神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )
1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)
By Curry Blake
John G. Lake Ministries
セッション8
神のことばは確かな契約です。私は、預言的なことや預言的なミニストリーに賛成です。それらに反対しているとは思ってほしくはありません。御霊によって導かれることにも賛成します。同時に、私達が注意するべきことは、私達はこれらのことに関しての先入観を持っていることです。多くの人々は、預言のことばを受取るまでは何もしようとしません。そうなると、人々は預言のことばと神からのその預言の確認を受取るまでは何もし始めないというような状態になっていってしまいます。
同時に人々は言います。「でも、私達が御霊に導かれるまで待つ必要がありませんか?」それは「御霊に導かれる」ということばの定義によります。もし私達が何か外部からの、気まぐれな感覚について話しているなら、そのような導きは必要ありません。私達は待つべきではないです。すぐに宣教を始めるべきです。でも、もし私が外からの気まぐれな感覚を受けて、それが聖書のことばと一致するなら、それを実行してください。御霊の導きはいつもみことばと一致します。
考えてみてください。もし、その御霊の導きが聖書のことばと一致するなら、私達は、みことばをいつでも行うことができます。導きがあっても、無くてもです。聖書には、導きを待つというようなことは書いてはありません。聖書には、特に新約聖書には、導きを得るようには書いてありません。それを証明できます。使徒の働きでは、パウロは、大宣教命令に従って行動していたことがわかります。御霊の導きによってではありませんでした。彼は、福音を宣べ伝えて、人々に救いをもたらしました。彼らはアジアに行く予定だったのに、聖霊がそこには行かないように言ったことを覚えていますか?
その後に、パウロは、マケドニアについての幻を受け取りました。そこにいるある人が言いました、「ここに来て、私達を助けてください。」(使徒の働き16:9)パウロは、すでにアジアに向かっていました。彼はすでに宣教活動を始めていました。もし、彼が御霊の導きを待っていたのなら、御霊が彼に、「アジアに行ってはいけません。止って、向きを変えて、こっちへ行きなさい。」と言う必要はありませんでした。もし、彼が導きを待ち、受け取ってから、行動していたのだったら、彼はすでにアジアに行くように聖霊の導きを受け取っていたという意味になります。そこで聖霊は、彼らの間に割り込んで言ったと思いますか。「違います。私は考えを変えました。ここへ行ってください。」
聖霊は、そんなに簡単に考えを変えたと思いますか?それとも聖霊は、すべてを前もって知っていたと思いますか?聖書は言います。「聖霊は私達をすべての真理に導きます。」(ヨハネ16:13)でも、同時に、「聖霊は、私達に、やがて起ころうとしていることを示します。」使徒パウロは、今日、一般的に理解されているような導きに従って行動してはいませんでした。彼が幻を受けて、マケドニアに行った時には、彼は聖霊の導きによって行動していました。私は導きに反対なわけではありません。聖書や大宣教命令は私達に全世界に出て行って宣教しなさいと言っています。私達が出て行くにつれて、おそらく特別な導きを受取るでしょう。もし特別な導きを受けたなら、それに従ってください。でも、特別な導きを受け取るまでは、聖書のことばに従ってください。単純ですよね?ただ出て行って、聖書のことばを行ってください。
これについては、聖書でも、最近の歴史でもたくさんの例があります。最近の教会の歴史では、TLオズボーン氏は私が今話していることについての典型的な例です。彼は妻のデイジーに言いました。「私達はインドに行きます。」そして、インドに行きました。でも、彼らは何の結果も、何の力も、何もありませんでした。彼らは何をすれば良いの分かりませんでした。結局、アメリカに帰ってきました。彼は言いました。「私達がサンフランシスコの港に着いた時には、私はその船の舳先に立って、デイジーに、もうあなたをアメリカの外には連れて行きません、と伝えたことを覚えています。」それは60年前のことですか、それ以来彼らは200カ国以上の国に行きました。明らかに彼はその約束を守りませんでしたが、それは彼がこれから何が起きるのかを知らなかったからです。彼は出て行って、神を知り、しるしと奇蹟を伴なった宣教をしなければいけないことに気が付きました。それはパウロが言ったことです。彼は言いました。「私は、しるしと奇蹟を伴なって、福音をくまなく宣べ伝えました。」(ローマ15:18-19)私達は、福音を宣べ伝えることはできますが、しるしと奇蹟を伴なうまでは、それをくまなく宣べ伝えることはできません。しるしや奇蹟は、神のことばに伴なうものです。
私は、御霊の現われとしてのしるしや奇蹟が実在するかについて話すつもりはありません。あなたがたは、すでにしるしや奇蹟は、今日のためにあることを認識していると、私は思っています。この過去20世紀を通して、御霊の現われが証明されてきたことについては話しません。それについて話すには、別のセミナーが必要になります。実際に、それは私達のバイブルスクールのコースの一つにあります。
私がしていることは、あなた達がそれらを行い始めることができるように助けることです。すでに癒しやしるしや奇蹟は、今日の為にあるということを知っていると思っています。それを想定の上で、それらのことが、あなた達にとって、日常的な出来事になるレベルに達することができるように手助けしようとしています。癒しは本来「普通」のものだからといって、それらをないがしろにしたりするのではありません。ただ、それらのことが私達の日常の中で常に起こるようになるべきです。
聖霊の力にあって働き始めるまでには、いくらかの運動量が必要になります。でも、初めの頃には、多くの運動量でもわずかな結果しか得ることができません。例えば、車を押し始めた頃には、多くの力が必要ですが、一旦、それが動き始めると、その動きには加速がかかり、どんどん速くなっていきます。
悪魔は、私達が最初のいくつかの戦いに勝利することを妨げようとします。何故なら、私達が一度、その勝利を経験すれば、その後に敗北しても、前に進み続けるからです。もし、敵が、私達の初めのいくつかの戦いの勝利を妨げることに成功すれば、私達の頭の中には、いつもわずかな疑いの念が残るからです。それによって、私達はいつも「癒しは本当に私の為だろうか?私のしていることは正しいのだろうか?癒しは本当に今日も起きるのだろうか?」などと考えるからです。これらの考えは、頭の中をめぐるので、そのような考えを克服しなければなりません。
このように想像してみてください。聖霊があなたに話しかけて、「今から私はあなたを癒しのために用います。大きな力が働き始めます。でも、あなたの最初に祈る21人は癒されません。何の結果も見ないでしょう。むしろ、そのうち何人かは死ぬかもしれません。」と言ったとします。さて、あなたはどうしますか?どのような反応をしますか?21人の為に祈り、22人目を癒し、そしてまた1番目の人に戻り、それらか過去に祈ったすべての人達を癒すべきです。最初の21人を放って置かないでください。いくらか癒しの結果を得た後に、初めの人々のもとに戻って、彼らを癒してください。
以前に、私は、コロラド州のデンバー市にあるアッセンブリーズオブゴッドの教会にいました。いくつかの素晴らしいことをそこで経験できました。それはニューエイジを信じる人達が多くいる地域です。毎回、私がそこに行くたびに、魔女や、魔術師や、ニューエイジの人達がやって来ました。多くの場合には、魔女達は、間隔を空けて、会堂の椅子に座ります。彼らは、集団でやって来ますが、なかなか見分けることができません。散らばるからです。前回にそこにいた時に、私は、集会前に、スタッフ達とその会場の後ろ側にいました。彼らは言いました。「いいですか、集会の中に魔女達がいることを知っています。私達は、彼女達を知っています。以前にも彼女達を見ました。ですから、今は何をするかの準備ができています。だから、あなたは何も心配しないでください。」私は、わかりました、と答えて、彼らが何をするか興味津津でした。
礼拝が進むにつれて、彼らは、教会の若者達を呼びました。そのグループは特別な名前を持っていました。そのグループは、「Master’s Commission 」というクループの一部でした。彼らは、教壇から言いました。「じゃあ、配置についてください。」私は考えていました。「配置とは何だろう?」若者達が群集から出てきて、それぞれ壁に沿って扉のそばに立つのを見ました。それで、彼らは言いました。「それでは始めてください。」彼らは異言で祈り始めたり、祝福したり、悪いものを縛り始めたりしました。その時の魔女達の反応は忘れることができません。彼女達は完全に困惑しました。そして、そのうちの何人かは去り始めました。でも、私達は誰もその場に強制的に留めて置くことはできません。それは誘拐することになってします。彼女達が出て行くにつれて、何人かの若者達も一緒に出ていって、彼女達が扉に着く前に、彼女達と話して、証をしたり、祈ったりしていました。彼らがどれだけ組織だっていたのには驚かされました。
組織化はいつも、一度誰かに会って、2回目からできるものです。一回目は、混乱です。何故なら、私達は何も予期していないからです。でも、2回目からは私達は準備して、少しでもましになるように組織化します。そのような経験があったので、彼らは組織化し始めました。私達も何回かそのような経験がありました。魔女達はただ力を求めている人達のことです。残念なことに、大半の教会は彼女達に力を見せていないので、彼女達は他の所へ行ってしまいます。
私がいつも祈っていることはこれです。私は神に3つのタイプの人達を私達のミニストリーに導いてくれるように祈っています。それらは、元バプテストの人達、元軍人、元カルト信者の人達です。元バプテストの人達は何をするのにも導かれる必要はありません。彼らは福音を証することは正しいことだと知っているので、誰にでも、いつでも、どこでも証をします。少なくとも、伝統的なバプテストはそうです。2つ目には、元軍人達です。彼らは命令を受取って、それを成し遂げることがどのようなことであるかを知っています。彼らは新しい命令を受取るまでやめません。私達は何も新しい命令は受取っていません。私達は進み続けます。3つ目は、元カルトの信者人達です。何故なら、彼らはカルトに入っていたので、完全に自分をささげて、目的を成し遂げることを知っているからです。多くの場合には、彼らは不当に扱われて、悲惨な目にあっています。でも、私の求めているのは彼らのその姿勢です。
私は簡単に元バプテストを力にあって歩ませることができます。一度彼らに神の力を見せれば、彼らはその力にあって歩み始めます。彼らは神の力を聖書での中に見て、それを経験すれば、彼らはそれにあって歩み始めます。問題は聖霊派の人達です。何故なら、彼らは、他の人達と同じように多くの伝統などを持っているからです。ですので、それらを壊していく必要があります。
では、マニュアルに戻ります。セッション2の17ページです。書き記されたみことばは、天からの声よりも確かなものです。まず、もしどこからか聞こえてきた声か聖書のことばかどちらかを選ぶなら、聖書のことばを信じてください。いいですか?何故なら、ほとんどのカルトは誰かが何かの声を聞くことから始まってきたからです。何かの声を聞くことはそんなに重要ではありません。でも、聖書に書かれたみことばが最も権威のあるものです。それは、みことばが最も確かなものであるという意味です。声といえば、例えば、預言のことばも良いものです。聖書も預言することをないがしろにしてはいけません(1テサロニケ5:20)、と言っています。又、預言によって勇敢に戦い抜くように言っています。(1テモテ1:18)預言は勇敢に戦い抜くために役立つものです。神は前もって預言を与えてくれます。そして、私達が戦い始めて、戦いの最中で、神の語ったことを思い出すことで、神は私達の経験することをすべて知っていたので、神がそのようなことを預言で教えてくれたことに気が付きます。もし神が戦いの最中にそのことを告げるなら、それは本当に神からのものなのかを疑います。でも、もしそれが戦いの前のことなら、戦いの最中に「神は前もって語ってくれました。」と言うことができます。ですので、預言は良いものです。戦いの最中に預言を受けることはできますが、その預言の正当性が命を左右することがあるので、いつもそれは本当なのかと考えてしまいます。でも聖書のことばは、いつも堅く定まっています。私達が今日読んでも、20年後に読んでも、同じ事を語っています。そうですよね?預言は来たり、去ったりします。でも、聖書のことばは、いつまでも堅く立っています。
神のことばは、より確かな契約であり、私達の最高の権威です。私達の経験が、みことばを評価するべきではありません。みことばが、私達の経験を評価するべきです。この考え方によると、建て上げられてきた教会の伝統の大半は、打ち壊されます。私達は、みことばに従って、自分の経験を判断するべきです。教会で教えられている大半の神学は、私達の失敗に基づくものです。私達が失敗を犯す時、私達は、聖書を読んで、その失敗を正当化するために、その失敗を説明する聖書箇所を見つけようとします。ですから、大半の神学は勝利や成功ではなく、失敗に基づいています。ここで大胆に言わせてもらいます。教会で謳われる大半の信条は、異端などの問題が持ち上がった度に、その問題に応じて、修正されてきたものです。自分達の信仰を主張して確立されてきたものではありません。一般的に、信条を作成する時に、人々は次のように言いません。「よし、じゃあこれらが私達が信じることです。書き記しましょう。」そうではなく、人々は、通常、信条を書きますが、異端や異なる信条が発生すると突然に、次のように言い出します。「ちょっと、私達は今の信条に同意しないので、私達の信条を修正する必要があります。」そうして、人々は、今の大半の信条に付け加えてきました。それが全く間違っているという訳ではありません。でも、私がここで言いたいのは、私達は、何が真に重要であって、妥協するべきでなく、何が重要でないかを見分ける必要があるということです。何が神のことばと一致していて、私達が従うべきか、何が一致しないで、従うべきでないかを知らなければなりません。
神のことばは、永久に天において定まっています。私達は、みことばを地上でも定めなければいけません。詩篇119:89で、ダビデは、神のことばは、永久から天において定まっていると書いています。どれだけの間、天で定められていますか?永久にです。神のことばが、天において定まっていなかった時はありますか?いいえ、ありません。みことばは、天で定まっていて、決して変わりません。ですので、そのみことば通りに、神は物事を見て、語ります。そうですよね?神は、私やあなた方、又、状況に応じて、変わりはしません。彼のことばは、天において定まっています。この聖書箇所は、「神のみことばは、天と地において定まっている。」と言っていないことに注目してください。その理由は、神のみことばは、地においては定まっていないからです。分かりますか?それは、私達の仕事です。それがイエスは、「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と祈るように教えた理由です。(マタイ6:9-10)何故でしょうか?何故なら、神の御心は、神のことばであり、神の御心は天において定まっています。私達の仕事は、神の御心を地で定めることです。私達は、神の御心を、自分のみこころとします。そして、それを地で成し遂げます。
ですので、この地は、神の御心が行われていない、混沌とした場所であることを意味します。私達の仕事は、この地上の事柄を正しい状態に戻すことです。私達の仕事は、地を修理することであると言っているのではないです。私達の仕事は、影響を及ぼすことのできる領域を天のようにすることです。そのように試みることです。それはその問題に立ち向かって、進み続けることです。ある人は言うでしょう。「私達がその仕事をすべて成し遂げることができないかもしれないのに、神は本当に私達がそれに挑戦することを望みますか?」。はい、そうです。何故でしょうか?それはすべての人を助けることができないからと言って、誰も助けることはしないのではないからです。そうですよね?
道の隅に立って看板を掲げている人は、「どうか助けてください。私達は食べ物のために働きます。」と書いていますが、でもそれは、本当ではありません。彼らが本当に意味していることは、「どうかただ私にお金をください。」です。彼らはそれを看板には掲げたくないので、書きません。そして、クリスチャンがこのように言うのを聞いたことがあります。「彼らにお金を上げる時に、彼らや他の人達が、あなたがお金を上げるのを見たら、彼ら全員にお金を上げることになります。」そうです。でも、それが何ですか?でもある人は議論します。「でも、誰にでもお金を上げるなら、私が家に帰るまでには、財布の中にはお金はなくなってしまいます。」だから何ですか?私達は、神を知っていますが、彼らは知りません。私達は、どこからもっとお金を得るかを知っています。でも、彼らは神を知りません。何故このように言うかというと、私も同じような道を経験してきたからです。確かに、私達は、論理的に考えようとします。「彼らは、神の与えたお金を、ドラッグや、お酒や、タバコなどに使うでしょう。」そうかもしれません。でも、本当にそうするかはわかりません。もし、本当にそれを心配するなら、お金を上げないで、彼らのために何か食べ物を買ってあげたらいいです。道端の隅に、お金や食べ物を求めている人達がいる時の、周りの人達の反応はおもしろいものです。何故なら、突然、彼らは携帯や他の物をいじくり始めます。そして、赤信号なのでそこで立って待っています。そこに彼らがいることを無視しようとします。
でも、聖書には「すべての求める者に施しなさい。」と書いてあることに気が付く必要があります。(マタイ5:42)でも人々は言います。「でも、それは私達がその人がドラッグや酒を買うことを助けていることではないですか?」違います。結論はこれです。もし聖書が言うのなら、それに従うべきです。そうですよね?ある人はまた言います。「でも一度彼らに食べ物を与えたら、もっと多くの人がは集まってきます。」私達は実際にそれを行いました。何人かの人達に食べ物を与えて、彼らは戻ってき続けました。そうしているうちに、彼らはもっと多くの人達を連れてきました。ですので、私は神の御前へ行って話しました。「神よ。どうしたらいいですか?彼らは私に頼ってきます。私が彼らの助けです。私が彼らの源です。」そして、神は答えました。「知っています。彼らは私のことを知りませんが、あなたは私のことを知っています。あなたの源は誰ですか?」私は答えました。「もちろん、あなたです。」そして、彼は言いました。「それなら、何を心配しているのですか?あなたは何か持っていないものはありますか?お金ですか?食べ物ですか?」そして、私は言いました。「そうです。それらは決してなくなりません。」神は言いました。「じゃあ何を心配しているのですか?」そして、私が、そのようにしだしたら、それをすればするほど、何も欠乏しないことに気が付きました。
私がダラス市に住んでいる時に、赤信号で止まっていると、ある男が車の窓まで来ました。私は窓を開けて、ポケットに手を突っ込んで、そこに入っていた1000円札を取り出して彼に渡しました。それは5千円札でも、1万円札でもありませんでした。1000円札です。それを渡した時には、彼はそのお金を見て、驚いて言いました。「神の祝福があるように。神の祝福があるように。」私は言いました。「彼は私を祝福してくれます。だから私はこのようなことができるんです。」そして彼は続けて言いました。「私はいつもでもこのような状態のままでいる気はありません。」そして、その男の人は、いろいろと話し始めました。彼は何年も前には億万長者だったのに、突然にしてそれを失ってしまった、ということです。彼は、続けて言いました。「でも、私はいつまでもこのままではいません。私はこの状況を克服します。」それに対して、私は答えました。「私はそれを信じます。信じますよ。」そのようにして話している間に信号が変わり、去らなければならなくなりました、その場を去って、すぐに道の脇に駐車して妻に言いました。「もしもっとお金があったら、あの人に上げたいです。あの人を助けてあげたいです。」これを聞いて、ある人は、「それは愚かなことです。彼がそのお金を何に使うかわかりません。」それは重要なことではありません。例えば、私が、元々神のものであるお金をその人に上げるとします。そして、その人は、そのお金を何か悪いことに使うとします。でも、それは彼と神との間の問題ですよね?神と私の間では、私は彼に従順です。それが大切なことです。そうですよね?人助けは、いつも正しいことです。聖書は私達の敵が腹を空かせているなら、食べ物を与えなさいと言っています。(ローマ12:20)その男の人は、私の敵でありませんでした。多分、クリスチャンでもなかったかもしれません。私には、敵は一人だけです。それは悪魔です。
彼らは、助けが必要な人達です。よきサマリア人のたとえ話を思い出してください。教会には、祭司のような、彼らの前を通り過ぎていく人達も多くいます。でも、サマリヤ人は、そのような人達のところに来て言います。「私には、多くのものはありませんが、でも、これが私の持っている分です。」私は、ただ聖書を読んで、それを文字通りに理解して、それを行うことについて話してます。私達が、みことばを行う時に、そこには力が働きます。私は、何も特別な人ではありません。全く普通の人です。信じてください。でも、私は、諦めません。諦めることを拒否します。私は、聖書の語っていることを見つけて、それを行って歩んでいこうとし続けるだけです。そして、神は真実な方です。神は、私よりも真実な方です。私にも浮き沈みはありました。私は、長い間、上がり下がりのあるクリスチャンでした。本当です。そのようなことを経験してきました。
私が癒しの為に祈り始めた時、私は罪を犯していた期間がありました、罪です。あからさまな罪でした、自分でも分かっていたし、周りの人々も知っていました。それは隠されたものではありませんでした。それでも人々は癒されました。それにはショックを受けました。それは、私が、その当時教えられたことに、全く反したものでした。罪を犯していたのに、人々は癒されました。その時は、理解できませんでした。そして終に、神の御前に行き、「神よ。何故ですか?私は罪を犯しているのに、何故私を用いて人を癒すのですか?気にしないのですか?」と訊きました。そして、彼は答えました。「知っています。でも、あなたのことは後で清算します。」それはまるで、ある人が校長室に呼ばれたようなものです(笑)。分かりますか?それが起こった後には、私の内に聖くなりたい願いが起きました。そして、私の行っていた罪は減りました。だから、私は「何故私には罪があると知っているのに、彼らを癒すのですか?」と神に尋ねました。彼は言いました。「私は彼らを愛しているので、私が用いることのできる人は誰でも彼らを助ける為に用います。でも、私が、その人を用いるからといって、私は、その人に何をしてもいい許可を与えるのではありません。その人達の罪は、後で清算します。」
わかりますか?神には彼なりのものごとの清算の仕方があります。それは、私達が定めたものではありません。彼の清算の仕方は、私達が思いつくようなものではありません。私達は、もし、生活の中で罪を行っているなら、その罪は、神が、私達を人助けの為に用いるのを妨げると考えます。神は、異邦人を用いて、イスラエルの民を度々救ったことを知っていますか?神が、彼を信じない異邦人を用いるのなら、神は、問題を抱えた、罪を犯しているクリスチャンは、なおさら用いるはずです。そして、神は彼に向かって心の正しい人ならなおさら用いるでしょう。そうですよね?それでもある人は「でも、私は準備ができていないし、十分な知識もありません。」と言うかもしれません。どれだけのことを知る必要がありますか?私達の今知っている知識のレベルで、私達は誰かを助けることができます。例えば、あなたが新生した時には、ヨハネ3:16を知っていたか分かりません。でももし、知っていたら、ヨハネ3:16の聖書箇所を学んだ時点で、私達は伝道する資格を得ます。すべての聖書箇所を学んだ後ではありません。例えば、私達が私達は救われた時には、ほぼどの聖書箇所も知りませんでした。でも、それでも悪魔を打ち負かしました。そうですよね?その聖書箇所以外は全く知らなかったのに悪魔に打ち勝ちました。
たとえ話で説明しましょう。第二次世界大戦の時にはあちこちに強制収容所がありました。そして、多くの強制収容所の門は大抵開いたままでした。それらの収容所には機関銃を持った番兵と見張りの塔や番犬がそこら中にいました。でも、門は開いたままでした。ではここで私達は1943,44年に戻ったとします。そして、あなたは強制収容所に収容されているとします。あなたはその門の前を前後を歩いています。毎日、他の収容された人と共にその開いた門の前を歩いて、兵隊や車がその門を行ったり来たりしているのを見ています。そして、このように考えます。「おそらく、ここから門を通して歩き出ることができると思います。」これを他の囚人に話すと、「やめときなさい。彼らはあなたを殺します。機関銃を持った人を見てください。あの見張りの塔を見てください。それは馬鹿げてます。」と言うでしょう。それを聞いてあなたはためらいますが、一息ついて、「いや、やっぱりできると思う。シャベルを肩に置いて、歩いていけば、彼らは私を労働をしている囚人だと思うでしょう。むしろ、ここにいて一人一人殺されることを待っているよりは、失敗して死んだとしても、一発この機会を試してみたほうがましです。」と言います。彼らは引き下がって「やめろ、やめろ。」と言います。しかし、あなたはシャベルを肩に置いて、まるでどこに行くか知っているようなふりをして門に向かって歩いていきます。門に近づいていきますが、周りは見渡しません。しかし、見張りの塔の上にはナチスの兵士が機関銃を持っているのを知っています。そして、彼らにその銃口を向けられた音を聞きます。恐らく、あなたの心臓の鼓動は他に何も聞こえないくらいに大きくなるでしょう。冷や汗をかいてきます。しかし、かまわずに、どこに行くのかをまるで知っているように歩き続けます。兵士達が何か話しているのが聞こえます。すぐに、銃口は上げられ、兵士達はもとの見回りに戻ります。そして、あなたはそのまま門を歩き過ぎます。その門を出て、その陣地を横切ったところに、茂みがあり、なんとそこにある切り株が開いて、その中にいる人が「こっちに来い」と手招きしているのを見つけます。そして、彼はフランスのレジスタンス集団であることに気づき、彼と共に脱出します。そして一ヶ月後、朝起きて、「神に今ここにいられることに感謝します。ここミネソタは最高です。私がいた強制収容所の外にいることができることは感謝です。」と言うことができます。
そして、突然電話が鳴ります。その受話器を取り、「もしもし」と言うと、受話器の向こうの声がこのように言います。「朝だ。起きろ、外に出ろ。点呼を取るまで立っていろ。わかったか?」それを聞いて、とっさにあなたは「この声はあの強制収容所の司令官の声だ。」と考えます。そして、数秒の間、そのまま考えたまま止ります。何故なら、あなたは、まるでその強制収容所に戻ったかのように感じるからです。そしてこう考えます。「外に出て、司令官が言うように、点呼を取るまで並んで立つべきだろうか?」でも、終に「いやいや、神に感謝します。私は、今は、ミネソタ州にいます。」といってガシャッと電話を切ります。
じゃあ、質問です。ごまかしの利いた質問ではありません。次のうちどちらを行うことにより大きな信仰が必要だったでしょうか?その門を歩き過ぎること?か、その電話を切ることか?どちらでしょうか?もちろん門を歩き過ぎることです。もし、その門を歩き去ることができたなら、その電話を切ることはさらに簡単なことのはずですよね。では、私達の話ていたことに戻ります。聖書によると、私達は、罪と罪過の中にあって死んだものである間に(エペソ2:1)、私達はまだ悪魔に属していた時に、私達は決断を下し、神は私達を暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の支配の中に移されました。(コロサイ1:13)そうですよね?まだ、悪魔に属している間に、悪魔の支配下にいる間に、私達は自分で決断して、彼の支配下から抜け出しました。そうですよね?では、もし悪魔が私達を所有していた時にそのようなことができたなら、悪魔が電話の受話器を通して「あなたは病気です。あなたは癌になりました。あなたは死にます。あなたを殺します。」と言うときに、その受話器を置いて電話を切ることはどれだけ簡単なことでしょうか?むしろ私達は手にある受話器を見て「ばかじゃないの」と言い、電話を切ることができるべきです。そうですよね?今では、悪魔が、私達に対して力を持つことを許す方が、むしろ信仰が必要なくらいでしょう。何故なら、以前は悪魔に属していましたが、今では彼には属してもいないからです。何故、悪魔なんかの言うことを聞く必要があるでしょうか?何故悪魔に立ち向かわないのですか?何故私達は悪魔に向かって「神に感謝します。私は悪魔お前には属していない。お前は私を支配することも、命令することも、何をするようにも、そのような権威はない」と言うことができます。
分かりますか?私達はいつも、「知っているように、問題は私が悪魔に扉を開けたことです。ですので、今は、悪魔は、私に入ってくる権利を持っています。」と言います。分かりました。法律上の義務について話したければ、それではそれについて話しましょう。まず第一に、どのようにして何が正しいか知ることができますか?それはモーセの律法に基づいています。そして、聖書は悪魔は、初めから、盗人であり、殺人者であり、うそつきであると書いてあります。(ヨハネ8:44)そうですよね?初めからです。分かりますか?どのような理由によってかわかりませんが、ある人は悪魔は私達に対して権威を持っていると考えているようです。彼は権威なんて持っていません。悪魔は裏切り者であり、犯罪者です、彼は「私は高く上り、神を打ち倒し、私が神になろう」と考えた瞬間からそのような者です。(イザヤ14:13-14)そうですよね?それが悪魔がアダムに近づいてきて、「このエデンの園は私のものです。ここから去りなさい。」と言わなかった理由です。でも、悪魔はそのようには言いませんでした。彼はアダムとイブを欺かなければなりませんでした。彼は権威や力などは全く持っていませんでした。ですから、悪魔は彼らから何も奪い取ることはできませんでした。悪魔は与えられたもの以外には何も受取ることができませんでした。不幸にも、アダムとイブはその神から与えられた権威と力を悪魔に与えてしまいました。そうですよね?聖書は、特にクリスチャンに向かって、「あなたは自分のものではありません。」と言っています。私達のからだは私達のものではありません。代価を支払って、買い取られたものです。(1コリント6:19-20)みなさんはシボレー・タホは私の名義で登録され、私のものであることを知っています。もし、私がその車の鍵をここに置いておいたら、誰でもその鍵を取って車を運転することが許されると思いますか?誰も、「ここにカリーの車の鍵があります。あなたのものです。好きなように運転して、好きなように使っていいです。」と言うことはできません。そうですよね?何故でしょうか?それは、そのシボレー・タホは、他人のものではないからです。私達の身体は、私自身ものものではありません。それは誰に属するものですか?イエスにです。だから、私達は、自分の身体を、悪魔に渡す権利はありません。分かりましたか?私達は、決して悪魔が私達の身体に影響を及ぼすことを許可する権利はありません。私達の身体は、イエスのものだからです。新約聖書には、私達が悪魔に権利を与えるので、悪魔が病気を与えるとは書いてありません。聖書には、罪を犯したら、悪魔に機会を与えることになると書いてあり(エペソ4:25-32)、病気についてではありません。病気はいつも悪魔からの攻撃です。
病気は、人々にやって来ることができます。大体2通りの方法があります。先ず、種蒔きと刈り取りの法則です。私達は、自分自身に害のあることをして、それを通して悪魔が影響する機会を与えることができます。自分で、自分の身体を壊して、悪魔に機会を与えてしまいます。これが種蒔きと刈り取りの法則です。それから、いわゆる敵からの攻撃があります。これが主なものです。これは単純に敵からの攻撃です。強調したいことは、これらの種蒔きと刈り取りの法則と敵からの攻撃の2つです。敵が私達を攻撃するのは私達を憎んでいるからです。私達が何もしなくても敵は私達を攻撃します。それは私達を憎んでいるからです。問題はそれを認識しないことです。だから私達はある神学を作り出しました。それはこのようなものです。「もし私達が病気を持っているなら、もし私達が腰の痛みなどを持っているなら、私達のうちに何か解決されていない深い悲しみや何か赦せない人がいるからだ。もし私達が関節炎を持っているなら、苦い霊を持っているに違いない。」このように考えます。つまり、それらの病気の何かしら霊的な原因を見つけようとします。この対処法の問題点はいつも正しい原因を見つけなければいけないことです。毎回100%正しいものをです。というのは、それらの原因を診断することは病人達をさばくことになるからです。私達は原因を見つけようとして言います。「あなたがこの病気を持っている理由は、このような根本的な霊的な問題を持っているからです。」でも聖書は言っています。「さばいてはいけません。さばかないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれるからです。」(マタイ7:1)確かに聖書は実のように私達は見分けるべきものもあることも語っています。(マタイ7:16)でも病人をさばいて、こう言うべきではありません。「あなたは罪の中にあります。それはこのような問題を持っているからです、罪を犯しているに違いありません。」もしある人が罪を犯しているのを目撃するなら、それは別のことです。私達は、「あの行動は罪です。だからあなたは罪を犯しています。」と言うことはできます。でも、病気のことになると、私達は、「あなたは罪を犯していますか?このような病気を引き起こす為に何をしたんですか?」と言いたがります。もしそうするなら、毎回正しくさばかなければいけません。何故なら、自分をさばく者とすることになるからです。わかりますか?聖書のどこにもイエスは、「人をさばきなさい。」とは言っていません。
こうやって私が話してきた神学は教会の中で築き上げられてきました。でも、これらはどれも聖書的ではないことが分かりますか?私達はよく病人を見たときに、自動的にその人は何か罪を犯したのではないかと考えがちです。私達は赦したくなければ赦さないでいいでしょうか?もちろん、赦す必要があります。
多くの人が,「ある人が罪の赦しを得たら、罪を告白したら、その人は癒されました。」と言う理由を知っていますか?答えは簡単です。それは、もし、私達に罪があり、そして、それを知っているなら、私達は、神に対しての癒されるための確信も、信仰も持てないからです。(ヤコブ1:6-8)面白いことに、そのような問題を抱えてしている人々が私のもとに癒しの為にやって来ます。でも、彼らは病気などの問題については話しますが、彼らの罪については話しません。でも、彼らは私が彼らの病気を癒すことができると信じます。そして、私は彼らを癒します。私が彼らに対して決してしないことが何か知っていますか?それは彼らの私生活に関して質問しないことです。まず、いちいち私生活の話を聞いて、一つ一つ罪を見つける時間はないからです。そして、イエスは決してそのようなことはしませんでした。もし私達の生活の中に罪があるなら、良心が自分を非難するので、神に対して確信を持つことはできません。神に対して信仰を持つことはできません。(1ヨハネ3:19-22)だから、自分の為に祈っても癒されません。何故なら、私達は、自分が癒されるべきでない理由を知っているからです。
これで愛する人の癒しのために祈ることが難しい理由がわかりますか?それは、私達がお互いのことを、とても良く知っているからです。私達が、神に用いられるべきでない理由や、愛する人たちが癒されるべきでない理由を考えつくからです。これが、愛する人の癒しのために祈るのが難しい理由です。
癒されることは、罪とは何の関係もありません。イエスの癒した人達はすべて罪人でした。誰一人として、聖くなかったし、新生していなかったし、純粋ではありませんでした。そうですよね?それがイエスが彼らを癒して「行きなさい。もう罪を犯してはなりません。」といった理由です。(ヨハネ5:14)でも、多くの人は病人に向かって、「あなたが罪を止めたら、神はあなたを癒します」と言います。イエスは、「行きなさい。もう罪を犯してはなりません。でないともっと悪いことが起こります。」と言いました。これらの違いが分かりますか?
私達、教会が作り上げてきた神学は、聖書的ではありません。イエスは、「行って、すべての人の問題を見つけなさい。」とは言いませんでした。彼は言いました。「行って、捕らわれ人達を自由にしなさい。」もし、すべての人の問題を見つけようとするなら、ただ社会の中で専門家を形成することになるだけです。だから、皆カウンセラーになろうとします。聖書は、聖霊が、私達のカウンセラーであると言っています。でも、神は私達にカウンセラーになるようには言いませんでした。そうですよね?人々の人生を覗いて、問題を見つけ出すようには言いませんでした。世代の呪いを見つけようとすることも、これと同じことです。人々は言います。「でも、私の祖父は世代の呪いを持っているに違いありません。何か罪を犯したに違いありません。」でも、言わせてください。もし、私達が問題を持っていたら、それは世代の呪いではありません。それは、ただの罪です。もし、私の父がアルコール中毒だから、私もアルコール中毒になったのなら、それは世代の呪いではありません。それは、ただ、私が、父が酒を飲むのを見たから、私も酒を飲む決断をしただけです。もし、私がそのようになったとしても、それは世代の呪いというものではありません。それは、ただの罪です。酒を飲むのを止めればいいだけのことです。
問題は次のようなものです。ある人は言います。「でも、私はどうしようもできません。」それは嘘です。実際、私達は自分で罪を止めることができます。自分がその罪を楽しんでいることに気がついて、それに対して責任を取ってください。興味深いことに人々は自分の犯している罪を憎むことをしません。なんでこのような世代の呪いを持っている人達は自分の罪をいつも楽しむことができるのでしょうか?なんで彼らはそれらの罪を望むのでしょうか?彼らはよく言います。「私はいい人になりたいです。」それは本音ではありません。そういう人は、ただ地獄に行きたくないだけです。彼らはその罪は好きですが、地獄には行きたくないだけです。それが問題です。問題は世代の呪いではありません。この世全体は呪いのもとにあります。(ガラテヤ1:4、1ヨハネ5:19)それでも、人々は「でも、これは世代の呪いです。」と言います。でも違います。実際に今から説明します。それはマニュアルに載っています。
人々は世代の呪いを使っての金儲けの方法を作り上げてきました。世代の呪いについての、本や、セミナーや、その他さまざまなものが出回っています。それらのセミナーの参加費は何万円にもなります。そして、それらのセミナーでは、座り、目を閉じ、イエスのイメージを想像し、その問題の原因に戻ろうとします。それが何処から始まったかを見つけようとします。イエスは決してそのようなことはしませんでした。そのようなことをするようには言いませんでした。彼は言いました。「病人を癒し、悪霊を追い出しなさい。」(マタイ10:8、ルカ9:1、マルコ16:15-18)それだけです。ある人は言います。「でも、私には恐れがあります。私が3歳の頃に、私はブランコに乗っていました。でも、誰かが私を押したので、地面に落ちました。それ以来、恐れがあります。」それを聞いて、カウンセリングをしようとする人達は言います。「わかりました、じゃあ、その時点に今から戻りましょう。目を閉じてください。今ブランコのある所にいますか?いいですか?じゃあ、周りを見渡してください。イエスがそこにいるはずです。」それを聞いてその人は言います。「本当です。彼がそこにいます。」このようにして、その人はイエスをそこに見ますが、残念ながら、それは違います。それは心霊術です。そのような人は悪霊を扱っています。親しみの霊です。そのようなことには関わるべきではありません。今まで、そのようなことを行ってきて、分裂しなかったり、問題を抱えていない教会を見たことがありません。確かに、何人かは助けられるかもしれませんが、、数人なら催眠療法や精神分析などによっても助けを得ることができます。でも、だからといってそれらのものが神からのものであるとは限りません。神の祝福そのものが人を富ませ、労苦を増し加えることはしません。(箴言10:22)それらのさまざまな教えは人々を富ませはしないし、労苦を加えるだけです。
私達はイエスの言ったことを理解しなければなりません。イエスは、「癒すか追い出しなさい。」と言いました。もし、問題なら、癒すか追い出してください。イメージしようとしないでください。パウロは、「私は後ろのもの、過去のことを忘れ、ひたむきに前に向かって進みます。」と言いました。(ピリピ3:13)彼はいちいち過去のことを堀り出すとは言いませんでした。考えてみてください。どれだけ、過去に向かって掘ることができますか?私達はもうすでに死んでいます。そうですよね?ある人はまだ「でも私の過去は…」と言うでしょう。でも、もう私達は死んでいます。古い私達は存在しません。すべてのクリスチャンの抱える問題は新生において起きたことを理解していないために起きます。その「私達」はもう存在しません。すでに死んだ人をよみがえらせることをやめてください。その人を死んだままにしておいてください。「でも私は抑えられません」と言わないでください。それは言い訳です。私達にはそれができます。もし私達が古い自分を死んだままに抑えておくことができないのなら、神はあなたを地獄に送ることはできません。そうですよね?私達が罪のために地獄に行くのは、地獄行き以外を選ぶことができないからではありません。それはチャールズフィニ-が、「それはあなたができないのではなく、ただしようとしないだけです。」と言ったようです。分かりますか?これは心の問題になります。ですから、非難することを見つけることをやめて、人々を自由にしようとしてください。
人の問題を見つけなくてもよくなったら、癒しはすごく単純になりました。私はもう問題の原因などは見つけようとしないで、ただ人々を自由にします。私達は毎日何千もの証を受け取ります。私が祈った人達だけからのものではなく、訓練を受けた神癒技術者達からもです。中には、ある分野の癒しにおいて秀でている人達もいます。例えば、アーカンザス州にはある夫婦がいます。彼らは臓器が再創造される奇蹟において大きな結果を出しています。人々は病気などのために、臓器を取りさられました。彼らはそのような人々のために祈り、多くの新しい臓器が造られています。彼らにとってはそれは普通のことになっています。だから、私は彼らはそのために賜物を持っていると言います。今は賜物については教えません。でも、彼らは今私が教えている基礎てきなことを行っていて、自分がどの分野で賜物を持っているかを認識しました。でも、だからといって、彼らはそのことのためだけに祈るわけではありません。どのようにしてある分野において特定の賜物があるか見つけることができるか知っていますか?それはとても簡単なものです。それはこのようにです。私達が人々の為に祈っていて、病人は言います。「このために祈ってください。」私達は答えます。「わかりました。じゃあ、祈りましょう。」それで、私達が頻繁に癒しの結果を出している問題を聞くと、こう答えます。「問題ないです。見ててください。」その反応の違いが分かりますか?それはまるで、「問題ないです。それが癒されるのはいつも見ています。」というものです。そういう反応を見るときには、大抵私達はその分野において賜物を持っています。だからといって、その賜物がある分野だけで祈りなさいという意味ではないです。すべての人達の為に祈ってください。その中で賜物は働いていきます。そして、その賜物をより用いていくことができるようになります。
じゃあ、詩篇119:89-92です。「主よ。あなたのことばは、永久から、天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。それはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべからです。もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」神のことばは永久から天において定まっていることに注目してください。そのページの下のところを見ると、ヘブル語の「定める」ということばが書いてあります。それは「natsab」といい、配置する、境界線として定めるという意味です。ここでは、境界線として定めるという意味であることを覚えておいてください。神のことばは私達の境界線として定められています。いいですか?だからイエスのしなかったことは、私達もするべきではありません。そうすると、私達が教会で聞いた90%の癒しについての教えは聖書的ではないことが分かります。何故なら、イエスは人々を分析したり、詮索したりしませんでした。彼はただ人々を赦しました。彼は人々に信仰を持つように言わなかったことにも気が付きましたか?彼は信仰についてはほとんど話しませんでした。でも、もし人々が癒されるために信仰を持っていたら、それを認めました。彼は言いました。「あなたの信仰があなたを救いました。癒しました。」(マタイ9:22)時には、彼は言いました。「私にそれができると信じますか?」彼らは言いました。「はい、信じます。」そして、イエスは言いました。「では、癒されなさい。」 (マタイ9:28-29)それだけです。例えば、ある腰の曲がった女が会堂にやって来て、イエスが彼女を見たときの話を覚えていますか?その話に従うと、大半の癒しの教えは成り立ちません。彼が彼女を見たときに、彼女を呼び寄せました。(ルカ13:10-12)そして、彼女がやって来ると、彼は言いました。ここで、彼はこう言わなかったことに注目してください。「今日はあなたにとって運のいい日です。」「どれだけの信仰を持っていますか?」「今日はあなたの癒される日だと思いますか?」このようには言いませんでした。又、イエスは彼女を見てこのようには言いませんでした。「あなたの腰は曲がっていますね、それは背骨が弱いからです。それは背骨の痛みからです。それは何か解決されていない悲しみや、誰か許すことができない人がいるからです。もしそれらを解決したら、神はあなたを癒します。」私達は自分達の解放する者としての役割を医者にしてしまってきたことに気が付くべきです。私達がする必要のあることはただ人々を自由にすることだけです。それがイエスのしたことです。イエスは彼女を呼び寄せて、言いました。「女よ。あなたは病から解放されました。」(ルカ13:12)イエスは、「あなたは自由になりたいですか?」ときかなかったことに気が付いてください。何故なら、まともな人なら誰でも自由になりたいからです。そうですよね?
次のように考える人が多くいます。「イエスは何処に行っても、夜、祈るために山に登り、神と時間を過ごして、神が次の日にするべきことをすべて教えられた。そして、イエスは次の日にその教えられたすべてのことを行いました。」まず、もし彼がそのようにして歩んだなら、信仰を持って歩まなかったことになります。何故なら、信仰にあって歩むことは、みことば以外には保証なしで何事でも行うことだからです。より保証があればあるほど信仰は必要なくなります。そうですよね?神が現れるなら、物事を行うことは簡単になります。癒しを行う時に、多くの人々は、神が現われて、「じゃあ、この人を癒し、あの人に手を置きなさい。」と言ったと想像します。人々は、こう言うでしょう、「イエスは‘私は父がしていることだけを見て行う’と言いました。」(ヨハネ5:19)だとするとイエスは盲人のところまで行き、父が天から下ってきてその盲人を癒すのを見たので、その盲人のところへ行き、そして、彼を癒したということになります。それは真実ではありません。何故なら、もし父が盲人を癒したのを見たのなら、もうその盲人を癒す必要はないからです。だからイエスは父が盲人を癒すのを見ませんでした。もし仮にイエスがそのように父の行うことをいちいち見てことを行ったのなら、私達はイエスのしたわざを行うことはできません。何故なら、私達はいつもそのように物事を見ることはできないからです。分かりますか?
では、どのようにして、イエスは、癒しなどの事を行ったのでしょうか?「イエスは御霊に導かれて事を行いました。」と言うかもしれません。でも、恐らくそれは、私達の考えるような導きではありません。何故なら、聖霊が私達を導いて何かを行わせるとは新約聖書には一切書いてないからです。聖霊は、私達を真理に導き入れると書いてあります。(ヨハネ16:13)そうですよね?聖霊は導いて行動させるとは書いてありません。例えば、よく次のように考えます。ウォルマートでカートを押している時に、病人が目の前を通り過ぎようとしていたとします。すると突然神が私達の手を動かしてその病人に置かせ、そして私達は、「ああ、神がこの人の為に祈るように私に言っている」というように考えます。この様な場合には信仰は必要ないことが分かりますか?徳も必要ありません。何故なら、徳とは正しことをしようとする、私達の道徳的な決断だからです。私達は、信仰も徳も持たなければなりません。こう考えると教会の教える大半の教えは聖書的ではなくなってくるでしょう。
質問です。イエスは偽善者でしたか?もちろん、違います。ある人は思うかもしれません、「そんな質問は、ばかげてます。もちろん彼が偽善者であるはずはありません。」じゃあ、彼のうちには少しの偽善もありませんでしたか?もちろんありませんでした。イエスは偽善者の定義を言いました。今から言う事をよく聞いてください。それはあなたの人生を変えます。イエスはパリサイ人達のことを説明したときに偽善者の定義を言いました。イエスはパリサイ人達を偽善者と呼びました。それはふりをする人という意味です。それが偽善者の実際の意味です。それは本当の自分ではない人のように振舞う人のことを意味します。イエスは言いました。「パリサイ人達、偽善者達、の言うことは、聞いて、それを行いなさい。」(マタイ23:3)彼はそのように言いましたよね?彼は弟子達にも言いました。「パリサイ人達の言うことは行いなさい。」何故でしょうか?それは、彼らは、モーセの座に座っているからです。彼らは権威を持っているからです。だから、彼らの言うことは行いなさい、と言いました。何故でしょうか?正直に言って、パリサイ人達は現在のカリスマ派や聖霊派のクリスチャン達のようです。彼らは、聖書のことばの文字通りの翻訳にこだわり、神のことばを文字通りに解釈していました。彼らは復活も信じていました。サドカイ人達は復活を信じていませんでした。私達は復活を信じています。ですので、私達はパリサイ人に近くなります。このように言っているのは、パリサイ人達が集団として悪かったのではなく、ただ悪かったのは彼らの行動でした。イエスは言いました。「彼らの言うことは聞きなさい、そして行いなさい。でも、彼らのしていることはまねをしてはいけません。」だから、偽善者は何かをするように言っても、自分はその基準に従って生きていない人達のことです。そうですよね?それが偽善者です。じゃあ、質問です。イエスは偽善者でしたか?違います。ですので、イエスは、自分が教えたことの基準に従って生きたという意味でしょうか?それを信じますか?これについてはよく考えてみる必要があります。何故なら、私はあなた達を隅に追い込もうとしているからです。いいですか?チャールズフィニーも同じ事を言いました。「私はクリスチャン達が隠れ家にしている岩をすべて見つけて、それらを壊します。そして、言い訳なしに、神の御前に裸にして立たせます。」私も今から同じような事をしようとしています。これは聖霊の導きの問題を解決すると思います。マタイの福音書7章13節で言いました。「狭い門と、広い道があります。」そうですよね?そして、過去に、私達は、イエスは狭い道であると教えてきました。詳しく言うと、そうでもあるし、そうでもありません。彼はことばなので、彼は狭い道です。でも、狭い道はこれです。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)イエスは人々にそう言いましたよね?これについて考えてみてください。彼は言いました。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。そうしたら、律法も預言者も成就することになります。」それが彼の言ったことですよね?つまり彼こう言ったということです。「聞いてください。私はあなたたちに何をすればよいかを簡単に教えてあげます。これはいつも正しいことです。神学を知る必要も、すべてのみことばを知る必要もありません。それはこれです。あなたのいるすべての状況において、他人に自分にしてもらいたいことをしなさい。もしそれを行うなら、律法と預言者を成就することになります。」言い換えると、私達がそれに従って生きる限り、聖書に従って歩み、いつも聖書を成就することになります。それが彼の言ったことですよね?イエスはそのようにするように言いました。もし彼がその基準に従って歩まなかったら、彼は偽善者になります。そうですよね?イエスを偽善者扱いするのはいい気分ではないと思います。イエスは偽善者ではありませんでした。彼は自分の教えた基準に従って歩みました。それが私の伝えたい点です。イエスは何か天から垂れ下がっている糸に操られて人形のように地上のさまざまなところには行きませんでした。
ある人は言います。「私はただ聖霊に流されて歩みます。」先ず第一に、そのように言う人は、まずそれを実行はしません。彼らは、自分の考えや、むなしい考えに従って歩みます。彼らは霊的になっていると思うかもしれませんが、実際には、聖霊に導かれることは、聖書の言っていることに従うことです。何故なら、神の御霊が聖書を書いたからです。(2テモテ3:16,2ペテロ1:20-21)そうですよね?ですので、私達が聖霊に導かれて進むときには、聖書の言っている事をします。使徒の働き10章38節によると、イエスは巡り歩きました。「それはナザレのイエスのことです。神はこの方に、力と聖霊を注がれました。彼は巡り歩いて、良いわざをなし、悪魔に制せられたすべての者を癒されました。」何故でしょうか?「神がともにおられた」からです。それだけです。その「巡り歩いて」ということばの意味は、「目的地もなしに、歩き回る」という意味です。
もしかしたら過去にイエスは神と毎日会って、何処に行かなければならないかなどをすべてを告げられて、彼の人生はすべてそのようであったと教えられたことがあるかもしれません。又、イエスは夜になると父に会うために山の上に行き、次の日に何をすればよいかを告げられて、次の日の予定表を持って来て言いました。「じゃあ、父よ。明日は何をしますか?」そして父は言います。「息子よ。聞きなさい。あなたが井戸にいなければいけません。ヤコブの井戸です。朝のうちにそこにいなさい。そこに一人の女がいるでしょう。私達は彼女に会う必要があります。それをノートに書いておく必要があります。そこにいるようにしてください。彼女はそこに10時位にいるでしょう。そこにいてください。いいですね。このようなことが起きます。これが彼女に言うことです。」それか、神が次のような事を言ったと想像します。「(イエスに向かって)じゃあ、百人隊長が現れたら、彼はしもべを癒して欲しいと願うでしょう。でも、行かないで、ただことばを言いなさい。」そして、イエスがこう言ったと想像します。「でも、父よ。百人隊長といっても、沢山います。どうして、どの人だと分かりますか?」そして、神は答えます。「~のような人です。」こんな風に、私達は考えたりします。でも、もちろん、こんなことは起きませんでした。
私達の考えるようなかたちではイエスは御霊に導かれてはいませんでした。では、イエスはすべての律法と預言者を全うしましたか?はい、そうです。彼はすべての義を成し遂げましたか?はい、そうです。イエスは、すべての律法と預言者を全うし、すべての義を成し遂げたので、彼は自分の教えるように、何事でも自分にしてもらいたいことを、他の人にもそのようにしたに違いありません。これらのことは、私達は、過去に学校で教えられていました。それは黄金律というものです。他人に自分のしてほしいことをしなさい、というものです。問題は、私達は、この黄金律を人間的な考えで理解していることです。これにしたがって人々は、もし病人がいるなら、スープを作って持って行きなさい、困っている人がいるなら助けなさい、お年寄りの為に扉を開けなさい、優しくしなさい、礼儀正しくしなさい、と考えます。イエスはただ「礼儀正しくしなさい」とは言いませんでした。正直に言うと、イエスは私達が親切に、礼儀正しくなることはあまり気にしませんでした。
考えてみてください、イエスは宮に入って、むちを振るったことを覚えていますか?彼は台を倒し、人々を追い出しました。(マタイ21:12,ヨハネ2:13-15)そうですよね?それは彼はむちを持っていたからです。そのむちは縄を使っての手品のためではありませんでした。彼らは逃げ去りました。何故なら、イエスにむちで打たれることを恐れたからです。実際にイエスが彼らをむちで打ったことは書かれていませんが、その人々は彼がむちで打つと恐れて、逃げ去りました。では、それらの収税人達が慌てて、イエスから逃げるために、宮から走って出てくる光景を想像できますか?でも、一般的なイエスのイメージを持つ人々は次のように言うでしょう。
「何が起こっているのですか?」
「あのイエスと言う男がむちを手に持って、私達を追い払いました。」
「あなたのお金は何処ですか?」
「床に置いてきましたよ」
「ではこのイエスという男についてどう思いますか?」
「えーと、彼は、とてもいい人ですよ。いい人です。彼はとてもやさしくて、礼儀正しい人です。」
そんなはずないですよね?いいえ、彼らはそのようには言うはずがありません。彼らは、「あのイエスと言う男は、狂っています。」そうですよね?彼らはありとあらゆることをイエスに対して言うでしょう。ですので、イエスは私達をやさしく、礼儀正しい人にしようとしたのではありません。別に失礼な人になるように言っているのではありません。しかし、イエスのようになることはただやさしい人になることではありません。正しいことを行う人になることです。わかりますか?
イエスが実践した原則は、イエスが彼の弟子に実践するように言った原則です。イエスはすべての原則を成し遂げましたか?はい、そのとおりです。これについて考えてみてください。これはイエスは旧約聖書のすべてのみこばを見て、それらすべてを正確に実行することによってすべてのみことばを成し遂げましたか?それとも、イエスは、自分にしてほしいことを他人にもしようとしたので、巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられているすべての人々を癒すことによって、すべてのみことばを成し遂げましたか?私達はよく人間的な標準で見て、神の標準で見ようとしません。でも、私達が認識しなければならないのは、私達はもうただの人間ではないという事実です。私達は新しく造られた者です。新しい創造です。ある聖書では「かつて一度も存在したことのない種」と訳されています。それが私達です。私達だけが唯一神の御霊を持っている者です。私達には神の力があります。ですので、私達がほかの人に自分にしてほしいようなよいことをしようと考える時、それは人間性から出たものではありません。それは私達のうちにいる神の性質から出たものです。そして、私達にはそれを成し遂げ、巡り歩いてよいわざをなし、悪魔に制せられているすべての人を癒す力が与えられています。
私達がウォルマートで人を見たときには、その人が病気だったり、傷ついていたりするのが分かります。その時、私達は、「私は今何をするべきか?」と考えます。それは簡単です。私達は、「私は癒しのセミナーに行って来ました。今、癒しをするべきでしょうか?」と考えるでしょう。そのような考えは、聖霊が思い起こさせるものです。何故なら、彼の仕事はイエスの教えたすべてのことを思い起こさせることだからです。イエスが、私の引用している人ではありませんか?なので、あなた方が、何をするべきか?神様は、私に、この病人に手を置いて欲しいのか?と考える時、聖霊が与える言葉は、それはイエスの話したことばです。それは、私があなた方に話している言葉です。そこで、思い浮かぶ考えは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」であることを保証します。(マタイ7:12)
これは、神にとって完璧なシステムだと思いませんか?神はいちいち私達を監督する必要はありません。神は私達に従うべき原則を与えるだけで、あとは私達がそれに従うだけです。そして、神の御前に立った時には、私達はその原則に従ってさばかれます。どのように人生を生きてきましたか?自分のしてほしいことをほかの人にしてきましたか?神はあいまいな基準で私達をさばくことはしません。神はみことばに従って私達をさばきます。ヤコブ書にははっきりと自由の律法に従ってさばかれる者らしく話して、生きるように書いてあります。(ヤコブ2:12)ヤコブ1:25ではみことばである自由の律法を一心に見て、それに従って生きるように書いてあります。だから、私達はこのみことばによってさばかれます。曖昧な御霊の導きや、どのようにしてみことばに従ったか、そうでなかったかではありません。
言わせてください。私は過去に、「神は、私にこれをするように導きました」と言う人々を見てきました。しかし、神は彼らをそのようには導きませんでした。人々は宗教的になってくると、「神は私にこう言いました…」というようなことばを使い始めます。でも、彼らの言う事は、良く聞くと、聖書の言っている事と正反対である場合が多いです。でも、彼らはこのように答えます。「いいえ、でも神様が、私にそう言いました。」それはまるでこう言うものです。「私の言う事に反論するな。何故なら、神様が私にそう言いました。私が神様から何を聞いたことについて、あなたは何も言う事はできない。」でも、導きが、みことばと一致しないなら、それは神からのものではありません。
そのようにして何が導きかを知ります。要点は、どのような霊的な感覚を得るかではありません。要点は、いいですか、たとえ私達の人生で神が語らなくても(別に神は語らなくてはいけないわけではありません。)それでも、私達はその神の原則に従って生きる責任があります。これは完璧なシステムなのが分かりますか?神は私達に話さなければいけない理由はありません。でもある人は言うでしょう。「神様、私は何もあなたから聞きませんでした。」神の語るべきことはすでに聖書に書かれています。イエスはそう言いませんでしたか?イエスが悪魔に試みにあわせられたときに、こう言わなかったことに気が付きましたか?「悪魔よ、聞け。父は、私には話して、私は彼の息子だと言った。」悪魔が、「もしあなたが神の息子なら、ここから飛び降りてみよ。」と言ったときには、彼は、「悪魔よ。父は言われた。」とは言いませんでした。イエスは言いました。「悪魔よ。言っておくが、こうか書かれている。」わかりましたか?イエスは「書かれている」と言いました。(ルカ4:3-12)
私は人生のすべてを、ミニストリーを、することすべてをこの書かれたみことばに頼ってきました。だから神は多くの扉を開けてくれました。私達は世界中を周ります。何処に行っても、同じ結果を見てきました。個人的に会ったことのない人達も私達の教えることを聞いて、同じ癒しの結果を得て、私達に手紙を書いて知らせてくれます。「この神癒技術者訓練は結果を出します。」言わせてください。いい知らせがあります。すでにあなた方が過去に学んできたことは、めちゃめちゃにされたと思います。私はいつも手紙を受け取ります。それにはこう書いてあります。「カリー兄、私達の伝統的なキリスト教をめちゃめちゃにしてくれて、ありがとう。」何故だかわかりますか?それは伝統的なキリスト教は結果を出さないからです。
私は人々がこう言うのを聞いたことがあります。「でもこれは普通ではありません。」普通ではないのは知っています。普通という事は過大評価されすぎています。いいことではありません。分かりますか?愛する人が死んでいくのを見るのが普通になってしまっています。周りに聞いてみてください。それが普通です。私は普通にはなりたくありません。私は普通でいるのにはうんざりしました。私は多くの人達を埋葬してきました、傷ついて、死んでいくのを見てきました。私はうんざりしました。そして、普通でいることをやめる決心をしました。ですので、普通とは違う人になることに決心しました。特別ではなく、違う人です。もし私達が普通なら、正しく歩んでいないかもしれません。神は決して私達に普通になるようには言いませんでした。いいですか?これは多くの人にはうれしいことばです(笑)。「神に感謝します。私は何か自分に問題があると思っていました。私はやっと普通でないことが普通であることが分かりました。(笑)」アーメン。