神癒技術者訓練 – セッション3

神癒技術者訓練 – セッション3
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

セッション3

参加者質問;「もしある人達が自分は癒されたと言うなら、彼らに薬を取り続けるように言いますか?」簡単には原則は次のようなものです。このことは2つのことに関係していることを覚えて置いてください。まず最初に聖書です。次に、アメリカ合衆国政府です。アメリカ合衆国政府に関しては、法律によると、私達は他人に薬をどのように扱うかについて言及することはできません。彼らに薬を止めるように言うことは法律上できません。そのために起訴された人がいるとは思いませんが。でも、彼らに薬を飲み続けるようにも言うことはできません。それは許可なしで薬を扱うことになってしまうので。薬についてコメントすることさえできません。なので、ベストなことは薬についての言及は避けることです。

過去には、教会では「もしあなたが祈ってもらった後に薬を飲み続けるなら、それは癒されたことに対する信仰を持っていないことを証明している。信仰を持っていることを証明する為には、薬を飲むのをやめるべきです。」と教えられてきました。先ず第一に、もし私達がその病人の信仰によって、その病人が癒されるように努めているのならそれはその通りです。病人の信仰に頼るならその通りです。でも、私達は癒しのために他人の信仰には頼らないことを学ぶべきです。他人を癒すために自分の信仰に頼るべきです。他人が何をしようが、それは私達が癒しを行うことには影響はしません。なので、これで薬の問題は解決します。もし小さな薬の錠剤が癒しを妨げることができると信じるなら、それはその薬は神の力よりも強いと信じていることと同じことです。私は神より強いものは他に何も存在しないことに気が付きました。神よりも強いものは何もないと信じる限り、神は私達を通してそれを証明することができます。でも、神よりも強いものがあると信じるなら、神は何よりも強くても、私達を通してそれを証明することはできません。この真実を私達は理解しなければいけません。

メガネをかけていた人達が、祈ってもらった後に、そのメガネを取って壊すところを見たことがあります。でも、そのような行為はまるで私達が神の腕をひねって、「今、何かしなさい」と強制しているようなものです。それは信仰とは言いがたいものです。よく私が癒しのために祈ると、質問されます。「メガネを取るべきですか?メガネをかけ続けることは癒しを妨げたりしますか?」私はこう答えます。「もし祈って、あなたが癒されれば、メガネは外さなければいけなくなります。視力が良くなるので、メガネをかけていると見ることができなくなります。その時にはメガネを取ればいいです。別に眼科に行って癒してもらってもいいと思います。あなた次第です。」他人に何をして、何をしないように言うことが私の仕事ではありません。私の仕事は、助けが必要な人達をどのように助けることができるかを教えることです。本当に大切なことは少しだけです。大抵癒しが起きた時には、他人に何か質問する必要はないからです。人はよく多くの非現実的な質問をします。でも、実際には癒しを行うときに私達の考えるような多くの問題を扱う必要はありません。

いくつかの証をシェアさせて下さい。私達はちょうど「神の国を証明することによって、大宣教命令を成就する」というタイトルの教えを作りました。イエスは私達に命じました。福音を宣べ伝え、病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出し、異言を語り、毒を飲んでも害を受けない(マルコ16:17,18マタイ10:7)、などです。ダラスにあるバイブルカレッジでこれら一つ一つのトピックについて詳しく教えました。私自身の人生の中での証と、私の聞いた証を交えて教えました。私達は今まで、それらの命令のすべてを行って、成功してきました。すべてです。9人死人が蘇るのを見たし、何千人と癒されるもの見てきました。一番新しい統計によると、過去4-5年間で、私が個人的に手を置いて癒された人々の数は7万位です。これは他の訓練を受けた人達を除いた、私個人だけの統計です。

驚くべきことは、私達はこの訓練を受けた人々から、逐次、証が届くことです。彼らは手を置いて癒された証や、死人が蘇った証などさまざまなことを手紙に書いて送ってくれます。私はそれらの証を読むのも、このミニストリーを行うのも、人々が癒されるのも楽しみます。でも、一番うれしいことは他の人が癒しを行っている証を聞くことです。

ある時、ペンシルベニア州のハリスバーグに一週間いて、そこで癒しを行っていました。神癒技術者訓練を全部教えることはできませんでしたが、一週間の間ずっと忙しく働いていました。それはブレザレンの教会で、彼らは元気のいい礼拝ではなく、おとなしいことで知られていました。私達がそこを去ってから、2週間後、礼拝中に突然前の席に座っていた女性が倒れて死んでしまいました。礼拝中に、皆の目の前でです。彼らは緊急の911番に電話しました。彼らのいたところは田舎だったので、救急車が到着するまでにはしばらく時間がかかりました。待っている間に、誰かが言いました。「彼女は死んでいます。」そこには看護婦がいたので、彼女が死んでいることを確認しました。彼らは言いました。「彼女は死んでいるので、カリー・ブレイク氏が教えたように彼女をよみがえらせませんか?学んだことを実践できるから!」なので、彼らは彼女を取り囲んで、祈り始めました。彼らによると、15分から、20分ほど経った後に、彼女はひょこっと顔を上げて、あたりを見回しました。その後、救急車が到着して、救急士らは彼女を診察したがりました。その時には、彼女は病院に行くことはありませんでしたが、彼らは後で診断をしたがりました。そのまま彼らは礼拝を終えました。それが起こった後は、彼らの神に対する信仰は以前より強くなりました。

他にも死人が蘇った証を知っています。私の息子はタイへの宣教師でしたが、彼も死人をよみがえらせました。私達は津波の災害が起きた翌年にタイに行きました。ある女性は癌を患っていたので、彼女の家に行き祈りました。祈った後に、彼女は回復しました。でも、その後に、何かの呼吸関連の問題のために病院に行くことになり、彼女はその病院に行った後に死にました。彼らは、彼女を死体保管所に連れて行き、カバーをかけました。死体保管所はまるでただの開けた部屋でした。タイの病院はアメリカの病院とは違います。医師が、死亡証明書を書いている間に、彼女は天へ行きました。彼女はクリスチャンではなく、仏教徒でした。医師達が死亡証明書を書いている間、彼女のからだはそこにありました。その間に彼女は天へ行き、イエスに会いました。イエスは彼女に言いました。「家に帰って、そこをきれいにしなさい。」彼女はよみがえり、からだを起こしました。言うまでも無く、医師達はその時ビックリ仰天しました(笑)。その出来事は、その村と、周辺が福音宣教のために開かれるきっかけとなりました。なので、イエスは仏教徒も死人の中からよみがえらせますか?はい、よみがえらせます。

私は神がエホバの証人を死人の中からよみがえらせるのを見たことがあります。彼は雪の中、道路脇に横たわっていました。心臓発作で亡くなり、車を衝突させました。これはちょうどメンフィスの郊外で起きたことです。私達は車から出て彼の所まで行きました。私は手を彼の胸に置き言いました。「イエスの御名によって、あなたは死なずに、生きる。」そこに2分間くらい立っていて、それから歩き去りました。歩き去っている時に、ある音を聞きました。それはげっぷのような音でした。そして振り返ると、その男は頭を上げました。そして、目を開けて動き出しました。彼の周りには、8から10人くらいの人達が彼を囲んで集まっていました。彼らの反応は忘れられません。彼らはその男を助けたのかと考えるかもしれませんが、違います。あっという間に、彼らは逃げ去りました。全速力で走り去っていきました。ある一人の男性はひっくり返ったトラックの後ろに走っていき、そこで叫んでいました。「おお、主イエス様、主イエス様、主イエス様!」それを聞いて、考えていました。「少なくとも誰が彼をよみがえらせたか知ってるじゃないですか(笑)。」それから、救急車と警察が到着して人々を追い返しました。彼と一緒に救急車に乗っていった一人の女性がいましたが、彼女は後で私に電話をして、彼はエホバの証人だったということを教えてくれました。その後、彼らはその男性とその出来事について話して、それ以来、彼はそのことについては何も語りませんでした。エホバの証人の中では、奇蹟について話すと彼らは破門されます。このようにさまざまな証があります。

死人をよみがえらせた証の一番のものは、自分の娘をよみがえらせた時です。彼女は7歳の時に、2階の窓から落ちました。(約10mの高さからです。)コンクリートの中庭に打ち付けられて、死にました。その時は私は机の所に座っていて、何も準備はできてはいませんでした。死人をよみがえらせる準備なんかできていませんでした。一般的に死人をよみがえらせるために必要と言われているような断食も祈りもしていませんでした。神が死人を生き返らせるためにはそのようなことが必要だと定めなかったことに感謝します。彼女が地面に落ちた音を聞いても、何が起きたかは分かりませんでした。外に出て行き、そこに彼女が横たわっているのを見つけました。彼女を抱き上げた時、彼女の鼻は折れていて、歯は歯茎に刺さっていて、彼女の頭皮はめくれていました。私はすでに最初の娘を亡くしていました。先ず最初に私の頭によぎった考えは、最初の娘のような葬儀でした。一瞬ですべての葬儀が頭によぎりました。それから、頭の中でこういう声を聞きました。「あなたはまた娘を失います。また娘を失います。また失います。」私は一瞬のうちに最初の娘が亡くなるのと、彼女の葬儀のすべてを幻で見ました。そして、悪魔は私の頭の中で言いました。「お前はまた娘を失う。また娘を失う。また失う。」なので、私は叫び始めました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死ぬな!イエスの御名によって、あなたは生きる、死ぬな!」私は私の頭の中の声をかき消す為に、より大きな声で叫び続けました。その中庭で彼女を抱えながら、20分から25分間の間歩きながら、腹の底から叫び続けました、「イエスの御名によって、あなたは生きる、死ぬな。」終に、私は家の中に行き、彼女を壁を背にして座らせると、彼女の頭は胸につく位に垂れ下がっていました。家族は降りてきて、パニックになっていました。私は彼女の正面に行き、彼女の胸を指差して、言い始めました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない。」私はその同じことばだけを繰り返し言い続けました。それから、20分ほど経つと、突然、それはまるで誰かが彼女の腹を殴ったようでした。彼女はぐいっと引っ張られたようで、まるで、電気ショックを受けたようでした。彼女は引きつって、血を吐きました。彼女は目を開けて、私達は目の焦点が戻ってくるのを見ることができました。彼女が生き返ってくるのを見ることができました。彼女が最初に言った言葉は、「お父さん、お腹すいた。」でした。それはいいしるしです。それから、私達は彼女を車に乗せて、病院に連れて行きました。

アメリカ合衆国で死人が蘇るのをよく見ない理由は、誰かが死ぬとすぐにそのからだを取り去ってしまうからです。それが私達は海外での方が死人が蘇るのを良く見る理由です。それは海外では、彼らは死人のからだを火葬まで、家族や親族と一緒に置いておくからです。だから、私達が死人のよみがえりを頻繁に見ない理由は、私達は死人のからだを他の人に預けてしまう習慣があるからです。私達は愛する人を他人に渡してしまいます。自分達で彼らに対して責任を取りません。

神は私の子供達を私に与えてくれました。彼は子供達を医師に与えることはしませんでした。私は最初の娘を医師に任せましたが、彼女を埋葬することになりました。それ以来、私は決してそのようにはもうしないと決めました。私達は神を信じてきました。でも、いろいろなことが家族に起きました。そのようなことは数えればきりがありません。私の2番目の娘は3回も肺炎になりました。それは私の最初の娘を殺したものと全く同じものでした。信じてください。もし最初の娘を殺したものと同じものが、2番目の娘を襲う時には、彼女も失ってしまうかもしれないという恐れがあります。私達は祈って、神を信じました。もし機会があれば彼女の話もしますが、今は彼女は癒されたということだけ言っておきます。

私の息子は、以前の家で重い窓に腕を挟みました。その窓は彼の腕の上に落ちて、彼の腕の骨を折りました。私達は彼の腕を固めて、祈りました。彼は癒されました。できることは何でもしてください。神は癒してくれます。私達は家族や、愛する人々が癒されることを見てきました。

コロラド州のグランドジャンクションにいたときのことです。そこには双子の子供を妊娠していた女性がいました。医師はその双子が死んでいると診断しましたが、まだその子達を取り出してはいませんでした。彼らは死んでから2週間ほど経っていました。医師は彼らにもし彼らが待つなら、自然と流産するか、腐敗してくると言いました。彼らは流産を望んでいたので、待っていました。医師はもし彼らが何かを感じたらそれは流産のしるしだと言いました。そして、この女性は私達の集会に来て、9ヶ月妊娠していて、すでに出産しているべきでした。彼女の子達は死んでから2週間経っていて、私達が祈り始めると、彼らは彼女を私のところへ連れてきました。そして、彼女のお腹に彼女の手を置いてもらい、私は彼女の手の上に私の手を置きました。私達はいつもこのようにして女性のために祈ります。私達は女性のからだには手を置きません。彼女の手を取るか、問題のある場所に手を当ててもらいます。そして、彼女の手の上に私達の手を置きます。そうすれば、何も問題は生じません。癒しのミニストリーはただでさえも、多くの人が批判します。私達は賢く、正しい方法で癒しを行うことができます。なので、私は彼女の手の上に私の手を置いて、いのちを与えて、エホバの証人や私の娘に言ったように同じことを言いました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない!」私も彼女も何も感じませんでした。私達は熱も、電気のような感覚も何も感じませんでした。ただ信仰のみでした。彼女は戻って行って座りました。それから、集会が終わり、彼らは帰って行きました。彼女は家に帰る途中に、お腹の中で動きを感じました。でも、彼女は流産が起こっているのだと思いました。彼女は病院に行きました。すると、双子が生きていることが分かりました。そして、彼女は彼らを出産しました。私はその証が一番好きなもののうちの一つです。その双子は二人とも生まれました。一人はダニエルで、もう一人はエレミヤと名づけられました。

私達は9人が死人からよみがえるのを見てきました。そのうちの一つは、2005年にイタリアにいる時のことでした。私はイタリアとマルタに福音を宣べ伝えに行きました。私達はローマでも、シシリーで話し、それから、私達はレギオカラビアというところにいました。そこはイタリアのちょうど南の先のところです。もしその場所について読みたいなら、使徒の働きの28章に書いてあります。それは聖書ではレギオンと呼ばれています。それはパウロが宣教した町です。私達はそこに説教しに行かなければいけませんでした。私達がこの地域に行った時には、山の上に行き、パルメというところに行きました。パルメには新しく建てられた教会があり、まだ誰もそこでは説教をしたことはありませんでした。最初の日に神癒技術者訓練の集会を開き、教えました。その集会はうまくいっていました。それは今までとは違った体験でした。彼らは多くの伝統を持っていました。男性達はある側に座っていて、反対側に女性達が座っていました。女性はまだ頭にスカーフを被り長いスカートをはいていました。私にとってはめずらしいものでした。一番驚いたことは、私達は店で昼食を食べましたが、そこで、人々は歩き回って「ビールかワインのどちらがいいですか?」と訊いていました。彼らは昼食からそれらを提供します。私は言いました。「私はアルコール飲料は飲みません。何か他のものはありますか?コーラか何かなどです。」それは私達の価値観を覆すものでした。文化的な違いです。アルコールを飲みに行くように言っているのではありません。それは文化的なことでした。もしその時に、彼らが飲むように強く薦めたら、私は少しは飲むことになったかもしれません。でも、そうはしなかったので、私はコーラと水を飲みました。

2日目に、彼らは私に言いました。「アンジェロのために来て祈ってもらえますか?」私は答えました。「いいですよ。」それで私達は病院へ行きました。病院も違うものでした。集中治療の病棟に大きな部屋がありました。そこに行くと、その部屋の上には小さな窓がありました。私がその窓からのぞいていると、彼は「あれがアンジェロだ」と言いました。その部屋には一度に一人しか入ることが許されていませんでした。なので、彼らは私を連れて行き、マスクやガウンや手袋などいろいろなものを着せました。そして、私はその部屋に入りました。アンジェロは叔父に撃たれましたが、何故撃たれたのか、それが事故だったのか、それとも意図的に撃ったのかはわかりませんでした。彼は3月に昏睡状態になり、私は6月に彼のところに行きました。なので、それだけの間、彼は脳死の状態でした。彼は生命維持装置をつけていて、喉には管がつけられていました。それにもかかわらず、彼の意識はありませんでした。彼の目は開いたままでした。彼らは彼の両目を閉じておくことができなかったので、目が乾かないように、ジェルをぬっていました。私はその部屋に入りました。アンジェロは目を開いたままじっと上を見ていました。彼の脳は死んでいました。彼らは医師によると望みはないと言いました。彼は、感染症を起こして、熱を出していました。でも、彼らは本当にはそれを懸念していませんでした。彼ら皆はその小さな窓から私を見ていました。私は彼の元に行って彼に触る為に手を伸ばしました。手袋を外して、マスクを外して、彼に手を置きました。そして私は彼に言いました。「アンジェロ、私はあなたの目を覚ます為にここに来ました。目覚めなさい!」私は言いました。「イエスの御名によって、あなたが目覚めた時には、すべてが完全に働きます。脳は完全に機能し、からだも完全に機能し、そして、完全に癒されます。あなたはすべてを覚えていて、すべてのことはうまくいきます。」私は彼の上に手を置いていのちを彼のうちに流して、そしてその場を去りました。

私がその部屋から出てきたときには、多くの人々が私の周りに集まってきて訊きました。「神は何と言いましたか?どう思いますか?彼は良くなりますか?」私は答えました。「はい、彼はよくなります。」彼らは言いました。「じゃあ、神は何と言いましたか?」私は神の言った通りのことを繰り返し言いました。「私は病人に手を置いて、彼らは癒されます。」そして、彼らは言いました。「だけど、神は何かあなたに言いましたか?」私は言いました。「はい、マルコ16章、あなたは病人に手を置けば、彼らは癒されます。」彼らは言いました。「わかりました。でも、神はあなたに何か言いましたか?」私は言いました。「はい、彼は言いました。私が病人に手を置けば、彼らは癒されます。」彼らは言いました。「じゃあ、神はあなたに何も語らなかったんですね?」私は言いました。「今あなた達に言ったでしょう。神は言いました。私は病人に手を置けば、彼らは癒されます。」そして、彼らは言いました。「では、彼は良くなると思いますか?」私は言いました。「はい、私は彼が良くなると知っています。」そして、私達は車に乗って、そこを去りました。

私はこの話をしながら、頭の中で今、その時のことを思い浮かべてます。それから、私達は小さな山に登って行って、小さな店に入りました。イタリアンアイスクリームを食べたことはありますか?それに比べることができるものはありません。私はたくさん甘いものは食べませんが、コーラを飲んでいるから糖分は十分取っています(笑)。でも、本場のイタリアンアイスクリームは最高においしいです。もし彼らがまた私をイタリアに招待したら、間違いなくその店に又行きます。とにかく、私達はその店から出て、町へと戻って行きました。私達はオリーブワインの会社を経営している人のアパートメントに泊まっていました。一階が会社になっていて、上の階はアパートメントでした。私達は7階に泊まっていました。エレベータはとても小さく、スーツケースをエレベータで運ぶ為に私はスーツケースの上にのらなければいけませんでした。

その日の夜、私達を連れてきてくれた、セビがインターホンで私を呼びました。彼は言いました。「カリー兄、今から、上って言って、話せますか?」私は言いました。「はい、いいですよ。」彼は上がってきて、言いました。「伝えたいことがあるんですが。」彼はためらっているのが見ることができました。彼は言いました。「アンジェロのことを覚えていますか?」私は答えました。「はい、もちろん。」彼は言いました。「えーと、彼は亡くなりました。」そして、私は言いました。「亡くなったんですか?」彼は言いました。「はい、彼は亡くなりました。」私は言いました。「うーん、それは驚きです。」それ以外には、私は何も言いませんでした。彼は私が何かを言うのを待っていましたが、こういう気まずい瞬間には私は何も言わないほうがいいことを知っていました。私は黙っていました。彼は私を見て、私も彼を見ました。それから、彼は言いました。「じゃあ、私は帰ります。又明日会いましょう。」

彼は下に下っていきました。私はエレベーターを上に呼んで、それに乗りました。エレベーターはしっかり閉まっているので、外から聞くことはできません。そこで、私は話し始めました。でも、普段はこのようには話しません。その時は、私は神にぶっきらぼうに話しました。「私はここまで、時間を無駄にして、福音を宣べ伝える為には来ませんでした。その福音は、行って彼らに手を置いて、彼らは死にますなんて言っていません。アンジェロは生きるか、私は家に帰るかです。彼は生きるか、そうでないなら、私は福音を宣べ伝えるのをやめます。どちらかです。私は人々に大丈夫だと言っておいて、彼らが死ぬために出て行って宣教するのではありません。」私は言いました。「こんな結果は受け入れることはできません。彼を生き返らせるか、蘇生させるか、どんな形でもかまいません。彼は生きます。彼は生きるか、そうでないと、私は明日飛行機に乗って帰ります。」私は大きな声で話していました。それから、1階について、扉が開きました。私の話は終わり散歩に出て行きました。美しい地中海を眺めました。私は歩きながら、祈っていました。すると私は「アパートに帰りなさい」という声を聞きました。

翌朝、私達は神癒技術者訓練を教えに戻りました。セビとアンジェロの叔父がやって来て、言いました。「カリー兄、カリー兄、聞きましたか?聞きましたか?」私は言いました、「何についてですか?」彼は言いました。「アンジェロ!アンジェロについてです。アンジェロについてです。」私は言いました。「彼は亡くなったと聞きました。」彼は言いました。「違います、違います。彼は生きています、彼は生きています、アンジェロは生きています。」私は言いました。「本当ですか?いつですか?」彼は言いました。「彼は目を覚ましました。今朝、彼は目を覚ましたのです!彼はすべてのことを覚えています。彼は今は完全に元気です。感染症は死んで、彼は生きています。」アンジェロの叔父はとても興奮していました。彼がアンジェロを撃った本人です。だから、興奮するのもよくわかります(笑)。彼は殺人の罪を着せられていたかもしれません。セビは言いました。「私はあなたに一つ質問があります。」私は言いました。「何ですか?」彼は言いました。「昨日の夜、私がアンジェロが死んだと伝えた時に、それは驚きです。と言いました。何であのように言ったんですか?」私は答えました。「それは私は負けることに慣れていないからです。私は勝つことに慣れているからです。」彼は驚嘆して言いました。「ああ、そうか~!」

言うまでもありませんが、その後の癒しの集会は全く違ったものになりました。その知らせはその地域に広まりました。すべての人達がアンジェロについて知っていました。すべての人達が彼の叔父がしたことを知っていました。

私達は地中海を見渡せる山の上にいました。その教会には扉を大きく開けることによって、入り口を広げることができました。そこには冷房はなかったので、彼らはできる限り風が入ってくるように窓や扉を開けていました。その教会は木の床などがあり美しいものでした。その教会は白い石や大理石からもできていて、ギリシア様式の美しいものでした。アンジェロの知らせはその地域全体に広がって、その夜には、集会は満員になりました。教会の周りには庭がありました。人々が集まりすぎたので、人々はその中庭の隅の暗がりまで立たなければなりませんでした。私は一番遠くの人まで見ることはできないくらいでした。彼らは押し合いへし合い、集会を見ようとしていました。私達が癒しのために祈りだすと、もっと多くの人達がやって来ました。なので、私達は中庭にいる人達から祈り始めました。私達は車椅子に乗った2人の人達のために祈り、二人とも車椅子から立ちました。多くの人達が癒されました。祈っていたのは私だけではありませんでした。

私が教えた人達も一緒に祈っていました。それが一番な重要なことです。彼らは私と同じ癒しの結果を出していました。瞬時の癒しなど、いろいろなことが起こっていました。私は、「私は特別な人です!!油注ぎを受けた者です。病人を私のもとに送ってください。彼らを癒します。」とは言いません。そのようには言いません。私はむしろ彼らに言います。「キリストが油を注がれた者です。私達は神のわざを行っています。私達は神のことばを語ります。福音こそが人々を救う神の力です。」福音こそが、人々を救うことができる神の力です。(1コリント1:18、ヤコブ1:21)あなたが福音を宣べ伝えてください。あなたが福音を宣言してください。それが違いです。私はあなた達にどのように癒しを行うかを教えることにあまり興味は持っていません。むしろ、私はあなた達が捕らわれた人達に自由を宣言することに興味があります。もし誰か福音を聞いたことがない人が、私のところにやって来たら、私は、「もし癒されたかったら、ここに来てください。癒しのために祈ります。」とは言いません。私はそのようには言いません。私はここに人々は2000年以上も前にすでに癒されたと宣言する為にいます。私の任務は悪霊を人々から追い払うことです。何故なら、彼らはすでに癒されているからです。私は捕らわれている人達に宣言します。「捕らわれている人達、あなたは癒されています。」

癒しは、私がこれからあなた達を癒そうとすることについてではありません。私達はすでに癒されています。2000年前に癒されました。このことに気がつくなら、私達はすでに癒されている人です。でも、病気は私達と私達が癒された状態を目で見る時点の間にあります。なので、私達の仕事は権威を行使し、その間にある病気が去るように命令することです。その間にあるものがなくなった時、何が起きますか?私達は癒されます。このように癒しは単純なことです。どこに行っても私達がすることは捕らわれ人に自由を宣言することです。次のように言うことです。「捕らわれ人よ。イエスはあなたの為に2000年前に死にました。私はあなた達は解放されていますという良い知らせを持ってきました。」なので、あなた達は私の手は必要ありません、癒されたように行動してください。私の手は特別なものではありません。私は特別な賜物を主張しません。もし私が賜物によってこれらのことをしているなら、あなた達にも同じ賜物がない限り、私と同じことはできないからです。

私達は同じ救い主、同じ主、同じ聖霊、同じ賜物を持っています。(Ⅰコリント12:4-11)賜物とは何のことが知っていますか?それは力であり、武器でもある方、聖霊のことです。すべては同じです。同じ御名、同じ血。私達は同じものを持っています。聖書には「兄弟達は子羊の血と、自分たちの証のことばの故に彼に打ち勝った。」と書いてあります。(黙示録12:11)あなたはこのようにして打ち勝ちます。特別な油注ぎによってではありません。私達はすでに油注ぎを持っています。すでに持っているものを用いてください。アーメン。

Neylor Stevo