神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )
1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)
By Curry Blake
John G. Lake Ministries
セッション12
質問:「2歴代誌16:12でアサは両足共に病気になりました。そして、その病気は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、医者を求めた、と書いてあります。これを説明してもらえませんか?これはまるで医者に頼るのは間違ったことであるように聞こえるのですが。」
私でも同じことを言うことができましたが、自分で答えを言ってしまったようですね。もう自分で質問に答えてしまったようです笑。
では、実際にこの質問に関したことをシェアします。病気や、わずらいやその他の問題を抱えている人々を傷つけたり、落ち込ませたりしたくはありません。又、私達は彼らが問題と向かい合うことを諦めたり、自分自身が十分に闘病のために頑張っていないと思ってほしくはありません。私達は人を勧め、助け、彼らの徳を高めることをします。でも、同時に福音を宣べ伝えなければなりません。
レイク氏はこの質問に関して、とても明確な姿勢を持っていました。1918年のインフルエンザ大流行の時を覚えていますか?その当時のインフルエンザは世界中に大打撃を与え、世界中で2000万人以上もの人々を殺しました。アメリカでも西海岸を中心に多くの被害をもたらしました。そして多くの人を殺しました。その当時、レイク氏はその地域で2000人以上の教会を持っていました。それはその地域で最も大きな教会でした。教会が大きすぎたので彼らは礼拝をメイソニックホールを借りて行わなければなりませんでした。その間に、何度かインフルエンザのためにある家々は隔離されました。そのような隔離の法律を破り、レイク氏は人々の家にも入っていきました。そのためにレイク氏は何度か逮捕されました。
ダーウィは許可なしに薬を扱ったこと(実際は薬ではなく癒しを行っていた)を理由にある年に100回以上も逮捕されました。彼の教会にとって、それは日常のことでした。ダーウィ氏が教壇の上に立って説教をしている途中に、警察がよくやって来て彼を逮捕しました。彼らはわざとやって来てそのようなことをしました。何故なら、ダーウィはシカゴ政府の罪や欲や腐敗について説教していたからです。彼らはダーウィを憎んでいました。そのような出来事は頻繁になったので、ダーウィが説教の途中に逮捕されると人々はそのまま教会の中に留まりました。そして、彼は釈放されて、戻ってきて説教を語り終えました。彼らはそのようなことを行い、歩み続けました。
ダーウィがシオン市を建てた時には、彼はそこには薬も、医師も許しませんでした。実際には、彼はさらに厳しく豚肉も食べてはいけない。旧約聖書の食物の律法に従うと言いました。彼は、又、アルコールを触ることも、その当時にランプに使っていたアルコールを触ることさえも禁止しました。彼はそれほど厳格でした。
彼は厳しすぎたので、それは過度に至ることもありました。私は神の心は人々を助けることであり、彼らを愛して、傷を癒すことであると信じます。でも、ダーウィは厳格すぎたので、彼の娘がアルコールランプの規則を破って、彼女の部屋で、ランプを倒して、彼女の長い髪に火がついて、ほぼ全身が焼けて、死にかけている時に、彼は部屋に入っていって彼女に言いました。「あなたが悔い改めた後に、あなたの為に祈ります。あなたが規則を破った事を謝ったらです。」
規律を守ることは大切だとは分かります。でも誰かが、特に自分の子供が苦しんで、やけどのように痛みを感じているのに、彼のような反応ができるなんて、信じがたいことです。想像するだけで心が痛みます。
でも、レイク氏はとてもはっきりしていました。彼が隔離の法を破った時、つまり彼が祈る為に家に入って行った時、警察が彼が出てきた時に、逮捕する為に家の前に立っていたこともありました。レイク氏はそれを見て、裏庭を通って、隣の家に入って逃げたりするようなことが多々ありました。
私はレイク氏の書いた説教を持っています。今までに出版されたことのないものも持っています。私はほとんどすべてのクリスチャン出版会社と話しました。すべての有名な大きな出版会社です。名前は言えませんが、彼らは皆それらの説教を編集したがりました。彼らはそれらを読みたがり、もし内容に賛成するならいいのですが、もし賛成できるものでないなら、それらを編集したがります。今出版されているレイク氏による本は収集されたと書いてありますが、同時に、編集されたとも書いてあります。そして、編集されたと書いてある理由は、多くの人々はそれらの説教の場合なら、語られたままの状態では出版できないからです。私が語っている事柄は、レイク氏の説教にあったもので彼らが削除したものです。その理由は、今日教えられている主流のキリスト教の教えと一致しないからです。
多くの人々はウィグルワースのことが好きです、そして言います。「ウィグルワースは最高です。」彼らは人々を追いかけます。私は実際にこのミネソタにいる、ウィグルワースの運転手であったジョージ・ストーモント氏と何年間か話しました。私はアルバート・ヒバート氏も追いかけました。ただレイク氏と関係のある人々だけを追いかけることはしませんでした。すべての、エイミー・センプルマクファーソンやジャック・コウやA・A・アランなどすべて、彼らや、彼らを知っている人達を追いかけました。彼らには多くの共通して行っていることがありました。その中でも、際立って目に留まることは、その当時には、もし医者に行くなら、それは罪でした。初期の聖霊派の教会はそれを当然の事としていました。彼らは医者には行きませんでした。その後に、もし医者に行くことができるなら、別にそれはいいという考えになりました。それから、終に、医者が神の手になってしまいました。考え方が変わってきたことが分かりますか?
医者と癒しに関して、人々は、「じゃあ私はどうしたらよいでのしょうか?」と質問します。私の回答を教えることはできません。たとえ私が答えても、あなたはその通りのことはしないでしょう?結局、皆自分の気に入ることをするでしょうから。私が何をするかを教えることはできますが、それは役には立たないと思います。人が死ぬ理由を知っていますか?それは彼らは、誰か他人の啓示に頼って生きようとするからです。私がインディアナ州のとうもろこし畑の中にある教会にいる時、そこにはある男の人がいました。彼は驚くべき癒しを行っていました。そして、信仰についての説教をしていました。でも、同時に彼に関して多くの議論や、数人や幼児が死ぬなどの問題が起こっていました。もしあなたが自分の癒しの為に信仰を持ちたいならならそれは良いことです。私は自分の為に信仰を持ちます、そして、もし助けが必要な時には、誰かに助けを求めます。でも、もし子供がいるのなら、その子のために祈り、その子のために神に対して信仰を持ち、何でもできることはしてください。何故なら、私達大人は自分がいつ助けが必要か選択することができますが、子供はそれはできません。自分の力の不足を理由に、誰かを苦しませることは決してしないでください。もしその子のために祈っても、結果がでないなら、助けを求めてください。そして、その子が生き残ることができるようにしてください。これは弱弱しく聞こえるかもしれませんが、私達は自分の信仰を証明する為の意地や名誉や誇りのために、誰かが苦しみ、傷つけられることは見たくありません。そうですよね?そのような意地や誇りは捨ててください。必要な時には助けを求めてください。自身が歩む事のできない標準や規則を人に押し付けないでください。それは律法主義というものです。福音を宣べ伝えてください。彼らに決めさせて下さい。それ(医者と癒しに関しての事柄)は神様と彼らとの問題です。単純ですよね?
ある説教で、レイク氏は、「ここにいる何人の人達が錠剤飲みですか?」と訊きました。彼はそんな調子で薬を飲む人達について話しました。もちろん、誰も手を上げませんでした。彼らはそれを認めたがらないからです。同時に、彼は看板を掲げました。それには、「神の癒しを見に来る、すべての医者、悪魔、疑う者達」と書いてありました。彼は医者を、悪魔と疑う者と同じ部類にしました。私は疑う者ならともかく、彼らがただ医者だからといって、悪魔と同じ部類にしようとは思いません。
私達はフロリダ州にいる一人の医者を知っています。はっきりとは覚えていませんが、確か彼女は血管の外科医でした。彼女がこの訓練に来た後にもいくつかの集会に来て、彼女と何度か話しました。私は彼女をできるだけ助けました。そして、一年後には、許可証は維持しましたが、彼女は医療の仕事を辞めて、ヒーリングルームを始めました。何故なら、彼女は身体を切って手術することのよりも、祈ることによって多くの成功を治め始めたからです。
このような話を他にも4つ程することができます。でも、それがレイク氏や彼らが言ったことです。彼は言いました、「聞きなさい、もし薬を持っているなら、これがあなたのすることです。家に帰って、薬をトイレに流して、トイレに向かって謝りなさい。」これが彼の薬に対する意見でした。でも、私達はバランスを持って考えなければいけません。考慮に入れなければならないことは、その当時の医療は本当にひどいものであったことです。でも、正直に言って、今日でもある医療はひどいものです。放射線治療、化学医療などは残酷です。それらは人々を殺しています。殺すことは神の道ではありません。それらによって生き延びる人もいるかもしれません。でも、それが神のやり方だとは言わないでください。神はイエスを通して行ったような完璧な癒しの方法を諦めて、不完全な方法を使う理由はありません。そうですよね?どうして神は彼の完全な癒しのシステムを不完全な人の医療に任せることをするでしょうか?
実際に、もっと深く話していくと、このことについては癒しを贖いについて話すときに見ていきます。それでは民数記21章に戻ります。そこでは、荒野でモーセが蛇を揚げことについて書いてあります。覚えていますか?イスラエル人達は罪を犯し、蛇が出てきて、彼らに噛み付きました。彼らがモーセに助けを求めた時に、モーセは神に祈りました。そして、神は言いました。「これがあなたのすることです。あなたは青銅の蛇を作り、それを掲げて、それを仰ぎ見る人はすべて癒されます。」それで、彼はそのようにして、その青銅の蛇を仰ぎ見た人はすべて癒されました。それを見たすべての人です。
多くの人々は怒って言います。「何故青銅の蛇なんですか?気に入りません。」それはイエスは罪になったからです。(IIコリント5:21)蛇は罪を象徴します。イエスはそれになって、私達のためにのろいを受けてくれました。まだ十字架の刑は作られていなかったので、蛇を代わりに掲げました。
驚くことに、もし私達がその青銅の蛇が掲げられた象徴を見るなら、それは蛇のついた十字架のように見えるでしょう。医療も同じような象徴を使います。彼らは、それは違うし、異なった名前があるというかもしれません。実際に、モーセの青銅の蛇を見るとそれには一つの蛇しかありません。でも、医療のシンボルには2つの蛇があります。聖書で2つの蛇を見ることができる所は、ファラオの中庭だけです。モーセが彼の杖を投げるとそれは蛇になりました。そして、ファラオの魔術師達が彼らの杖を投げると、それらも蛇になりました。でも、モーセの蛇は彼らの蛇を飲み込みました。そうですよね?なので、もし私達が本当に聖書的に理解したかったら、そこまで細かく見る必要があります。実際に、もし私達が現代の大半の医療の起源をたどっていくとそれと同じところにたどり着きます。私の妻はそれについてもっと詳しく教えることができますが、それは魔術師のようなものです。彼らはいろいろな粉を混ぜたりします。現在の医療も同じような事をします。
私達が行う癒しの40%は医者が行った間違いを直すことです。私は医者が意図的に間違いを犯したと言っているのではありません。医者の犯すミスの統計を見てみると、医者に行く時には信仰を持って行った方が良いことが分かります。12年間のベトナム戦争での死者の数よりも多くの人々が毎年医者の誤診によって死にます。統計を見る時に、医療がどれだけ危険であるか、私達がどれだけ医者に自分の命を委ねているかが分かります。多くの人々は神を最後の頼みの綱としています。医者に行ったり、色々手を尽くしても、どうにもならない時に、最後に神のもとに行き、助けを求めます。私が神でないことに感謝します。もし私が神で、人々が、さんざん他の物を試したあとに、私のもとに最後の頼みの綱としてやって来るなら、私は、「私のことは忘れてください。あなたがたは他の物を十分に頼っています。彼らがあなたの頼みの綱でしょう。彼らのところに戻りなさい。」と言うでしょう。私達は神の民として、神を第一に頼る者とするべきです。もし私達が神を頼みの綱と呼ぶとしたら、神は私達にとって最初から最後までの頼みの綱であるべきです。
医者に行くなと言っているのではありません。助けが必要な時は助けを得てください。そして、闘う為に生き延びてください。しかし、医者などに通う間に、信仰や癒しや必要なことについて学んでください。私は、型にはまった「~しなければいけない」というような考え方をするように教えているのではありません。 もし医者に通うなら、それは重い罪であると考えるように言っているのではありません。でも、同時にあなた達に成長してほしいと思っています。医者よりも良いものがあります。そうですよね?前にも言ったように、もし私も助けが必要なら、医者に行ったことでしょう。しかし、今ではそれよりも良いものを見つけました。レイク氏が医療に反対していた理由は、彼自身医者になるために医学を勉強したからです。彼は医学校に通い、医療は人殺しを重ねて発展してきたことを知りました。彼は女王に仕える有名な医師を引用して、「すべての薬は人殺しによる実験と試作によって作られてきました。」と言いました。これはその医師が言ったことばです。何故でしょうか?それは彼らは人で薬を実験をして、もしその人が死んでしまったら、その薬の問題を見つけて修正することを繰り返してきたからです。もう一度言います。もし医者を信頼するなら、それはかまいません。しかし、もし信仰を持つことができるなら、癒しのために神を信頼してください。神は医者を用いることができます。でも、医療を神の癒しの方法にはしないでください。
私はある時これらと同じ事をニューヨークで話しました。その集会に座っていた女性の夫は外科医でした。彼女は言いました。「私達はクリスチャンです。私達は患者の為に祈ります。」私は答えました。「それはいいことです。それなら、私はクリスチャンの空手インストラクターです、という人もいると思います。」私が武術を教えている時には、私は3人の教え子達に洗礼を授けました。湖で2人、もう一人はモーテルのプールでです。でも、その時私はクリスチャンだったでしょうか。全くそんなものではありませんでした。私は聖書に関して知っていることを事を行っていましたし、彼らを助けたり、教えたりしました。でも、信仰的には不安定な人でした。彼らが私の人生を見て新生したことは奇跡です。ある人達は都合がいい時のみに良い事をしようとします。そんな感じで今では人々は言い出しました。 「私はクリスチャン銀行員です。クリスチャンセールスマンです。」銀行の業務やビジネスはクリスチャンではありません。クリスチャンは人々です。そして、もしそのビジネスがクリスチャンの原則に反するものなのにそれを続けるなら、その人はクリスチャンではありません。でも人々は言うかもしれません。「でも、もし反対して、不正な請求書を書かなくて、彼らと仲良くしなかったら、仕事を失います。」それなら仕事を失う必要があります。何処か神が私達を正しく用いることのできる新しい職場に移るべきです。もしかしたら、何処かの宣教師になるかもしれません。それでも、ある人は言うかもしれません。「でも、給料のいい仕事を失います。」そんなにお金ばかり稼がなくてもいいんじゃあないですか?それでも言うかもしれません。「私はあなたの意見には反対です。」そういう人は怠けた、気楽な人です。私達は時には、心地よい人生を揺さぶられる必要があります。そして、何が真実なことなのかを知る必要があります。何故なら、この世の多くのことは崩れ去っていくからです。そのような時に、ただ残って、立ち続けるのは神が結び合わせたものだけです。アーメン。
じゃあ、説教する事をやめて、教えに戻ります。
質問です。「骨折した足で歩きながら、自分は癒されたと言うべきですか?」いい質問です。というのは、この質問からいくつかの教訓を学べるからです。第一に、私はそれを実際にしました。告白(みことばを宣言すること)することに関しては多くの議論があります。でも、たとえ私達が何かを告白していたとしても、もしそれを信じていないなら嘘をついていることになります。もし信じているなら、嘘はついていません。でも、ある人は、「でも、足は骨折しているのに、あなたは癒されていると言っているじゃあないですか?」と指摘します。そうです。私は無いものをあるもののように呼んでいます。(ローマ4:17)これは原理です。もしその原理を信じるなら、嘘はついていません。私達は信仰を得るために、信じるために、無いものをあるもののように呼ぶのではありません。私達は信じているが故に語ります。(IIコリント4:13)でも、私達は言葉を、その言葉を信じることができるまで繰り返し言うべきではない、と言っているのではありません。何故なら、もし私達が何度も繰り返して言うならば、それを信じるようになるからです。でも、骨折をした時などはそのように信じることができるまで繰り返し言う時ではありません。実際に骨折が起きる時までに、そのような信仰を持つように訓練しているべきです。何故なら、私達はどのようなことが起きていようと、いつも彼の打ち傷によって癒されたと信じるべきです。
この信仰の原理について説明したいと思います。例えば車よりも重く、列車よりも大きな機械を持っているとします。その機械は飛びます。そう、飛行機のことです。飛行機は空気よりも重いので、重さからしては、飛行機は飛ぶはずがありません。では、考えてみてください、もし崖からその飛行機を押出だすと、少しの間は翼の為に宙に浮くかもしれませんが、すぐにそのまま落ちていきます。そうですよね。何がその飛行機を地に引くのでしょうか?万有引力の原理です。では、引力は事実ですか?そうですね。それは事実です。それは原理であり事実です。
聖書は様々なことについて書いてあります。そのうちの一つは信仰の原理です(ローマ3:27)。なので、信仰は原理です。もし、信仰が原理なら、原理とは、もしそれを破れば、それなりの結果が伴なうものです。もし、それが原理でないなら、それは何も結果が伴なうものではありません。でも、もしそれが原理なら、破れば何らかの結果が伴なうものです。
私達には万有引力の原理がありますが、いわゆる、空気力学の原理というものがあります。揚力の原理です。飛行機が滑走路を走り、加速して、一定の速度に達して、十分な空気が羽の上下を突き抜けるとき、揚力の原理は飛行機を空中に持ち上げます。これは、空気力学の原理です。
空気力学の原理は事実です。万有引力の原理があることも覚えていますか?引力の原理も事実です。では、飛行機が飛んでいる時には、引力の原理は存在していませんか?そうではありません。引力の原理はまだ働いています。では、どうして飛行機は飛ぶことができるのでしょうか?それは、さらに強い原理である空気力学の原理が引力の原理に取って代わるからです。
覚えておいてください。聖書に書いてある信仰の原理は現実のものです。それは事実の原理に取って代わることができます。足が骨折していることは事実です。
では、信仰の原理は、事実の原理(五感による現実)に取って代わることができることが分かりますか?それが起こるためには、空気力学の原理が、引力の原理に取って代わるように、少しの間加速の時間を伴います。でも、エンジンが強ければ強いほど、加速の為の距離は短くなります。
揚力の原理が万有引力の原理に取って代わり、飛行機は離陸することができます。でも、揚力の原理、又は、飛行機の速度が落ちると、突然、引力の原理が揚力の原理よりも強くなり、飛行機は下降し始めます。
信仰の原理は事実の原理に取って代わることができます。でも、人生のある領域で信仰の原理に従って歩み始めるなら、信仰の原理が事実の原理に取って代わるまでにはしばらくの時間がかかります。その「しばらくの間に」、私達は滑走路を走っています。でも、その間に何も起きてないわけではありません。私達は勢いを増しています。そしてある一定の勢いに達する時に揚力の原理が引力の原理に取って代わるように、信仰の原理は事実の原理に取って代わります。通常、それが起こる時に癒しが起こります。
私達が信仰の原理によって、飛んでいても、もし私達が間違った仲間とつき合うなら、私達は降下して行き、事実の原理が強くなっていきて信仰の原理に取って代わります。でも、信仰の原理に従って歩む正しい仲間とつき合うなら、再び仰ぎ風をうけて、高く上がることができます。この上がり下がりは、揺れ動くことです(ヤコブ1:6)。振動や電波や音波を見たことがありますか?それらは上がったり、下がったり、前後に行ったり、来たりします。私達が上に上昇している時には、私達は何をしていますか?信仰の原理にしたがって歩んでいます。私達が下降している時には、私達は何をしていますか?事実の原理に従って歩んでいます。目に見えるような事柄など、五感に従って歩んでいます。大抵、そのように下降していく原因は自分自身ではなく、私達の周りにいる人々にあります。これが付き合う人を選ぶことが重要な理由です。
それはレイク氏が教えた霊的な力への7つの秘訣のうちの一つです。彼は同じ考え方を持つクリスチャンとの交わりを勧めました。私達の信じていることに反対する人々と付き合うよりは、一人で歩んだほうがましです。どちらにしろ、意見の一致しない人と歩むことはできません。なので、私達は信じていることに同意する人と歩む必要があります。でも、それはその人といつもすべてのことに関して100%同意するということではありません。なので、何が重要で、欠かせないことで、どの方向に向けて歩んでいるのかを知らなければなりません。私達がそれらを知り、それらを守りながら歩んでいくことは大切なことです。
私は祈ることや断食することには反対ではありません。私が最初にミニストリーを始めた時には、祈りや断食が万能薬であると聞いていました。つまり、もし十分に断食したら、祈ったら、すべてがうまく働くという考えでした。でも、誰もどれくらいが必要であるかを教えてくれませんでした。1日か、3日か、10日か、40日間か、それとも、1時間か、2時間か、10時間か、どれくらいが十分であるかを教えてはくれませんでした。なので、私は、「断食や祈りをしましょう。」と言われても、何をするのか知りませんでした。以前私は路上で戦うための武術の認定を得て、それを教えていました。私達は何か見栄えのいいユニフォームを着てはいませんでした。回し蹴りや、とび蹴りなど、見栄えのいい技は練習しませんでした。私達が学んでいたのは、目や、膝や、舌や、股間などを攻撃するもので、どのように間合いに入って、出るか、どれだけ短い時間で、どれだけ傷を負わないで、多くの損害を与えることができるかについてでした。相手に最大の損害を与えながら、相手から離れることなどでした。それらはすべて東洋の哲学ではなく、生理機能学に基づいたものでした。どのように力を得るか、物理的な力を高めるか、拳に力を込めるかなどです。それらはすべて論理と科学によるものでした。私はそのような考え方を持っていたので、神はそれを聖書の癒しの法則を見出すことに用いました。私はその法則を理解する為に、必要のないことを捨てていく必要があることに気がつきました。その過程は誰と歩んでいくかに関係しています。もし何か見栄えの良いことを求めていたら、そんな人達は沢山います。でも私が欲しかったのは何か見栄えの良いことではなくて真理でした。私が欲しかったのは真実なものです。何故なら、ただ見栄えの良いものは、赤ん坊が目の前で死んでいく時には、何も役には立たないからです。そうしたらその人は周りの人に悲しく見られるだけで、周りの人もあなたに同情してもらうだけなのです。でも、問題を解決するのは真理です。そして、私はどのようにして癒しの結果をだすのかを探し出さなければいけませんでした。私はそれを追求しました。
私はいつもこう説明していました。先ず第一に、私は武術を教えることを承認されています。その武術は、ナイフを使った格闘などを含んでいます。警察部署で教えたこともあります。それらのことの大半のものは自己防衛のものでした。それは基本的に科学的なデータに基づいた路上での闘いです。それはブルース・リーの武術に基づいて、とても直接的なもので、見栄えの良いものでもなく、映画で見るようなものでもありませんでした。これらの事を話す理由はこうです。それは私に、見かけよりも、結果の重要性を教えてくれました。私はそれを自分の中に組み込むことができました。神は私に武術をすることを願っていたとは思いませんが、それから役に立つ良いことを学びました。わかりますか?悪を善に変えるということです。
武術が神の御心だと言っているのではないです。神は私に何年もの間武術から足を洗うように言い諭していました。ある時、息子と一緒に新しい道場を開く為に、テキサス州の西に向かっていました。息子が車の中で昼寝をしている時に、神が私に話しかけました。「いつまで限りのあることをを求め続けるのです?私を求めれば終わりはありません。」私はジョンを起こして、神が話した事を伝えました。彼は言いました。「じゃあ、今からどうするの?」私は答えました。「どうしようか。」武術は私の人生でした。ある時に私は妻に言いました。「僕は今まですべてをかけてこれを武術を学んできたけれど、今では完全に使い物にならなくなってしまった。もう武術を用いることはできないよ。」それから、しばらく運転していると、神は再び私に話しかけました。「あなたは自分の手を人を殺すことを教える為に用いていますが、私はあなたの手を人を癒すことを教える為に用います。」そこで、私は止り、息子に言いました。「もう武術を続けることはできない。」私達はすべての道場を閉めました。何の収入も無く、説教するところもなく、何も用意されていませんでした。私は武術からすっきり足を洗いました。そして神に言いました。「私に何をして欲しいのですか?」
それから私はファーストフードレストランで働き始めました。そこでマネジメントについての経験を得ました。私は歩くことが好きなので、毎日職場まで歩いていました。そんなある日に元教え子が電話をしてきて言いました。「私は今新しい道場を開こうとしているのですが、すべての最新の道具もそろっています。私はあなたにX円の給料を払います。」それは年収何千万円のようなものでした。それから、彼は言いました。「それに加えて、いくらでも個人レッスンを教えてもらってかまいません。」その当時は、私は個人レッスンだけで自給1万5千円から2万円稼いでいました。彼は言いました。「あなたはすべての個人レッスンのお金をもらってかまいません。」
それを聞いて、いい話だ、と思いました。その当時、私は破産していたからです。神と交渉しようとしていました。「神よ。私は闘いに行く訳ではありません。これはただの技術です。」こうして自分なりに正当化しようとしていました。この人は、私が武術を教えることを辞めたし、もう教えたくないことを知っているので、今度は5年間の契約を要求しています。もし、彼が道場を開いても、1ヶ月足らずで、私が止めるのを恐れているからです。ある日に、歩いている時に、私は神に言いました。「神よ。今答えを知る必要があります。今教えてください。私に何をして欲しいのですか?何故かというと、もし私がこの契約にサインしたら、私は5年間はあなたに仕えることはできないし、もし説教するようになったら、あなたに近づくなら、この契約を途中で破棄して去らなければならないからです。だから、あなたが私に何をして欲しいか教えてください。」
その時に、恐らく今までに無いくらいに、私は神の声をはっきりと聞きました。神は言いました、「重要なのは私の為にあなたが何をするかではなくて、私があなたにどんな人になることを望んでいるかです。」彼は続けて言いました。「私はあなたに私の息子になって欲しいと思っています。あなたに幸せになって欲しいと思っています。」私は聖霊派の人々に囲まれて育ってきました。神が、私達が幸せなのかは気にしているのかなんて考えたこともありませんでした。何故なら、私の見た大半の人々は神には仕えていましたが、幸せには見えなかったからです。私はそのように考えていましたが、神は言いました。「あなたが私の息子なら、何があなたを幸せにしますか?」私は思いました。「それはもちろん、私があなたの息子なら、福音を宣べ伝えて、病人を癒して、死人を生き返らせて、悪霊を追い出して、そのようなことをしている時が一番幸せです。」神は言いました。「それでは、あなたは私があなたに何をして欲しいか分かりますね。」
彼は私の考え方を完全に変えました。それから、すぐにその生徒に電話して伝えました。「先ず第一に、その仕事を断ります。受ける気は毛頭ありません。それで、もし今後そのような誘いを持ちかけるなら、この事を覚えて置いてください。私はあなたにすべてのわざを教えませんでした。だから、今度こんな話を持ちかけるときには覚悟しておいてください。」彼にもう決して誘惑してこないように言い聞かせようとしただけです。それは強い誘惑だったからです。
それから、私は職場に行き、伝えました。「私はこの仕事をしているべきではありません。」その仕事が悪いものではありませんでしたが、ただ、私はするべきことをしていませんでした。なので、彼らに言いました。「だから、私はこれをもって仕事を辞めます。」
私は家に帰って妻に伝えました。「私は福音を宣べ伝えているべきだ。」でも、私達のことは誰にも知られてはいませんでした。誰も私達の電話番号も知りませんでした。何も先には用意されていませんでした。当時は彼女も働いていました。私は彼女に言いました。「私は仕事を辞めました。これから神が私に何処で、何をして欲しいかを見つける。」彼女は言いました。「仕事は辞めてもいいけれど、ただ家の中で寝転がることはしないでください。ちゃんと神の用意している事を見つけてください。だから、私が朝起きる時にあなたも起きて、祈りや断食でも何でもして、やるべき事を成し遂げてください。」彼女の意見に賛成しました。それから、彼女は朝起きて仕事に行き、私は賛美歌をつけて、異言で祈りながら、毎回2から3時間の間家の中を歩き回りました。そして、神に言いました。「神よ。私は何をするべきですか?」
それからすぐに、ある人から電話があり、その人は言いました。「あなたの事を聞きました。」その時には、私達は個人的ではありましたが、私達の家で人々の為に祈っていて、結果を出していました。そして、この人は言いました。「私達はカロライナ州のアシュビル市に住んでいます。私にはからだが麻痺した息子がいますが、ここまで来て彼の為に祈ってもらえますか?」私は答えました、「いいですが、私の娘も連れて行っていいですか?」彼らは言いました。「いいですよ。」そして、そこへ飛んで行きました。そして、1週間ずっと、教会ではなく、その家は人々で満員になりました。私はその男の子の為に祈りました。そこには、モーニングスターミニストリーなどリュックジョイナーのグループから人々も私達の事を聞いてやって来たりして、その場は満員になり、私は朝の7時から12時まで癒しを教えて、昼食後に、それから、次の家に移りました。私達は3つの違う家々を周りました。私はそこで午後の1時から夜の7時まで教えました。それから、夕食を食べて、7時半から次の家に移り、真夜中の午前1時まで教えて、人々の為に祈りました。私達は200人の為に祈り、そのうち40人は末期がんの患者でした。でも、その1週間が終わるまでには、彼ら全員は癒され、ちゃんと確認されました。祈った200人のうち、知っている限りではすべての人が癒されました。ただ2人の人達だけとはその後連絡が取れませんでした。でも、それ以外の人達の癒しは記録しました。
私が武術を始めた頃は栄養やフィットネスに通じていました。実際にバレーフィットネスで働いていました。今の私の食生活を見ると信じがたいことですが、その当時は人々に何をどれだけ食べればよいか、どれくらい運動すればよいかなどをアドバイスしていました。栄養サプリメントなどについてよく知っていました。私はウィンチャンカンフーにおいて認定を受けていたし、帯の階級でも認定を受けていました。それに、中国の漢方薬や薬なども勉強しました。その結果、どのような薬を呑むべきかなどまでアドバイスできました。でも私はそれらのすべてを捨てて、この癒しを教えることにしました。それはこちらの癒しの方がはるかに勝るものだからです。それにより頼れるものだからです。
なので、これらの事を話している理由は次のようなものです。もし私達がサプリメントを飲んでいて、どのような効果を発揮しているのか知りたいなら、一度に4つのサプリメントを飲んだりすることはしません。何故なら、どのサプリメントがどのような効果を及ぼしているのか見ることができないからです。なので、通常、私達ははっきりとした効果を見るまで1つのサプリメントを取り続けます。そのようにすれば、何か変化が起きれば、「このサプリメントは~の効果があります。」と言うことができます。それからまた新しいサプリメントを付け足すことができます。そうしてどのサプリメントがどの効果があるかを知ることができます。この方法でそれぞれのサプリメントを調べることができます。それから、それぞれを混ぜて効果を試していきます。そのようにすると、相乗効果を見ることができます。それらが一緒に効果を増すか、それとも、悪影響を及ぼすかを見ることができます。
私はそれと同じ考え方を祈りと断食に関しても用いました。何が真理なのかを質問し始めました。そして考えました。「もし祈りが真理なら、祈るべきだし、断食が真理なら、断食するべきです。」もし、それらをすることによって力を得ることができるなら、それらをすることは良いことです。でも、それらは本当に力を引き起こすものだろうか?何故なら、祈りや断食によって力を得ることができると言っているのに、未だに力を得ていない人達を知っているからです。だから、祈りや断食をする前に、信仰のみでどれだけの力が働くのかを試してみました。ですので、私達は人々の為に祈り始めました。断食はしませんでした。長く祈ることはしませんでした。ただ普通に歩き回って、時間も定めないで、ただ人々の為に祈りました。
そして、その後ある女性が私達の家にやって来ました。彼女は悪霊追い出しが必要でした。彼女の事は以前から知っていました。私の妻は彼女の家族と話して言いました。「この女性の内には悪霊がいます。状態が悪いので、悪霊を追い出すことが必要です。」なので、私は答えました。「わかりました。じゃあ彼女を家まで連れてきてください。」すべてが整うと妻は私に聞きました。「祈って、断食して、準備する必要はないの?」私は答えました。「いいえ、そのようなことはする必要はないよ。」彼女は言いました。「何で?」私は言いました。「僕が祈りや断食をしないのは、それらは悪霊を追い出したりするための何か特別なものではないことを証明する為です。悪霊を追い出すのはただイエスに対する信仰です。」
断食や祈りにより、神の声を聞きやすくなり、神の為に働きやすくなりますが、それらは私達を霊的にすることも、私達により力を与えることもできません。分かりましたか?断食や祈りは肉を殺すことを助けてくれます。それは自分に死ぬことを助けてくれます。でも、断食や祈り自体には力はないし、それらは力でもありません。それらは私達をより霊的領域に対して敏感にします。それが魔女や魔術師も祈り、断食する理由です。
じゃあ、もし聖書が手元にあるなら、使徒の働き3章を開いてください。私が話していることを証明しましょう。聖書を開いている間に質問に答えます。「苦しんでいるのに祈りを断る人をどうやって助けることができますか?」彼らを通りすぎて、道の隅まで行って、彼らの為に祈ってください。彼らのすぐ側にいる必要はありません。すぐその場で祈る必要はないです。何故なら、祈りなどを断る時、それはその人の本当の答えなのかは分からないからです。それは嘘つきの悪霊かもしれません。なので、もし必要なら彼らの前から去って、そして、離れながらにして祈ってください。大半の場合、離れていたほうが彼らを愛することが簡単です。そうですよね?なので、祈りも同じようなことです。
以前も言ったように、多くの人達がウィグルワースやレイク氏のことが好きです。何故だかわかりますか?それは彼らはすでに死んでいるからです。それが理由です。ウィグルワースが生きている時には、ほんのわずかな人達しか彼のことが好きではありませんでした。彼は厳格だったからです。
私はサムラル氏の教会に数年間の間いました。興味深いことは、彼は人々を愛していましたが、時には人々が彼を好かない時がありました。人々は彼の説教に対してではなく、彼がある女性に言った言葉のために腹を立てたことがありました。ある時、サムラル氏は言いました。「祈りが必要な人は前まで来てください。」そして、彼は言いました。「じゃあ、案内人の人はここで人々が来るのを止めてください。」でもこの女性は打ち切られた後に列の後ろに忍び込みました。彼は順に祈っていき、彼女の番になった時に言いました。「あなたは何処から来たのですか?」彼女は答えました。「列の最後に入り込みました。」彼は言いました。「私はちゃんと招いた時に来るように言ったはずです。」彼女は笑いながら言いました。「そうですね。」それに対して彼は言いました。「座りなさい。あなたのためには祈りません。」彼女は彼を見て言いました。「冗談でしょう?」それで、その部屋の雰囲気が変わるのを誰もが感じました。途端に彼は、優しいおじさんから厳しい年寄りになりました。皆が彼を見つめていました。彼は言いました。「行って、席に座りなさい。」彼は案内人達のほうを向いて言いました。「誰も入り込ませないように言いましたよね。」彼らを責めました。そこにいた人々は言います。「それは厳しいでしょう。」彼は説教に戻って、言いました。「あなた達は私のしたことは厳しいと言うかもしれません。でも、言わせてください。もし彼女が招いた時に来ないなら、彼女は受けた癒しを保つことはできません。あなた達は来る機会がある時には走ってくるべきです。」サムラル氏はこのような人でした。このような姿勢を私達も少しは見習うべきです。
サムラル氏のこのような教えは何処から来たのでしょうか。スミス・ウィグルワースからです。彼がウィグルワースの家を訪れた時にはいつもそこには誰も来客はいませんでした。普通ならここに彼のような神の人がいて彼が何処に住んでいるか知っているのなら、若者たちや人々が列を作ってインタビューするのを待っていてもおかしくないと思うかもしれません。サムラル氏はその当時のことを思い返して言います。「数年間私は彼の家を訪れましたが、私だけが唯一の客でした。」あなたは思うかもしれません。「何故だろうか?それはおかしくないだろうか?」その理由は人々が彼を好かなかったからです。ウィグルワースは厳しい人でした。サムラル氏が初めて彼の家に行った時のことです。彼はさっぱりと着飾って、帽子をかぶり、傘を手に持ち、新聞紙を脇に挟んでいました。そこで、ウィグルワースは彼に言いました。「家の中に入ってもいいですが、その戦争のニュースの書いてあるゴミを外に捨ててからにしなさい。ムッソリーニやヒトラーはもうすぐ地獄に行くだろう。私は家の中にそのようなゴミは入れない。」なので、サムラル氏は新聞紙を外に置いてこなければいけませんでした。
それとは正反対に、レイク氏は、新聞を家まで届けてもらうように手配して、そして、日曜日の朝には教会に行く前には、彼の子供達は皆ベットまで走ってきて、彼はその漫画の欄を彼の子供達に読み聞かせました。レイク氏はスミスウィグルワースのことも知っていました。こんなふうに神は様々な人達を用いることを見ることができます。
私達はウィグルワースを理想として彼を基準にしようとします。ある人々は、「私はウィグルワースのような人です。新聞さえも家に入れません。」と言います。それは違います。21人の死人を生き返らせるまでは、ウィグルワースのようではありません。多くの人々はウィグルワースの油注ぎを、ウィグルワースが通った人生を経験することをしないで得ようとします。彼のような力を得たいなら、彼のような人生を歩まなければいけません。それ相応の生き方をしなければいけません。単純ですよね。ある人は、「神は新聞はいけないと言いませんでしたか?」と訊くでしょう。そうでななく、それはウィグルワースが自分で決めた自制でした。何故なら、もし神が新聞はいけないとウィグルワースに言ったならば、神は同じようにレイク氏にも言わなければいけなかったはずです。そして、それが真実ならもし新聞がレイク氏の家にあるなら、彼は神の力を持つことはできなかったでしょう。わかりますか。私達はもっとよく頭を働かせて考える必要があります。
私達が何を信じるかによって、神がどれだけ私達を通して働くかが決まります。私達の信じることは私達を通して働く神の力のブレーカーです。もし私達のブレーカーが小さければ、痛みや頭痛のようなものが癒されることしか見ることができません。でも、もし私達のブレーカーが大きくなり始めて、私達が何を信じているかが重要であることを悟るなら、神は私達を通してより力強く働くようになります。なので、神が働くことを妨げるすべての制限を取去ってください。私達が神に与えている制限を取り除いてください。私は、「あなたが宝石をはずさない限り、神はあなたに聖霊のバプテスマを授けません。」と言うのを聞いたことがあります。私は短いスカートのような誘惑するような服装でやって来た娼婦が、かがみこんで、泣きながら、マスカラが涙と共に顔を流れながら、悔い改めるのを見たことがあります。そして、ある人が来て、「聖霊を受けなさい」と言うと、途端に聖霊のバプテスマを受けて異言で話し出しました。誰一人として彼女に説教などはしませんでした。何も教えませんでした。彼女は短いスカートも宝石も身にまとっていました。
でも、そのような服装を変えなくても良いと言っているのではないです。ある人は、彼らが変わるまでそのようなことは起こりませんと言います。それは違います。それは神からの賜物です。私達は救いは賜物であることを理解する必要があります。賜物は与えられるものです。賜物に対しては2つのことしかできません。それを受取るか、拒否するかです。私達は賜物を得るに値することはできません。何故なら、私達が賜物を得るに値する者になった途端に、それは賜物ではなくなるからです。それは報酬になります。そうですよね?普段、私達は、「もし私が十分霊的に成長するなら、神は私に賜物を与えてくれます。」のように考え続けます。そうではありません。もし十分霊的に成長するなら、私達は実を実らせます。実は成長するものです。賜物は与えられるものです。違いが分かりますか?神が私達を通して働くことができるように自分を神に明け渡してください。神の定めない条件を受け入れないでください。わかりましたか?そして、人々を癒して、彼らを自由にし始めてください。私は天に行った時に神に、「カリー、あなたは鉄砲玉のようでした。多くの人を癒しました。私が癒そうとしていなかったときも、あなたは癒しました。もう少しスローダウンしてもよかったのですよ。」と言われることを望みます。私は神に、「どうしてその病人の前を通り過ぎたのですか?私が彼らを愛していることを知らなかったのですか?彼らを通り過ぎる時には何を考えていたのですか?あなたは自分のことばかり考えていて、周りで傷ついている人々が目に入らなかったのですか?」と尋ねられたくはありません。軍隊では、「すべての敵を殺して、神に後は任せなさい。」ということわざがありました。そうですよね?そのことばのように、キリスト教では、「すべての人を癒して、後は神に任せなさい」となります。このように考えましょう。
じゃあ、まだ使徒の働き3章を捜しているなら、もう諦めてください、笑。見つけることはできないと思います。もう十分時間は上げました。
使徒の働き3章はペンテコステの日の後に起きたことです。1節からです。
「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ」ここで止ってください。
ペテロは今日の神学校で学ぶような神学的な知識はありませんでした。かわいそうですよね?(笑)というのも大半の一般の教会にいる人々の中で誰が、彼のように「私を見なさい」と言うと思いますか?そうですよね?私達は、「私を見ないでください。イエスを見てください。」とよく言います。このようにペテロは私達の考えるような神学を持ってはいませんでした。ペテロは私達のようなことは言いませんでした。何故でしょうか?それは私達はいつも自分自身をけなしているからです。そんなことをしておきながら、私達は、何故神は私達を用いないのか?私達は力がないのか?と考えます。そして、私達は、「自分は何者でもないです。」と言い続けます。はいはい、そんなことは知っています。あなた自身がそれを証明しています。それはあなたは何もしないからです。私達が誰であるかは私達の行いが証明します。もし嘘をつくなら、私達は嘘つきです。もし盗むなら、盗人です。このように私達が誰であるかは私達がすることによって表わされます。さて、ここではペテロが言うことが間違っているか、私達が間違っているかです。その判別をする為には、ペテロの癒しの結果とあなた達の癒しの結果と比べる必要があります。私はペテロを選びます。彼の方が結果を出していると思います。
「ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。(冗談:これは彼が聖霊派であることを証明します。笑)しかし、私にあるものを上げよう。」(使途の働き3:1-6)考えてみてください。ペテロが何と言ったかに注目してください。彼はその男に、「聞きなさい。あなたがお金をほしがっていることはわかっています。私にはお金はありません。」しかし、数日後には彼はこの様なことは言うことがでなかったでしょう。何故なら、人々がやって来て彼の足もとに金銀などを置き、それらを聖徒達の間に分け与えたからです。彼の言ったことに注目してください。彼は、「聞きなさい。私には金銀はないが、私の持っているものを上げよう。」と言いました。わかりますか?ペテロの神学はめちゃくちゃなものでした。彼はもっとましな言い方をするべきだったでしょうか?恐らく、ペテロは私達が言うように、「では祈って主が何をなさるか見てみましょう。」と言うべきだったでしょうか?ペテロはこのように言うべきでしたか?でも、ペテロはそのようなことは言いませんでした。彼は、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。彼は、「では私の持っているものを、あなたに与えることができるか見てみましょう。」とさえも言いませんでした。彼は、「生まれた時から足のなえていたのですか。うーん、それは世代の呪いのようですね。あなたのお母さんはどのような人でしたか?何をしましたか?あなたの父親は何をしましたか?」とは言いませんでした。ペテロは問題を直接扱いました。そうですよね?彼は、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。それで終わりです。質問などしていません。彼は祈るための時間を取ることさえしませんでした。彼は私達の呼ぶように霊的にはなりませんでした。そうですよね?ペテロはただ即座に、「私の持っているものを、あなたに上げよう」と言いました。
聖書はペテロが、「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。」と言います。(使徒の働き3:6)では、彼のしたことのパターンを見ていきましょう。彼は言いました。私の持っているもの、イエスの御名によって、起きて、歩きなさい。彼がしたことに注目してください。ペテロはその男に、起きて歩きなさいと言いましたが、ペテロがそれをするために手を引いて助けました。聖書は、「ペテロは彼の右手を取りました。彼は頭に手を置くこともしませんでした。彼が男の右手を取ったときに何をしたかに注目してください。彼は男の右手を取って、彼を立たせました。言い換えると、ペテロはその男が立つことを助けたと書いてはいないことに注目してください。聖書は、ペテロはその男を立たせた、と言っています。ペテロがすべてのことをしました。その男の足はまだ萎えていましたよね?ペテロは自分の腕の力で、その男を立たせました。そこで、たちまち何が起きましたか?たちまちです。たちまちとはいつでしょうか?ペテロがその男を立たせたときです。何がまず最初に起きましたか?ペテロが男を立たせたことです。そうすると、たちまち、男の足とくるぶしが強くなりました。
では、これは何が起こったのでしょうか?癒しですか?いいえ、違います。これは奇蹟の行いと言われるものです。聖霊の賜物の働きです。でも、それは信仰によってなされたものです。ペテロは、「私の持っているものを、あなたに上げよう。御名によって。」と言うことばから始まりました。彼は何を持っていましたか?御名です。そうですよね?彼は私の持っている賜物を上げよう、とは言いませんでした。彼は、「私は今から奇蹟の働きの賜物を働かせよう」とも言いませんでした。彼は奇蹟を行うためにあることをしました。
私達が奇蹟を起こすために何か行動をする時、それは奇蹟の行いと呼ばれるものです。それが奇蹟を行う力(賜物)と呼ばれる理由です。奇蹟の力(賜物)はありません。奇蹟を行う力(賜物)というものがあります。それが奇蹟を教会で見ることのない理由です。教会では誰も奇蹟を行うために思い切って行動しようとしないからです。皆が信仰の賜物や癒しの賜物をほしがります。何故でしょうか?それは神が賜物を働かせて、私達はただ離れて立って見ているだけでよいと考えるからです。信仰(の賜物)は保護と必要なものの満たしのためのものです。奇蹟を行う賜物のためには人が関わらなければいけません。いいですか?その人が何か行動しなければいけません。そして、その行動が奇蹟を引き起こします。ぺテロはその男の右手を取り、立たせました。その行動が奇蹟を引き起こしました。彼は信仰を持って行動することによって、御霊の賜物が働いて、奇蹟が起こりました。もしペテロがその場で、ただ立って何もしなかったなら、何も起きなかったでしょう。彼が信仰の賜物を用いれば別ですが、ペテロは奇蹟を行う力(賜物)を働かせていました。
そして、聖書にはこう書いてあります。「(足のなえた男は)おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒の働き3:7-12)
ここに秘訣があります。何と言っているか分かりましたか?それは私達の力や聖さによるものではありませんでした。分かりますか?私達は救われる為に断食はしませんでした、私達はこれ(神からの賜物)に値するためによい人生を生きてきませんでした。何も良いことを行いませんでした。これは私達の自分の力によるものでもありません。ただ神の力です。でも、ペテロはそれを自由に使いました。そうですよね?それは私達の力によるものでもありません。私達はこれのために断食も、祈りも、すべてそのようなことはしませんでした。
ではここで何が起きたのでしょうか?ペテロがそれを説明しています。ペテロは宣教して、人々を責め始めます。彼は状況を逆手に取ることが上手いことが分かりますか?何故なら、彼は次のように説教し始めました。「アブラハム、イヤク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、」(使徒の働き3:13-14)
「イエスキリストのパッションについての議論」を覚えていますか?誰が実際にイエスを殺したかについてです。それは私達の罪でした。それがイエスを殺しました。そうですよね?まず第一にピラトはイエスを釈放しようとしていました。しかし、ユダヤ人達は、釈放するなと言いました。ペテロは、「あなた達がイエスを引き渡した」と言いました。そして、次のように言いました。「そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を釈放するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒の働き3:14-15)そして、最後に、「そして、この御名が、その皆を信じる信仰のゆえに、あなた方がいま見てとおり知っているこの人を強くしたのです。」(16節)何がその男を癒しましたか?それは彼らの聖さや力ではなく、イエスの御名がその御名を信じる信仰が奇蹟を行いました。そうですよね?
では質問させてください。私達はどのようにしてクリスチャンになりましたか?それはイエスの御名とその御名を信じる信仰によってではありませんか?では私達のうち何人がクリスチャンですか?では、私達はイエスの御名を信じる信仰を持っていますよね?そうですよね?では、私達は救われる為に、十分断食や、祈りや、良い行いをしましたか?救いに値するような生き方をしましたか?救われたのはあなたの力によるものですか?それとも神の力によるものですか?私達はペテロが持っていたものをすべて持っていませんか?同じ御霊であり。同じ御名です。それはイエスの御名とその御名にある信仰です。私達は彼の御名を信じる信仰を持っていますか?もしそれを持っていないなら、その人は神に属してはいません。そうですよね?私達はペテロがその足の萎えた男を立たせるために持っていたものと同じものを持っています。私達とペテロとの違いは何か分かりますか?ペテロは祈るだけでなく、その男に近寄り、その手をつかんで立たせました。それが違いです。それは奇蹟を行う力(賜物)と呼ばれるものです。同じようなのことの証もあるので、またシェアしてきたいと思います。それと同時に、油そそぎとは何であるかを学んでいきます。
最後に次のことを強調したいと思います。もし私達が神に用いられるに値するなら、神は私達に報酬を与えなければなりません。神は私達に力を与えて、私達が神の為に生きるために私達に支払いをしなければいけません。そのように考える時に、私達は神に用いられるために断食をして、神に用いられるに値するために何かをしようとします。そのように考えた瞬間に私達は自分の義を立ててあげます。キリストの義には頼ることをしません。そのような考え方をした途端に、私達は神に用いられることを辞めることになります。現実は次のようなものです。私達が恵みに気づく時、恵みによって癒し、恵みによって癒されます。行いによるのではありません。誰も誇らないためです。(エペソ2:8-9)そうですよね?誇ることではありません。何故でしょうか?それは、信仰によることだからです。私達はキリストを信じます。自分を誇りません。私達は仕事をして、本来するべきことをするだけです。アーメン。単純ですよね?