰が教会に忍び込んだのかを見つけてやろうと思いました。その人を捕まえて、警察でも呼ぼうと考えていましたが、それ以外にはあまり考えていませんでした。そこで、サムラル氏を見つけました。朝の4時なのに、きちんとスーツを着て、その光の照っている所を歩いていました。私は隠れて彼が歩き周っているのを覗いていました。彼は地図を見上げて言いました。「コンゴの紛争はイエスの御名によって止る。大統領はいい人なので、その力にとどまる。」そのようにして、彼は歩き回って祈っていました。これが彼の祈りの時間でした。彼がこれらのすべての国々の為に祈るのを見て、それを聞きました。彼はそれらの国の大統領の名前を知っていました。それらのいくつかは聖霊によるものだったと思います。彼は、このように祈りながら、歩き回り、私はそこに隠れて立ち、見ていました。一週間位の間、毎朝、そこの柱に隠れて彼が祈るのを見ました。その人が祈るのを見ることによって、その人について多くを学ぶことができます。

終にある日、私がその柱に隠れて、彼が祈るのを見ていると、彼は言いました。「そこの陰に隠れて、祈るのか、それとも、ここまで来て祈るのか、どっちなんだ?」その時、正直その場から、去りたい気持ちでした(笑)。ですので、私はそこから出てきて、歩いていました。彼の側は歩きたくはありませんでした。自分のやり方で祈ろうと思っていました。彼の真似をしているとは思ってほしくなかったからです。彼も私も歩き回っていました。私はそこで静かに祈っていると、彼が大声で言いました。「もし祈るなら。大きい声で祈りなさい!」だから、私は必死で大きな声で祈りました(笑)。

私達は1年間程そのような生活を続けました。私はある夜の出来事を覚えています。クリスマスの頃のことです。サウスベンでは雪が降って、寒くなるからです。初めて、道端で、スキーをつけて歩いている人をみて思いました。「なんでこんな寒いところに来てしまったのだろう(笑)。」私達には車がありましたが、それは壊れてしまい、その夜は、祈りの奉仕をしに行くことができませんでした。そして、次の日に彼に会った時に、彼は言いました。「昨晩は何処にいたのですか?」私は答えました。「車が壊れてしまったのです。それはもう使い物にはならないので、車はもう使えません。」マーフィー兄は、彼の義理の弟でした。サムラル氏は彼のほうを向いて言いました。「この夫婦に夕方までに車を用意してあげなさい。必ずそうしなさい。」そして、彼は振り返って歩き去りました。なので、その日の5時までに私達は車を手に入れました。すばらしい車ではありませんでしたが、それは運転するには十分なものでした。彼はいつもこのような人でした。彼自身は教会の裏の小さな家に住んでいました。彼はまさに立派な神の人でした。50年間のミニストリーのなかでスキャンダルは何もありませんでした。

私はある時、一人の女性が教会に来たことを覚えています。私達が去るときに、彼女は扉のところに来て訊きました。「家まで送っていってもらえますか?」サムラル氏の妻のルイースはすでに、家に帰っていたので、彼は言いました。「分かりました。」そして、彼らは車に乗り始めて、私達は皆その駐車場にいました。そして、彼女も車のフロントシートに乗ろうとしました。でも彼は言いました。「前ではなくて後ろです。」彼女は彼を見て、後ろのシートに乗り、そして訊きました。「サムラル兄、私はフロントシートに座るには値しませんか?なんで、後ろに座らせるのですか?」彼は言いました。「あなたはいい人ですが、ただ、苗字が違います。あなたの苗字はサムラルではありません。もし女性のあなたがフロントシートに乗っているのを人々が見たら、朝までに、そのうわさはサウスベン中に広がってしまいます。」彼は続けて言いました。「物事には正しいやり方と、正しくないやり方があります。」このように彼は霊的であって尚且つ、知恵もあり、実践的な人でした。

ある時には、教会に同性愛者達がやって来ました。そしてサムラル氏に言いました。「私達はここの教会が好きです。人々もいい人達だし、この教会員の一員になりたいと思います。でも、私達は同性愛者です。神は私達をこのように造りました。なので、あなたの教会の会員になることができるか知りたいのですが。」サムラル氏は言いました。「先ず第一に、神はあなた達を同性愛者としては造りませんでした。第二にあなた達は教会の礼拝には参加できますが、会員にはなれません。会員になるためには、聖い生活をしなければいけないからです。」続けて、彼は言いました。「もし神があなた達をそのように造り、もしそれがあなた達にとって正しいとしたら、それは他のすべての人達にとっても正しくなければいけません。もしそれがすべての人にとって正しいものなら、人類は1つの世代で滅んでしまいます。」彼は言いました。「なので、すべての人間にとって正しいことなら、あなたにとっても正しいことです。もしあなたが悔い改めるなら、教会の会員になることができます。」それから、3ヵ月後に、彼らは完全に同性愛からも解放されて、自由になり、会員になっていました。そして、教会を前回訪れた時にもまだそこにいました。それは知恵です。サムラル氏は、彼らがいるときに、ある時言いました。「もしすべてのおんどりがあなた達のようなら、私達は朝に卵を得ることはできません(笑)。」そして、私は思いました。「それはまったくの知恵だ。」彼は言いました。「だからそれは正しくありません。」

ある時、いわゆるイエスは父であり、聖霊であって、三位一体を信じない、「統一」の教義を信じている人達が教会にやって来ました。そして、彼らの教義が正しくて、彼の教会は教義を変える必要があると説得しようとしました。彼らは教義を45分間の間に、次々と説明しました。終に、サムラル氏は彼らを見て言いました。「じゃあ、事を簡単にしましょう。あなたはイエスを父と呼ぶのですか?」彼らは答えました。「はい」サムラル氏は言いました。「私はイエスを兄と呼ぶので、あなた達は私をサムラル叔父さんと呼びなさい。」彼らはお互いに見詰め合って、この人は気がおかしいというような顔をすると、立ち上がって、その場を去って行きました。彼らはそれ以上話すことはしませんでした。彼のこの答えがすべての議論を終わらせました。

私がこの出来事を見た時に、この世にあって霊的でありながら、親みやすくも、現実的でもいることができることが分かりました。油注ぎを守る必要はありません。私達は油注ぎを守ることはしません。油そそぎが私達を守ってくれます。私達が聖霊を守ることはできません。ある人々は、「少し静かにしてください。騒がしくして、聖霊を悲しませたくありません。」と言います。そうではなく、聖霊を悲しませるのは、むしろ病人の前を、まるでその人がいないかのようにして通り過ぎる時です。礼拝中に騒がしくするなら、私の教えを聞くのに気が散ったりするかもしれませんが、聖霊の気を散らして邪魔をすることはしません。何故でしょうか?彼はいつも集中しているからです。もし私達の周りに病人がいるなら、聖霊は何処にいると思いますか?病人の近くです。そのようなことを体験したことがあります。私はある人のために祈っていました。でも、周りの人々は騒いだりして、私は気が散らされていました、でも、聖霊は私に言いました。「カリー、こっちです。こっちに集中してください。この人が助けの必要な人です。集中してください。」 私は騒がしくすることで、聖霊が悲しむのを見たことがありません。人々は言います。「聖霊は鳩のようなので、私達は騒がせて彼を悲しませることはしません。彼は飛び立ってしまいます。」確かに聖霊は鳩のようなかたちをして現われました。それは分かりますが、でも、彼は、神の御使いに力を与えて、一夜にして、185,000人もの兵士達を殺させもしました。私達が騒がしく話すと、聖霊は悲しむと思いますか?冗談でしょう。私達は天地を治める神について話しているのです。最も偉大で、力のある、戦士である神について話しています。神は癒す者でもあるので、彼は戦士でもある必要があります。彼は私達のために戦ってくれるからです。

多くの人はこう考えるのではないでしょうか。イエスは死んで、地獄まで下って行き、悪魔は言いました。「終に、ここに来ましたね。ここに鍵があります。持って行ってください。」聖書はそのようには記述していません。イエスは悪魔から鍵を奪い取りました。イエスはそれらの鍵を持っています。(黙示録1:18)それは事実です。でも、問題は、私達はまるで本当の戦いが起きていないかのように振舞います。戦いは現実であるのにです。それはダニエルを邪魔したようなものです。彼の祈りは彼が祈ったその日に聞かれました、でも、その状況に対して天において戦いがありました。(ダニエル10:12-14)それなのに私達は考えます。「もう一度、答えを得るために、祈らなければいけません。」違います。その祈りへの答えは、彼が祈ったその日に送られました。しかし、その答えは邪魔をする者達によって妨げられました。でも、今は私達はダニエルのような立場にはいません。

聖霊に満ちたカリスマ派のクリスチャン達でさえも、癒しについて話すと、何というか知っていますか?多くの人は、パウロのとげや、テモテの腹や、パウロは誰かを病気のまま残してきたことや、ヨブのことについては知っています。でも、癒しについての5つの聖書箇所を教えてくださいと訊くと、彼らは答えることができません。しかし、彼らはあらゆる癒しが起こらない、失敗する理由や問題は知っています。

先ず第一に、それらのことについて話す時に、聖書にはパウロのとげが病気だという証拠は何一つありません。実際に、このことについては教えを作りました。その教えでは詳しくパウロのとげは病気ではないと説明しています。

又、多くの人は言います。「でも、私はヨブのような人です。」それは違います。私達はヨブのようではありません。ヨブには贖い主はいませんでした。ヨブには父の前で弁護してくれる方はいませんでした。ヨブは新生していませんでした。ヨブのうちには神の御霊は宿っていませんでした。私達は、彼が神とどのような契約を持っていたのかも分かりません。ヨブ記は、聖書の中でも最も古い本と伝えられています。私達は、ヨブが神について何を知っていたのかも、神とのどんな約束を持っていたのかも知りません。神が、彼に何を約束したかの記録は何もありません。でも人々は言います、「神は悪魔に許可を与えました。」もしそのような読み方をするなら、そのように解釈することができるかもしれません。でも、聖書はこう言っています。「見なさい。ヨブはもうあなたの手の中にいます。」 (King James訳ヨブ記2:6)言い換えるとこうなります。「私はヨブをあなたに与えることはしません。彼はすでにそこにいます。」何故でしょうか?何故なら、彼は、まだ神との契約の下にはいなかったからです。彼はまだ神の守りの下には、律法の下にはいませんでした。律法は神の守りを与えるものでした。それに加えて、聖書は悪魔が彼を悪性の腫物で打ったと書いてあります。(ヨブ記2:6)神ではありません。そうですよね?聖書は悪魔がそれをしたと言っています。そして、ヨブ記の最後には、神はヨブを捕虜から返されたと書いてあります。(King James訳42:10)つまりヨブは悪魔に捕らえられていたということです。聖書には、神は彼を捕虜から解放して、彼の所有物を2倍にされたと書いてあります。明らかに、彼は新しい妻も、すべて与えらました。前の妻は彼に神をのろって、死になさい、と言っています。それは正しい女性の言うことではありません。時には周りの人達が何をするかは本当に分からないものです。

(癒しに反対しようとして)多くの人々は、パウロが弟子を病気で残してきたことや、テモテの胃のことなどについて知っていて、「パウロはテモテに胃のために少量のワインを飲みなさい、と言いました」と言います。実際、もし外国に行って、少量のワインを水に混ぜるならバクテリアを殺すことができます。パウロはテモテに、「もしあなたが胃に問題があるのなら、ワインを飲みなさい。」と言っただけです。パウロはワインを薬として使ってはいませんでした。彼はただ、「ワインは水を浄化します。そして、下痢の問題を解決します。」と言っただけです。

それでもまだ、人々は「パウロはある人を病気のまま残してきました。」と言います。私は人々を病気のまま残してきたことがあります。ウォールマートに行った時に、たとえ100人を癒しても、入り口を閉めて、もう誰も入れないようにしない限り、誰か病人を残してくることになります。何故なら、新しい人は入り続けてくるからです。ゴードン・リンゼイはある例えを話しました。彼がある女性の癒しのために祈り、家に帰りました。そこで、彼の妻は、「どうしたの?」と尋ねました。彼は、「祈りましたが、何も起こるのを見ませんでした。」と言い、落ち込みました。その夜、礼拝に行くと、その女性が神を賛美しているのを見つけました。そこで、彼は彼女に聞きました。「どうしたのですか?」彼女は、「あなたが去った5分後に、私は癒されました。」と言いました。私達はパウロが残した人にその後何が起こったかは分かりません。私達には分かりません。でも、パウロは手紙で、「神は私達をあわれみ、私達とあなたを自由にしてくれました。」と書いてあります。

このようにして、人々はどうにかして神が癒しを行わない理由をつくろうとします。いつも神についてのネガティブな悪いことばかり考えようとします。しかし、神は歴史を通して、良いこと意外には何もしていません。それを認識するべきです。彼は人々を癒し、祝福してきました。でも、私達は彼に背を向けて、「しかし、神はこれを、それをしなかった」と言って彼を責めようとします。そのようなことをする多くの人々は、キリストによる贖いに伴なう恵みを受け取ったことのない人々です。初代教会は、私達の今知っているようなパウロへの啓示は知りませんでした。彼らは、少しずつそれらのことを理解していきました。今までにおかしな教えを作り出してきた理由は、多くの人々が使徒達や使徒の働きの書を神学の手本としようとしてきたからです。

もし私達が使徒の働きを神との歩みの手本とするなら、誰の考えに賛同しますか?パウロですか?ペテロですか?何故なら、もし自分をパウロの立場に置くなら、恵みによって歩みます。もしペテロに自分を置くなら、私達は割礼をして、神殿のおきてを守らなければなりません。それ以外にも、使徒の働きの書に記されていることに従って様々なことを行わなければなりません。 何故なら、その当時にはペテロは勇気を持って、「パウロの教えていることは正しい。」と言うことができなかったからです。パウロでさえも、テモテが割礼を受けた時には、動揺したようです。その時、パウロは律法に戻りました。何故なら、その時までは、彼らは、異邦人はイスラエル人と同じように救われるか確信を持って分からなかったからです。そうですよね?ペンテコステから10年後位にやっとコルネリアスの家族に聖霊が下るまでは、異邦人も救われると確信を持って知りませんでした。このように使徒の働きの書を私達の手本とするべきではありません。どうして幼子の状態の教会に戻りたいと思いますか?エペソの教会のようになるべきです。栄光の、勝利の教会です。そのような教会の為にイエスは再び戻ってきます。イエスは使徒の働きの書に書いてあるような教会の為には戻ってきません。使徒の働きの中の初代教会は自分達のしていることをよく理解していませんでした。使徒の働きの書はそんな彼らの記録です。彼らが何を、どのように行っていったかです。その中には、いろいろな例や、パターンなどがあります。それらを無視するように言っているのではありません。ただ、私達はエペソのような教会を手本とするべきです。しみや、しわや、そのようなものの何一つない教会になるべきです。あらゆる点においてキリストに達するまで成長するべきです。初代教会はキリストに達するまで成長していませんでした。彼らは多くの問題を抱えていました。そうですよね?私達はもっと成長する必要があります。

受けた質問を読みます。「どのようにして、いつ癒して、いつ(病気、悪霊を)追い出すかを知ることができますか?」まず、追い出して、それでもまだ癒されないのなら、癒します。今から説明することは重要なことです。一般に、教会では私達は癒しの為に具体的に祈ろうとします、私達が癒しや悪霊追い出しを行う上で、具体的になりすぎるなら、失敗します。何故なら、もし正しい言葉を正確に言おうとして、具体的になりすぎて、間違えたことを言えば、悪魔はそれを聞いて、私達が、自分が何を話しているのか分かっていないことを知ります。そして、悪魔は私達に従おうとしません。でも、もし私達が総体的に、「癒されよ」、「自由になれ」というようなことを言えば、悪魔は私達が何を知っているか分からず、命令に従わなければなりません。それは私達が総体的になっているからです。なので、できるだけ総体的になってください。もし必要ならば具体的になってください。分かりましたか?敵に私達は癒しを行うためには完璧でないといけないと考えさせられないようにしてください。イエスは、細かくはありませんでした。イエスはただ、「何がしてほしいのですか?」、「受取りなさい」、「癒しを受取りなさい」とだけ言いました。考えてみてください。何故いちいち細かくなる必要があるでしょうか?私達はより少ない努力でイエスよりも大きなわざを行うべきです。そうですよね?彼には闘うべき敵がいました。私達の敵はもうすでに敗北しています。ですので、私達が悪魔を打ち負かすのは、もっと容易なはずです。難しくはありません。もしイエスがそのように総体的に癒しを行ったなら、私達はさらに総体的になることができます。彼より、細かくなる必要はありません。私達はシンプルであるべきことを、難しくしすぎてきました。もし細かくなるなら、敵はそれを利用して対抗してきます。できるだけ総体的になってください。もし必要ならば具体的になってください。

Neylor Stevo