神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )
1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)
By Curry Blake
John G. Lake Ministries
セッション7
では2日目です。参加者の何人か去って行ったようです。でも、そんなに沢山ではないみたいです。アメリカ海軍特殊部隊では、誰かが、もうこれ以上訓練を続けることは無理になった時には、ヘルメットを取り、フィールドの中央まで行って、3回鈴を鳴らして、そこにヘルメットを置いて去りました。それは彼らにとって、「私はもうあきらめます。」と言う意思表示です。なので、私達は、鈴をもってはいません。私たちは鈴を持っていない為、誰が去って、誰がまだ残っているか分かりません。だから、私達には、「ギブアップの為のリクエスト」というのがあります。時々、何人かの人がギブアップしていきます(笑)。
もし私の教えを聞いて、癒しの結果を出すことを諦めてしまうなら、ましてや悪魔はもっと簡単にあなたを諦めさせることができるでしょう。何故なら、悪魔は、私達が癒しの結果を出すことを妨げようとします。私達が、何が起ころうと、信仰に堅く立ち、戦い続けることを悪魔は嫌います。悪魔は、まぬけではありません。悪魔は、狂っているかもしれませんが、まぬけではありません。悪魔は、長い間地上で生きてきました。悪魔は、もしクリスチャンが、彼に向かって立ち上がっても、彼が少しの間立って耐えるなら、大半のクリスチャンは諦めて、去っていくことに気がつきました。ですので、私達は、最終的には、どちらかが先に去るまで、面と向かっての耐久勝負をすることになります。もし私達が堅く立つなら、悪魔を打ち破ることができます。敵を打ち破る為には、詳しく言うと、2つの方法があります。一つ目は、根性で堅く立ち、耐え忍び始めることです。もう一つは、堅く立ち続ける評判を確立することです。一度、そのような堅く立つ評判ができれば、悪魔は、より早く逃げ去るようになります。何故なら、悪魔は、私達が、絶対に身動きしないことを認識するからです。
基本的には、信仰によって歩むとは、私達が望み、起こって欲しいことを決めて、それが起こるまでは、絶対に諦めないことです。そのような信仰の定義は、多くの人に好まれるものではありません。何故なら、それは勇気と同じものだからです。それは、誰もが逃げ去るときに、一人で立ち続けることです。多くの人は、信仰は、とらえることも、測ることもできない、神秘的なものと考えがちです。私達が、最後に打ち負かした問題が、私達の強さの度合いを表します。又、私達の強さは、最後に私達が打ち負かされた問題よりもわずかに小さなものです。ですので、もし信仰を得たいなら、ただ堅く立ち続けることが必要です。信仰は、質であって、量ではありません。信仰は、誰もが逃げ去る時に、堅く立ち続ける力です、信仰は、私達が逃げ出したい時にも進み続ける力です。このことについては、後でもう少し詳しく話していきます。
もしマニュアルがあるなら、セッション2を開いてください。今日はやっとマニュアルを見ていきます。私達は、大抵は、マニュアルのすべてを見ることはしません。その内容は、教えの中でカバーされるからです。私がこのマニュアルを作ったので、それから読んでいようがいまいが、話す内容はマニュアルと一致しています。このマニュアルを作った理由は、あなた達がそれぞれ自分の場所に帰った時に、これを続けて勉強して、実際の訓練で私の教えたことを思い出すためです。マニュアルは完全なものではありません。それは、私達が学んだことを記憶するのを助けるものです。私達が、学んだことを実行するにつれて、学んだことの結果が出てきます。私達が、教えていくほど、神は、学んだことを教えの中で生かしてくれます。覚えておくべきことは、実践の経験によって、役立つことは吸収して、役に立たないことを拒否して、自分に必要なことを吸収することです。でも、聞いたことを拒否する前に、私の言ったことが気に入らないから、それを受け入れないという意味ではありません。どういう意味かというと、もし教えられたことが、本当に役立ち、結果を出すのを見て、私達がそれを実行し、とことん追及した後で、もし本当に役に立つなら受け入れて、もしそうでないなら捨てるということです。それが秘訣です。
ではマニュアルのセッション2の14ページです。神のことばは、私達の信仰と行動の最も重要な規則です。ある人は、「それはもう知っていることです。」と考えるかもしれません。そうです。そして、多くのクリスチャンは、そう主張します。もし大半の教会に尋ねるなら、彼らは答えます。「はい、私達は、神のことばを信じます。聖書を信じます。それは完全な神のことばです。それを信じて、それによって歩みます。」そして、もしそれが真実なら、教派は存在しないはずです。ですので、私は、今から、神のことばは、私達の信仰の最終的な権威であることを説明します。もし自分の経験が、私達の信仰を決めるものなら、そういう人は、私がみことばを話す時には言います。 「確かに、聖書には、彼の打ち傷によって、私達は癒されたと書いてあります。それは知っているけれども、でも、私は、病気を持っていて、祈っていたのだけれども、でも、私は…」そうやって、毎回、経験や、教義や、何かを持ち出して言うでしょう。
何よりも、もし聖書が、癒しが、今でもあると言うなら、癒しは、今日、私達の為にあります。単純です。私は、他の人の達の経験を配慮します。でも、私達の仕事は、私達の経験を、神のことばと一致させることです。他人の経験に賛同することではありません。「まあ、時にはそのような時もあります。」という感じで賛同はしません。
私は、よくこう言うのを聞きます。「神は、時には、私達の祈りに答えてくれて、時には答えません。時には、長く待たなければいけません。」そう言いたくなるのは分かりますが、それは聖書の言っていることではありません。聖書は、神の約束は、キリストイエスにあって、「しかり」であって「否」ではなくて、彼にあって、アーメンであって、その通りになれ、と言っています。(2コリント1:18-20)「いいえ。」ではなく、「そうかもしれない。」でもなく、「ちょっと待って。」でもありません。
ちょっと待って、ではないということについて説明する時には、細かく説明しなければいけません。私達は、人生において、神との間で何か特別なことを求めている時があります。そのような時には、神からの具体的な答えを待つ時もあるかもしれません。でも、霊的な戦いや、その他の場合においては(特に霊的な戦いおいてはそうです)、キリストの贖いに含まれているものは、いつでも、すべて神から受取ることができるべきです。疑うべきではありません。
キリストの贖いに含まれていることは、神に願う必要はありません。ただ神に従えば、それらの贖いに含まれたものを経験することができます。もし、それが癒しに関連したことなら、祈る必要はありません、断食する必要もありません。病気やわずらいは、完全に打ち負かされたものです。ただ病気やわずらいに、去るように命令するだけです。ですので、「私は良いクリスチャンなので、この病気に耐えます。神は、病気を通して、私を試しています。」と考えないでください。イエスは、私達のすべての病気やわずらいを負いました。(イザヤ53:4,マタイ8:17)病気やわずらいは、あなたの人格を成長させる為ではなく、殺す為のものです。私達が死なない理由は、神から免疫力を与えられているからです。免疫力のおかげで、ちょっとした病気なら死ぬことはありません。神に感謝するべきです。もし、私達が免疫力を持っていないなら、どのような弱い感染も、私達を殺すことができます。それはエイズと呼ばれるものです。通常、エイズは、人の免疫力を低下させて、それによって、身体に入ってきた他の病気が、その人を殺します。
私が、強調したいことは、キリストによる贖いに含まれているものは、何でも私達のものであることです。すべてです。私達は、約束を与えられています。イエスは言いました。「病人に手を置きなさい。」「信じる者は病人に手を置けば彼らはいやされます。」(マルコ16:18)そうですよね?とても単純ですよね?とても役に立つ文句があります。それは、もし、神が私達に約束を与えるなら、私達と、その約束の実現との間に逆らって立つものは、何でも悪魔からのものであり、私達が打ち壊すべきものです、という文句です。神からの約束という時、気をつけて説明しなければなりません。私のここで言う約束は、預言のことばも含みますが、主には、聖書に書いてある約束のことです。聖書には、聖徒達は「勝利を得る者」と書いてあります。(黙示録2:11,17、3:5)こそこそとした者とは言っていません。多くの人は、困難なしで人生を送ろうとします。もし困難や問題があるなら、神は、彼らに敵対していると考えます。
初代教会は、困難を予期していました。彼らは、それが来ることを知っていました。しかし、彼らは困難が、いつも来ることも信じてもいなかったし、それを賞賛することもしませんでした。何故なら、もし私達が、困難に遭うことを、正しい教会の基準としていたら、エホバの証人は、正しい教会ということになってしまいます。そうですよね?ですから、誰かが迫害されているからといって、その人が正しいと考えることはできません。
でも、もし私達が迫害を受けていなかったら、私達は、恐らく正しい道を歩んではいないでしょう。(2テモテ3:12)私達は、まだ十分な宗教の悪魔を怒らせていません。私達は、まだ霊敵領域で知られていません。ですので、私達は、ある時点で、何があろうとも進み続ける決心をしなければなりません。私達と、神から与えられた約束の実現の間に立ちはだかるものはすべて打ち負かされるべきものです。
その立ちはだかるものがあるのは、私達がイスラエル人達にならって、次のように言う為ではありません。「主よ。何故私達をエジプトで殺されなかったのですか?何故このようなことを経験させるのですか?何故今、私がこのような経験をすることを許しているのですか?何故このようなことが起きるのを許すのですか?」と言ったようなイスラエル人の様になることを止めてください。新しい契約の下にある、神の子になってください。そして、周りの状況を見て、言ってください。「神に栄光が帰されるように。ここに神のことばが真実であることを証明する機会があります。私は、この状況に勝利します。そして、私が勝利するなら、私の居場所は天で確保されていることが分かります。」私達の居場所が、です。話の要点が分かりますか?それは、神は、「何の困難もない人が天に入る」とは言わなかったからです。彼は言いました。「天に入る人達は、勝利する者達だ」と言いました。(黙示録2:11,17,3:5)もし、私達に困難がないのなら、勝利することはできません。
私達が、様々な困難や試練に遭う時には、…私は、今までに一度も誰かから電話があって、その人がこう言うのを聞いたことはありません。「カリー兄、神に栄光を帰します。私は、今、試練を経験しています。神に栄光を帰します。ただあなたとシェアしたかったんです。今は、私の人生でのすばらしい時です。」まだ誰からもそのようなことは聞いてはいません。でも、その時を待っています。聖書は、様々な試練に遭う時には、それをこの上もない喜びとしなさい、と言っています。(ヤコブ1:2)何故でしょうか?それは地獄が、その人を警戒しているからです。それは地獄が、私達のことを知ったということです。それは、私達が、地獄での評判を立てたので、地獄が、いくらかの手下どもを、私達を狩る為に送ったということです。聖書箇所を見てください。私には、まだこのことは起きていませんが、でも待っています。その聖書箇所を読んでください。試練に遭う時には、それをこの上もない喜びと思いなさい。(ヤコブ1:2-4)
第二次世界大戦中、ノルマンディー作戦の以前に、ナチスが唯一憎み、恐れた、軍司令官がいました。それはGeorge Patton Junior軍司令官でした。彼が、ジュニアだからと言って甘く見ないでください笑。多くの人は、彼が問題を起こしたことを知りません。彼は、二人の兵士をはたきました。彼は、軍の医療班のテントで、戦闘のために、精神的に披露した二人の軍兵を見つけました。彼らには、身体的な問題はありませんでした。Pattonは、彼らをはたきました。一人を平手打ちして、もう一人には拳銃を突きつけて、その場で彼を撃たなければならないと脅しました。その出来事は報告され、ニュースで報道されました。すぐにアイゼンハウワー大統領は、Pattonを、軍の職務から解かなければなりませんでした。大統領は、Pattonを一旦英国に引き戻しました。人々は、大統領に、「何故、Pattonを職から解き、母国に送還させなかったのですか?」と尋ねました。彼は、こう答えました。「それはできません。彼は戦いに勝ちます。」時々、私達は、戦争に勝つのは政治家ではないことを忘れがちです。大抵、政治家が戦争を担うと、長引きます。でも、兵士や戦士は、素早く戦いに勝ちます。ノーマンシュワルツコフの件がいい例です。
ですので、もし私達が戦いに勝ちたければ、戦士を送ります。政治家ではありません。何故なら、政治家は、誰とでも友好的になろうとするからです。戦士は行って、こう言います。「では、今から何が起こるか教えよう。あなは、降参するか、死にます。どちらがいいか?」これが、私達の身につけなければならない姿勢です。それは、私達には、あらゆる霊的な戦いにおいて、絶対的な支配権があるからです。戦いの勝敗は、私達次第です。私達の司令官は、戦いに勝つ為の、すべての武器は与えてくれました。私達が戦いに負けるのは、私達自身が、その与えられた道具や武器を使わないからです。単純です。
その武器の一つは信仰です。多くの人は、信仰を失います。何故なら、彼らは、信仰が何であるかも理解していないからです。ですので、彼らは、信仰を持っているかの判別もできません。私は、他人が信仰を持っているか判別することができます。その人が、戦いにおいて神の約束に、今も堅く立っているなら信仰があります。聖書は、「苦難の日に気落ちするなら、あなたの力は弱い。」と書いてあります。(箴言24:10)これはどのような意味でしょうか?立ち続けてください。戦いの勝利は、神次第ではありません。神は、私達の失敗に責任はありません。神を責めないでください。いいですか?イエスは、いつも勝利しました。イエスは、一回も戦いに負けることはありませんでした。私達は、これについてもっと良く考えてみる必要があります。私達は、悪魔の大砲の餌食になるために、この地上に生きているのではありません。私達は、勝利するためにここにいます。悪魔は、私達が打ち負かし、勝利することを練習する為にこの地上にいます。ある人々は、「私はそれには賛成できません」と言います。旧約聖書を見てみましょう。旧約聖書では、神はカナンの地に5つの部族を残します。それは、戦いを知らないイスラエルの新しい世代と、その部族が戦争をして、戦争がどのようなものか、どのようにして戦うかを学ぶことができる為です。(士師記3:1-4)これについて考えてみてください。神は、その5つの部族に向かって、「あなた達はこの地に留まります、何故なら、後で私の子供達が来て、あなたと戦い、どのようにして戦うかを学び、あなたを打ち負かします。」と言いました。これが悪魔に対しての、神のことばです。悪魔は、打ち負かされる為のものです。人々は、「もし悪魔が戦場にいるのなら、ただ殺せばいいだけです」と言います。そうです。ただ打ち負かせばよいだけです。そうすれば、すぐに敵はいなくなります。私達は、この地上に勝利するために生きています。悪魔は、打ち負かされる為にここにいます。それが彼の存在している目的です。なので、悪魔を打ち負かして、彼が目的を達成することを助けてあげましょう。単純ですよね?すべてのものには目的があります。私達の目的は、勝利することです。悪魔の目的は、敗北することです。
彼らは、Pattonをその職務から解いて、イギリスに引き戻しました。そして、最終的には、いわゆる「影の軍隊」を任せました。影の軍隊とは、ただの書類上の軍隊です。言い換えると、その軍隊には、誰もいません。何故ナチスが、彼を憎むと同時に恐れたかというと、それは唯一つの理由のためです。それは、彼は戦うことを好んだからです。路上であろうと、軍隊であろうと、誰でも、戦うことが好きな人を見つけると、そのような人とは戦いたくないでしょう。何故なら、そのような人は、勝ち負けに関係なく、戦うことを楽しむからです。私達は、それを学ばなければいけません。私達は、戦いを楽しまなければいけません。
私は、勝ち負けについて話しているのではありません。何故なら、私達のしている癒しでは、度々勝ち、度々負けることはできないからです。負けるということは、誰かの死を意味するからです。だから負けることはできません。
超霊的な、神秘的な考えを捨ててください。癒しは、超霊的なことではありません。ただ人が癒されることだけではありません。この戦いは、私達の為のものではありません。私達が病人ならば別ですが…、私達は、誰か他の人の為に戦っています。それはイラクにいる私達の国の軍隊のようなものです。私は、政治について議論するつもりはありません。ただ言いたいことは、私達が賛成しようが、しまいが、兵士達は、自分達の選択でイラクにいます。彼らは、この国ではなく、イラクにいます。このように、私達も戦いを敵の陣地に持って行く必要があります。敵が、家の戸を叩くまでは待ちません。私達の中には、戦争を、戦うことをまったく知らない世代がいます。それは彼らが平和ボケしている間に、まるで明日戦争に行くように訓練している人々がいるおかげです。そのような人々は、いつ問題が起きても対処できるように訓練をしているので、問題が発生すれば、24時間から36時間以内に、世界中の何処にでも彼らを派遣することができます。
クリスチャンもそのようにするべきです。悪魔がやって来て、私達の扉を叩くのを待つのではなく、癌を扉まで持って行ってください。エイズを、病気を扉まで持って行ってください。病気は何処ででも見つけることができるはずです。人々の家まで行って、病気を見つけて、病気をとことん追跡するべきです。何故なら、もし、病気が病人の家を去ったら、次は私達の家に入って来ようとするからです。いつも、他人の縄張りで戦う方が有利です。戦いを敵の陣まで持って行ってください。敵が、戦いを私達の家まで持ってくるのを待たないでください。敵のいるところで戦えば、私達は、去りたい時に、いつでもその場を去ることができます。そして、自分の家に平和を持って帰って来ることができます。敵を待っていたら、自分の家で、毎日戦うことになります。それは困難です。これを理解しなければ、毎日、自分の家で戦うことになります。私の言っていることを信じてください、毎日起きて来て、自分の家で、愛する人がベッドの上に病気で寝ているのを見ながら、その病気や死と戦うことは苦痛です。悪魔は、戦いが長引けば、大半の人々は戦いを諦めることを知っているからです。彼らは、戦いの終わりが見えないので、諦め始めます。アメリカ人は、すぐに諦めることで有名です。私達が経験した最初の湾岸戦争は完璧でした。100時間で、私達の勝利にて終結しました。アメリカ軍は、現地に大きな火力で赴いて、1週間以内に、戦争を終わらせました。でも、私達は、長い戦いの後には疲労することを知っています。そのような時には、他のクリスチャン達が共に集い、支えあうべきです。
Pattonのことに話を戻します。今から話すことを強調したいからです。今から話すことを理解してください。私を信じてください、今から話すことを理解するなら、自分の為ではなく、他人の為にもっと戦うことができるようになります。私は1997年以来、自分の為には祈る必要はなくなりました。私が1997,8年かに足を骨折したときを除いてです。正確には何年だったのか思い出せません。当時、40歳だったので、7年前のはずです。ということは1999年です。自分のために戦う必要がないことは良いことです。他の人達の為に戦うために時間を費やすことができるからです、
彼らが、Pattonにしたことは、彼を英国に連れて行き、ジープに乗せて、軍隊を任せました。何故なら、彼らは、軍の中にはナチスのスパイがいて、情報はすぐにベルリンに報告されることを知っていたからです。なので、彼らは、Pattonをジープに乗せて、英国の北岸の全土を走らせました。そして、対岸のドイツ軍の動きを観察しました。Pattonが、英国の南から北へ岸沿いに北上するに連れて、対岸のドイツ軍の戦車などの機甲部隊も、それにつれて移動しました。ドイツ軍は、攻撃が来ることを知っていましたが、ただそれがいつ来るのかは知りませんでした。彼らは、「もしアメリカ軍が賢ければ、侵略してくる時には、Pattonが先頭に立つに違いない。」と考えていました。そのように優秀な兵力を動かしたナチス軍はある意味賢かったと思います。大半の人達は、優秀な戦力を使おうとしないからです。なので、Pattonが北に移動するにつれて、ドイツ軍の兵力も北に移動しました。そのようなことを何週間にもわたって繰り返すことによって、ドイツ軍は機甲部隊などを動かす為に何千ガロンもの燃料を無駄に使うことになりました。しかし、Patttonは、ジープを運転するための燃料しか必要としませんでした。何故このようなことが可能だったのでしょうか?それは評判です。Pattonが、ドイツ軍の中で得ていた評判の為でした。
何故このような話をしたのでしょうか?それは、あなたに地獄での評判を得て欲しいからです。私達は、毎朝起きて、車に乗って、家を出て、何処にでも行く時、地獄が、私達がどこに行くかを知るために、悪霊の群れを偵察する為に放つようになる位にならなければなりません。私達が、毎朝起きた時には、地獄の赤信号が消えて、悪霊たちが、私達がこれからどこに行って、何をするかを恐れるようになるべきです。
又、今から話すことはとても変わったことのように聞こえますが、理解してください。まず、2つの聖書箇所を読みます。これらの箇所は、しるしについて言っています。マルコ16:17には、「信じる人々には次のようなしるしが伴ないます。」と書いてあります。そうですよね?「病人に手を置けば病人はいやされます。」なので、癒しは、しるしです。信じる者が、病人に手を置くことは、しるしです。そうですよね?では、次に、1コリント14:22を見てみましょう。そこでは異言は、誰の為の、何の為の、しるしだと言っていますか?不信者ですよね?信じる者ではありません。何故でしょうか?それは、信じる者は、すでに異言で話しているからです。なので、しるしは、決して信じる者の為ではないことが分かります。何故なら、イエスは、「悪い、姦淫の時代(世代)はしるしを求めています」と言っています。(マタイ16:4)私達は、そのような時代(世代)ではありません。そうですよね。その悪い、姦淫の世代のように振舞うことを止めてください。私達は、彼らとは違います。私達は信じる者です。
もしかしたら、ある人は、「私には十分な信仰があるかどうかわかりません。」と言うかもしれません。そんなことはありません。私達には、信仰があります。信じる者だからです。使徒の働きから後には、聖書には、誰も信仰を持たなければならなかったことや、信仰を得ようとした記述はありません。もし信じる者なら、信仰があると見なされていました。問題は、どれだけ大きな信仰を持っているかではありませんでした。何故でしょうか?何故なら、信じる者として、私達には十分な信仰があるからです。イエスを信じる者なら、十分な信仰があります。
一番の奇蹟は、救いですよね?それは癒しよりも偉大なことですよね?もし、私達が救われるのに十分な信仰があるのなら、明らかに、癒しの為には、信仰があるはずです。例えば、もし、私が一万円札を持っていたら、千円の商品を買うことができます。何故なら、一万円は、千円よりも大きいからです。もし、私達が一万円のものを買うことができるなら、当然、千円のものを買うことはできます。もし、救いは、癒しよりも偉大な奇蹟だと信じるのなら、もし、救いの為の信仰があるならば、もちろん、癒しの為の信仰もあります。
ですので、信仰は問題ではありません。何が問題か知っていますか?根性です。堅く立つ気がありますか?みことばが真理であると、決心する気がありますか?少し例えを話しましょう。恐らく、今から話すことを好まないでしょう。何故なら、それは、私達が過去に教えられた大半のことに反することだからです。しるしについて、先程、話していたことを覚えていますか?まだ私は、しるしについて話しています。マルコ16と1コリント14より、癒しや異言はしるしです。ウォールマートやコカコーラは、広告掲示板を、教会や集会場には、普通は建てませんよね?何故でしょうか?それは、彼らは、これらの場所では、多くの人がその広告掲示板やしるしを見ることはない、と考えるからです。彼らは、看板やしるしを、多くの人が通り過ぎて、見る所に置きます。これが分かりますか?しるしは、多くの人に見られる所に置かれるべきです。もし、異言や癒しが不信者のしるしなら、何故、それらが実践されるのが教会の中だけなのですか?癒しは、不信者の為であって、教会の中では、本来は行われる必要のないものですよね?聖書では、ヤコブ書の5章だけに、癒しのために信じる者が、他の信者に祈るように書いてあります。それも、今のような教会の建物の中でのことではありません。そこには長老達が、実際に病人の家に行き祈るように書いてあります。
初代教会には、癒しの集会などなかったことを知っていますか?癒しの集会が開かれたというような記録はありません。それに近いものでも、パウロが行った癒しの例のうちの一つでは、彼は、その人に信仰のあることを認めました。実際に、その病人は、自分の癒しのために信仰を持っていたので、癒されました。でも、聖書の何処にも、癒しの集会についての聖書箇所はありません。それは、救いの招きのようなものです。それは聖書にはありません。それが間違っているというわけではありません。でも、それは、聖書には書いていないということです。それは、ムーディーによって、確か、実際にはチャールズフィニーが始めて、ムーディーがそれを引き継いで、人々が、もっと効果的に悔い改めの決心をすることができるようにしました。私達は、人々を悔い改めの決断に導く必要はありますが、それよりも、人々を弟子訓練に導くことがより良いことです。多くの人達は、悔い改めの決断はしますが、弟子訓練のための決断する人達はなかなかいません。
私達が行う癒しは、私が教えていることは、教会で行うことができます。でも、本来、癒しを行うべき場所は、教会ではありません。教会の外です。では、私が話していた、Pattonについてのことに戻ります。癒しは、私達が毎朝起きた時に…いや、ちょっと待ってください。その前にもう少し説明する必要があります。
癒しを特別な出来事として理解する限り、決して癒しをすんなりと行うことはできるようにはらないでしょう。癒しが特別な出来事から、日常の生活の中の出来事になる時、癒しをすんなり行うことができるようになります。「癒しが特別な出来事であることは、どのようにして分かるでしょうか?」癒しが時々起こるものである限りは、癒しは出来事です。癒しが、水曜日や日曜日だけに行われている限り、癒しは出来事であって、生き方ではありません。でも、癒しが生き方になる時、私達は、いつでも、どこにいても行います。そのような時、癒しをすんなり行うことができるようになります。より多くの結果を見ることができます。そして、癒しの結果も安定したものとなります。最初に癒しを行い始めた時には、癒しは安定して、いつも起きないかもしれません。でも、続けているうちに癒しの起きる頻度は増して、安定してきます。
私達がするべきことは、選ぶことです。私達は、朝起きて、言います。「今日は働かなくていいので、ウォールマートに行って、歩きまわって、祈るべき人達を見つけよう。」私達は、そのように決断します。私はそのようにしました。そのようにして、癒しを行い始めました。私は言いました。「ウォールマートに行って祈ろう。何故なら、病気にうんざりしたから。ウォールマートは南の方にあって、少し運転しなければいけないが、でも行きます。」
私達の住んでいる南部では、ウォールマートは、そこらじゅうにありました。ウォールマートを例に挙げているのには理由があります。何故なら、私は、いくつかの場所で人々のために祈りましたが、ある場所では店員や警備員に止められたり、邪魔されたりしました。でもウォールマートでは、そのようなことは起きなかったからです。それは、彼らの方針なのかは分かりませんが、私は、いつも祈ることができました。
なので、私達は選ぶことができます。自分で決断して、立ち上がって、人々のために祈りに行くことができます。例えば、スミスウィグルスワースです。ウィグルスワースは、決断をして言いました。「私は、毎日1人をキリストに導くまでは寝ません。」ある時には、彼は、夜遅くに帰宅して、誰かを捜しに出て行くときもありました。そして、彼は祈りました。「神よ。誰かを私の歩いている道に送ってください。」それから、彼は、誰かを見つけて、その人に証をして、その人は救われました。
もし、癒しと救いが、神が与えてくれたものなら、私達も同じことを癒しについてもできます。そして、私はそのようにしました。私は立ち上がって、言いました。「癒しは、教会だけで行わなければいけないことではない。もし、私の行っている癒しが真実なら、何処にいても効果がなければいけないはずだ。」それが理由です。私達が教会にいる時には、いろいろな教義をでっちあげることができます。いろいろな理屈を作り上げることができます。でも、私達がウォールマートに行った時には、私達は、他人に向かって、「じゃあ、あなたは信仰に堅く立ってください」と言うことはできません。彼らは言います。「どういう意味ですか?」分かりますか?今日の教会だけで行われている癒しは、本来のあるべき癒しの現実から離れたものになってしまっています。私達は、私達だけの小さな教会の文化を持っています。私達は、正しいクリスチャン的な言葉や正しい語調や、どのように振舞うべきか、どのような見栄えであるべきかは知っています。
もし、私が来て言ったとします、「じゃあ、皆さん、お座りください。」そうすると、人々は考えます、「彼は今から祈ります。」何故でしょうか?何故なら、彼らは、私の動作を知っているからです。また、例えば、私達が昼食をしに出て行って、座って、昼食を食べる前には、皆が周りを見回して、「じゃあ、食べ始める前に祈りましょう」と言うのを知っています。もし、私達が周りにいる人達を知らないなら、祈ります。もし知っているなら、祈る必要はないと考えます。私達は、そのように振舞いがちです。そのような傾向があります。それか、このような頭痛の祈りの格好をします。腕を頭の上に乗せて、まるで頭痛を持っているかのような格好を取って、祈ろうとします。でも、それは祈りの格好をしているだけで、祈りではありません笑。それか、もし誰かがここで前まで来て、膝を突いて、これが祈りの姿勢です、と言っても、それは教会でしか使えないでしょう。また、もし、私が、「あなたは神の義が必要です。」と言うと、私達なら、何のことを言っているか理解できると思います。でも、路上にいる人々は、何を意味するか知りません。私達が出て行って、「そうです。イエスは義です。」と言っても、人々は、「義ねぇ、義!って何?」などと言うと思います。彼らは、教会が使っているのと全く違った言葉の概念を持っています。
まず第一に、私達が教会でする必要のあることは、教会用語を、誰でも理解することのできる日常の言葉に変えることです。でも、問題は、そうする時、教会に再び戻ると、「あの人は聖書的なことばを使っていない」と思われます。私は、普段、クリスチャンに教える時には、聖書を読み上げて、必要ならヘブル語やギリシア語で言葉の意味や定義を調べます。でも、路上の人や未信者と話す時には、私は「救い」や「義」といった言葉は使いません。彼らは、それらの言葉が、どのようなことを意味するか知らないからです。もし、その意味を知っていたとしても、大抵は、間違った意味で、教えられているからです。ここで私の言いたいことは、軍隊のように考えることです。必要のないものは、すべて捨て去ることです。兵士は、着飾って、戦場に行くことはしません。軽量で歩き周ります。宗教的な、必要のないものを捨て去る必要があります。
外に出て行って祈る時には、祈る人の最低人数を、あらかじめ設定するなど、目標を立ててください。目標を作ることは良いことです。「私は、これだけの人数の人の癒しの為に今日は祈る。」というように決めて、祈りに行くことは間違ったことではありません。始めのうちは、そのように目標を定める必要があるかもしれませんが、そのようにする必要も次第に減っていき、それは自然なものとなります。癒しのために祈ることは習慣となります。
ある人は、「でも、癒しを習慣のように、無意識でするのなら、それは正しいことですか?」と訊きます。その質問をすること自体が問題です。その人は、人々を助けることよりも、自分の報酬のことを考えています。パウロは、このように言いました、「たとえ私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と言います。(Iコリント13:3)でも、それは彼から与えられた人々には役に立ちますよね?私達は、物事を正しい動機でも、間違った動機でも、することができます。どちらにしても、人々は助けを得ることができます。パウロは、「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。…すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたでキリストが宣べ伝えられています。」(ピリピ1:15-18)そうですよね?私達は、いつも、「でも、私は、どのようにするかの導きもないし、動機も正しいか分かりません。」と言います。しかし、私は、あなたの動機が正しいか、正しくないかを見分けることができます。あなたが、動機が正しいか、そうでないか考えていること自体が、その動機は正しくない証拠です。何故でしょうか?それは、私達は、自分のことに焦点を置いているからです。私達が、自分のことについて考えている限り、キリスト教の本質の表面すら触っていません。なので、他の人々を助けに行く前に、自分のことについて考えることを止めてください。完璧な者になろうとすることを止めてください。私達は、人々を助けるにつれて、自分も修正されていきます。そうですよね?
私達は、以前に、よくこのように伝えていました。「私達がこの世に生まれた時には、胸に神だけが満たすことのできる、神の大きさの穴を持って生まれてきます。」でも、新生した時には、私達は、新しい穴を持って生まれてきます。それは仕える為の穴です。そして、私達が人々に仕え始めない限り、その穴は満たされません。それが、私達が、いつもあれこれ新しい流行や教えを追い求め続ける理由です。それらのものによって、その穴を満たそうとするからです。一度、私達が、人々に仕え始めれば、私達は満たされます。そして、すべてが変わります。
教会について、いつも面白いなと思うことがあります。それを、私は、いつも逆行した教会と呼びます。何故なら、私達は、いつも、何でも、逆にする傾向があるからです。例えば、私達が伝道しに行く時は、人々を集めて、出て行って、他の人々に言います。「あなたは救いにあずかる必要があります。神との正しい関係を持つ必要があります。心をキリストに明け渡してください。彼は、あなたの人生を変えてくれます。彼は、あなたを救ってくれます。」そして、大抵、彼らは答えます。「でも、私は、その前に自分の人生を正さなければいけません。キリストのもとに来る前に、それをきれいにしなければいけません。私は、準備ができていません。」それを聞く時に、私達は心の中で言います。「違います。あなたは分かっていません。あなたは、イエスのもとに来る為に、自分自身を正しく直すことはできません。イエスのもとに来ることによって、あなたは正しくされるんです。」そうですよね?それで、例えば、その人を説得して、教会に導いたとします。彼が悔い改めて、教会に来始めたとします。そして、彼らは、教会に座っています。彼らは、説得させられたとしても、ある時点で言うでしょう。「私の人生には、多くの問題がありすぎて、メチャクチャです。」それで、こう答えるでしょう。「違います。あなたは分かっていません。あなたは自分自身を直すことはできません。すべては恵みによります、行いによるのではありません。もし、あなたが、自分で自分を修正できるなら、キリストは必要ありません。なので、すべて恵みです。絶対的な恵みです。ただ神のあわれみに身を投げてください。」そうですよね?そのように私達は、いつも言いませんか?人生を変える必要があります。
それで、彼らは教会に行きます。こうして彼らを説得します。彼らは悔い改めて、そして、教会に来て2から3週間位経ったとします。そこで、ある牧師が来て、癒しについて教えたとします。そして言いました。「神は癒します。癒しは贖いの中に含まれています。彼は、あなたを癒したいと思っています。彼は、あなたを自由にしたいと思っています。もし、癒されたいなら、ここに並んでください。」そして、その3週間前に救われて、教会に通い出した男の人は、まだ人生には問題や悪い癖があるとします。彼は、それをやめようとしているのに、やめることができないでいます。なので、終に、彼は立ち上がって言います。「私は、身体的な問題があります。それから癒されたいです。」そして、列に並んで前まで来ます。そして、その牧師は、彼に訊きます。「何が問題ですか?」彼は答えます。「私は、この問題があります。それから、こんな問題もあります。」それから牧師は言います。「わかりました。」そしてチェックリストを見て言います。「あなたは救われていますか?」(男の人)「はい」(牧師)「あなたは聖霊のバプテスマを受けていますか?」 (男の人)「はい」(牧師)「分かりました。じゃあ、あなたの生活の中で罪はありますか?」 (男の人)「はい、もちろんありますよ。」それを聞いて牧師は言います。「何ですか?罪があるんですか?汚れた人ですね。席に戻りなさい。あなたの生活の中の罪を取り除くまで、あなたは癒されません。」こんな感じてはないですか?
考えてみてください。道端にいる時には、すべては恵みであり。彼らを教会に導いた後には、すべてが行いです。いつも、私達は、聖書とは違ったやり方をしてしまっていることが分かりますか?私達は、すべてを逆にしています。それなら、その人は、罪人として路上にいた方がましです。何故なら、そうしたら、少なくとも、神が、その人にあわれみをかけて彼を癒し、彼は良い神であることを示すかもしれません。違いますか?でも、彼らを、一旦教会に導くと、次のように考える傾向があります。「ようこそ。でも、あなたが、教会の扉を超えて入ったら、もし、あなたが救われているなら、私達が定めた基準に従って生きなければいけません。」そして、彼らが弟子になることができるように助けることをしません。
いいですか。理解してください。聖化について話す時には、私達は、一貫して罪から離れることについて話します。初代教会は、明確な聖化の教えをしていましたが、最近では、そのような教えから逸れてきました。初期の教会時代の頃には、聖化とは一瞬にして罪に死んで、罪は、私達に対して何のコントロールもなくなることでした。誘惑が無くなるわけではありません。何故なら、誘惑はやって来るからです。でも、私達は、誘惑には自分を明け渡しません。時には、戦いは、自分を罪や誘惑に明け渡さないことです。自分を明け渡して、それから、また罪や誘惑から抜け出そうとすることではありません。それが大半の教会が教えてきたことです。聖化の定義は、そのようなものであるべきではありません。今日の間違った聖化の定義は、次のようなものになってしまいました。「もし、私達が救われたら、罪を犯すことがだんだん減っていくべきです。」聖化をそのように定義するべきではありません。その定義に沿って歩むべきではありません。私達は、罪に対して死んで、そして、誘惑による煩いは減っていきます。私達は、このような定義の聖化に従って歩んでいくべきです。誘惑がなくなると言っているのではなく、誘惑との戦いが減っていくという事です。分かりますか?それが聖化です。それはヨルダン川を渡ったイスラエル人達のようです。神は、何故、彼らにその川を過ぎて進み続けるように言ったのか分かりますか?それは、彼らがヨルダン川に近くいる限りは、彼らは、エジプトに戻る機会があったからです。私達の問題は、ヨルダン川を渡って約束の地に来たのに、その約束の地に入ろうとしないことです。川の周りにとどまって、機会があるごとに、エジプトに戻ろうとすることです。何故なら、ヨルダン川に戻ってくれば、再び洗われて、きよめられて、赦されることを知っているからです。このように罪に対して、様々な意見や見方が教えられています。でも罪は束縛であって、人を殺すものだと理解する必要があります。
あなたは、それが癒しと何の関係があるのだろうか、と考えているかもしれません。今話していることは、癒しと関係しています。先ず、もう説明したように、私達は、神に用いられる前に完璧になる必要はありません。でも、言わせてください。私達は、神に用いられていながら、同時に、罪を犯し続けたくはないはずです。私の伝えたいことが分かりますか?間違えを犯すことについてではなくて、罪を犯して生き続けながら、神に用いられ続けることについてです。何故なら、神の御前に立った時には、言い訳はできないからです。実際に、私は、ある人に言われたことがあります。私は、彼の教会にいました。彼は、日曜日の朝に、私が彼の教会で説教をするように私を招待しました。そして、その礼拝の後に、彼は言いました。「昼食を食べに行きましょう。」それから、トラックに乗って出発しました。その途中で、彼は言いました。「私は、あなたと話したかったので、昼食に誘いました。」そして、続けて言いました。「兄弟、シェアしたいことがあります。警告したいことがあります。私は、まだあなたのうちには見られませんが、いつも高ぶりに陥らないように注意していてください。」それを聞いて、私は思いました。「わかったけれど、本当に私のメッセージを聞きましたか?何故なら、そのメッセージは、高ぶりに導くものではないからです。私は来て、誰でも私のしていることをすることができる、と伝えました。」昔のメッセージは、ある人は油注ぎを受けていて、他の人はその油を注がれた人がしていることはできないというものでした。そのようなメッセージは人々を高ぶりに導きます。それは、その人を高く上げるからです。私の伝えるメッセージは、人を高ぶらせるようなものではありません。誰でも、私のしていることができるというのに、何で、それは高ぶりに導くでしょうか?違いますか?私がこの教壇に立ってしていることは私に任された仕事です。いいですか。何も誇ることはありません。ただ私の仕事をしているだけです。なので、彼の言ったことは、私の頭に残りました。彼はこう言いました。「いいですか。私達は、あなたの名前をよく聞きます。いろいろなことを聞きます。高ぶりに陥ることは簡単です。私は知っています。何故なら、以前は、神は、私を大きく用いていました、でも、高ぶりに陥ってしまいました。」私は、彼に訊きました。「どのようなメッセージを、あなたは宣べ伝えていたのですか?その時にはどのような状況にあったのですか?」そしたら、実際にはその当時には、彼はいくつかの問題を抱えていて、彼のメッセージは、簡単に高ぶりに陥るようなものでした。
たとえ神が、私達を用いても、それは何も特別なことではありません。神が私達を用いるからといって、私達が特別なのでは全くありません。それは、私達が正しいことを証明することでもありません。そうですよね。神は、私達を、死人を生き返らせるために用いるかもしれません。でも、それは正しい教えを信じているからでもありません。私は、ある教会で、とてもおかしな教えを信じている人々を通して、神がいくつかの奇蹟を行ったことを知っています。彼らは救われていたのでしょうか?それは分かりません。そう望みますが。私は、彼らをさばく者ではありません。なので、神が私達を用いるからといって、私達の教えが正しいわけではありません。一番重要なことは、私達の語っていることが、聖書と一致していることです。何故なら、もし奇蹟としるしのみに従うなら、私達は、霊的に力を持っている人々に、簡単に惑わされてしまいます。それが、私達は聞いたことを、すべて聖書に従って試さなければならない理由です。そうですよね。もし、私達が語っていることが、みことばに沿っているのなら、神の力も、そのみことばを証明する為に働くはずです。聖書は、終わりの時には、惑わす霊と悪霊の教えなどにより、偽のしるしや奇跡が行われると言っています。(1テモテ4:1,マルコ13:22)
イエス自信が言いました。「主よ、主よ、というすべての人達が天の御国に入るのではありません。」彼は、続けて言います。「その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追いだし、奇蹟を行ったではありませんか?」そして、彼は言いました。「わたしから離れていけ、わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。」(マタイ7:22-23)今日、癒しを信じない人達は言います。「この聖書箇所を見てください。もし、あなたがしるしや奇蹟を行っているなら、イエスは、そのような人達のことを言っています。」違います。それは、そのような人々について言っているのではありません。どういう意味かというと、やがてしるしや奇蹟は、教会の中で一般的に行われるようになるので、信じる者が癒しを行うのは、当たり前のことになります。そして、教会の中で、しるしや奇蹟が起きていても、彼らは、まだ罪を犯し続けているということが、頻繁に起こってくるということです。いいですか。ある人々は言います。「でも、聖書は、彼らが実際に、しるしや奇蹟を行ったとは言っていません。ただ彼らがそう言ったと書いてあるだけです。」でも、イエスは、彼らが実際に、それらのしるしや奇跡を行わなかった、とは言いませんでした。私は、人々は、神の御前で堂々と嘘をつくとは思いません。私は、すべてが明らかにされると思います。すべてがはっきりすると思います。「でも、私は、彼は、彼女はこう言った、と思いました。」というような言い訳はなくなります。「このようなことが起きました。」というように明確になると思います。
とにかく、神は私達を用いるということです。神はユダも用いました。聖書には、イエスは12弟子達を遣わし、彼らは帰って来て、言いました。「主よ。悪霊たちでさえ、あなたの御名によって私達に従います。」(ルカ10:17)イエスは、ある時言いました。ユダは、始めから悪魔だと。(ヨハネ6:70)そうですよね。なので、ユダは、そのような問題を、いつも抱えていました。そして、終には、敵が彼に入りました。明らかに、ここでの教えは、人は正しくなくても、神に用いられることはある、ということです。そうですよね。何故でしょうか?それは、神は、人々を愛しているからです。神が、私達を用いるからといって、それは私達が正しいという意味ではありません。それはただ 私達がそこにいて、人を助けることができる状況にあったというだけです。なので、どうして私達は、高慢になったり、高ぶったりしましょうか、ただ自分の仕事をしましょう。
私達は、たくさんの人々を目にします。彼らは、国中を駆け巡って言います、「私は使徒だ、私は預言者だ、私は何々だ。」すばらしいことです。でも、実は、そこにはあるでしょうか。何故なら、もし、実がそこにあるなら、大抵の場合は、自分でそのようなことは言う必要はないからです。自然と人々が、そのような人達について語ります。そのようであるべきです。しかし、そのように自称して駆け巡っている人達もいますが、もし、私達が本当に聖書を読んで、使徒とは、どのようなものであるかを理解するなら、多くの人達が、使徒であると主張することはないと思います。何故なら、パウロは、使徒であることの資格がどのようなものであるかを書きました。それは、海上の難、飢え乾きなど、いつもすべてが簡単だったわけではありません。(2コリント11:23-27)盗賊の難など、様々なことを経験しました。なのに、今では使徒であることの資格は、町でも高級車を持っていることや、いい家や、大きな家や、広い教会のネットワークなどを持っているというようなものです。それらが、彼らが使徒であるかを決める要因になってしまっています。それは聖書的なものではありません。使徒は、しもべのかしらでした。彼は、聖徒達を整えて、まとめるような人でした。そして、彼は、自分に注目を集めるのではなく、キリストのからだを建て上げようとしました。
なので、私達は、このことの核心に戻る必要があります。ある人は言うかもしれません。「これは、癒しと何の関係があるのですか?」それは考え方です。何故なら、一旦、私達が、もっと多くの人達を助けることができると気が付くと、人々は、信じる者としての基礎も満たさないで、使徒や預言者になろうとするからです。それはまるで、私は、ここの市民ではありませんが、アメリカ合衆国の大統領になりたいです、と言うようなものです。それは問題ですよね。戻って、先ず、最初にしなければいけないことをしてください。そうしたら、次に、大統領になるのを見ることができるかもしれません。そうですよね。信じる者のようにすら行動していないのに、使徒になりたがるような人達がいます。何故なら、信じる者は、病人に手を置けば癒されます、悪霊を追い出します、死人を生き返らせます、福音を宣べ伝えます、異言で語ります、毒を飲んでも害を受けません。(マルコ16:15-18)このように、様々なことがあります。でも、人々は、これらのことをしたことがないのに、彼らの下には使徒的なネットワークや教会などを持っています。でも、彼らは、それらの信じる者の基本的な働きさえしていません。使徒になることなど後回しにしてください。なので、私達は、基礎的なことに戻る必要があります。まず基礎を学んでください。神は、すべての人達が、一から学び訓練を受けることができる基礎訓練キャンプがあったらいいと考えると思いませんか?それは、例えば、もし誰かが救われたら、私達は、その人を基礎訓練キャンプに送る必要があります。そして、そこでの8週間位の訓練を終えたら、卒業して、ここに戻ってくるというようなものです。
信じてください。初代教会の時代は、教会は、今とは同じではありませんでした。教会が始まった頃は、人々は、ただ教会にやって来ると言うものではありませんでした。何故かというと、教会は、すべて隠れていたからです。人々は、何処で彼らが集まっているか知りませんでした。彼らは、家々で集まっていました。その頃は、もし新しい町に行って、あなたがクリスチャンなら、ただ市場に行って、歩き回って、「すみません。教会の集会は何処でありますか?今夜は何処で集まりますか?」とは訊きません。何故なら、彼らは、集会の場所などは知らなかったからです。その人は、サウルのために働いているかもしれないと思ったかもしれません。もしからしたら、自分たちを見つけ出して、牢獄に入れようとしているのだと思ったかもしれません。教会の扉には、「ようこそ。誰でも歓迎します。」というような看板は掛けてありません。彼らは、市場に棒を持って立って、地面に魚を書きます。そうして、誰かが側を通って、それに気が付いて、言います。「あなたはクリスチャンですね。魚を見ました。あなたは誰ですか?」それで、あなたは言います。「私はある町から来た信じる者です。この町にはビジネスで数日滞在するのですが、ここの聖徒達と交わりたいと思っています。」彼は言います。「わかりました。じゃあ、今日の午後にここで会いましょう。集まりは今夜7時からです。私達は6時にここで会って、それから集会に行きます。」それで、6時に彼らと会ったとします。そして、あなたは訊きます。「じゃあ今から何処に行くのですか?今夜は何処で集まるのですか?」彼らは言います。「まだそこに直接は行きません。」これは実際に起こっていたことです。初代教会の人達が書き残した、彼らの間で読まれていた、ハーマスの羊飼いという本に書いてあります。それは聖書ではありませんが、その当時に何が行われていたかについての記録です。それはアーチコの巻物の一部です。それも聖書ではありませんが、それは様々なところからの情報が集められたものです。集まる前には、彼らはよく言いました。「じゃあ、今から教会に行きますが、でもその前に、病気の人が祈りのために私達を呼んだのでその人のところに行きます。私達は、そこにまず行きます。」そして、彼らがそこに着いた時には、彼らは言います。「こんにちは、私達は誰々です。こちらはある町から来た信じる者です。彼があなたのために祈ります。」そして、もしその人が癒されたら、あなたは教会に行けます。でも、その人が癒されなかったなら、あなたは信じる者ではありません。なので、教会には行けません。
想像してみてください。扉の所に病人達を並べて、人々は入ってくる前に、病人のために祈らなければいけません。そして、もし、その人が癒されれば信じる者であることが証明されます。でも、もしそうでないなら、その人はスパイです。それを想像してみてください。これで、何故、初代教会が、あのようなものであったかが分かると思います。じゃあ、何で中国の地下の教会がとても強いか、知っていますか?悪魔は知っています。教会を和らげて弱くする一番の方法は迫害を取り除くことです。迫害を取り除けば、教会は弱くなります。迫害の中では、教会は結束して、強くなります。
また、この話を聞いたことがあると思います。正確には、どのようなものだったかを思い出そうとしているのですが、いくつかの似た話を聞いたことがあると思います。確か、あれはロシアだったと思います。そうです。ロシアでした。彼らが集まったとき、彼らは、教会の集会を行っていました。牧師が、その地下教会でメッセージをし始めると、2人の軍服を着て、銃を持った、兵士が入ってきました。そして、そこにいる人達に言いました。「全員壁に背を向けて並べ。お前達は選択することができる。もし、クリスチャンでないなら、今去ることができる。でも、クリスチャンなら壁に沿って並べ。」そこで、何人かは立ち上がって、その場を去って、何人かは壁に背を向けて並びました。彼らが壁に向かって並び終えると、終に、その兵士達は帽子を取って、銃を置いて言いました。「よし。牧師先生、すべての不信者は去りました。やっと説教をすることができます。」
これについて想像してみてください。その時に、誰がキリストを信じる者か否定する者か、はっきりしました。想像してみてください。私達は、このようなことについてはよく話しますが、実際に、このような概念は持っていません。私は、政治と宗教を混ぜることには反対です。何故なら、そのようなことをするたびに、国家社会主義や、そのようなものに行き着きます。でも、軍人精神を教会に取り入れることには賛成です。何故なら、キリスト教の基礎は、自制だからです。私達は、弟子と呼ばれます。もし、私達が自制を持っていないなら、弟子ではありません。弟子(Disciple)という言葉は、自制(Discipline)という言葉が源になっています。どれくらいの自制が必要なのかは、議論次第ですが、でも強調したいことは、ある時点で、私達は、自分の信じていることに従って生き始める決心をしなければいけません。ただ教会に行って、「でも私達は信じます。私達は、病人に手を置くことを信じます。」と口で言うだけでは十分ではありません。(質問)「じゃあ、いつ病人に手を置きましたか?」その人は言います。(答え)「私達は、先週しました。」(質問)「私達とはどういう意味ですか?」(答え)「私は教会にいて、長老達が祈りに行きました。」そうですか。もし、あなたがしていないのなら、あなたはしていません。いいですか。私達は、集団の利益を、自分のものとすることはできません。ある人は言うでしょう。「私達の教会がしたから、私もしました。」それは違います。もし、あなたがしていないなら、あなたはしていません。アーメン?ですので、信じる者になってください。病人に手を置いてください。私達の手は、誰かに触れなければいけません。私達は、人々のところに行く必要があります。私達は、人々を助ける必要があります。