神癒技術者訓練 – セッション17

神癒技術者訓練 – セッション17
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション17

神の主権について多くのことが話されています。このセッションでは、まず神の主権について話し、それから他のことについて話していきます。神の主権は、神のきまぐれではありません。多くの場合、神の主権は次のように理解されています。「神はある時には物事をあるやり方で行い、また数分後には物事を全く違ったやり方で行います。だから、神が次に何を行うか決して知ることはできません。神はいつも神秘的な方法で働きます。」このように神を理解していたら、本当には神を知っていません。いいですか?じゃあ神の主権は何でしょうか?神の主権は聖書のうちにあります。神が聖書のうちに書いたことばが神の主権です。神は自分の主権によって、聖書のことばを「私は物事がこのようになって欲しいです。物事はこのように成されます。」というよう意図して書きました。ですから、その聖書のことばに従って物事を行うなら、神の主権を否定するのではなく、むしろ、神の主権を強調することになります。

では次です。「神の御心が何であるかに関しての知識以上の信仰を持つことはできません。」私はすべての願いは声に出して言葉にされなければいけないと考えます。声に出して言葉にされない願いは答えられません。例えば、もし誰かが私達に「今からここにいる人々の為に祈りましょう。誰か祈りが必要な人はいますか?」と言ったとします。そして誰かが手を上げて、「私のために祈ってください。」と言います。それから、では、「ああ、父よ、ここにいる~さんの願いを聞き入れて、それをかなえてください。」と祈ります。このような場合、私達はその願いが何であるか知りません。聖書には、もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます、と書いてあります。(マタイ18:19)でもこの例えの場合、私達は心を一つにしていることにはなりません。何故なら、何がなされるかについて心を一つにしていないからです。それにこの例えでは、その人の願いが聖書的な願いであるかを知ることができません。その人は全く違ったおかしなことを願っているかもしれません。

ある集会で一人の女性が私のもとにやって来て言いました、「私はさびしいので、神が夫を与えてくれることを願っています。神が私に夫を与えてくれるように祈ってくれますか?」そして、私は、「わかりました。では祈りましょう。」と言い、彼女の手を取って祈ろうとしました。そこで、彼女が結婚指輪を着けていることに気が付きました。

それを見て私は訊きました、「それは何ですか?」。すると彼女は言いました。「私は結婚してます。」私は、「あなたは夫がほしいと思ったんですけど?」と訊くと、彼女は、「私には夫はいるけれど、彼はいらないので、新しい夫が欲しいんです。」と言いました。これは本当のことです。私はこの人はなんてことを願うのかと思いました。もし私が彼女の願いをそのまま受け入れて、「神様、彼女に夫を与えてください。」と心を一つにして祈っていたら、私は彼女の罪の共犯者になっていました。分かりますか。このように私達は他の人が何を考えているか分かりません。

時々人々は言います。「何故~さんは死んでしまったのですか?彼らは信仰に満ちていました。彼らは強い信仰を持っていたのに、でも、死にました。」それは違います。何故なら、聖書はもし信仰があるなら、その人は生きる、と書いてあるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあります。(ローマ1:17)もし信仰を持っているなら、私達は生きます。もし誰かの為に祈り、その人が死んだら、あなたには癒すだけの信仰がなかったということです。それだけ単純です。残念ながら、それは優しい答えではありません。でも、これが真実です。それでも、「でも、私は信じていました。」と言うかもしれません。それじゃあ、今から天に電話して神に聞いてみましょう。何故なら、そう言う人は神はうそつきだと言っています。私はそうは思いません。神は、もし信じるなら、病人は癒される、と言ったからです。(マルコ16:17-18)聖書には、信仰による祈りをすれば、その信仰による祈りは病人を回復させます、と書いてあります。(ヤコブ5:15)単純なことです。なので、私に向かってこう言わないでください。「ある清い人が信じていたけれども、死んでしまいました。」彼らが何を信じていたかは分かりません。彼らは聖かったかもしれません。敬虔だったかもしれません。彼らは今神と共に天にいるかもしれません。でも、彼らが癒しのために神を信じていたとは言わないでください。では、もし私が、あなたか、神のどちらかを信じるとしたら、悪いけど、神を信じます。神が正しいからです。そうですよね?それでもある人は言います。「でも、彼らは信仰を語っていました。」分かりました。でも、信仰について語ることでは信じていることになりません。神でさえ、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言っています。(マタイ15:8)ですので、人の語る言葉は、必ずしもその人のうちにあることと一致しているとは限りません。誰にも他人のうちは分かりません。私は実際にそのような人々に会ってきました。例えを話しましょう。私には様々な例え話があります。今話している事はただの理屈ではありません。私はそれらを実際に行って、経験してきました。だから、私の所に来てあなたの理屈を並べてもかまいません。でも、私は保証します。 私は様々なことを見てきたし、ただの理屈や理論を伝えません。理論を伝える時には、ちゃんと「これは理論です。」と言います。でも、そのようなことはほとんどありません。理論によっては歩むことはできないからです。

当時、コロラド州のグランドジャンクションにいました。DHTT(神癒技術者訓練)の最中でした。彼らは、「前回のDHTTの訓練を受けた人が、彼女が死にかけています。来て、祈ってくれますか?」と言いました。私は、「よし、じゃあ行こう。」と答えました。何が原因だったのかは、覚えていませんが、彼女は死にかけていました。たしか、癌だったかもしれません。とにかく私達は現地に行きました。でも、その前に、私は「昼食をしに行こう」と提案しました。彼らは賛成し昼食に行きました。目的地は遠かったので時間があったからです。それから、私がDHTTの第二セッションを教え終えたところでした。彼らが昼食時に来て、「カリー兄、まだ彼女の所に祈りに行きたいですか?」と尋ねました。私は、「もちろん、行こう。」と答えました。でも、彼らは言いました、「実は、伝えたいんですが、さっき電話があって、彼女は亡くなったみたいです。」私は、「わかった。じゃあ行きましょう。」と言い皆で現地に行きました。

そして、昼食を終えた後に、私達は車で現地に向かいました。その家には8人から10人の人達が集まっていました。彼らは皆丸くなって祈っていました。異言で祈っていました。信じて祈っていました。彼らは他のDHT(神癒技術者)達です。彼らは信仰に堅く立っていました。疑いの余地はありません。信仰に堅く立っていました。私は自分をどのように燃え立たせればよいかを知っています。私はいつ自分は燃え立っていて、そうでないか分かります。聖書はあなたのうちにある神の賜物を燃え立たせなさいと言っています。(2テモテ1:6)それが私のしていたことです。

もしあなたが常に霊に燃えているなら、実際にその場で仕事を成し遂げるために聖霊を燃え立たせるために多くの時間は必要ありません。しかし、いつも低いレベルで歩んでいるのなら、いつも神の賜物を燃え立たせる為には時間がかかります。でも、いつも高いレベルで歩んでいるなら、燃え立たせる為には時間はかかりません。ですので、いつも神に近い所を歩んでいるほうが簡単です。そっちの方が楽です。そっちの方が楽しいです。長い目で見るとそっちの方が易しいです。いいですか?

その時、私はうちにある賜物を燃え立たせようとしていました。でも、いつもは私はこのような言葉は使いません。あなた達が聞いて、分かり易い為に、次ように説明します。その時、私は何も感じませんでした。いつもは、いつ燃え立っているか分かります。でも、いくら燃え立たせようとしても、そうなりませんでした。普通ではありませんでした。いつもは、すぐに燃え立たせることはできるのにです。ですので、終に、「数分で戻ります。」と言って、外に歩きに行きました。外の他の人のいないところで神と話したかったからです。そして、私は線路に沿って歩きながら、神に向かって「どうなってるんですか?」と訊きました。それで、振り返って、「カリー、どうした?彼女の命はお前にかかっているんだぞ。燃え立たせろ。」と自分に言い聞かせました。また、異言で祈りだして、霊的にも燃え立ちました。でも、死人をよみがえらせるくらい十分には賜物を燃え立たせることはできませんでした。

終に、家に戻り、彼らを見て、「何が起こっているのかは分かりません。理解できません。できることはすべてしているのに、以前にはいつも成功していた通りにしているのに、何も起きていません。」とは言いたくありませんでした。そうこうしているうちに、2時になり、DHTTを続ける為に会場に戻らなくいけなくなりました。私は彼らに向かって、「じゃあ、今ここでやめて、また、戻ってきた時点から始めて、続けましょう。」と言い、DHTTを終えに戻り、それを終えて、その晩には癒しを行いました。

次の日、帰る時に、彼らの所に話をしに行きました。そこには彼女の夫と州のリーダーなどがいました。私は、「私に何をして欲しいですか?」と訊くと、彼は、「分かりません」と答えました。この時点では彼らは彼女を埋めて葬儀などをすることに賛成していました。彼らは彼女を家に留めて2日間祈り続けて、できることはすべてしました。しかし、そのようにことを進めることにしました。

そういうことでその場を去りました。その翌日、私が車を運転している時に一本の電話を受取りました。それはコロラド州のリーダーからでした。彼は、「カリー兄、彼女のことですが、彼女の夫があなたと今話したがっています。」と言いました。私は「分かりました」と答えました。私は頭の中で、彼に謝りたいと、残念でしたと、私の失敗でしたと、もし何か失敗の原因があればそれは私です、と言おうと考えていました。私は電話を取り、彼に向かって、「ただお悔やみ申し上げます。どれだけ…」と言いかけると、彼は、「いいえ、私があなたに謝らなければいけません。」と言いました。私は、「どういう意味ですか?」と返しました。彼は続けて言いました。「私は妻を愛して、彼女が恋しかったんです。」私は、「そうですよね」と言うと、彼は続けて、「 最後まで聞いてください。」私は、「分かりました。」と言い耳を傾けました。彼は、「伝えなければいけないことがあります。」と言いました。私は、「それは何ですか?」と訊くと、彼はこう言いました、「私と妻はあることに同意しました。それはもし…」(この時、彼らは70歳を過ぎていました。)「私と妻はもし私達のうちの一人が死んだなら、残った一人は、死んだ方を生き返らせないし、そのためにも誰にも祈るように頼まないことに同意しました。何故なら、人生を終えた後の、私達の願いは天の神の所に行くことだからです。」彼らはとても厳しい人生を歩んできました。そして、ほんの数年前に神との正しい関係を持ちました。その前は、彼らの人生は本にできるくらいのものでした。

ですので、70歳も過ぎて彼女は亡くなり、彼は彼女を生き返らせるために私達を呼びました。それは彼らが一緒に結んだ誓いを破るものでした。私はこれを聞いていて、彼に言いました。「このことをもっと早くDHT達がいる時に話してほしかったです。私達は何が起こっているのか分からないままその場を去らなければいけませんでした。」それから私は州リーダーに電話して、「あの場にいた人達の名前を覚えていますか?彼らに電話して夫にあの時何が起きていたのかを彼らに説明させなさい。」と言いました。このようなことがあり彼は少しの間教会からは離れていました。彼はただ孤独と悲しみの中にあっただけです。彼は妻を恋しく思っていました。でも、今は彼も教会に戻り、彼は元気にやっています。すべてはうまくいっていて、多くの癒しも起きています。だから私達はいつも他の人のうちやある状況で何が起こっているかを知ることはできません。

またある時、私達はイギリスから母親が連れてきた息子のために祈っていました。彼は舌の裏に癌を持っていました。そしてその癌は彼の口の中に大きな穴を開けていました。その穴からはどろどろのものが垂れていて、臭くて、見ることができないくらいひどいものでした。それはまるで死の匂いです。でも、私達が祈っていると、その癌が端から干からびていきました。でも、おかしなことは誰かが彼の母親を外に散歩に連れて行っている時には息子は癒されていき見る見る力強くなっていきました。でも、彼の母親が帰ってくると途端に状況は又もとに戻り、勝ち取っていたものを失いました。そして、その彼女はどうしても息子をひとり残したくなかったので一緒に留まりたがりました。でも、彼は一人ではなく何人ものDHTTが一緒にいました。そのように彼女はとても過保護でした。祈っている時に、癒しが進み、悪霊を追い出したりするにつれて、それらものは息子から母親に移るのを見ることができました。それは私達が祈りだすと、彼に憑いていた悪霊が彼から彼女に移っていたのです。私達が祈り始めるとその霊は彼から離れて彼女に移り、そして、彼女が彼に近づく度にその霊は彼に飛び移りました。「イエスの御名によって」と祈った途端に、私達は一旦止り、彼女を息子に近づかせました。すると、案の定、その霊は彼女から彼に飛び移り、彼の状態は再び悪化し始めました。これを見て、終に彼女に、「あなたはここに留まって、離れていてください。」と言いました。彼女は嫌がりました。でも、それによって私達は最終的にその霊を追い出すことができました。

私はこのような様々な経験から学んできました。あなたもそのようなことを経験して、見ていくことによって色々学んでいくと思います。私達は誰かの家に行く時に誰がその悪霊を抱きしめてかわいがっているか、その霊に我慢しているか、その霊に力を与えているかを見分けて見つけることができます。もっと説明もできますが、今は時間がないので、これ以上は話すことはしません。もしもっと知りたかったら連絡してください。今は時間がありません。今はあなた達が癒しを行えるように基礎を教える時間です。いいですか?これまでに、私が教えたいくつかのことは3ヶ月や半年の間はすぐには理解して、応用することができないと思います。それらは実際に経験してみないと分からないからです。そのうちの一つは支配などを扱う時です。中にはある地域の病気を支配している霊があります。彼らに会うときには、あなたは彼らを打ち負かすことができます。疑いの余地はありません。でも、対処の仕方よっては彼らを打ち負かすのは簡単にも難しくもなります。すべてのことには適当な対処の仕方があり、それは学んでいくものです。多くの場合、間違いや試練を通して学んでいきます。それを私が教える必要はないです。自分自身で学べます。でも、それを学ぶ事は楽しいものではありません。

では次に進みましょう。コリントの教会は完璧な教会からは程遠いものでした。その教会は多くの問題を抱えていました。実際に彼らは聖書の中でも最も問題を抱えた教会でした。パウロは、コリントの教会の中には異邦人の中でも聞いたことのないような罪があったと言っています。(1コリント5:1)それを念頭に置いてください。しかし、同時に、パウロはコリントの教会はどんな御霊の賜物にも欠けるところがないと言っています。(1コリント1:7)彼らのうちにあった罪にもかかわらず、パウロは彼らのしていることは、つまり、御霊の賜物は偽りだとは言いませんでした。パウロはただ、「賜物を正しく働かせなさい」と言いました。これについて考えてみてください。彼らは御霊の賜物を間違った方法で用いていました。(1コリント14:40)それはパウロが彼らを正していることから分かります。多くの人々は、もし彼らが聖霊の賜物を働かせているのなら、それは彼らのうちにいる神が働かせているので、間違って働くはずがありません、と考えます。でも、実際には彼らは御霊の賜物を間違った方法で働かせていました。パウロは手紙の中で彼らに言っています。もし、異言で話すならこのように話しなさい、預言をするならこのように行いなさい、もし異言で語るなら、解き明かしができるよう人がいるようにしなさい。そのためには彼らは誰が解き明かしができて、誰ができないかを知っていなければいけません。そうですよね?何故なら、その人が異言の解き明かしを過去にして、その賜物がいつもその人のうちにあることを知っていない限りは、解き明かしができる人がその場にいることを知ることはできません。そして、その人はあなたの知っている人でなければいけません。でも、現在の大半の教会では誰かが異言で語り、解き明かしをするのを待ちます。そして多くの場合は誰も解き明かしができる人がいません。そうですよね?もしそのような場合には異言で語った人が解き明かしをする必要があります。そのようなことになると人々は、「あの異言のことばは本当に神からメッセージだったのだろうか?」というような疑問を抱きます。でも、もし聖書に従って事を行うのならそのようなことは起きません。サムラル氏は御霊の賜物についての、分かりやすくて、いい教えを残しています。

では1コリントへの手紙の2章の1節を見てください。コリントの教会にパウロはこう言っています。「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(1-4節)何故ことばではなく、御霊と力だったのでしょうか?「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(5節)教会にいる人々の大半の信仰は人間の知恵やことばに支えられています。私達は神の御霊を証明したり、神の力を持つことよりも、うまく議論をしようとします。

パウロは続けて言っています。「しかし私たちは、成人(又は大人)の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(6-9節)

ここで止ってください。ここでパウロは旧約聖書から聖句を引用しています。古い契約の下でのものです。では、次の節の最初のことばに注目してください。10節です。「しかし」ということばが、原語であるギリシア語の聖書には書いてあります。「しかし」ということばはその前に言ったことばをすべて無視することを意味します。ここでパウロも前の節で言ったことを無視するように言っています。

もしあなたが私のところに来て、「カリー兄、私の車がガス欠になって、お金が必要なのですか、1000円でもガソリンを買うためにいただけませんか?」と言ったとします。そして、私は、あなたを見て、このように言うとします。「あなたの車を見てどうしたんだろうと思っていましたよ。1000円ならありますよ。大丈夫です。お金ならあります。1000円をあげることはできます。あなたはそれが必要だし、あげることは気にしないですよ。あなたにあげたいのですが、しかし!」さて、私が「しかし」と言ったときには、それは何を意味するでしょうか?あなたは1000円をもらえないということです。そうですよね?あなたにさんざん私はお金を持っていて、あなたがどれだけそれが必要で、私がどれだけそれをあげたいかについてはいくらでも話すことはできますが、私が「しかし」と言った途端に、それは「私がその前に言ったことすべてを無視してください」という意味ですよね?

ここで、10節に注目してください。パウロも同じように言っています。分かりますか?私達はいつも9節ばかりを口にします。「目が見たことのないものや、耳で聞いたことのないもの」というようにです。宗教には独特の響きがあるのに気づいたことはありますか?その声に独特の響きがあります。私達が宗教的になってきた時には、ことばの語尾が変化してきます。それに気づいたときはありますか?「目がみ~たことのないもの」分かりますか?まるで歌っているかのようです。「耳がきい~たことのないもの」こんな感じです(笑)。

また宗教はいつも聖句の半分だけを引用します。すべての聖句を引用しません。宗教的な人はこのように引用します。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」わかりますか?宗教的な人はいつもこのような部分だけ引用します。それは、「神が私達のために持っているものを知ることはできません。そう知ることはできません。」といったものです。でもそう言う前に残りの聖書箇所を読むべきです。なぜかというと、残りの聖句は全く反対のことを言っているからです。パウロは初めの聖句の部分は旧約聖書からのものであると言っています。彼はその後に続けてこう言っています。「しかし、神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(過去形であることに注目してください)」「これ」とは何でしょう?目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。それらすべてのことを指しています。それらすべてのものは、今は神の御霊によって私達に啓示されています。だから、「でもさ、神が何をするか知ることはできません。」と言うなら、その人は本当は何と言っているか分かりますか?その人は、「私は神を知らないから、神が何をするか知りません」。これがその人の言っていることです。だから、そんなことは言わないでください。パウロもイエスも誰もそのようなことは言いませんでした。

いいですか。聖書には神は不可思議な、神秘的なやり方で事を成すとは書いてありません。

パウロは続けてこのように言っています。注目してください。「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(10-11節)だから、神の御霊以外に神のことを知っている人はいません。あなたが神について学ぶことはすべて神の御霊によって学びます。あなたは自分自身で何も学んできませんでした。そうですよね?私達はそこまで賢くないです。そんなに神を深く知ることはできません。神は底知れずに深い方です。でもご自分を神の御霊によって私達に現してくれました。

神は自分を隠す神であると信じている人々もいます。まるで、神はかくれんぼをしていて、私達は彼を見つけないといけないと信じています。「朝焼けに私は神をさがします。」と言うような感じです。(詩篇63:1)そのようなものは旧約聖書のものであって、新約聖書にはそんなことは何も書いてありません。神は御自分を隠してはいません。新約聖書のすべては御自分を現した神についてです。神とのかくれんぼをやめて、彼を見つけようとする代わりに、彼と共に歩き始めてください。神はどこに隠れているのでしょうか?何処に隠れてるか教えてあげます。あなたの中です。問題は多くの人は神を自分の中以外に探していることです。だから、神を見つけることができないのです。彼らはそれに気づく必要があります。神は彼らの中にいて隠れてはいません。聖書の最後の書は黙示録、黙示です。黙示とは啓示、表示するという意味です。イエスキリストの啓示、表示を意味します。イエスキリストが隠れていることを意味するのはありません。彼は隠れていません。彼は自分を現しました。でも、いつも私達は何と言いますか?「黙示録は聖書の中でも最も不思議で、神秘的な本です。」でも、それは黙示録と呼ばれています。多分、神秘的に感じるのは、勝手に霊的なことを付け足しているからでしょう。一度、そのことばの書いてある通りに文字通りに理解しようとしたらどうでしょうか?そうして読んだら、今まで分からなかったことも、もっとよく理解できると思います。

パウロは続けて言います。「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。(どうしてでしょう?)それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」(12節)何故、私達は神の御霊を持っているのでしょうか?それは私達が神によって与えられたものを知る為です。神の腕をひねってまで手に入れようとするものではありません。天から無理やり取ろうとするものでもありません。神がただで与えたものです。では、神はそれを何処に与えるのでしょうか?聖霊によって私達の霊の内にです。聖霊はその与えられたものを引き出します。それがイエスの言ったことではありませんか?良い人は、その心の良い倉から良い物を出します。(ルカ6:45)新しいものと古いものを取り出します。(マタイ13:52)

またパウロは続けてこう言っています。「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」」(13-16節)多くの人が16節をよく引用して言います。「だれが主のみこころを知ることができるでしょうか?」おっと、でも次に、「ところが」ということばが続いています。どういう意味でしょうか?私達は主の御心を知ることができるということです。「ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」(16節)キリストの心(知性/考え方)があるということは、言い換えると、あなたは主の知性を持っているということです。私達はいつもそのことを否定しようとします。それは私達はキリストの知性を持っているという事実に対して責任を取りたくないからです。それが現実です。

別の箇所でも古い契約の聖書箇所が引用されていて、新しい契約的な答えが与えられています。1コリント3章を見てみましょう。パウロがコリントの教会にこのように書いています。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(1節)ここに書いてあるキリストにある幼子とはどんな人でしょうか?幼子は肉的です。じゃあ、キリストにある幼子が肉的なら、霊的な人はどんな人でしょうか?成熟した人です。ですので、幼子と成熟した人がいます。肉的な人と霊的な人がいます。このように分けることができます。では、続けて読んでいきましょう。「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(2節)ここでパウロは何と言っているのでしょう?堅い食べ物を与えることができない、と言っています。そうです、パウロは今まで、そして、今でも、それは無理だと言っています。彼はこのことを3章で書いています。だから、パウロがこの手紙を書き終えた頃に、コリントの人達が変わったわけではありませんので、この手紙の中には堅い食べ物は何もないことが分かります。パウロはコリントの教会への手紙の中には堅い食べ物は含まれていない、と言っているのです。彼がこの手紙を書いた時には、堅い食べ物は手紙の中にはありませんでした。どれだけこの手紙を深く掘って捜してもありません。堅い食べ物を見つけることはできません。問題は私達は堅い食べ物について聖書とは異なる定義を持っていることです。今の時点ではこのセミナーを聞いてるだけで誰も癒しを実際には行ってはいません。でも、よく人々は私のところにやって来て言います。「おかげで、今日は深い学びがができました。良い堅い食べ物であるみことばをです。」

そう言ってくれることには感謝しますが、それは聖書が言っている堅い食べ物の定義ではありません。彼らは「私達はコリントへの手紙を読むことで、みことばを深く掘っているので、堅い食べ物を得ることができました。」と言っています。でも、聖書は、パウロはその手紙で、「堅い食べ物を与えることはできない」と言っています。ですので、コリントへの手紙には堅い食べ物はありません。気に入らないかもしれませんが、聖書にはそう書いてあります。じゃあ、コリントの教会への手紙の中に書いてあるすべてのことはどうなりますか?乳です。パウロは乳なら彼らに与えることができると言っていますよね?パウロは固い食べ物は与えることはできないけれど、乳なら与えることはできます、と言っています。だから、少なくとも1コリントへの手紙に書いてあることはすべて乳であって、堅い食べ物は含まれていません。パウロは3章ではそう言っていますが、それから9章後の12章では御霊の賜物やどのようにそれらを働かせるべきかについて書いてます。でも、私達はいつも何と言うか知っていますか?私達は「もし私が十分に霊的になったなら、十分に祈ったなら、十分に断食したなら、もし霊的になったなら、御霊の賜物のうちの一つでも働かせることができると思います。」と言います。それは違います!賜物は霊的な人々ではなく、肉的な人々のものです。コリントの教会の人々は肉的でした。でも彼らは御霊の賜物を働かせていました。彼らは霊的になる必要はありませんでした。しかし、多くの人々は御霊の賜物を働かせるようになる為には霊的になる必要があると考えるでしょう。賜物は私達を霊的にはしません。御霊の実が私達を霊的にします。(ガラテヤ5:22-23)賜物は与えられますが、実は成長したものです。賜物は幼子の為です。実は成熟した人の為のものです。

パウロは続けて3節でこう言っています。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」じゃあ私達はどのように歩むべきでしょうか?神の子達としてです。人のようにではありません。人のように歩むなら、悪魔のように歩むことになります。そうですよね?人の考えは、生まれつきの人の考えです。それは悪魔の考えと同じものであることを知っていますか?同じものです。それを証明しましょう。イエスが「聞きなさい、今から私は死ぬためにエルサレムに行きます」と言った場面を覚えていますか?そこでペテロが言います。「いいえ、そんなことは起きません。」それに対してイエスは言いました。「下がれ。サタン。」イエスがこのように言った(マタイ16:21-23)のを読んで、ある人は、「そら、ペテロは悪魔に取りつかれていた。」と言います。人々はイエスが「下がれサタン」と言ったので、そのように考えます。詳しく説明すると、「サタン」とは「敵対する者」という意味です。それは「あなたは私に反対している」と言う意味です。その言葉自体は、悪魔に取り付かれているという意味ではありません。ただ、あなたは悪魔のように考えている、という意味です。それから、イエスは言います。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(23節)なので、人のように考えるときには、神はあなたをサタンと呼ぶことでしょう。それは数分前に学んだように、生まれながらの人の考えは神の御霊に属することを受け入れることができないからです。(1コリント2:14)そうでしたよね?ですので、生まれつきの人の考えはサタンの考えと同じものです。生まれながらの人は悪魔のように考えます。キリストに贖われた人、すなわち、一新された考えを持つ人は神のように考えます。このように私達は神か悪魔のどちらかのように考えます。どちらか選ばなければなりません。私達は知性(考え方)を一新していくにつれて、より神のように考えることができるようになり、悪魔のように考えないようになります。単純ですよね?あなたが肉的で、肉の思いの時には悪魔のように考えます。でも、霊的で、御霊の思いにある時には、神のように考えます。(ローマ8:5-6)なので、私達の仕事は知性(考え方)を一新して、神のように考えるようになることです。前もって言っておきます。あなたが神のように考え始めると周りの人々から批判を浴びるでしょう。いいですか?ふつうは、彼らは怒り出します。特に宗教的な人々がです。それは彼らが宗教の悪霊を持っているからです。それが理由です。

次のことも覚えておくといいです。人々はいつも過去のことを話しに持ち出そうとします。ここにいるほとんどの人は過去の苦い経験をもっていると思います。私達はお互いの過去は知りたいとは思いませんが、それぞれ持っています。あなたがキリストにいのちをささげてていくにつれて知性(考え方)が一新されていきます。一番難しい事は、聖書のいう本当の自分として歩み始める事です。何故なら、周りの人はいつもあなたがどのような人だったかを覚えているからです。彼らはあなたを御霊に従ってではなく、肉にしたがってしか知りません。これを覚えておいてください。一度神があなたの罪を洗い流したら、彼はまだあなたの罪を覚えていますか?いいえ、覚えていません。神はそれらの罪を再び持ち出してくる事をしますか?いいえ、しません。じゃあ、誰がいちいち再び持ち出してこようとするでしょうか?悪魔です。ですので、いつでも正しく生き、正しいことを行い、するべきことをしようとする時に、誰かが、「自分を何様だと思っているのですか?あなたがこのようなことをしたのを覚えています。」と言うなら、覚えておいてください。そのようなことを言うのは神ではない、ということです。何故なら、神は私達の罪は思い出さないからです。(ヘブル8:12、10:17)そのように話すのは悪魔です。なので、彼らは誰の為に働いているかが分かります。単純ですね?

「でも、彼らはクリスチャンです」と言うかもしれません。多くのクリスチャンは悪魔の為に働いています。彼らにはそのつもりはありません。でも、彼らは悪魔の為に働いています。それには異なった教派や歴史的なことが関係してきます。しかし、私達が理解しなければいければいけないことは、誰かが何かを言ったからといって、それが正しいとは限らないということです。ですので、決して悪魔の言うことを聞かないでください。彼が誰を通して話そうとしてもです。通常、悪魔は頭の中の考えの中に話しかけてきます。まるで彼ではなくて、あなた自身が考えていると納得させようとします。悪魔は頭の中ではあなたと同じ声を使うからです。

神の御霊も悪魔もあなたの声を使ってあなたに話しかけます。何故でしょうか?それは通常、私達は物理的な耳では神も悪魔の声も聞かないからです。自分が歌っているのを録音して。それ再生して聞き直したことはありますか?自分が歌っている時には、エルビス・プレスリーのように聞こえますが、それを再生して聞いてみると、すごくへたくそに聞こえます。それに気づいたことがありますか?それを聴いて、「そんなはずはない。これは私じゃあない」と言うと思います(笑)。何故か知っていますか?それは自分が歌っている時には、自分の声を自分の内にある耳から聴きます。自分の内にある耳です。それをあなたの外で聴くときには、それを他の人が聴くのと同じように物理的な耳で聴きます。(彼らはあなたのうちの耳で聞くことができないので、かわいそうだと思いませんか?笑)そうすることで、外にある耳で自分の声を聴くことができます。でも、神が人に対して話しかける時には、神は霊を通して話しかけます。悪魔が話しかけるときも、彼も霊なので、同じように霊を通して話しかけます。なので、悪魔も肉を通して話しかけることはしません。では、悪魔が話しかけてきた時には、次のようにして霊を判断することができます。声の高さや、響きによっては判断しません。その話の内容によって判断してください。その内容よってのみ私達は誰が話しているのかを判断することができるからです。何故なら、聖霊も悪魔も声は全く同じだからです。彼らの声はどのように聞こえるか知っていますか?あなたの声です。何故でしょうか?それはあなたは彼らの声を自分の内にある耳を通して聞くからです。その耳からしか自分の声を聞くことができないからです。だから、彼らはそのようにしてあなたに話しかけてきて、あなたがそれを聞くときには自分の声のように聞こえます。それは内にある耳、霊の耳で聞くからです。なので、あなたの霊はあなたの肉とつながっています。分かりますか?その声を、外にある耳で聞く時には、声は響きと音量が伴ない、変化します。でも、内にある耳にはそのようなものはありません。内にある耳は響きや音量を区別することはしません。ただ、電気的な刺激に基づいてメッセージを区別します。ですので、神も悪魔も同じようにあなたに話しかけます。彼らはあなた自身の声のように聞こえます。あなたが誰が話しかけているかを判断する方法は、その内容が誰と一致しているかです。分かりましたか?そのようにして誰が話しかけているかを知ることができます。

では次に進みましょう。乳と堅い食べ物についてです。1コリントへの手紙の3章で、パウロが彼らには堅い食べ物を与えることはできないので、乳しか与えることはできないと言っているのを覚えていますか?では、ヘブル人への手紙を読んでいきましょう。パウロはコリントに手紙を書いたように、ヘブル人にも手紙を書いたことを覚えていますか?ヘブルの5章の11節です。パウロがメルキゼデクについて話しています。ここではどれだけ新しい契約が古い契約よりも優れているかを話しています。彼はこう言っています。「この方について、私たち(パウロと彼の仲間のことです)は話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、解き明かすことが困難です。」パウロがその話すべきこと自体を話すことが難しいとは言いませんでした。ただヘブル人達に伝えるのが困難であると言いました。それは、彼らの耳が鈍くなっているからです。そうですよね?ですので、パウロは自分が何を話しているかは知っていましたが、彼らがそれを理解して受取ることができませんでした。パウロは続けてこう言っています。「あなたがたは年数からすれば(彼らがクリスチャンになってから経た月日のことです)教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。(言い換えると、基本に戻るということです)あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」(ヘブル5:12)つまりパウロは彼らを霊的ではなく、肉的であると言っています。ここでパウロは彼らに向かってこう言っています。「あなたはいつもこのようではありませんでした。以前は神と共に歩んでいましたが、明らかに今は耳が鈍くなってしまいました。あなた達は堅い食べ物ではなくて、再び乳が必要な人になってしまいました。」パウロは肉的、霊的な人の定義を説明しています。「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。(何故でしょうか?)幼子のなのです。」(13節)だから、肉的であって、霊的でないことは幼子であるしるしです。それは乳を必要とする人のしるしです。1コリントの手紙で説明したことを覚えていますか?コリントへの手紙はすべて乳でした。ここでは乳を必要とするものはまだ幼子だと言っています。でもある人はこう言うかもしれません。「でも、ちょっと待ってください。コリントへの手紙がすべて乳なら。コリントの教会への手紙ばかり読んでいるなら、まだ幼子であるという意味ですか?」そうです。もう少し説明させてください。

続けて読んでいきます。すぐに答えが明確になると思います。ここでパウロがこう言っています。「しかし、堅い食物はおとなの物であって(成熟した人です)、(続いて、パウロが霊的な成熟さを説明しています)経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(14節)もし自分の感覚を訓練していなかったら、もし自分の感覚を使っていなかったなら、もしその感覚を用いていなかったなら、感覚は訓練されることはないし、良い物と悪い物を見分けることはできません。ですので、「それは神からのものですか?それとも悪魔からのものですか?私には分かりません?」というようになってしまします。何で分からないか知っていますか?それは自分の感覚を訓練していないからです。学んでいることを実践していないからです。みことばを聞く人であっても、実行する人ではないからです。みことばを聞くだけで、実行しないなら、自分を欺くことになります。(ヤコブ1:22)聖書のみことばのすべてのことがつながってくることが分かりますか?

ここで注目してください。パウロが続けて言います。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして(いわゆる基礎的なことです)、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」(ヘブル6:1-2)ここでパウロは死んだ行いからの回心、手を置く儀式を行うことや、神に対する信仰ではなく、成熟を目指して進もう、神に対する信仰を教えることばかりしないで、それによって実際に歩もう、と言っています。神に対する信仰は基礎的なことです。初歩の教えなので、毎日教える必要があるものではないことに気が付きましたか?

でも今の教会ではどうして私達はそれを何度も教えなければならないでいるか知っていますか?それは私達はいつも全体集会の中の一番新しい人の基準に合わせて教えているからです。それは常に全体集会に新しく入ってきた人を後残しにすることを怖れて、乳ばかり与えているからです。だから、いつまでたっても堅い食べ物に進むことができないからです。なので、基本的なことを何度も繰り返し聞くなら、幼子のままに留まることになります。

ではどうなるべきでしょうか?全体集会が無くなるべきと言っているのではありません。でも、信じる者のための集会もあるべきです。伝道のための集会もあるべきです。すでに基礎的なことを知っている人達のための集会もあるべきです。いちいちそこで話すことが理解できるようになるために、基本的なことを45分間もかけて説明しないでもいいためにです。そのようにするときに教会はまるで学校のようになります。そして、教会が学校になる時、いちいち人々を聖書学校に送る必要はなくなります。彼らは教会で学ぶことができます。そうすれば、教会の中で、使徒や、預言者や、伝道師や牧師や教師が生まれてきます。いちいち聖書学校に人を送り、始めは熱意に燃えていても、帰ってきたらすっかりその熱意も冷めてしまっているというようなこともありません。

私が勧める聖書学校はほんの一握りだけです。実際には一つだけです。(1995年の時点)それは私の学校ではありません。機会があれば私の学校に来るように勧める、私の勧める学校は違います。私は多くの人々が様々な聖書学校を卒業するのを見てきました。でも、もし私が病気で死にそうなら、祈ってもらうために彼らを呼ぼうとは思いません。何故なら、彼らは神に対しての信仰を持っていないし、神のことも何も知りません。それらの学校はただ口の達者な説教者を輩出するだけです。それを見ると嫌気が差します。正しいことばをいつ使うかを知っていて、カメラに向かってどのようにポーズをとるかだけを知っている説教者が嫌いです。私はこう言ったことがあります。「いつの日か、神が私に衛星ネットワークを与えてくれてて、RCNとでも名付けます。本当のクリスチャンネットワーク(Real Christian Network)という意味です。その名前の理由は、番組の中の人は青いジーンズを着た本当のクリスチャンだからです。20万円もするようなスーツも着ないで、真実を語ります。何も聖書と関係のないような、誰も助けることのできないようなことは教えません。」でも、今は衛星ネットワークは欲しくはありません。そのための時間はありません。

ある年配の女性が私のもとに来て言いました。「私は困惑してます。みことばを今まで理解していたと思ったのに今は困惑しています。」私は尋ねました。「あなたは何を聞いているのですか?誰の教えを聞いているのですか?」彼女は答えました。「私は朝起きてクリスチャンテレビをつけて、家事などをしながら、昼までそれをつけたままにしておきます。」私は言いました。「それが問題です。そのテレビを消してください。そのテレビには6人の異なった人達が出ていて、6つの違ったことを教えています。それらのうちどれも正しい教えではないので、困惑するのは当たり前です。そのテレビを消してください。そうすればすぐに頭の中が明確になってくると思います。それは人の考えではなく、神から直接聞く時間ができるからです。」

私はTBNがなんで、私をクリスチャンテレビのプログラムに入れてくれないのかと不思議に思いますね(笑)。-冗談です。

ですので、パウロはこれらのすべては初歩的なことだと言っています。次はヨハネの福音書の4章の5節から読んでいきます。今から何が乳で何が堅い食べ物かを説明していきましょう。「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―」ここで宗教的な党派心を見ることができます。彼女はイエスが彼女に話しかけただけでも驚きました。「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」(ヨハネ4:5-10)

ここでは、この「生ける水」が何を意味するのかを知る必要があります。その当時、「生ける水」とは動いている、流れている水のことを指していました。今の教会には洗礼用の水槽があります。しかし、ユダヤ人はそのような水槽では洗礼を行いません。何故でしょうか?それはそのような水は流れる水ではないからです。死んでいる水です。それは貯められているからです。先日私が言ったことを覚えていますか?ですので、その水は水槽の中に留まっているので、そこでは洗礼を授けません。その人が水に潜水した時には、罪は洗い流されます。でもまたその外に出てきたときには罪がまた戻ってくると考えるからです。もし、信じられないなら、自分で調べてみてください。では、イエスが「生ける水」と言ったときには、彼女はこう言いました。「「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」(11節)なので、イエスが生ける水と言ったときにはそれは動いている水のことを意味しました。それは神の御霊のことを意味しました。そうですよね?これから何が分かるでしょうか?神の御霊は何ですか?いつも動いています。なのに、何故私達は神の御霊が動くのを待っているのでしょうか?彼は動いています。それなのに何故あなたは動いていないんですか?イエスは御霊は川のように、湧き水のように生ける水の川が流れ出て、永遠のいのちへの水が湧き出ます。永遠のいのちへの水が湧き出ます、と言いました。(13-14節)そうですよね?そこには永遠のいのちへの流れがあります。

もしかしたら、あなたが動いていないなら、永遠のいのちに向かって動いていないかもしれません。それが神の御霊です。彼はいつも動いています。ある人はこう言うかもしれません。「でも私は神を待っているんです。」「いいえ、神があなたを待っています。彼はもうあなたが行くべき所にいます。彼はもう動いています。」それでも、「ええ、でも私は神よりも先に走って行きたくはありません」と言うかもしれません。誰もそんなに早く走ることはできません。神よりも先へ行くことはありえません。それでもこう言うかもしれません。「でも、もし間違いを犯してしまったらどうするんですか?」間違いは犯すでしょう。でもそんな時には、神はすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)、という有名な聖書箇所を使うことができます。神は私達のへまも、直すことができるくらい、偉大な方だと信じる必要があります。私達は神がカバーできない程のへまな行うことはできません。だから、あなたが前進していく中で行うへまは神はカバーすることができます。でも、唯一、彼ができないことがあります。それはもしあなたが何もしていないなら、あなたを変えて、何かさせることはできません。ですので、一番最悪なことは何もしないことです。アーメンですか?手も何も動かさないで人を死なせるよりは、間違いを犯してでも、何かをするほうがましです。そうですよね?

ルワンダの例が私達のその罪でした。私達は座って、80万の人々が政治のために死ぬのを見ました。世界中でどこでも誰かの死は私達の責任です。ある米国憲法制定者はこう言いました。「アメリカは偉大です。何故なら、アメリカは善を行うからです。アメリカが善を行わなくなった時には、アメリカは偉大ではなくなります。」そして、私達はその方向に傾いていっていることに気が付かなければなりません。私達はまだ宣教師などを送り出したりしていますが、もう少し道義をわきまえる必要があります。何故なら論理は、妊娠中絶は良いと言うからです。論理では、それはいつも正しいようになっています。でも例えば、もし誰かがレイプされたら、妊娠中絶の判断は正しいように取れますが、論理はいつも神の義と聖さに一致するとは限りません。ですので、私達は何が真理で、絶対的なものかを見つける必要があります。いいですか?悪魔は絶対的なものを憎みます。

では、彼女は12節で、こう言っています。「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」」(12節)ここで、イエスが言っていることに注目してください。「「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(14節)彼女がちょうど、「あなたは、ヤコブよりも偉いのでしょうか?」と言ったことに注目してください。イエスだけが、「そうです。私はヤコブよりも偉大な者です。」と言うことができたことがわかりますか?彼はそう言うことができましたよね?でも、彼には少しもエゴがなかったことに気が付きますか?彼は自分がそのような者であることさえも認めませんでした。彼は自分が誰であるかさえも言いませんでした。彼は自分が誰でないかも言おうとはしませんでした。彼が何をしようとしていたか分かりますか?彼は彼女に焦点を当てていました。彼は言いました。「女よ。わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(14節)彼は何をしようとしているのでしょうか?彼は彼女に焦点を当てています。彼は彼女の質問を完全に無視して、問題の核心を扱いました。彼は彼女の心に届こうとしていました。彼は言いました。「女よ」「 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」」(13-14節)初めに戻ってください。この水を飲むなら、再び乾きます。しかし、私(イエス)の与える水を飲むものは、決して乾くことはありません。そうですよね?何人の人が彼の与える水を飲んだでしょうか?あなたはイエスの与える水を飲みました。あなたは生ける神の御霊を受けました。

では、質問させてください。このような歌を歌ったことがありますか?ペンサコーラリバイバルから生まれたものです。それらのうちの大半の歌はいいものですが、そのうちいくつかは私は歌いません。それらの歌を作っり、歌った人達を知っています。彼らに言ったこと以外は言いませんが、彼らが歌った歌のうちの一つは、「主よ。私達は渇いた、砂漠の地に住んでいます。あなたの雨を送ってください。」というものです。この部分は私も歌うことができます。でも、次の部分は歌うことはできません。「主よ。私は渇いていて、のどが渇いています。あなたの雨を私にください。」この部分は歌うことはできません。何故でしょうか?それは私は彼の水を飲んだので、決して渇くことはないからです。それでもある人は言います、「でもあなたは渇きませんか?のどが渇きませんか?神の事柄のために渇く必要があります。」いいえ、渇きません。新生するまでは、渇いています。でも私は新生してイエスの水を飲んだので、もう渇くことはありません。それが私はリバイバルを求めない理由です。私にはリバイバルは必要ありません。私自身がリバイバルです。私はあそこに行ったり、ここに行ったりして、神に触れてもらうことを求めません。私は逆に人々を癒すために外に出て行き神のいのちをもって人々に触れます。

ウィリアム・ブース(William Booth)は1904年に英国のウェルシュ(Welsh)での大リバイバルが起こっている時に、そのように言いました。人々はそのリバイバルを見に行きたがりました。彼も見に行きたいと思いました。人々は彼に尋ねました。「あなたはリバイバルを見に行きますか?」彼は言いました。「いいえ、私は行くことはできません。」彼らは何故かと訊きました。彼は答えました。「それは私がそれを閉めてしまうからです。」彼らは言いました。「リバイバルを閉めてしまうのですか、何故ですか?何が間違っているのですか?」彼は答えました。「そのリバイバルに何も間違ったことはありません。私はそれを気に入っていますし、それに賛成します。」彼らは訊きました。「じゃあ何故、それを閉めてしまうのですか?」彼は言いました。「それは私はリバイバルよりも大きいからです。もし私がそこに言ったら、人々の注目はリバイバルよりも、私に注がれてしまうからです。」わかりますか?彼は神に燃える為にリバイバルに行く必要はないことを知っていました。彼はすでに自分が神の働きをしていて、彼自身がリバイバルであることに気が付いていました。

私達は新しい流行を追い求めることも、神に触れてもらおうとすることも止めるべきです。「よし、ペンサコーラリバイバルに行きましょう。トロントリバイバルに行きましょう。カンザス市に行きましょう。」のように言わないでください。自分に向き直ってください。どうですか?代わりに、ただ、「そうだ、神は私のうちに生きていて、私のうちに働いています。」と決心したらどうでしょうか?目を覚ましたらどうですか?聖書には、新約聖書には、どこにも私達にはリバイバルが必要であるとは書いてありません。何処にもありません。もし、新しい遺言にあずかっているなら、新しい契約にあずかっているし、クリスチャンであって、あなたがリバイバルです。すべてのリバイバルは旧約聖書でのことについてです。新約聖書ではリバイバルについて何と言っているか知っていますか?目を覚ましなさい。目を覚ましなさい!あなたはすでにリバイブしていて、死んではいません。ただ、義に目を覚まして(1コリント15:34 King James Version参照)、イエスが与えた自由にあって歩く必要があるだけです。それがここで私のしていることです。あなた達の目を覚ましています。そうですよね?私達はリバイバルを起こそうとはしていません。私達は目覚めているのです。

では、ここで彼女は言っています。「『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」ここでイエスは彼女は姦通者であると言っていることに気が付きましたか?彼女は姦通者です。ここで説明されています。ここで彼女が何をするかに注目してください。彼女はひれ伏して、「主よ。あなたは正しいです。悔い改めます。」とは言いません。彼女はこう言います。「『先生。あなたは預言者だと思います。』」彼女は急に宗教的になりました。イエスは彼女の罪を明らかにしましたが、彼女は彼は預言者だと言いました。ここで彼女が何をしたかに注目してください。彼女は、「あなたは正しいです。それが私の心の中です。私は罪の中にいます。」とは言いませんでした。彼女はこう言いました。「『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』」彼女は何をしましたか?「そうですね。それは私の罪です。でもそのことは置いてい置いて、今話題の宗教的なトピックについて話しましょう。どこで礼拝..」というように、話題を変えました。彼女のことから礼拝のことに変えました。宗教的な人は何をしますか?彼らも全く同じ事をします。彼らは罪についての説教は聞きたがりません。それは彼らが罪に中にあるからです。彼らは言います。「私達は賭け事に反対して説教する必要がありません。賭け事について話す必要はないと思います。」何故そう言うか分かりますか?それは自分が弁護する罪は、自分の犯している罪だからです。大抵そうです。そして、もし直接でなく、間接的にでも弁護するなら、その罪にどこかであずかっています。わかりましたか?私達は罪に対しては戦わなければなりません。(へブル12:4)どんな罪に対してもです。

ここでイエスはこう言ってます。「イエスは彼女に言われた。(21節です)『私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」イエスは普段はこんなことは言いません。彼は続けてこう言いました。「このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、『何を求めておられるのですか』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか』とも言わなかった。女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこへ、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」

31節です。「そのころ弟子たちはイエスに、『先生。召し上がってください』とお願いした。」弟子達は食べ物を買いに出かけていったことを覚えていますか?彼らは戻ってきて、「先生召し上がってください」と言いました。「しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」」堅い食べ物と乳について学んできたことを覚えていますか?神のみことばを聞くこと、神のみことばを読むこと、コリントの教会への手紙を読むことです。これらのことはすべて乳です。堅い食べ物ではありません。パウロは堅い食べ物を与えたいが、それを与えることはできないと言いました。彼はヘブル人への手紙で、彼らは以前は堅い食べ物を受けることができたけれど、今は、できないので、乳を飲みなさいと言いました。何故でしょうか?何故なら、彼らが義の教えに通じていないからです。では、何が堅い食べ物であるかに注目してください。イエスは言いました。「『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』」それに対して、弟子達が何と言ったかに注目してください。「そこで、弟子たちは互いに言った。『だれか食べる物を持って来たのだろうか』」「 イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」(ヨハネ4:33-34)

では、堅い食べ物は何でしょうか?堅い食べ物は聖書のことばの深い意味ですか?「ヘブル語やギリシア語で調べて、もっと深く掘って、堅い食べ物を得ましょう?」というものでしょうか?違います。乳は、みことばを知り、みことばを聞き、みことばを宣べ伝えることです。堅い食べ物とはみことばを行うことです。それが違いです。それが乳と堅い食べ物の違いです。誰でも一生座って、みことばを聞く人であっても、みことばを実行する人にならないで、自分を欺くことはできます。(ヤコブ1:22)しかし、みことばを実行し出すと、乳は堅い食べ物になります。

これに注目してください。イエスはそこで言いました。「『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』」これは私達がいつも言うことばのようではありませんか?それに対して、彼は言います。「さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」 「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ4:35-36)イエスは、「あなた達は『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言っています。「でも、あなたに言います。今が刈り入れ時です」と言いました。ある人は言うでしょう。「でも~、私は正しい機会が来るのを待っています。」いいえ、聖書は言っています。「福音を宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くてもそうしなさい」(2テモテ4:2)ギリシア語では、「機会があっても、なくても」という意味です。私達はいつもみことばを宣べ伝えるべきです。「でも~、私は正しい時を、正しい状況を待っています。」私達が正しい状況を待っている間に、人々は死んでいっています。特にもし悪魔が私達が正しい状況を待っているのを知っているなら、なおさらそうです。ですので、いつもみことばを行うことは正しいことです。「4ヶ月待ちます。」「私は準備ができていません」と言わないでください。あなたが準備できているかどうかは関係ありません。大切なことは畑は刈り入れ準備ができているということです。分かりましたか?畑が準備ができた時には、それが準備ができた時に刈り入れなければいけません。刈り入れたいときにではありません。イエスはいつも畑に重要性を置きました。働き手ではありません。何故私達はいつも働き手の準備ができるのを待っているのですか?働き手は準備ができています。刈り入れをするためには特別な技術はいりません。ただあなたは働くことができる状態でいる必要があるだけです。しかし、私達は特別な技術を手に入れようと努力を続けて、「準備ができたら、刈り入れをします」と言うのを待っています。その間に、刈り入れるたましいは死んでしまいます。私達が刈り入れ時を逃したからです。それは私達の責任です。自分のことを心配することを止めてください。自分のことを頭の中から追い出してください。それがキリスト教の焦点です。人々のたましいの刈り入れについて考えてください。それがキリスト教の焦点です。

Neylor Stevo