神癒技術者訓練 – セッション6

神癒技術者訓練 – セッション6
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

セッション6

このセッションを次の質問に答えることから始めます。「どのようにして癒しを保ちますか?」第一に、例えば、健康だったけれど、病気になったとします。これは癒しを失ったのではなく、健康を失いました。それは健康だったのに、病気になったからです。それで、祈ってもらって良くなったとします。あなたは癒されました。それから、また病気になったとしたら、それは「癒しを失った」と言うかもしれませんが、それは健康を失ったということです。大抵、私達は同じ病気が戻ってきたときには、「癒しを失う」と言いますが、それは、同じ病気が再び戻ってくることを意味します。でも、私はそれが実際に起きていることなのかと疑います。それが同じ名前の病気でもです。

例えば、通りを歩いていて、ギャングの集団を見つけたとします。彼らの中には異なった階級があります。親分がいて、その弟子達がいます。最初の日には、歩いていくと、親分が飛び掛ってきて、あなたを叩きのめします。一週間待って、回復してから、また戻ったとしたら、今度は、親分の補佐役が来て、あなたに殴りかかります。このように、あなたは同じように健康を失いますが、あなたを襲った人は違う人達です。同じギャングの集団からでも、違う人が襲い掛かってきます。

例えば、癌を持っていたとします。そして、祈ってもらって、癒されました。多くの場合には、別の種類の癌がからだの別の部分にやって来ます。人々は言います。「見てください。癒しを失いました。癌が戻ってきました。」私は確信しています。多くの人達を扱ってきたからです。それは違う癌です。それは違う悪霊とも言えます。私の言っている意味が分かりますか?

時には私達の集会にやって来る30%位が医療関係の人達です。看護師や、医師達や、ヘルスケアワーカーなどです。それは私の個人的な意見と思うかもしれませんが、多くの場合には、医療関係で働いている人達が癒しの集会に行く理由は、彼らは霊的な召しを、人間的な方法によって成就しようとしている、と思います。もしあなたが医療関係の職についているなら、あなたは癒しへの傾向があるかもしれません。あなたは生まれつきの賜物や病人を癒す傾向があるかもしれません。

私が9歳から12歳の子供だった時に、航空軍医として、アメリカ空軍に行くと確信していました。そのように医療関係で働くつもりでした。最終的には、空軍の護衛隊として、法執行の専門家になりました。それから、パラシュート救助隊になり、それから神は私に言いました。「違います。私はあなたにこれをしてほしいです。」そして私はその道を選びました。

多く場合私達は神が霊において約束してくれたことを人間的な方法で成就しようとすると思います。それはまるでアブラハムに起きたことと同じです。私達はイシュマエルを生もうとします。人々が医療関係で働く時に、彼らはその知識を使って人々を助けることができます。でも、最終的にはそれはイシュマエルになります。その知識はかえって彼らを苦しめることになります。何故なら、彼らは生物学や物理学について知りすぎているからです。

ある特定のことについて話すときには、言い方に注意して話さなければいけませんが、例えば、あなたは医師が化学物質の不安定によって起きる病気を持っているとします。例えば、躁鬱病だとします。私は、躁鬱病などの病気に関しては気を配ろうとしていますが、でも躁鬱病を持っていても、癒すことはできるので、心配しないでください。

医師達は躁鬱病は脳の化学物質の不安定によって引き起こされると言います。そして、ある一方の脳が正しい化学物質を作らなかったり、正しい量を作らないという理由です。彼らはそれが原因だと言いますが、私はそれを足跡だと言います。いいですか?それは原因ではなく、足跡です。もしある人が統合失調症だとすると、医師は彼らに薬を与えます。でも、その薬は統合失調症を治すことはしません。ただコントロールするだけです。では、どのようにしてコントロールするのでしょうか?大抵は、それらの薬がどのように働くかというと、(これは専門的な定義ではありませんが、理解できると思います。)その薬はその病気に影響されているからだの部分を麻痺させます。その問題を引き起こしている部分を麻痺させます。彼らはその問題を起こしている部分を麻痺させる薬を与えます。そのからだの部分は正常に機能ができなくなります。

このように、化学物質の不安定自体はその問題の原因ではありません。化学物質の不安定自体は問題がそこにあるという証拠です。例えば、もしあなたが躁鬱病を持っているとしたら、あなたは気分が時にはいいですが、ある時には悪くなります。もしそれが本当に医学的な問題なら、症状はいつも一定であるはすです。それは来たり、去ったりするべきではありません。でも、多くの人達は考えます。「そうですね。この病気は来たり去ったりします。」それは違います。それは私達が決めた定義です。その来たり去ったりするのは、悪霊です。それがその問題を引き起こします。化学物質の不安定はその問題自体を引き起こしはしません。それは悪霊がそこにいる時に、その正しい量の化学物質を作り出すからだの部分をめちゃくちゃにして残した足跡です。糖尿病も似たようなものです。

これが悪魔のすることです。悪魔は私達の弱さを利用します。例えば、糖尿病のような栄養不足です。糖尿病はある程度栄養の問題によって引き起こされる病気でもあります。さまざまな度合いがあります。初期段階から始まる、いわゆる医師の言う遺伝性のものです。でも多くの人達は栄養摂取の問題によってからだを壊します。もし私達がからだのうちに多くの糖分を持っているなら、私達の体はインスリンやグルコースといった形での糖分をつくることをやめます。その度合いもまちまちです。何が起きるかというと、からだのうちで作られるものが、からだの外から摂取されると、からだはそれを作る量を少なくすることによって、調整します。それを摂取し続けると、からだはそれを作ることをやめます。何故なら、体は言うからです。「あなたがそれを摂取し続けるので、私はそれを作り出すのをやめます。」こうして、免疫システムに弱い所を作ってしまいます。ここで、敵である悪魔はこの弱みを利用して、そこから病気を引き起こそうとします。全く同じような食事療法をしても、病気にならない人達を見つけることができます。もしその病気がその食事療法によって引き起こされるのなら、そのようなすべての人達が病気になるはずです。これは論理的です。

私達には3つの免疫力があります。人は感情的な免疫力、身体的な免疫力、霊的な免疫力を持っています。強い身体的な免疫力を持っている人は病気になりにくいですが、それでも時には病気にかかることがあります。でも、強い身体的な免疫力と弱い感情的な免疫力を持つこともできます。そして、時が経つにつれて、その弱い感情的な免疫力は身体的な免疫力を弱めていきます。なので、そのような人はしばらくは多くのストレスに耐えることができ、身体的には強くあることができますが、しかし時間が経つにつれて、からだは病気になっていきます。何故なら、階級的には感情的な(たましいの領域の)免疫力は身体的な免疫力よりも上だからです。又、私達が強い身体的な、感情的な免疫力を持っていても、弱い霊的な免疫を持っているなら、まだ病気になります。

オーラルロバート大学のピーターソン氏はある調査をしました。それはウェブサイトにものっていると思います。彼は異言で祈る人々の免疫力を調査し始めました。彼は異言で毎日30分祈る人の身体的な免疫力は通常時よりも30%上昇することを発見しました。もし、30分で30%上昇するのなら、毎日100分異言で祈れば100%上昇するのではないかと思います。

このよう免疫力には階級があります。何故でしょうか?何故、霊的な免疫システムはそこまで重要なのでしょうか?それは霊は階級的に上だからです。霊、たましい、からだの順です。なので、弱い身体的な免疫力を持っていても、強い霊的な免疫力を持っているなら、病気にはなりません。何故なら、霊がからだを所有しているからです。このように階級があります。

敵はさまざまな病気を用いて、私達の弱点を通して攻撃してきます。自分の弱点を作る時、敵はそれを踏み台にします。敵はその踏み台を通して攻撃し始めます。ある人々は、「でも私は悪魔に扉に開いたので、彼は私を攻撃する権利があります」と言います。これについて考えて見ましょう。まず第一に、私達は2種類の人を扱っています。クリスチャンとノンクリスチャンです。私はどちらであるかは尋ねません。たとえ、その人が私の癒しの列に並んでも、どちらであるかは尋ねません。何故なら、その人が真理を私に話すかは分からないからです。その人の生活を見るなら、どちらであるかが分かります。その人の実を見るからです。その実が証明します。その人のことばは信じません。

鍛えられた強い霊的な免疫力を持っている人は大抵何でもしなければならないことをしても、それは身体的に影響はしません。でもずっとそのような状態でいることができると言っているのではないです。サムラル氏は、肉的な領域からではなく、霊の領域から活動できるように教えました。牧師達は大半の場合、肉的に、良くても、たましいの領域から活動します。それが彼らが牧会をしていて燃え尽きる理由です。彼らは霊ではなく、たましいやからだの領域から活動します。私達が霊の領域から活動する時、毎日遅く寝て、早起きしても負担にはならずに多くの仕事を成し遂げることができます。年齢は関係ありません。サムラル氏は83歳でしたが、20歳の人をスタミナで負かすことができました。それはサムラル氏は肉的な領域からではなく、霊の領域から活動していたからです。彼は長い時間働き続けることができました。ろくに食べなくても、彼には影響しませんでした。サムラル氏がこのようなことができたのは、霊の領域から活動する方法を修得からです。それゆえ、彼は、何も彼を傷つけることができない領域に達しました。

霊の領域から活動すればするほど、私達に悪影響を及ぼすことができるものは少なくなります。霊の領域から活動すればするほど、私達のうちの霊は強く働きます。私達は、考え方を一新しなければいけません。それによって、霊はすべての領域で働き、五感で感じる外の状況が私達のうちで信じていることに一致するように変わっていきます。このようにすればするほど、私達に悪影響を及ぼすことができるものは少なくなり、「悪い者は私に触れることはできません。」と言えるようになります。(ヨハネ14:30)罪やその他の悪いものすべてが、です。霊の領域から活動することを修得してください。これを知らないので多くの牧師達は疲れ果てて、少し運転しただけでも、すぐに苛立ってしまいます。霊の領域から活動すれば、何でもしなければいけないことをすることができます。

サムラル氏は始めから常に霊の領域から活動することを教えていました。鍛えれば、霊の領域から活動することができ、肉に従ってはなく、霊にあって歩むことができます。ここで私達が霊の領域でしていることは、軍隊が肉的な領域でしていることと同等のことです。私達はうちにいる霊から始めて、外に向かって訓練していきます。軍隊は肉体から始めて、内に向かって訓練していきます。軍は訓練生を身体的にも、精神的にも追いやります。そして、ある(身体的にも、精神的にも)極限の時点まで追いやります。彼らはその時点で身体的から霊的に切り替わります。

人々は「でもそれは軍隊の例であって、霊的ではないでしょう」と言います。すべてが霊的です。すべての人は霊的です。私は霊の力によってさまざまなことを行うことができる人々を知っています。例えば、シャックオー二―ルがバスケットボールをするときに何が起こると思いますか?彼のプレイは霊的です。何故でしょうか?それは「ゾーン」と呼ばれます。そして、その「ゾーン」に彼が入ると、すべてのシュートが決まります。その領域に入ると、失敗をすることができません。すべてのシュートが決まります。その領域、または、ゾーンとは実際には何でしょうか?それは「霊のうちにいること」です。クリスチャンとしての私達とそうでない人の違いは、私達はイエスの御名によって、霊的領域に踏み入る権利があるということです。誰でもイエスという扉をとおして霊的領域に入る者は合法です。もしあなたが、イエス以外の窓や他の手段で霊的領域に入るなら、それは違法です。この世のアスリートや軍隊の人々は、イエスの御名や血によってではなく、それ以外の手段で非合法に霊的領域に入り込もうとします。魔女はタロットカードや魔術や麻薬やさまざまな非合法な手段を使って霊的な領域に入り込みます。そのような手段は本当に私達を霊的な領域に引き入れると思いますか?そうです。しかし、それらは非合法な手段です。クリスチャンだけが合法的に霊的な領域で働く権利があります。分かりましたか?

では、霊的領域に入ることがどうやって起こるのかを説明しましょう。子供の時に靴の紐を結ぼうとしていた時のことを覚えていますか?うまく結んだと思っても、数分後にはすぐ紐はほどけてしまいます。どのように靴紐を結んだらいいかを知らなかったからです。でも、今では意識して靴紐を結ぶ必要はありません。今は紐が解けないようにどれくらいきつく結べばよいかも知っていて、話しながらでも靴紐を結ぶことができます。何故でしょうか?それはその動作は意識を通り越したからです。それは霊的です。その動作は完全に無意識によるものです。ある人は「その人は無意識にできる能力を得たのだ」と言います。そうではないです。私達は訓練することのできるからだを持っています。訓練することのできるたましいを持っています。また訓練することのできる霊を持っています。細かく言うと、霊が私達を訓練します。私達はからだと考えを霊に従って訓練する必要があります。

軍隊も同じ事をします。レンジャー部隊や海軍やネイビーシールズなど他の特殊部隊の訓練は驚くべきものです。軍は彼らをウェイトルームなどに入れ筋肉など身体をトレーニングさせます。しかし、軍の目的は身体的なトレーニングではありません。その目的は身体的にも、精神的にも、負荷をかけて、身体的にも、精神的にもその人を完全に壊すことです。それが海軍などが彼らに告げることです。軍は「私達はあなた達を建て上げることができるようになるために、まずあなた達を壊します」と伝えます。彼らは何をしようとしているのでしょうか?彼らは私達の失敗を知らしめて、どん底まで落とします。それによって、肉的から、身体的から、自然的から霊的にスイッチを切り替えるように強制します。これが軍隊のすることです。私達は、時には軍の人を指して、「それこそ、強い海兵隊の精神だ。」と言います。その海兵隊の精神とは、彼らのうちの霊のことです。私達は、その精神を壊すことはできません。

軍隊は、その人のうちに目的を達成する為には何でもする能力を鍛え上げます。霊において働く人だけが目的達成の為に何でも行うことができます。肉体的な手段によって霊の領域に入ろうとすることは非合法です。クリスチャンとして私達がなすべきことは、常に霊において働くことができるレベルに到達することです。

私達がそのようなレベルに到達する時、キリストのように歩みます。それはしなければいけないことは何でもすることです。イエスは決して、欠乏を見せなかったし、認めませんでした。イエスは水の上を歩き、奇蹟を行いました、彼はこれらのことを、肉によってではなく、聖霊によって行いました。彼は身体を癒したにも関わらず、目に見える自分のからだのことは気にも留めませんでした。何故なら、イエスはそのように霊において働くべきことを知っていたからです。

からだは私の愛車のようなものです。道具です。その車は私の神ではありません。使い古した後は、新しいものと取り替えます。もちろん自分のからだは大切にします。でも重要なことはそれが私を行く必要のあるところに連れて行くことです。車はただの道具です。

知人の牧師があることを語りました。彼は飛び回ってスピーチをするために、飛行機が必要でした。終に飛行機を手に入れ、彼は神に言いました。「何故飛行機を手に入れるために8年もかかったのですか?」神は彼に答えました。「飛行機をあなたに与えるために8年もかかりませんでした。ただ、飛行機があなたの自分の立場を誇示するものから道具になるまでに8年間かかりました。」これが私達の気が付くべきことです。

お金が神ではなくなったときに、それを道具として使うことができます。お金が同時に神と道具であることは不可能です。お金が道具になると、それを積み上げ蓄積することはしないで、それを道具として使います。ですから、私達にとって、お金も、車も、建物も、そのようなものは何でも道具となる必要があります。その時には、真に重要なものは、人々のたましいとなります。

それはちょうど今していることのようなものです。私達は霊的な戦いについて学んでいます。それに関してはさまざまな教えがあります。実際に、何が一番役に立つか、何が霊的な戦いなのか教えましょう。単純です。もし私達が行っていることが罪を少なくして、霊的なことを増やすなら、私達は霊的な戦いを行っています。もし私達のしていることが私達の生活の中での罪を減らすことをしていないし、霊的なことを増やしていないなら、何か宗教的なゲームかごっこをしているだけです。ある時点で、私達は教会で旗やバナー振って踊ることを止めて、路上に出て行く必要があります。それは人々と話して、彼らとコンタクトしていくことです。霊的な戦いは教会で行われるためのものではありません。私はそれは教会で絶対に起きないといっているのではなく、霊的な戦いは教会だけで起きるものではないということです。これは衝撃的なことかもしれませんが、ある時点で、教会はキリストの兵士を送り出して、家々の扉を回る必要があります。それが町での戦いです。このようなメンタリティを持つ必要があります。

では、大分話がそれましたが、どのように癒しを保つかについてです。現実では、癒しを保つ方法は、癒しを受取る方法と同じです。そして、もし私があなたを癒すことができても、あなたがその癒しを保つことができるくらい十分に強くなかったら、はい、それが癒し失うと呼ばれようが、そのようなことは起きます。基本的には、もし私が悪魔を追い払うことができるなら、私が周りにいる時には、彼は何処かへ逃げます。ちょうど、警察のようなものです。私は、あなたの周りにいる限りは敵を引き止めますが、私がいなくなると、敵は私がいなくなったのを見つけて、あなたのもとに帰ってきます。そうですよね?ですから、ある時点で、私達は、自分自身を守ることができるくらいに強くなる必要があります。敵は、私達が自身や他人さえも守ることのできる武器と知識を持っていることを知る必要があります。

でも、それが第二次世界大戦で起きたことです。誰もが自分自身だけを守りたがりました。ユダヤ人達に起きたことです。彼らは思いました。「誰かが私達を守ってくれるだろう。」でも、敵は彼らを少しずつすり減らして、もう抵抗できないまでにしてしまいました。これが悪魔のやり方です。彼は私達の関係を少しずつ断っていき、私達が彼に対抗する十分な力が無くなるまでにします。

ですから、私の、ここにいる間の仕事は、2つのセッションで「神の癒しの秘訣」を教えていきます。その中では、神の癒しについての鍵を教えていきます。私達が学ばなければいけないことや、どのように歩んでいくかなど、とても単純なことについてです。

まず癒しの一番の秘訣は何か知っていますか?うんざりすることです。うんざりするまで、何も変わりません。我慢をする気がある限り、うんざりはしません。私達は、罪にうんざりしなかった限り、罪からは抜け出しませんでした。そして、病気にうんざりして、それを憎んでいる人のように扱い始めるまでは、病気からは解放されません。私達は病気に向かって話し、私達の望んでいることをするように命令し、病気に対して私達は権威持っていることを知ってください。そのために15つのポイントを見ていきます。それらはとてもシンプルです。(DHTT日本語訳 セッション16参照)

それと同時に、「霊的な力への秘訣」の7つのポイントを教えます。それらは自分だけではなく、他人のために強くなり、その強さに留まり続けることを教えます。第一の鍵は、私達が聞くすべてのことは、私達の口で語られるべきです。それがまず強くなり、強くあり続ける鍵です。異言も重要な鍵ですが、第一の鍵は、聞いたことを、口で語り、シェアし始めることです。

どうして私はこのように神癒技術者訓練を教えることが好きだと思いますか?それは毎回私が教える度に私は強くなるからです。毎回です。私はみことばを語るときに弱くはなりません。強くなります。何故でしょうか?それは語ることは、建て上げることだからです。語ることによって、新しいブロックが積み上げられ、そして、私はより強くなります。

それが私が、この神癒技術者訓練マニュアルを作った理由です。このマニュアルを使う必要はありません。マニュアルがなくても、私は教えることはできます。でも、マニュアルを作った理由は、あなた達が自分達のいるところで集まって、神癒技術者訓練で聞いて学んだことを教える為です。そうすることによって、より強くなり、実際に学んだことを生活の中で真に経験していくことができます。

すべての中で最も重要な鍵は、何度も言っているので疲れてきますが、とても単純なことです。本当に単純なことです。

それは、学んだことを実行することです。多くの場合は、誰も学んだことを行動には移したがりません。この教えを聞いて一番しなければならないことは、学んだことを実行するという決心です。何故なら、その決心をしない限り、何も変わらないからです。もし、その決心をしないなら、私達は聞くだけの人になり、みことばを行う人にはなりません。聖書は、もし私達がみことばを聞くだけの人で、行う人ではないのなら、自分自身を欺くことになると言います。そのような人は、実際は聞くだけの人なのに、自分がみことばを行う人であると思い込みます。(ヤコブ1:22-25)

次の質問です。「ワーシップリーダーも同じ神の癒しの力の原理を癒しについてでない歌を歌っている時にも使うことはできますか?」はい、できます。神は、彼のことばを送って、彼らを癒されたと書いてあります。(詩篇107:20)そうですよね?ですから、癒しはことばにより引き起こされます。すべての種は同じ種類のものを生み出しますが、癒すために癒しについて歌う必要はありません。つまり、私達のことばは、癒しになるという考え方です。

私が今知っていることを学ぶ前は、癒しを教えていました。癒しの教議を理解し、それを教えていました。あるアッセンブリーズオブゴッドの教会で癒しの教義を教えていて、いくらかの結果を出していました。でも、その後に、ある時点で、癒しを教えるというよりも、私自身癒しと一体になりました。そのある時点とは、私が神の心を真に理解した時でした。よく「愛は多くの罪を覆う」と言います。(1ペテロ4:8)私達はただそれらのことばを語るだけでなく、実際に信じなければなりません。

大半の人は間違いを犯すことを恐れるので何もしようとはしません。でも何もしないことが一番の間違いです。よく「神はその状況を変えることができます」と言います。又、「悪魔が悪の為に作った状況も、神は神の栄光の為の状況に変えることができる」とさえ言います。よく「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)と言います。でも、残りの節を引用しません。すべてのことが働いて益とはなりません。何故なら、聖書は「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。」と言っています。これより、神を愛さないで、神のご計画に従って召されていない人々のためには、すべてのことは働いて益にならないことが分かります。そうですよね?そうでなければ、神は聖書に書いてあるような条件を付けませんでした。

私達が悟らなければならないことは、あるみことばには条件が伴なうと言うことです。でも、多くの人は起こることはすべて神の御心であるというアウグスティン的な神の主権の考えを持っています。それは真実ではありません。もしそれが真実なら、イエスが「あなたの御心が天でも行われるように地上でも行われますようにと祈るように」と教える必要はなかったでしょう。(マタイ6:10)もし神の御心がいつも成されるのなら、そのようにいちいち祈る必要はありません。聖書には神はひとりの人でも滅ぶことを望まず、すべての人が救われることを望んでいると書いてあります。(IIペテロ3:9、1テモテ2:4)今日、多くの人々は死に、地獄に向かっていますか?もしそれが本当なら、神の御心はいつも達成されていません。それならいつ神の御心は成されるのでしょうか?それは私達がそれを行う時です。事実、イエス自身が、「私が来たのは、私を遣わした方の御心を行うためである」と言いました。(ヨハネ6:38)でも、イエスは何をしましたか?彼は巡り歩いて、物事をあるべき状態に修復しました。それは、神様の御心が人の救いであったのに、イエスが修復していたことは神の御心ではなかったということです。そうですよね?それではイエスは何をしましたか?彼は、物事をあるべき秩序に戻していました。

イエスが行ったすべてのことは、アダムや私達がもし堕落していなかったなら、本来しているべきことでした。何故なら、すべての被造物は正常な状態から外れてしまったからです。(ローマ8:20-22)

今私達がしなければいけないことはすべての被造物を再び正常な状態に戻すことです。そして、私達にはキリストにおいてそれをする力と能力が与えられました。私達のする必要があることは、何が神の御心で、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知ることです。その為には、考えを一新する必要があります。(ローマ12:2)

私が引用したすべての聖書箇所について考えてみてください、それらを自分で調べて、勉強してください。私はこれらの聖書箇所を文脈に沿って説明しようとしています。でも、多くの場合、聖書箇所は文脈に沿っては理解されていません。私は聖書のことばの意味を変えることはしてはいません。でもその結果多くの神学を壊すことはしています。

何故なら、神のことばは自由のためにあるからです。なぜか私達は、神は私達に敵対していて、善が起きることを引き止めていると考えます。そして、それが神の御心だと考えます。そうではなく、神の御心が成されていないのは私達がそれを行っていないからです。私達は私達を遣わした方のわざを行わなければなりません。(ヨハネ9:4)神は私達に聖霊の賜物を燃え立たせなさいと言います。(2テモテ1:7)しかし、神は「あなたは構えてください、そして私があなたのうちの聖霊の賜物を燃え立たせます。それで、あなたはその賜物で働くことができます。」とは言いませんでした。彼は私達が聖霊の賜物を燃え立たせるように言いました。

イエスはマタイの福音書7章22節で言いました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。」ここより、改めて、何でも起こることが神の御心ではないことを証明します。これについて考えてみてください。彼は、24節でこう言っています。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」そうですよね?風や、嵐や、それらさまざまなことが打ちつけましたが、その家は倒れませんでした。何故でしょうか?それは岩の上に建てられたからですよね?それから彼は言いました。「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」何故でしょうか?彼がそう言ったのは、風や嵐が打ちつけたときには、家は倒れてしまうからです。それが岩の上に建てられていないからです。

では、質問させてください。その人の家が倒れたのは、神の失態ですか?嵐はそれらの両方のグループの人達にやって来ましたか?そうですね。嵐はその両方のグループの人達にやってきました。イエスは何と言いましたか?私達はこの世にあって困難があります。(ヨハネ16:33)そうですよね?でも、それは神の御心であるとは限りません。

それはハリケーンカトリーナのようなものです。多くの人達が飛び上がって言いました。「あれは神のさばきでした。神のさばきがやって来ます。」それについて、最悪なことは、一人の人がそのようなことを言い出すと、他のすべてのクリスチャン達も一緒になって、「それは神のさばきだ」と言いだします。でも、もしそれが神のさばきなら、神の命中力はとても悪いものです。何故なら、彼はバーボン・ストリート(Bourbon St)を打つことをしなかったからです。そこはまだ残っているからです。面白いことに旧約聖書時代には、神のさばきでは町が丸ごと消滅しました。ソドムとゴモラはもうありません。神は旧約の時代の方が今の新約聖書の時代よりも命中力が良かったのでしょうか?それか、神は年を取ったので、命中力が悪くなったのでしょうか?

考えてみてください。それは神のさばきだったのでしょうか?それともローマ8章にあるようなすべての被造物の産みの苦しみのためのうめきでしょうか?それは何をしているのでしょうか?神の息子達の現われを待っています。(ローマ8:19-22)人々が立ち上がって言うのを待っています。「いや、ハリケーンよ。聞け。お前はここまで来れない。お前は沖で消滅する。ここに来て、損害を与えない。」

それでも、人々は反論しようとして言うでしょう。「でも…。」じゃあ、ニューオリンズだけが滅ぼされるべきところだと思いますか?カリフォルニア州の海岸沿い全体もそれに値するのではないですか?そこを狙うなら、神はそんなに命中力が良くなくてもいいと思いますよ。彼はその海岸沿いなら、何処でも打つことができたと思いませんか?それでも良かったと思いませんか?神はそれらの都市も簡単に破壊できたはずですよね?でも、何故神はニューオリンズだけを壊そうとするのでしょうか?ある人は言うかもしれません。「それは神の忍耐が切れたからです。」私達がどれだけ軽率に他人を批判するかには驚かされます。むしろ立ち上がって言うべきです。「災害よ、去れ。静まれ。」それが私達の見本です。それがイエスですよね?イエスがこのようなさばきが来るように聖書では言っていません。でも私達は、そのような災害が自分達に起こらなかったことで、自分達が無実だと証明しようとします。しかも、ある人は言います。「あんなさばきがあるから敬虔に生きるほうがいいです。」 そのようなことを言うなら、ニューオリンズにいたクリスチャンは、誰一人として怪我をしなかったとも、家を失なったりもしなかったということですか?一人として怪我をした人はいなかったということですね?ただの一人もですか?もしそう言うなら、私達は他人を裁いていることになってしまいます。私なら、そんな人達のように、神の子供達をクリスチャンでないというようなことは言いません。自分こそ裁かれるからです。それに壊されなかった家も知っています。ある人達の家々は守られました。さまざまな証があります。でも、理解しなければいけないことは、私達の仕事は、他人を非難することではありません。私達の仕事は人々を自由にすることです。それは助けて、励まして、建て上げることです。

サタンは私達の敵です。私達は血肉に対しては戦いません。聖書はそう言っていますよね?私達は血肉に対しては戦いません。(エペソ6:12)じゃあ何で私達はいつも人々を非難するのでしょうか?むしろ私達は敵を攻撃して、悪魔を敵として扱うべきです。彼が滅ぼし、殺す者です。

ヘブル5:12-14にはこう書いてあります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」著者は、その当時のヘブル人達に対して言っていました。彼は彼らのことを幼子で肉的であると言いました。それから、彼は言います。「しかし、堅い食物はおとなの物であって、」おとなとは誰であるか彼は言います。でも、ここで注目すべきことは、彼は堅い食物はおとなに属するものだけではなく、おとなであることの定義を書いています。彼は言います。「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」 おとなとは、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人達です。でも、大半のクリスチャン達は、何が良いもので、何が悪い物であるかを見分けることはできません。何故でしょうか?それは、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練していないからです。

私は、以前はよくビリヤードをしていました。もう話したように、私は、アルコール飲料は飲みませんが、ビリヤードをする為に、バーには通っていました。別に何も悪いとは感じませんでした。何故バーに行ったかというと、バーくらいでしか、ビリヤードが上手な人見つけることができなかったからです。ですから、ビリヤードをする為に、バーに通っていました。でも、面白いことに、私が宣教し始めてからしばらくして、神は私に言いました。「もう、バーに行くのをやめなさい。何故なら、誰かがあなたがそこにいることを見て、特に若いクリスチャン達が、バーに行って飲むのは別にいいことだと考えるからです。」それでも、そこにいるときに面白かったことは、バーでビリヤードで勝ち、相手と握手して別れるときに、彼は訊きました。「いい試合でした。ところで職業は何ですか?」私は答えました。「私は説教者です。」彼の顔を忘れることができません。それは驚きの顔だったのか、恥をかいた顔だったのか分かりません。何故なら、多くの人達が説教者というと、とても、ひ弱で、肩苦しい印象があるからです。

でも、私の仕事は、安心している人達を悩まして、悩む人達を慰めることです(笑)。だから、あなた達が今どの状態かを教えてください。私には、「私達は誰も傷つけないで、人の喜ぶことをするように努めたいな。」というような中途半端な姿勢はありません。もし、私が誰かを不快にするなら、それはみことばによることであることを願います。私は、神のことばが良い行いに導くために、いい意味であなた達を不快にし、刺激することを願います。それが、今私のしようとしていることです。あなた達を刺激すること、つまり、怒らせることです。もし、それがあなたに必要なら、私は、躊躇しません。どうせ、ここには住んでいないからです(笑)。

そのバーには、いつも常連の男達がいました。彼らはビーズのついた軍服を着ていて、その服には様々な軍隊に関係あるものが刺繍したりしてありました。そして、嘘を吹聴していました。「M16ライフルは見事な武器です。すばらしいです。毎分3000発も撃つことができます。私は実際にM16を撃ちました。」というように偽りを話していました。彼らの話を少し聞いていて、M16は見事な武器で、それは毎分3000発も打つと言っているのを聞いて、私は言いました。「それは嘘です。」彼らは言いました。「何で嘘だとわかるのですか?」「私は実際にそれを撃ったことがあるからです。」先ず第一に、2回に1回はマガジンは詰まります。それが、アメリカ兵もベトナム戦争で、M16を捨てて、AK47を使い出した理由です。それにM16は毎秒3000発も撃ちません。

彼らがそのようなことを話しているのを聞いた時には、彼らは一度もそれを撃ったことが無いので、本当は何も知らないことが分かります。恐らく、誰かが、彼らにその嘘を教えたのでしょう。私達は、一度もそれを経験したことなければ、聞いたことをそのまま信じてしまいがちです。でも、一度出て行って、聞いたことを実行すると、すべての理屈は崩れ去り、何が真実かを見分けることができます。私達が実際にそれを実行して経験したからです。誰かが、「癒しはなくなりました。」と言うなら、私はその人を見て思います。「みじめな、かわいそうな人だ。」何故なら、私は知っているからです。実際に経験しているからです。私は癒しを毎日見ています。癒しはなくなっていません。それでも、ある人は言います。「でも、神は、あなたの人生に罪があるなら、癒しません。」それは間違いです。私は毎日見ています。人々は、自分の生活の中に罪があると認めても、神に癒されます。このように私達は実際に出て行ってそれを行うまでは、他人から聞いた理屈を他の人に伝えます。でも、私達が一旦それらを実行し始めると、すべての理屈は崩れ去ります。それで何が真実であるかを見分けることができます。

それは武術でも同じです。ある人達はさまざまなことを主張します。ある時には、ある人が私に電話して、私達は違う流派であると言ってきました。実際にはほとんど同じでしたが、ただ異なった名門からでした。彼は、自分の流派がどれだけすばらしく美しいかを語り、私の流派はそうでないと言いました。ですから、私は終に彼に言いました。「いいですか、要するにはっきりさせるには、あなたが私の道場まできて、リングの上に立って、拳と拳を合わせて、どちらが本物か証明しましょう。結局、そういうことになりますよね。誰でも話すだけならできます。でも、拳を合わせてみれば、真実が分かります。」彼は言いました。「でも、私達は、実際のスパーリングはしません。私達は歴史を学びます。」私は言いました。「でも、これは武術です。」武術は戦うことなのに、戦うことができないなら、あなたが持っているのはただの芸術です。

私達は、彼らのような人達をよく、「こけおどし」と呼びました。彼らは、様々な証書を持ってはいますが、それを証明することはできません。教会も全くそれと同じです。博士号や修士号や学士号は、どうでもいいです。私は、肩書きだけの人達を、沢山見てきました。もし私達が、虐げられている人達を自由にできないなら、何の役にも立ちません。何も変えることはできません。何故でしょうか。何故なら、私達は理屈などどうにでも作り上げることができるからです。そうですよね。

私達は、理屈から、実際に役に立つ聖書の現実に戻る必要があります。イエスの行ったことには力がありました。今では、さまざまな癒しについての教えがあります。さまざまな学校やクラスなどがあります。

それで、もしそれらの学校やクラスが本当に効果的なら、先ず、あなたがここにいて学んでいる必要はありません。

効果的な癒しを行うためには、次に、イエスの行わなかったことは、私も行いません。私達は、イエスを代表する者です。彼は、カウンセリング、指圧、水晶占いなどはしませんでした。彼はただみことばを語り、権威を行使して、病人を癒し、悪連を追い出し、神の国を実践しました。そうですよね。

それはこういう意味です。イエスは弟子達に「行って、神の国の福音を宣べ伝えなさい」と言いました。(マタイ10:7)そして、弟子達は行って「イエスが、もうすぐやって来て、あなたの罪の為に十字架に架かり、死者の中からよみがえられる。」と宣べ伝ることはしませんでした。彼らは、イエスの死と復活についてさえ知りませんでした。イエスは、弟子達に彼の死と復活について説明しましたが、彼らは理解しませんでした。イエスが実際に復活した直後も、彼らは理解しませんでした。それゆえ、彼らは、イエスの死と復活を宣べ伝えていませんでした、彼らは神の国の福音を宣べ伝えました。イエスの死と、埋葬と、復活は福音ですが、神の国の福音ではありません。それは私達が、神の国の福音を宣べ伝えることができるようになるための福音です。

「神の国の福音」ということばの意味は、文字通りには、「神の絶対的な支配権の良い知らせ」です。これを弟子達は出て行って、宣べ伝えました。彼らはすべての町々に行き、「私達は、神は、すべてに勝って偉大であるという良い知らせを伝える為にやって来ました。」と言いました。そして、病気を見つけた時は、「そのよい知らせを証明します。神は、癌よりも大きなものです。癌よ、去れ。」と言い、その病人は癒されました。このようにして彼らはその福音を証明しました。とても、単純ですよね。これが、宣教するために召されたすべての人々が宣べ伝えるべき福音です。すべてのクリスチャンは、イエスの死と埋葬と復活による神の絶対的な支配権を宣べ伝えるように召されています。単純ですよね?私達にはこの福音を実践する権威を与えられています。これが私達の仕事です。アーメン。

もし、私の言う事に賛成なら、 私と一緒に声に出して言ってください。みなさんが、 考える事ができるように、ゆっくりと言いますね。では、 祈りましょう。」

イエスの名によって、父よ、あなたのみことばを信じます。私は、みことばを行う者である、と信じます。私は、みことばを行っていない生活の領域にあっても、みことばを行う者になります。父よ。あなたにお願いします。今、このみことばを、私にとってリアルなものにしてください。このみことばを歩んでいける道を見せてください。私は、あなたのみことばだけを受け入れます。私は、人間のことばは、受け入れません。私は、神の御霊によることばを受け入れます。今日、ここで神の御霊により語られたことばを、私は保ちます。そうでないことばは、拒否します。だから、イエスの名によって、私は、あなたのことばを成就させます。あなたの神の性質にあずかる者にしてくれたことを感謝します。そして、今、私は、新しい契約の下にある神の子であるクリス チャンであることを認めます。私は、古い契約の下にいる聖徒でも、古い契約の下にいるしもべでもありません。私は、新しい契約の下にいて、仕える神の子です。アーメン。

Neylor Stevo