神癒技術者訓練 – セッション15

神癒技術者訓練 – セッション15
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション15

それではこのセッションでも色々なことについて話していきます。前回の続きで癒しは贖いの中に含まれていることも話していきます。よく祈ってもらった時に、薬を服用しているなら、もし何も変化が現われない場合には続けて薬を飲み続けるべきかどうかと言う質問を受けます。薬のことに関しては個人的なことなので、私は何もアドバイスをすることはできません。薬に関してはその人が自分で扱わなければいけない問題です。私は神の導きがあるまで待つ人の気持ちも分かります。それはそれでいいと思います。私はそれに反対ではありません。でも、私は自分で決断して前に進んできたことも覚えておかなければいけません。私は他の人には自分のしてきたことは勧めません。今まで私が行ってきたことも最終的には神は恵みによって良いものに変えてくれました。でも、悪影響を及ぼしたこともありました。一番大切なことは前に進み続けることです。前進したいことはいいことです。成長したいこともいいことです。でも、そのために誰かを危険な目にあわせることは絶対にしないでください。

例えば、もし頭痛を持ちでアドヴィルかタイレノールや他の薬を飲んでいるとします。それらの薬を飲むのを辞めて、神を信じることにしたとしても死ぬことはありません。でも、もしも糖尿病を患っていて、そのためにインスリンを投与しています。そこで、急にインスリンの投与を辞めて、神を信じようとする人には先ず最初は頭痛の場合から神を信じる事を勧めます。私の言っていることが分かりますか?でないと、私があなたを死人からよみがえらせることになるかもしれません。私達は分野別に成長していくものです。でも私が最初に死人をよみがえらせた時には全く準備はできていませんでした。死んだのは自分の娘でした。私は何が何でも諦めない決心ができていました。なので、多くの場合に重要なことは腰が据わっていることと、諦めないことです。ここで伝えたいことは、私達が薬を飲み続けても、神の癒しの力は止まらないということです。薬は神の癒しの力よりも強くはありません。現実的に私達が癒しの為に祈っており、その人が癒されたら、その人のからだは薬に過剰反応するようになります。もし、そのようにからだが薬に反応するようになったら、それによって癒されてきたことがわかります。もし医者に通っているなら、彼らは、「もう薬は飲まなくてもいいですよ。」と言うでしょう。癒されたなら、その人は薬の服用には関係なく癒されたからです。私達は癒しが目に見えて現われる事を熱心に求めます。何故なら癒しが現われる為に20年もの間待ったりしている人もいます。彼らは言います。「私は癒しの為に堅く立っています。」どれだけの間立っているんですか?ある人は言います。「15年間です。」それは長すぎです。私達はもっと早く癒しが目に見えて現われる為に押す必要があります。

前にも言ったように2つのタイプの人々がいます。消極的な人と攻撃的な人です。悪魔は私達がどのタイプの人か知っています。もし、私達が消極的なタイプの人なら、敵は私達を致死に至るような急性の病気を持って攻撃してくることはありません。そうです。私達はいきなり倒れて死ぬということはありません。通常、私達が消極的な場合は、敵は慢性の長引いて死んでいくような病気で攻撃をしてきます。

逆に私達が攻撃的な人なら、つまり、もし私達が攻撃的な個性や性格を持っているとします。それなら通常敵は慢性の、ゆっくり働くような病気で攻撃してくることはありません。敵は急性の、すぐに殺すような病気で私達を攻撃してきます。

それには次のような理由があります。もし悪魔が私達が消極的であると知っているなら、悪魔は私達を長引く、慢性の病気で攻撃しても私達はそれに対して何もしないでしょう。それを受け入れるでしょう。そして、それに耐えることでしょう。悪魔はゆっくりと時間をかけて苦しめることを誰よりも好みます。何故なら、悪魔は人々が痛みを経験することを喜ぶからです。彼は人々が傷つくことに喜びを見つけます。苦しめることは彼の最上の喜びです。

しかし、もし私達が攻撃的な人々なら悪魔はもし私達をすばやく殺すことをしなかったなら、私達がカウンター攻撃をすると知っています。ただ病気で伏せているだけではないと知っているので、心臓病や脳卒中などによって私達をすばやく殺そうとします。

私の仕事はあなた達を攻撃的にすることです。それによって、悪魔はあなた達を慢性の遅い病気によってではなく、急性の病気などによって攻撃してくることになります。そうですよね?それを聞いてうれしいですか笑?それの良いところは、あなた達はもうこれ以上病気やわずらいのなどの悪魔の攻撃に忍耐しないで良いことです。アーメン。そして、もしあなた達が攻撃的になるなら、あなた達はある領域において受身的から攻撃的になります。悪魔はその領域をほうっておくことはしないでしょう。でも同時にあなた達はその悪魔が攻撃してくる領域において悪魔があなたを嫌がるようになるまで成長することができます。そのうち悪魔は私達を避け始めるでしょう。

実際に、私達はそのような状況を経験したことがあります。ある男性が癌のために死にかけていました。彼は余命3ヶ月を告げられて、4ヵ月後も、まだ生きていました。彼はいつ息を引き取ってもおかしくありませんでした。彼らはある家族に電話して、その家族が私に電話してきたので私はダラスのウェイコーに向かいました。彼の癒しのために祈るためです。その時は私だけで向かいました。私は彼の家族と話した時には、彼は取り乱していました。私は彼らと少し話し、彼らは言いました。「でも…」。それは何故私がこう言っていたからです。「あなた達は今からこのようなことが起こるでしょう。祈った後、彼の体温は少し上がりますが、それは熱ではありません。少し体温が上がるだけです。それは悪いことではありません。良いことです。でも、もし熱が高くなりすぎるなら危険です。でも、急激な変化なら通常24から48時間以内に気が付くでしょう。なので、もしそのような変化に気が付いたなら、私に電話してください。もし必要なら、また彼の為に祈ります。」でもなんと私の話している女性は言いました。「おかしなことなんですが、彼はこの癌を4年間くらいの間からだに持っていましたが、あなたがここに着く15分前に、私達があなたが来ることについて話している途中に、突然彼は緑色のべっとりとした塊を吐き出しました。」彼は今までそのようなことを一度もしたことはありません。看護婦もその場にいたので私は彼女に訊きました。その時の状況をもう一度説明してもらえますか。そして、彼女は答えました。「こんなことが起きたのは初めてでした。とても驚きました。私達があなたがここに来ることについて話し出すと、彼は意識はないのに、突然起き上がってその緑色のべっとりとした塊を吐き出しました。看護師達はベッドシーツを変えなければいけませんでした。そして、その塊を処理しました。」私は訊きました。「彼らはその緑色の塊はどうしたんですか?」彼女は言いました。「トイレに流しました。」私は言いました。「わかりました。」彼女は、「何故そんな事を訊くんですか?」と言いました。私は説明しました。「それは、これでもう終わったことが分かるからです。彼はもう大丈夫です。」彼女は言いました。「何故ですか?それはどういう意味ですか?」そして、私は言いました。「それはいつ起きたんですか?」彼女は言いました。「私達があなたがやって来ると言った。すぐ後です。」私は言いました。「だから、私はもう終わったと分かります。敵はまた後で戻ってこようとするかもしれませんが、今の時点では、彼は癒されました。何故でしょうか?それは私達は地獄での評判を確立したからです。なので、私達がそこ場所に着く前に、その癌は去りました。」わかりますか?あなたも同じことができます。

同じような攻撃的な姿勢をレスターサムラル氏も持っていました。彼が海外に行く時に飛行機が着陸した後、飛行機から降りてアスファルトの上を通りターミナルまで行くまでに距離を歩きます。彼を先頭にして人々が飛行機から降りてくる時に聖書を飛行機の中に忘れてきた時がありました。彼はそばの人に、「戻って、聖書を取ってきなさい」と言いました。その男は何故サムラル氏が自分で取りに行かないのかは考えませんでした。サムラル氏の周りにはいろいろな事を手助けする人がいました。そして、その男はサムラル氏に、彼の持っていた聖書を手渡しました。そして、その男は訊きました。「サムラル氏、どうして、私を送り返して、聖書を取ってくるように言ったのですか?聖書が何処にあるのか知りません。あなた自身が行って取って来ることができたのではないですか?」。しかし、サムラル氏は答えました。「それは、私は絶対に引き返すことはしないからです。」。分かりますか?そのような心構えはサムラル氏の内にいつもありました。ある人々はそのようなことをするのは大げさであると言うでしょう。それはただの彼のこだわりでもあります。しかし、私達もそのような姿勢を身につけるべきです。彼は霊的領域において私が共にいた人々の中でパテンに最も近いものでした。サムラル氏が毎回飛行機から降りて、人々が彼の後ろに続いて待っている時に、彼はアスファルトに足を置いた瞬間に叫びました。「おい悪魔。ここにやって来たぞ。」。彼が叫んだときにはまるで天と地の注目が彼に集まるようでした。

天と地の注目が集まるとはどういう意味でしょうか。神の子供達がしゃべる時には、天はそれを聞いて、賛成します。地獄はそれを聞いて、従います。分かりましたか。神の子供達がしゃべる時には、天はそれを聞いて賛成します。何でも私達が地で縛るものは、天でも縛られます。(マタイ16:19)そうですよね?地獄はそれを聞いて、それに従います。サムラル氏がそのように叫ぶたびに、すべての霊や、霊的なものが、彼の声に気が付くようでした。

まさに軍隊のようなものです。例えば、軍隊の寮の部屋に位の高い、上級の、士官が入ってきた時などには号令がかけられて、すべての人々が注目します。何故でしょうか?それは上級の士官が入ってきたからです。それがサムラル氏が地面に足をついた時にも霊的な領域で起きたことです。

クリスチャンがその部屋に入る時にも同じことが起きます。分かりますか。それは私達の知っていることが私達のうちから溢れ出てくるからです。私達が誰かと会い、握手をする時には霊的領域において瞬間的なチェックがあります。それはまるでお互いのうちを読んでいるかのようです。私達の霊は彼らを読み、彼らの霊は私達を読みます。あなたの霊は階級を見定めようとします。私達が何処の階級に立っているかです。彼らよりも上にいるか、下にいるかです。そして瞬間的に私達の霊は相手が私達よりも霊的に強いか、それとも霊的に弱いかを見分けます。霊は自動的にそれを見分けます。一度このような権威の構成を理解すれば、私達が部屋に入った時には誰が霊的に強くて、どの階級にいて、自分がどこに当てはまるかを見分けることができます。

そのような霊的な領域における階級づけが起きます。そして、私達はどのように上の階級に上がるのかを知る必要があります。それは自分自身を売り込んだり、宣伝することによってではありません。ただなすべきことをするだけです。単純に自分の仕事をこなしていくなら、昇級していきます。例えば、仕事をこなすのは牛です。実際に結果を出すのは見栄えのいいだけのアラビアの馬ではなく、毎日、淡々と機械的に仕事をこなす牛の方です。

このように霊的領域には階級があります。学ぶべきことは、どのように昇級するか、又は昇級させられるかです。どのようにして私達が自分自身を昇級させるかについてではありません。私達は宣伝も、目立つこともしません。ただ仕事をこなします。もし昇級する為には何をするべきかを学ぶなら、私達はわざわざ目だって仕事をする必要はありません。ただ黙々と仕事をこなします。そうですよね?仕事を成し遂げるのは牛です。美しい、飛び跳ねているアラビア馬ではありません。計画的に毎日こつこつと耕し続ける牛です。そのような牛が仕事を成し遂げます。アーメン。

「神は病気やわざわいを用いて何かを教えるというような考えによると、聖霊は病気である、又は、聖霊は病の霊になります。」それは私達にすべてのことを教えるのは聖霊だからです。聖書は私達は誰からも教えを受ける必要がないと言っています。(1ヨハネ2:27)私達のうちにはキリストの油そそぎがあり、彼は私達にすべてのことを教えるからです。なので、私達が神の御霊や神について学ぶことはすべて神の御霊によって学びます。神の御霊は他の人を通して教えてくれることもあります。なので実際にはあなた達が学ぶ為に私は必要はありません。もしあなた達が私と同じ熱心さ、同じ状況に置かれているなら、私と同じ知識や成功を得ることができます。そして同じ結論に至ったと思います。何故なら、私にいろいろ教えてくれた同じ聖霊があなた達のうちにもいるからです。わかりますか?

それならある人は疑問に思うと思います。「じゃあ、私はここで何をしているんですか?3日間もここに座って、あなたの言う事を聞いているんですか?」それは私は自分が30年間勉強して学んできた事を3日間であなた達に与えることができるからです。私は今教えている事を30年間実行してきました。それを3日間で与えようとしています。なので私はあなた達のところに来て教える必要はないかもしれません。でも、もし自分でそれらを学ぼうとするなら3日ではなく30年間かかるかもしれません。これらのことを教えることによって、あなた達を一気に学ばせてジャンプスタートさせます。それは私が30年間かかって経験してきた事をあなた達が経験しなくてもいい為です。アーメン。私がこれらのことを教えている理由がこれです。

聖霊が私達の教師です。私達が学ぶことはすべて聖霊によるものです。私達は聖霊によって神や神の御霊についてのすべてのことを学びます。(1コリント2:11-14)それを聖書によって証明しましょう。私達が学ぶことはすべて聖霊によるものです。だから聖霊は私達の教師です。なので、もし私達が病を持っていて、「この神はこの病によって私に何か教訓を教えようとしている」と言うなら、私達は聖霊がその病気を与えたと言うことになります。

私達がそのように言う時には、聖霊を冒涜することに限りなく近いことをすることになります。それはパリサイ人達がイエスに対して言ったことと同じ論理です。ニコデモという、パリサイ人がイエスの下にやって来て、「私達はあなたが神から遣わされた者であることを知っています。神があなたと共にいるので、あなたは人にはできないことをなさいます。」と言いました。ニコデモはそのようにイエスに言いましたよね?(ヨハネ3:1-10)ニコデモは個人的にイエスの下にやって来ました。しかし、他のパリサイ人達は公的に、「このイエスは悪霊を悪霊の頭であるベルゼバブによって追い出している」、と言いました。それがイエスが、「あなたの罪は残ります。」といった理由です。何故なら、真理を知っているのに、自分の地位を守るためにそれに反することを言うからです。では、実際には病気を神の働きだと言うなら彼らは何と言っていることになるのでしょうか?彼らは悪魔の働きを、神のわざであると言っていることになります。

病気やわずらいを通して神は何かを私達に教えようとしているというなら、私達は悪魔のしわざを神のわざとみなしていることになります。これは逆のことですが、パリサイ人達がしていたことと実は同じことではありませんか?なので、これからは決して、神は病気や患いを送って何かを教えようとしているとは言わないでください。私がいつも驚くことは医療の進歩に従って、人々が神の御心を変えようとすることです。何故なら、彼らは新しい病気の為の治療薬が開発されるとその病気の癒しは神の御心だと言い出します。

「神はこの病気やわざわいを使って私達に何かを教えようとしている。」と言って、病気を神の責任にしてあなたの病気やわざわいからの現実逃避をすることを止めてください。確かに神はどのような状況からも何かを学ぶことができる為にその状況を用います。しかし、ある人々は、「神は私が神に立ち返るために、その前に私に心臓病を与えなければなりませんでした。」と言ったりします。もしそれが真実なら、心臓病になって死んでいく人々は神のせいで死んでいくという意味です。彼らは神に立ち返ることをしなかったからです。そうですよね?もし神が心臓病を与えるなら、すべての心臓病は神が与えたものです。何故なら、神はえこひいきはなさらないからです。(ローマ2:11)

だから、そのような論理に従って神が病気を与えると言うなら、私達は自分達の責任を回避して、それらの病気やわずらいを神のせいにすることになります。悪魔の教義や、人の習慣やおしえはすべて同じ結論に至ります。その結論は私達の責任を自分から取り除き、すべてのことを神の責任にするものです。私の仕事は人々がそのように考え、被害者のように行動することを止めて、勝利者として行動するようにさせることです。人々が神の下に来て、神のみこころに賛同して、神は私達が勝利するためにすべてのことをすでに整えてくれていることを知ることです。そうです。神はすべてのことを整えてくれました。私達が居心地よくくつろぐことによって神に栄光が帰されるのではありません。良い時でも、困難の中にあっても、病気やわずらいの中にあっても、神に栄光を帰すことはできます。確かに病気の中にあっても堅く立ち、神に栄光を帰すことはできます。しかし、病気になることは神の御心ではないことを知ってください。病気に耐えて、神に栄光を帰することは、私達が自分の力によってその悪い状況を良いものに変えることです。でも人々はそのような状況を、「神がそのような病気の状況を良いものに変えてくれた。」と言います。それは違います。それはその人々自身がしていることです。神はどのような形にしろ、私達が神に栄光を帰することを喜びます。でも私達が癒しなどの神がすでに与えてくれた力にあって歩んでいないからといって、神を病気やわずらいや悪いことのために責めることはしないでください。何故なら、聖書には、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1-3)と書いてあります。そうですよね?忘れないでください。神はそれらを忘れることはしません。それらの良いことは、「神はすべての咎を赦し、すべての病を癒す」ことです。それらは神が私達に与えてくれたことです。アーメン。

次は、神の癒しは主の聖餐についての聖書箇所とつながっています。主の聖餐はキリストの購いについてのことです。これによって神の癒しと救いの2つが1つものであることが証明されています。1コリントへの手紙11章23節で、パウロがコリントの教会へ言っています。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための(裂かれた)、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」」イエスは十字架に付けられる前に、むちで打たれて、裂かれたように、最初にパンを裂いたことに注目してください。イエスはパンを手に取りそれを裂き、それから杯を取りました。次に何が書いてあるかに注目してください。「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」」では、私達は初めに何をしますか?私達はまずパンを裂き、そして、杯を取ります。ここで最初にパン(場合によってはクラッカー)を食べて、次にジュースを飲むことに感謝するべきです。でないと、いつまでもパンやクラッカーを飲み込めずに苦労する人がいるからです笑。続けて、聖書はここでこう言っています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」ここでもパンを裂くことと、杯を飲むことが一緒になっていることに注目してください。その後に、「誰でも(Whosoever)」と続いて書いてあることに注目してください。(キングジェームズ訳では書いてある。)TLオズボーンがよく言っていたように、「誰でも」ということは「あなたも」ということです。それからこう書いてあります。「したがって、(誰でも)もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」ここには「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」と書いてあります。「主の血をわきまえないで」ではありません。

歴史を通して人々は教会の中で自分自身をよく吟味しなさいと教えてきました。何故なら、みからだをわきまえないで、と聖書には書いてあるからです。彼らはそれは他の人に対して何か悪い事を抱かないように警告している意味であると、理解してきたからです。私達には罪はあるか、赦せていないことがあるか、教会の中で誰かに対して敵意はないか、自分自身を吟味する為に少しの間時間を取って考えてみるように、それらのものが私達のうちにないことを確認しなければいけないと教えてきました。でも、元々私達は教会の中でも、外でも、主の聖餐のときだけでなく、いつでも、誰に対しても何も悪い事は抱くべきではありません。

ここでは「からだ」について話していますが、これは教会についてではありません。いいですか?この「からだ」が教会であると、教えられ続けてきた事は知っています。でも、それは正確な解釈ではありません。この聖書箇所を通して、パウロは教会ではなく、イエスについて話しています。いつ教会が私達の為に裂かれましたか?教会は裂かれましたか?教会は私達の為に決して裂かれたことはありません。そうですよね?イエスのからだが私達のために裂かれました。この聖書箇所では、イエスのからだが私達の為に裂かれたと言っています。いつイエスのからだが裂かれましたか?十字架の上ではありません。むちで打たれた時です。彼の血は十字架の上で注がれましたが、彼のからだは裂かれました、そして、「彼の打ち傷によって私達は癒されました。」(1ペテロ2:24)なので、パンが裂かれた時には、それはイエスのからだが裂かれたという意味です。それはイエスのからだであって、キリストのからだである教会ではありません。聖書は、イエスの物理的なからだについて話しています。今からそれを証明しましょう。

聖書はここで次のように言っています。注目してください。「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、」これはどういう意味でしょうか?それはキリストのからだ(教会)をわきまえることではありません。もしこれがキリストのからだ(教会)をわきまえることを意味すると考えて、主の聖餐を行うなら、自分自身をさばくことになります。何故なら、主のからだをわきまえることをしないからです。何故でしょうか?30節です。こう書いてあります。「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」ここではパウロは、霊的な弱さや、霊的な病気については話してはいません。彼はこう言っています。「あなた達がイエスのからだがあなた達の為に裂かれたことを理解しないので、彼の打ち傷によって癒されたことを理解しないので、あなた達の中に身体的に弱る人や病気になる人や死ぬ人が出てきます。何故なら、あなた達はイエスの贖いによって与えられた癒しの特権に預からないからです。」

では、人々の言うことが正しいか確かめる為に、今日の教会を見てみましょう。もし彼らの言うように私達は毎回聖餐式にあずかる前に教会をわきまえるために誰に対して何も悪い事を持っていないと吟味しなければならないとします。それなら教会の中で、弱い者や、病気の者や、寿命を全うしないで死んでいく人を見るべきではないです。そうですよね?もし彼らの言う通りに私達がしているなら、教会ではそれらの人々を見るべきではありません。でも、現実はどうですか?私達は教会の中で弱い人や早くに死んでいく人々を見ます。実際に私達が病気や死亡率に関して教会の中で見ることはこの世の中で見ることと大して違いはありません。多少の違いがある理由も教会の中では通常の社会よりもストレスが少ないからです。人々はストレスを和らげる目的で祈るからです。医学的にもそれは証明されています。実際に、弱っている人も、病気の人も、早期に死んでいく人もいない教会を見たことがありますか?アメリカ中でも、恐らく世界中でも私はそのような教会をまだ見た事はありません。なので、このようなことが教会の中で起こっていることは私達が不正確にもこの聖書箇所が罪の赦しについてであると教えられてきたことを証明しています。罪の赦しはキリストの血によることを覚えていますか?でも、もしパウロが罪の赦しについて話そうとしていたのなら、彼は、「主の血をわきまえないので」と言ったはずです。そうですよね?でも、彼はそうは言いませんでした。何故でしょうか?それは神は赦す方だと知っているからです。私達は神が罪を赦すことには何の抵抗もありません。そうですよね?問題が出てくるのは、「神は癒すか?」についてです。面白いことに、それは当時のユダヤ人達にとっては全く逆だったからです。彼らはイエスが癒しを行うことができると信じることに何の疑問もありませんでした。でもイエスが罪を赦すことができることとなると、それは彼らにとっては問題でした。これは現在の人々が信じていることと全く逆のことです。

ではその先も読んでいきましょう。こう書いてあります。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」(1コリント11:31)ここでは教会ではあなた方のうち多くの人達が弱く、病気で、主にあって眠っている人もいると言っています。何故なら主のからだをわきまえないからです。主の血をわきまえないからとは書いてありません。主のからだをわきまえないからだと書いてあります。もし主の聖餐にふさわしくないままであずかることで病気になるなら、必然的に、主の聖餐に正しくあずかることによって癒しにあずかることができます。

主の聖餐と癒しに関連した実際の証をシェアさせてください。私達はバージニア州のキルマーノックにある教会にいました。そこは辺鄙なところだったので、携帯電話も使えず、インターネットもありませんでした。まるで世界から切り離されたかのようでした。このことに関して、短い証を2つシェアします。私が今話してきた主の聖餐に関することを教え終わると、友人の牧師は言いました。「もう少し留まって、教えてくれませんか、明日は日曜日なので聖餐式(主の晩餐)があります。あなたが教えてくれたとおりに、聖餐式を行ってください。」そして、私は答えました。「いいですよ。」なので、そこに留まり、聖餐式を行いました。私は主のからだが何を意味するのかなど説明して、パンなどを配り終えました。そして、言いました、「それではパンを手に取ってください。」彼らはクラッカーを使っていました。彼らはクラッカーを渡し終えて、私は言いました。「それでは、繰り返して言ってください。キリストの打ち傷によって、私は癒された。主のからだは私のために裂かれました。彼のからだが私のために裂かれたことによって、彼の打ち傷によって私は癒された。イエスの御名によって私は癒しを今受け取ります。」「それでは、クラッカーを食べてください。」そして、皆がクラッカーを食べました。通常は聖餐式はとても静かなものです。

その時、驚くべきことが起こりました。人々が自分自身の心のうちを吟味して静まっている時に、どこからともなく突然、会衆席の2列目からある女性が血も凍るような声を上げて叫びました。聖餐式の真っ只中でです。なので、皆ビックリしました。そこで、私は思いました。「これは悪魔が正体を現しているから、追い出さなければいけない。」この女性は前かがみになって叫んでしました。でも、彼女は叫ぶと同時に、彼女の喉に何か詰まっているようで、何も話すことができないようでした。彼女は甲状腺腫持っていて、それは手のひらほどの大きさのものでした。彼女は前にかがんで、喘ぎながら言っていました。「息ができない。息ができない。何かが私を息詰らせています。」その時までには、人々は彼女の周りに集まり言っていました。「私たちが今からその悪霊を追い出します。」そして、私達はそこに立って、その状況に対して何かする準備しようとしている寸前に、彼女は突然、空気を大きく吸い込み、深呼吸ができるようになり、立ち上がりました。そして、彼女が立ち上がったときには、その甲状腺腫はなくなっていました。そして、彼女は言いました。「イエス様」。彼女はイエスが彼女の甲状腺腫を取って、握りつぶすのを見ました。イエスがそれを握りつぶすと彼女の甲状腺腫は消えました。それは、彼女が「彼の打ち傷によって」といった瞬間に起きたのです。彼女はその時に始めて聖餐式に聖書的に正しく参加しました。

その癒しの起きた後には皆とても真剣になっていました。私が前に戻って、杯を取って、「これはあなたたちの罪の赦しのために注がれた彼の血です。飲みましょう。」と言ったときの彼らの真剣さは面白いくらいのものでした。何故なら、そのようなことが起きたので、彼らにとって聖餐式が聖書に書いてあるように現実のものとなったからです。彼らにとってそれらはただのクラッカーとジュースではなくなりました。本当にイエスの血のように感じられました。実際にジュースがイエスの血となったという意味ではなく、彼らにとってそれらのものは単なる食べ物ではなくイエスの血とからだとしての現実味を帯びたということです。それらの食べ物が本当のイエスのからだと血になることはありません。クラッカーとジュースは物理的なイエスのからだと血になることはできません。何故でしょうか?それはもし仮にそのクラッカーが祭司によって祝福されたとしても、それを放置しておいたら何が起きるでしょうか?それらはかびてきます。それは朽ちてきます。聖書がイエスのからだについて何といっているか知っていますか?聖書には、彼はたましいをハデスや墓場に残しておくこともせず、自分のからだが朽ちていくのを見ることもない、と書いてあります。(使徒の働き2:31)なので、もしクラッカーが本当のイエスのからだになるのなら、それは永遠に完全な状態で残るはずです。なので、クラッカーがイエスのからだになることはありません。わかりますか?クラッカーはイエスのからだが裂かれたことの、経験したことの象徴です。

次は28ページです。イザヤ53章です。もう癒しはキリストによる購いの中に含まれていることに納得することができましたか?イザヤ53章全体に関しては救世主であるイエスの苦しみについて書いてあることを知っています。その預言のとおりにイエスはやって来ました。そして、イエスが、「これは預言者イザヤをとおして言われたことが成就するためです。」と言われたときに、イエスがイザヤ53章から成句を引用したことも知っています。

では、イザヤ53章の4節を見ていきましょう。「まことに、彼は私たちの病を負い」と書いてあります。ここで使われてる「負う」ということばはヘブル語では’Nasaといいます。それから、」私達の痛みをになった」と書いてあります。この「になった」とはヘブル語ではSabal ということばです。なので、ここにはこう書いてあります。まことに、彼は私たちの病を負い、’Nasa私たちの痛みをになった、Sabal。 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

では、私がマタイ8:16-17について言及したときに、何といったか覚えていますか?そこには、彼は私達のわずらいを身に引き受け、私達の病を背負った、と書いてあります。イエスはここで、イザヤ53:4を引用していました。なので、マタイ8:17は、彼は私たちの病を負い、’Nasa私たちの痛みをになった、Sabal、と言い換えることができます。

イザヤ53:5にはこう書いてあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」では、11節と12節を見てください。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう、Sabal。それゆえ、(何故なら彼は私達の咎をになうから)わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、’Nasa、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

このように11節12節でも、同じ’NasaSabalということばが使われています。そして、これらのことばはこれらの節では、彼が私達の咎や罪を負うこと、又は、になうことに対して使われていること注目してください。では質問です。イエスは私達の咎や罪を負いましたか?負いましたよね?これらのNasaSabalという言葉を辞書で調べると、それらは文字通りには、「他人があることをを罰として受けなくてもいいように代わりのその人のためにその罰を負う」ということを意味します。なので、私達はイエスは私達の罪や咎を代わりに負ってくれたNasa、になってくれた、Sabal、ということを知っています。そのおかげでに私たちは自分の罪や咎を負う必要はありません。そうですよね?イエスが罰として私達の為に罪と咎を負ってくれました。私達がそれらをもう負わなくてもいいように。NasaSabalはこのようなことを意味します。

ここで驚くべきことは、私達は咎や罪のことになるとイエスがそのようなことをしたことを信じることです。でも、イザヤ53:4-5へ戻ってみると、同じNasaSabalの言葉が使われています。他人がある事を罰として受けなくてもいいように代わりのその人のためにその罰を負う、という意味でしたよね?マタイ8:16-17によると、これらの同じ単語が私達の病気とわずらいのために使われています。なので、イエスは私達の罪や咎の為にしたこととまったく同じ事を私達の病気とわずらいのためにもしてくれました。同じ単語が使われているからそうですよね?イエスは私達が咎と罪を罰として負わなくてもいいように、それらを罰として負ってくれました。また、彼は私達が病気やわずらいを罰として負わなくてもいいように、それらを罰として負ってくれました。そうですよね?

そうすると、私達のジレンマは次のようなものです。私達はイエスは私達の病気やわずらいを、私達の罪と同じように負ってくれたことを信じる決断をするか、イエスは私達の罪を負わなかったと信じる決断をするかです。何故なら、イエスが十字架に掛かり死んで、よみがえられたことは、罪と病気が取去られるためにしたことだからです。なので、私達はイエスは罪か病気の片方だけを取り去ったと選ぶことはできません。私達は、イエスは私達の為に罪と同じように、すべての病気を取り去ったという事実を信じるか、それか、イエスは私達の罪を負わなかったということを信じなければなりません。もし私達がイエスが私達の病気やわずらいを負わなかったと信じるなら、イエスは私達の罪を負わなかったと信じなければなりません。どちらを信じますか?イエスは私達のすべての罪を負ってくれたように、病気も負ってくれたことを信じますか?

では、私達の罪が取り除かれることはどれくらい簡単でしたか?とても簡単でしたよね?そうですよね?私達は罪を犯した時には、どうしたらいいと聖書は言っていますか?私達は父に弁護してくれる方がいます。(Iヨハネ2:1)もし私達が罪を告白するなら、彼は何をしますか?神は正しく、真実な方なので私達の罪を赦してくれます。そうですよね?そして私達をすべての不義からきよめてくれます。(Iヨハネ1:9)癒しもそれと同じように簡単なものです。何故なら、イエスは罪と同じように、病気も負ってくれたからです。そうです。イエスは病気も罪も十字架の上で死に、よみがえられることによって取去ってくれました。病気が始めに取去られ、次に罪が取去られました。アーメン。

癒しはキリストの贖いの中に含まれているでしょうか?はい、含まれています。癒しは贖いの中に含まれていないということがありえるでしょうか?いいえ、それはありえません。私は癒しは贖いの中に含まれていることを証明する聖書箇所を4つほど説明しました。(イザヤ53:4,5、マタイ8:17、Iペテロ2:24など)T J Macrossanは彼の本の中で、「誰でも癒しはキリストによる贖いには含まれてはいないという人は、学者ではないか、うそつきです。」と言いました。 そのどちらかでしかありません。イエスを信じる者である私達はうそつきにはなりません。私達は神のことばに賛成して、みことば通りに話して、みことばを行います。

なので、イエスは私達のすべての病を負ってくれたでしょうか?はい、イエスは私達の病気を罰として負ってくれました。そうです。なので、もし私達が病気やわずらいを持っているなら、それはイエスと私達の両方がそれを負っていることになります。それは偽の正義です。二人の人が同じ一つの罪の為に罪に定められることは、一人の人を二度も同じ罪の為に罰していることになります。私達がすでに他の人が負った罰を受けることは正しいさばきではありません。しかし、私達がひねくれた弁護士(悪魔)を許す限りは、私達は病気を負い続けるでしょう。でも、私達が父から与えられた弁護者を選ぶことによって、私達は病気を負う必要はなくなります。

では、考えてみてください。この神癒技術者訓練の始めに、法廷の制度について学んだことを覚えていますか?私達は裁判官の前に出て行き、彼が判決を下すと説明しました。私達を罪に問う検察官と私達を弁護する代理人がいます。そこで、私達の弁護者が立って言います。「これが私の依頼人が罰せられるべきでない理由です。」そうですよね?私達の弁護者には道理にかなった理由があります。それに実はその法廷の裁判官は実は彼の父親(父である神)です。だから法廷では私達は有利な立場にあります。そして、弁護者(イエス)は言います。「父よ。この人はこの病気を罰として受けるべきではありません。何故なら、私がすでにそれは負ったからです。なので、もし私が病気を負ったなら、彼らの病気と罪を罰として受けたのなら、この人が罪に定められるべきではありません。私がそれらを代わりに受けたからです。なので、誰でも罰をうけるべきなら、それは私でなければいけません。」イエスはこのように言わないでしょうか?それに対して、父は何というでしょうか?父は言うでしょう。「そうですね。あなたが代わりに罰を受けました。その人は自由です。」それから被告人にはこう言うでしょう。「あなたはもう自由です。」そうですよね?なので、捕らわれ人を自由にしてください。

考えてみてください。癒しがキリストによる贖いのうちに含まれているのなら、癒しがすでにイエスの打ち傷によって与えられたものなら、癒されるための理由は私達に必要でしょうか?病気の人が癒されない理由を探す必要はあるでしょうか?そんな必要はありません。それなのに検察官(悪魔)が何か病人が癒されるべきでない理由を主張することができるでしょうか?それでも検察官は裁判官に向かって言うかもしれません。「でも、その病人はどれだけひどいことをしたか知っていますか?」でも、弁護者(イエス)は言います。「父よ。ちょっと待ってください。私はそれに異議があります。私がその人の罪も病気もすでに負いました。その人の罰を負いました。」そうですよね?検察官である悪魔は言います。「でも、その人は彼の犯した罪によって私を招き入れました。」それに対してイエスは言います。「父よ。ちょっと待ってください。異議があります。私が十字架にかかったときにすべての人の罪を負いました。彼の罪も負いました。」裁判官である父は言います。「検察官の主張を破棄します。」単純ですよね。天の法廷ではすでに神はすべての人の為に自由を宣言しました。神は私達がこれから自由にする人達をすでに天において自由にしました。私の言っていることがわかりますか?神はすでにすべての人々の自由を宣言しました。なので、私達の仕事は彼らの所へ行き、神のすでにしたことに賛成して彼らの自由を宣言することです。神はすべてのしいたげられている人達の為に自由を宣言しました。それがイエスが背の曲がった女の人に向かって彼の元に来るように呼んだ理由です。そして、彼は彼女に言いました。「女よ。」そこで、イエスは彼女に言いませんでした。「自由になりたいですか?」「あなたは悪魔に扉を開けましたか?」イエスは彼女に言いました。「女よ。あなたの病気は癒されました。」(ルカ13:12)彼女に何も問うことはしませんでした。彼女の信仰についても訊くことはしませんでした。なので、彼は天からの警察官のように、自由を宣言して命令しました。「悪魔よ。さがれ。彼女から去れ。」彼女は瞬時に癒されました。

ルカ17章を見てみましょう。人々を自由にすることには責任も伴います。5節から見てみましょう。5節には、「使徒たちは主に言った。「私達の信仰を増してください。」と書いてあります。これについては、前にも少し説明しましたが、今回はもう少し細かく見ていきます。6節には、「しかし主は言われた。「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」と書いてあります。

6節を読むと、イエスは突然議題を変えたように思えますが、そうではありません。弟子達は信仰について心配をしました。彼らは、「主よ私達の信仰を増してください。」と言いました。この後のイエスの返答は議題を変えたように聞こえますが、そうではありません。彼は信仰については話していません。彼の話していることに注目してください。信仰はすべての基礎となるものですが、彼の話していることを信仰が何かについてと考えないでください。信仰がどのように働くかについて話しています。

7節には、「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。」あなたは主人であって、しもべがいるとします。そして、そのしもべに向かって、「畑からやって来なさい。ここに座ってください。今からあなたのために食事を用意します。」と言うでしょうか?イエスは主人はしもべに対してそのようなことは言わないと言っています。聖書には、しもべが一日の厳しい仕事を終えて、帰ってきた時には、主人は、「よくがんばりました。ここに座ってください。私があとは食事を整えましょう。」と言うとは書いてありません。しかし、聖書には、ルカ17:8節には、主人はしもべに「かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。」と書いてあります。言い方を変えると、主人はしもべに、「あなたは一日中働いていて、やっとその仕事を終えました。では、ここに新しい仕事があります。」と言っているということです。「では、私のために食事を整えなさい。」と言っています。そして、主人は続けて、「かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』」と言います。しもべは一日の仕事を終えて、帰ってきたけれども、まだ他の仕事があります。そして、その仕事を終えた後に、やっと食事を取ることができます。しもべは主人が必要なことをすべて終えた後に自分のことをすることができます。大半のアメリカ人はそれを聞いて、「それは正しくない」と言うでしょう。それは彼らが主人としもべがどのようなものかを理解していないからです。

「 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか?」(ルカ17:9)この節の意味は、主人はしもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべには感謝はしない、という意味です。そうですよね?言い換えると、しもべがそれらの仕事をしたからといって、主人はしもべを家の中に連れてきて、あなたは良い仕事をしました、とは言わないということです。10節で聖書の言っていることに注目してください。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、(ここでの「いいつけられた」ということばに注目してください。)、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」、と書いてあります。これは命令です。これを読むと私達は、「役に立たないしもべ?」と思うでしょう。「私は言いつけられたことをすべて終えたのに。私は役に立たないしもべですか?」と思うでしょう。もし私達が聖書のことを良く知っているなら、誰でも、ここでのイエスの役に立たないしもべについて話しはあまり良いことについてではないことが分かります。役に立たないしもべは、外に投げ出されて、何度もむちで打たれる者です。そうですよね?なので私達は言いつけられたことをみなしてまったら、私達は役に立たないしもべです、と言うだけです。何故でしょうか?何故なら、私達は言いつけられたことをしただけだからです。言い換えると、私達は命令されたことをしただけだからです。

では、役に立たないしもべの定義は何でしょうか?それは、言いつけられたことだけをするしもべです。そうですよね?では、現代の教会を見てください。質問をします。現代の教会はなんと言っていますか?「主よあなたの言うことは何でも行います。もしあなたがわたしに言いつけるなら、もし私を導いてくれるなら、もし私にことばを与えてくれるなら、もし私のためにみことばを生かしてくれるなら...」と言います。言い換えれば、主よ、もし私に命令してくれるなら、私は出て行ってそれを行います、という意味です。聖書によるとたとえ私達が命令されたことを行ったとしても、私達は役に立たないしもべです、と言うべきです。なので、たとえ残りの人生を毎日神からのことばを待って、それを行っても、すべてを終えた後には私達はまだ役に立たないしもべです。何故でしょうか?それは私達は何かするためには言いつけられなければならなかったからです。

なので、もし役に立たないしもべが言いつけられたことをすべてする人なら、役に立つしもべはどのような人でしょうか?その人は言いつけられていないこともする人です。言いつけられたことではなく、言いつけられていなくてもただ必要なことをする人です。

超自然的なことではなくごく普通のことに置き換えて考えて見ましょう。私はレストランのマネジメントの経験があります。マネジメントの仕事を楽しんでいました。私は大抵一番初めに職場に来る人でした。職場に来る時に、私よりも先に来ている人は私の行動を伺います。もしあなたが店長なら従業員達はあなたの車が到着したらすぐに気が付きます。そして、突然と彼らは忙しく仕事をし始めます。そうですよね?そのような人達は店長が突然扉を開けて入ってきたときにはただ立って片手に箒持ったままでおしゃべりをしています。そして、彼が入ってきたのに気がつくと突然忙しくなります。

私がレストラン従業員の訓練のコーディネーターとしてた働いていた時、私の仕事は人々を従業員にすることでした。以前に良くしていたことの一つは私が誰よりも先に職場に着いた時にはわざと紙くずのようなごみを床に置いておきました。それをドアとカウンターの間に起きました。それから近くに立って人々が入ってくるのを観察しました。大半の人達は入ってきて、タイムカードを入力して、そして仕事を始めました。でも私が観察していたことは、入ってきて先ず最初にその床にあるごみを拾って捨ててからタイムカードを入力して仕事に取り掛かる人達です。そのような人達を昇進させようかと考慮に入れます。何故でしょうか?何故なら、彼らはただするように言われたことだけ以上のことをするからです。彼らはまだ正式には仕事外の時間なのにごみを拾って清掃しています。でも彼らは自分の前に見つけた仕事を率先して行いました。これは何を意味するでしょうか?彼らをいちいち監督しないでもいいことが分かります。彼らが誰にも見られていないのにそれだけ良心的なのなら彼らの下にいる人達にもそのような影響を及ぼすでしょう。なので私は彼らをリーダー的な立場に置きます。何故なら、私がレストランを去ったときにでも、安心して彼らに管理を任せることができるからです。でも、いちいちしなければいけないことを伝えなけければならない人は違います。

大抵、いつも週末が忙しいものでした。その週末明けの月曜の朝に水曜日までに必要な食材などを注文しなければいけません。もし注文をしないと水曜日までには食品がなくなってしまいます。それが金曜まで続くと大変な問題です。なので、毎週月曜日の朝に私は食材を注文していました。週末を通して得た領収書を元に、何が、どれだけ必要なのかを計算して割り出していました。机の上にお金を広げて作業をするので、通常は見られないように扉は閉めていました。ある時新しい制服を着た新人が働いていました。彼はいつもとても緊張した様子でした。私が彼のそばを通り過ぎると、彼は言いました。「ブレイク店長、おはようございます。」私は彼の名前すら知りませんでした。恐らく彼は10日で辞めてしまうだろうと思い、名前を覚える必要はないと思いました。アルバイトの出入りは頻繁でした。なので、彼らが1ヶ月その職場に留まるなら名前を覚えるようにしました。彼らはしばらくの間はいるかもしれないからです。でも私は彼のそばを通り過ぎて、部屋に入り扉を閉めました。でも数分後には彼がやって来てトントンと扉を叩きました。私はそれが誰かわからなかったので、扉は開けませんでした。そして言いました。「何の用件ですか?」彼は言いました。「ブレイク店長、他に何かやることはありますか?」ここで、私は取り掛かっていた数字などを扱った業務から注意を彼との会話に向けなければいけません。そこで、私は考えます。彼は新人なので何をやらせようか?そして、言いました。「じゃあ、キッチンをチェックしてくれ。」彼はわかりましたと言い、去りました。それから数分後には私は計算の作業に戻って、忙しくしていました。しかし、すぐに又彼がやって来てトントンと扉を叩きました。彼は言います。「ブレイク店長、キッチンの作業が終わりました。次は何をしたらいいですか?」ここで、また作業から彼に注意を向けなければなりません。そして、ゴミ箱のことを考えて言いました。「ゴミ箱はチェックしましたか?」彼は「わかりました。」と言い去ります。そして、すぐに彼は又帰って来て、トントンと扉を叩きました。今度は私の声のトーンも違います。何ですか?と答えましたが、心中では一人にしてくれと思っていました。彼は言いかけました。「何か他にすることが…」そこで、すかさす私は言いました。「駐車場はチェックしましたか?」彼は言いました。「いいえ。まだです。」そして、私は言いました。「それをする前に、タイムカードを押してください。そして、家に帰る途中のすべての駐車場を調べなさい。もう戻ってこなくていいです。あなたは必要ありません。」何故でしょうか?何故なら、彼は最低賃金しか稼いでいません。私は3倍も、4倍もの賃金を稼いでいます。彼の行動はのせいで会社にあなたと彼の分のお金を無駄に払っています。いちいち彼にしなければいけないことすべてを告げなければならないからです。彼は役に立つしもべですか?いいえ、違います。彼は役に立たないしもべです。役に立たないしもべは長続きしません。自分からするべきことを見つけてそれをしながら忙しくしている人達が役に立つしもべです。そうですよね?彼は会社に訓練されて、その目的も、何を目標にしているかも知っています。もし私が良いマネージャーならそのような役に立たない人はクビにします。何故なら、私の仕事は会社に利益をもたらす事だからです。彼は利益はもたらしません。なので、私の仕事は誰か会社に利益をもたらす人々を見つけることです。いちいち何をするべきか言わなければいけない人ではありません。役に立つ働き人は何かするべきことを自分で見つけて、それを行う人です。成長して、拡大して、利益を上げる、人々を助け、社員と顧客の為に最善を尽くすという会社の目的にしたがって行動する人です。

何故教会はこのことに気がつかないのでしょうか?教会では、私達が救われてすぐには私達は人々に福音のことを宣べ伝えたくて、証がしたくて、祈りたくてうずうずします。すべて新鮮で皆に救われたことを伝えたいと思います。でも、一度クリスチャン達の間に入り込んでしまうと、彼らは私達を見下げて言います。「あなたも今は生き生きして活発でもそのうち私のように落ち着いて、静かになりますよ。」神はそのようなことは望んではいません。それでも、彼らは言います。「あなたもそのうち私のように信仰も死んだ者のようになりますよ。」私達が救われてすぐには、考えていることは、人々に証したり、宣教したりすることです。福音を宣べ伝えなければと考えます。導かれることなど考えません。そうですよね?でも、長くクリスチャンでいればいるほど、何故か、クリスチャンとして歩むなら、いちいち何をどのようにするべきことをすべて言われなければならないと考え始めます。

それでは、目に見える自然界のことに置き換えて考えて見ましょう。あなたに2歳の子供がいるとします。その子供の靴紐を逐次結んであげなければいけません。そうですよね?常にそうしてあげなければいけません。結んでも5分後には靴紐がほどけしまうので戻ってきます。その子供は戻ってきて、靴紐を結んでもらうために足を差し出します。そしてあなたはその子の靴紐を結びなおしてあげます。でも、又すぐに戻ってきます。問題ありません。その子がまだ小さいことを知っているからです。小さな子供はどのように靴紐を結ぶか知らないので気になりません。

でも、もしその子が20歳にもなったのにやって来て、「靴紐を結んで。」というならそれは問題です。そうですよね?何故でしょうか?それは歳を取るにつれて面倒を見てもらうための監督は必要なくなるべきだからです。それは成熟するということです。私達は教会ではその逆の考えをしていないでしょうか?何故キリストにあって歳を取ればとるほど監督が必要になり、より詳細な指示が必要になると考えるのでしょうか?私達は何故このよう考え方をするのでしょうか?

あなたに12歳から15歳くらいの子供達がいるとします。そして、過去15年間の間子供達を学校に連れて行っています。ごみの日の午後に家の外に出て来ると、ゴミ箱は外に出してあります。朝のうちにあなたか子供達がそのゴミ箱を外に出したからです。しかし、帰ってくるといつもどおりそのゴミ箱は空になってます。そして、すぐ道端に置いたままになっています。あなたは過去10年間の間そのゴミ箱を家の中に持ってくるために子供達にそのゴミ箱を家の中に持ってきなさいと言い続けてきました。そして、ある日学校から帰ってきて、ゴミ箱が外に出ているのを見つけて振り向いて、子供達に向かって、「ゴミ箱を家の中に入れなさい。」と言います。でも、彼らはすでにゴミ箱を家の中に入れています。それを見たあなたは驚いて唖然としています。それを見て、彼らは言います。「どうかしたの?」そして、あなたは家の中に入り、感動して言います。「神に栄光があれ。この家に救いがやってきました。私の子供達はついに成長しています。」笑

そのような例えを思い浮かべてください。その例えのポイントは、彼らの成長のしるしはゴミ箱を家の中に入れたことではありません。そうではなくて、あなたが彼らに何も言わなくても彼らがそのようにしたことです。そうですよね?

何故それが成熟することなのでしょうか?それは彼らがゴミ箱を家に入れる仕事の責任を担ったということだからです。彼はその仕事が成されなければいけないと認識して、言われなくてもそれを実行しました。それが成熟することです。それはキリストにおいての成熟も同じです。イエスがいちいち、「あそこにいる病人が見えますか?あの人のために祈りに行きなさい。」と言わなくてもいい時です。私達はもうすでに神からの手紙を受け取っているのに、神からの電話を待っています。毎回目に見えたり、耳に聞こえたりするはっきりとした導きを必要ないことそれが成熟です。何故なら、もし神が私達にするべきことをすべて伝えるなら、すべてを成し遂げたときも、私達は役に立たないしもべだからです。でも、もし私達が役に立つしもべになりたいのなら、神の国にしたがって、何が成される必要があることなのかを探して、見つけるでしょう。そして、私達がその見つけた仕事をする時に成熟した者となっていきます。そのようなことをしていくと宗教的な人々は怒り出します。彼らは私達が何様のつもりであるかと考えます。彼らは訊くでしょう。「あなたは一体何様のつもりですか?誰があなたを殿様にしたのですか?」その時には私達は答えます。「それはイエスです。」また彼らは言うかもしれません。「あなたは自分を他人よりも何か敬虔な人だと思っているんですか?」いいえ、違います。でも、もしかしたらそんなこと言う人よりもただ従順なだけかもしれません。

Neylor Stevo