神癒技術者訓練 – セッション10

神癒技術者訓練 – セッション10
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション10

質問:頭痛のように来たり去ったりする症状は、どのようにして癒すのですか?

いい質問です。誰でも癒しを行っていくにつれて、経験からいろいろ学んでいきます。私の答えは、私自身が経験によって学んだことです。私は問題を抱えている人から話しを聞く時には、キーワードを見つけようとして耳を傾けます。キーワードは私が戦っている標的を知ることを助けてくれます。

例えば、病人が、「何がこの病気の原因か分からないし、医者も診断することができないか、診断していません。」と言ったとします。もし、「医者は診断することができない」と聞いたら、自動的に病の霊を攻撃します。例えば、病の霊は、鞭打ち病などを引き起こします。鞭打ち病は、車の事故によって引き起こされた場合は、脊髄に損傷が見られますが、そうでない場合は、目に見える身体的な損傷はありません。でも、鞭打ち病は、事故から時間が経つにつれて痛みがひどくなります。ある人々は、「鞭打ち病が一度起きて、それからどんどん痛みがひどくなります。」と言います。身体的な損傷が見られないのに痛みがある場合には、特に、もし病人が、「痛みがやって来ては去ります。」と言うのを聞くなら、それは病の霊が引き起こしているでしょう。何故なら、もしそれが身体的な損傷なら、痛みや症状は一定であるはずです。もしそれが身体的な損傷ならばです。でも、もし痛みがやって来たり、去ったりするのなら、その源は霊的なものです。それは敵からの攻撃です。分かりましたか?ですので、多くの場合、もし痛みや症状が来たり去ったりし、診断できないものなら、私は病の霊を攻撃します。病の霊は弱さの霊です。

私達は、悪霊についてこれらのことを知っておくべきです。これが彼らがどのようにして働くかです。恐れの霊は大きな、恐ろしい、恐がらす霊ではありません。恐れの霊は、恐れた霊です。分かりますか?それは恐れています。それは驚きやすいものです。もし誰かが、恐れの霊を持っていて、彼らのところへ行き、「すみません!…」と言うなら、彼らは驚いて、おびえるでしょう。人々がそのような反応をするからといって、彼らがいつも恐れの霊を持っているというわけではありません。でも、私達は、恐れの霊を持っている、そのような反応をする人々を見つけることができます。ある人が何か動作をすると、恐れの霊を持った人は何らかの「行動」して反応します。私は人々がすぐ驚く理由を説明しているのではありません。もしある人に対して逮捕状が出されたなら、おびえる理由があります。それは、悪霊ではありません。ただ悔い改める必要があるだけです。私が説明しようとしていることは、悪霊は必ずしも何かを私達にもたらそうとしているのではないことです。悪霊はここや、そこに立って、「それを直して、あれをしろ」と命令するのではないということです。悪霊は私達を通して自分を現そうとします。それは聖霊と同じです。分かりますか?悪霊は私達を通して自分を現すことを願います。だから、恐れの霊を持っている人は、その悪霊は恐れているので、その悪霊の感情や性格を現します。

怒りの霊については、例えば、私がこれらのことについて話す時には、図表やスペクトルを描いて相対的に説明したいです。私の説明していることは人間の自然な性格や感情でもあります。それらはコントロールされるべきものです。それらの性格はスペクトル上で一定の基準を超えるなら、もはやそれは人間のものではなく、悪魔に影響されたものとなります。言っていることがわかりますか?もし誰かがいきなり飛び出て来るなら、ある人は飛んで驚きます。それは普通です。でも、ある人々は、あなたがまだ近づいてもいないのに、飛んで驚きます。それは普通ではありません。

ある人は「それはただ彼らの体質です。臆病やそのようなものです。」と言います。クリスチャンの体質は臆病なものであるべきではありません。そうですよね?聖書には、臆病について書いてあります。実際、聖書には、「神は私たちには臆病の霊ではなく、愛と力と慎みの霊を与えてくれた」と書いてあります。(IIテモテ1:7)ですので、私達はびくびくした者ではありません。悪魔が私達の周りでびくびくするべきです。彼らは、私達を銃を持った者として見ていると認識するべきです。彼らは、いつ私達が銃を撃ちだすか分かりません。だから、彼らは、私達が彼らに銃口を向けないことを望んでびくびくしています。悪魔に対しては、このような姿勢を私達は持っているべきです。

私達がそのようなことを経験する度に、それらの人々をスペクトル上で見ることができます。私達は、その性格を人間的なある一定の基準値以下にコントロールして、神の御霊の支配の下に置くべきです。同時に、悪霊は、自分自身を私達を通して現わそうとします。ですので、私達は、臆病にならないことを学ぶ必要があります。実際に、黙示録では、臆病な人や不信仰な人々は、不品行の者達と同じであると言っています。(黙示録21:8)だから、もし私達が臆病の霊を持っていて、内気な人であるというのなら、それは神からのものではありません。私はうるさく、不快な者になるように言ってるのではありません。多くの人が、よく私に、「私が大胆になれるように祈ってくれませんか?」と願います。答えは単純です。あなたが今知っていることを確信してください。私達は自分の知っていることを確信した時に、大胆になります。

もし私が、「あなたの名前は何ですか?」と訊いたなら、あなたは「~です」と答えるでしょう?私にあなたの名前を教えてくれます。ためらわずに、「これが私の名前です。」と言うでしょう。もし私が、「それではなくて、あなたの本当の名前を教えてください」と言ったとすると。あなたは、「は?何について話しているのですか?それは私の本当の名前です」と答えます。私は、「いいえ、それはあなたの本当の名前はありません。さあ、本当の名前を教えてください。」と言い、もしわたしがそれを繰り返して言うならば、次第にあなたは怒り出します。そして、「もう十分です。始めは冗談でしたが、もう頭に来ました。これが私の本当の名前です。」と言うでしょう。イライラしますよね?何故でしょうか?あなたは自分の本当の名前を知っていて、それを即座に口にします。私達が神のことばをそのように口にするなら、それが大胆さです。それだけです。大胆さとは、自由に語ることのできる自由です。大胆さとは自由に語る能力です。それが大胆さです。

もし私達が神に、「神よ。大胆さを与えてください。」と言うなら。それは私達は、神が大胆さを与えてくれない限り、何もできないと言っていることと同じです。神は私達にいのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくれました。(2ペテロ1:3)神は私達が彼の為に何かをすることができる為には、何も与える必要はありません。彼は新生した時に、私達にすべてのものを与えてくれました。もちろん、聖霊のバプテスマは、私達の語るみことばを証明して人々に影響を及ぼす為に神の力を与えます。ですので、私に神が大胆さを与えるために祈るように願わないでください。ただ、私達が信じる事が真理であると確信してください。そうするための一番の方法はすでに信じていることを行い始めることです。

私がいつも驚かされることがいくつかあります。悪魔がどれだけ大きな顔をしているかに驚かされます。人々に一番恐れていることを訊く時に、大抵、彼らが一番恐れていることは、何でしょうか?それは人前で話すことです。では、考えてみてください。人々の一番恐れることが、神が私達に与えた一番重要なすべての造られたものに福音を宣べ伝えるという任務に反することはおかしなことだと思いませんか?これらには何か相互関係があると思いませんか?恐らく悪魔は私達に自由に語ってほしくないのでしょう。私の話していることの意味が分かりますか?

よくこう言う人がいます、「私は病人に手を置きましたが、何も起きませんでした。」わかりました。じゃあ今は何をしているのですか?その人は言います。「手を置いて祈る事をやめました。」じゃあ、今は癒しが起きる事を見ていますか?もちろん、見ていませんよね?聖書は病人に手を置きなさいと言っていますよね?その人は手を置きましたが、結果は得ませんでした。その時には、結果はありませんでしたが、その神のことばには従順でした。でも、今は結果もないし、神のみことばにも不従順です。どちらがましですか?結果が無くても従順の方が、結果もないし、不従順であるよりもましではないでしょうか?

でも、3つ目の選択は、もっと良いものです。みことばに従順であって、結果もあることです。そうですよね?私達が邪魔するものを取り除く時に、私達は神に従順になって、結果も得ることもできます。たとえ、私達が結果を見ないとしても、手を置くすべての人達がその場で死んでしまっても、私は手を置き続けて祈ることを選びます。何故なら、聖書はそうするように命令しているからです。そうしたら、私の前に癒される為に並ぶのはもっと短くなるでしょう(笑)。それでも、聖書はそうするように言っています。

面白いことに、私はここにいて、ただ聖書がすでに私達にするように言っていることについて話している事を知っていますか?私は何も隠された事も、秘密の聖句を語っているのでもありません。自分の考えを教えているのでもありません。真理を語っているだけです。神のことばが何と言っているかを伝えているだけです。分かりますか?私達の問題は、神の約束してくれた結果は願いますが、それを神ではなくて、自分自身のやり方で得たい願うことです。問題は、私達は神が言った事をただ行うのではなく、私達の決めた規則やガイドラインに従いたがることです。私達は聖書を書くことはしませんでした。だから、私達はここに書かれている事に従順になる必要があります。それはまるでこういうことです。私達はガソリン1リットルのために200円も払いたくないかもしれません。でも、ガソリンの代わりに水を入れると、車は壊れるので、余計にお金がかかりますよね?そのように、私達を造った方に従ったほうが賢いです。その造り主が病人に手を置くように言いました。

前にも言ったように、もし神が私達に何もことばを話さなくても、彼はすでにみことばによって私達に十分に必要なことは伝えました。大半のクリスチャンは神がすでに手紙を送ったのに、神からの電話を待っています。そして、彼らは神が手紙にて言い送ったことを電話で確認しようとしています。

次のことについて考えてみてください。私達が子供だった時に、何かする必要があった時には、両親は「それをしなさい」と言ったでしょう。両親が同じ事を繰り返し言わなければならない時、2度目、3度目、4度目にはその声の音量が大きくなっていることに気づきますよね?それなら、何故2度目、3度目、4度目の声を神から聞こうとするのですか?それは彼にとっても居心地の良いものではないと思います。

ある人は言うでしょう、「神はその様には私に話すことはしません。」 本当にそうでしょうか?もしイエスが私達にとっての神のモデルなら、神は人に対して不機嫌になったりしました。そうですよね?イエスは彼の弟子を見て、「不信仰な者の集まりだな。どれだけの間あなた達に我慢しなければならないのか。」と言いました。(マタイ17:17)それは親切で優しいことばでしょうか?彼らはイエスに送り出される前に、ただ9ヶ月の間彼と共にいただけです。あなたは、イエスとどれくらいの間一緒にいますか?でも人々はイエスが親切で、優しくすると思っています。イエスが、「来てください。来て病人を癒してください。お願いします。」と言ったと思っています。イエスはそのような言い方をすると思いますか?私は保証します。イエスは、天使が彼の言ったことに従い、それを速やかに行うことに慣れているはずです。イエスにとっては、人々が彼に従うことは当たり前です。でも、未だに私達は、そのようには考えません。

もし私達が原語であるギリシア語で聖書を読むなら、そのような不従順に導くような質問は持ち上がってこないでしょう。多くの質問は、私達が様々な違った訳を読むことによって生じます。例えば、イエスが群集を見て、弟子達のほうに向かって、祈って、「収穫の主に働き手を送ってくれるように祈りなさい。」と言ったことを覚えていますか?収穫は多いが、働き手が少ないと言っていたことを覚えていますか?そしてイエスは、「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言いました。(マタイ9:38)「送る」ということばに注目してください。もしギリシア語を勉強した人なら、その「送る」ということばは「Apostello」という単語であると考えるでしょう。そのことばの意味は、送り出す、使者として使わす、という意味です。でも、それはイエスの使った単語ではありません。イエスはギリシア語の「Ekballo」という単語を使いました。「Ek」は「外に」という意味で、「Ballo」は「追い出す」という意味です。なので、文字通りに理解すると、イエスは「働き手を外に追い出しなさい」と言いました。イエスは働き手を外に投げ出しなさい、追い出しなさいと言いました。実際に、同じ単語が悪霊を「追い出す」という意味で使われています。

考えてみてください。私達は悪霊を追い出すのと同じような勢いで働き手を世に投げ出し、追い出す必要があります。私は、いつも悪霊を追い出すことは、クリスチャンを働きの為に追い出すよりも簡単だと言います(笑)。そのとおりです。何故だか分かりますか?悪霊どもはイエスのことばに従わなければいけないことを知っているからです。でも、クリスチャンは、彼のどの言葉に従って、従わないか選ぶことができると考えるからです。人々は言います、「私はそのみことばは気に入りません。それには従いません。神はそのことばを行なわなければいけないことを教えてはくれませんでした。私は神がそのみことばを特別に示してくれることを待ちます。」考えてみてください。神はみことばによって語りました。それでも、まだ、神は私達にみことばを示す必要があると思いますか?私達はみことばを読んで、「神は本当にこのようなことを言いましたか?」「本当にそのような意味で言ったのですか?」と疑問を抱きます。そうです。神はみことばによって語り、みことばの意味する通りのことを意図しました。そうですよね?

実際に、考えてみてください。神が聖書の中に込めたものについて考えてみてください。それは人間のすべての領域について語っています。そうですよね?彼は、それらすべてを一つの聖書の中に込めました。昔は、人々は、神のことをことばの職人と呼んだことでしょう。どういう意味でしょうか?それは、神は、ことばの最大の効果を発揮させる為にどのようにそれを使ったらよいかを知っているということです。イエスはことば数の少ない人でした。彼はさまざまなことを教えましたが、彼は簡潔でした。いつも要点を外しませんでした。

正直に言って、私達が本当に霊的な人達の周りにいる時には、直接に神のことばか、教えについて話していない限りは、とても静かです。人が霊的にどのようなレベルにあるかを見分ける一番の方法は他人を聞くことです。もし彼らがいつも様々なことについて話していて、時々しか、みことばについて話さないなら、その人は霊的には未熟でしょう。霊的に成熟すればするほど、みことばについて話していない時には、その人は静かになります。彼らはみことばの話になると、話し出します。

ですので、私はこの要点を伝えようとして話していますが、厳しくならないように、話しています。でも、私達には選択の余地はありません。もし病人を癒したいなら、祈りましょう、又、悪霊を追い出したいなら追い出しましょう、異言で話したい時だけに話しましょう、という事を聖書から教える為に、私はここにやって来たのではありません。聖書はそうは言っていません。それらは信じる者のしるしです。信じる者がいつもすることです。

ここにいる何人かの方達について、もし私が職場に行って、「~さんは、異言で話すことを知っていますか?」と訊くなら、何人の人達が、「知っていますよ。」と言うでしょうか?考えてみてください。どれだけの人達が「彼らは病人の人達の為に祈る事を知っていま」と言うでしょうか?どれだけ多くの人達が私達はそれをすることを知っているでしょうか?それは信じる者のしるしです。でも、もし私達が人々に「彼らは喜びにあふれていて、忍耐がありますか?」と御霊の実について訊くなら、彼らは「そう思いますよ。」と答えると思います。それらの特徴は救われていない人達の間にも見ることさえもできます。そうですよね?敵もそれらのしるしの偽物を造ることができます。私達はある時点で、聖書の言っている事をすべて行って歩む決心する必要があります。

知っていますか?クリスチャンはみことばが本当に働くことを恐れます。何故なら、私達が「働き」について話し出した途端に、突然、人々は「行いによる救い」について話し出したと考えるからです。私は行いによっての救われると話しているのではありません。ただもし救われているなら、私達は神のために働くと言ってるだけです。違いがわかりますか?行いによっては誰も救われません。行いによって、私達は救われ続けるのではありません。でも、考えてみてください。もし救われたなら、私達はみことばを行います。何故でしょうか?それは私達の心は神に向かって、「あなたのために何ができるでしょうか?あなたは私にすばらしいことをしてくれました。あなたのために何ができますか?」と言うはずだからです。

多くの人は言います、「じゃあ、救われる為には、私達は病人を癒さなければいけないのですか?」また以前に人々がこう質問するのをよく聞きました。「救われているために病人を癒さなければいけないとはどういう意味ですか?」そのような時には、こう答えます。「そうではないです。先ず最初に必要なことは、あなたが救われる必要があります。救われていないのは、あなたのその姿勢によって分かります。その姿勢が表わしています。」人々はそれに対して言います。「よくそんなことが言えますね。」彼の姿勢が救われていない事を表わしています。

男性であれ、女性であれ、仕事をして、配偶者が家で家事をしていることを想像してください。あなたが家に帰ってきて、扉を開けたら、臭いにおいがします。そして、言います。「この臭いは何だろう?下水が詰まっているのかな?」そして、家の中に入ってきます。そして、言います。「夕食の時間です。今日の食事は何だろう。」そして、配偶者がやって来て、皿を置きます。そして、言います。「どうぞ。」あなたはそれを見て言います。「うわ、なんだこれ?」(パートナー)「これがあなたの食べる分です。」(あなた)「いや、私は食べません。」(配偶者)「作ったものはそれだけです。もし食べないなら、お腹が空くだけです。」あなたはそれを見て思います。「外食したほうがましです。」

そんな結婚相手が欲しいですか?それともあなたが帰ってきた時に、扉を開けたら、いい香りがして、言います。「う~ん、いい香りがします。シチューですね。神に感謝します。」キッチンに行くと配偶者が来て言います。「私は、あなたがこれを好きだと知っているので、あなたのために特別にこれを作りました。」どちらの結婚相手がほしいですか?もちろん、いつも「私は一日中、どのようにしてあなたを喜ばせることができるかを考えていて、あなたの大好きなシチューを作りました。」と言う結婚相手ですよね?私達の欲しい結婚相手はこのような人ですよね?

神を驚かせようと考えたことはありますか?あなたは、「神よ、あなたは私に計り知れないような良いことをしてくれました。ですので、私は、あなたのために何かをしようと思います。病人を見つけ、癒して、神がどれだけその人を愛しているかを見せようと思います。私は福音を宣べ伝えて、どれだけ私があなたのことを愛しているかを示します。」と考えたことはありますか?考えてみてください、神は驚いて王座から滑り落ちるかもしれませんよ(笑)。それは、そのようなことは滅多に起きないからです。

代わりに私達はいつもこう考えるでしょう、「神が私に何かするように言った時に、私はそれをします。神が私に告げない限り、何も行いません。私は何も神からの承認なしでは行いません。何故なら、私は間違ったことを行いたくはないからです。もし私が間違ったことを行うなら、神は、私を叩くからです。私は叩かれたくはありません。」

これらの神との関係は全く違うものであることが分かりますか?どちらのような結婚相手が欲しいですか?またどちらのような結婚相手になりたいですか?神は私達のことを考えて、とても愛してくれたので、私達が神のもとに来る前に、私達のもとに来て、すべてのものを与えてくれました。そして、神が私達に願うことは、神が良くしてくれたように、人々にも良くすることです。例えば、彼が地から去らなければならなかったにも関わらず、私達が神のことを知った時には、神が与えてくれたものをそのまま受取ることができました。それにも関わらず、私達は今でも何をしているでしょうか?私達は未だに神に対してギリシア的な考えを持っています。まるで、神は高い所にいて、雷神のように雷を手に持って人々に投げつけようとしていると考えます。神は私達を愛していることに気がつきません。私達が彼を愛する前から、私達を愛してくれたことに気がつきません。神はこれらのことをすべて私達が生まれる前に成し遂げてくれました。神は、私達がまだ罪の中にあって、神を呪っている時に、自分の御子を送ってくれました。イエスはすでに私達の罪や病気やわずらいを負ってくれました。イエスがそのようなことをしている間、私達は神の敵でした。それでも神は、私達が彼を信じて救われることを信じていました。

神は罰を受けるに値するように私達を扱うことはしません。神は、私達を神が私達になってほしい人のように扱います。でも、人々は、「そうではありません。神はこのような、あのようなひどいことをします。」と言います。

古い契約の下では、神は人をある一定の方法で扱わなければなりませんでした。人は堕落した者だったので、神は人をその罪の性質に従って扱わなければなりませんでした。しかし、新しい契約の下では、神は人を本来扱いたいと望んでいるように扱うことができます。これが違いです。古い契約の下では、ほんのわずかな人々だけが神と共に歩みました。そして、神は彼らを通して働くことができました。神はできるだけ多くの人々を助けようとしました。でも、敵意や、律法があったので、すべての人を救う為には神は自分の聖さや慈愛を冒さずにはそれを行うことはできませんでした。

でも、新しい契約の下でさえ、イエスは、「神は正しい人の上にも、悪者の上にも、同じように雨を降らし、日を昇らせることを知らないのですか?」と言いました。(マタイ5:45)神は単に良い人にだけよいものを与え、悪い者には悪いものを与えるのではありません。聖書は、神の慈愛が人を悔い改めに導くと言っています。(ローマ2:4)

私達が敵を持つなら、「敵について良いことを言い、親切にしなさい。そして、敵が私達に悪を行う時、私達がいつでも敵に良いことをするなら、それは彼らの頭に炭火を置くようなものです。」と言います。(ローマ12:20-21)(これは相手を辱める目的ではなく、その人のしている間違いに気づかせる目的。)そうですよね?私達は悪には悪を返そうとします。でも、神は、「そのようなことはしてはいけません」と言います。神は、「あなたがたに悪を行うものを祝福しなさい。彼らがあなたの悪口を言う時、彼らを祝福しなさい。」と言います。(ルカ6:27-28)そうですよね?何故神はそのように言うのでしょうか?何故なら、神は人をそのように扱うからです。神は、私達にも彼のようになって欲しいと願っています。人々は神を呪います。でも、神はそのような人々を祝福します。何故でしょうか?それは神は人々を自分のもとに引き寄せたいからです。

ある人は助けようの無いくらいまでどん底に陥ることもあります。でも大抵の場合、人々は種蒔きの法則により自分を苦しめます。自業自得です。自分で蒔いた種を自分で刈り取っています。神はその法則を定めて、人はそれに対して責任があります。いつも種蒔きの法則について2通りの働き方があります。一つはネガティブなもので、もう片方はポジティブなものです。人々は言います。「私は自分の蒔いた悪いものを刈り取っているだけです。」何故、いつもそれは悲観的な意味なのでしょうか?私達は、「神を祝福します。私は自分の蒔いた良いものを刈り取っています。」と言うことができます。そして、その刈り取るものは良いものです。

クリスチャンテレビのチャンネルをつけると、いつも種蒔きと刈り取りの法則について語っていますよね。それらはいつもお金と関係したものです。

もし種蒔きと刈り取りの法則について調べてみると、聖書で一番初めに、種蒔きと刈り取りの法則についての記述では、すべての種はそれと同じ種の実をならせると言っています。(創世記1:11-12)そうですよね?それは私達はお金を蒔いて、癒しを刈り取ることはできないということです。私達は蒔いたものと同じ種類のものを刈り取ります。だから、もし私達がお金を蒔いたら、お金を刈り取ります。

別の質問です。もしその種蒔きの法則が真実なら、もし牧師がお金について説教するなら、何故、私達は郵便受けに彼らからお金を受取らないのでしょうか?何で彼らはお金を刈り取る為に、私達にお金をくれないのでしょうか?ハンク・ウィリアムズは何年も前に歌を作りました。彼は言います。「すべての人は神に与えなさいと言いますが、彼らは私にお金を送る為の彼らの住所を与えます。」彼の歌の中にこのような詩が入っています。この世は教会よりもある分野においては賢い時があります。私達は、いつも教会は何かを神に乞うているのを聞きますが、聖書は言っています。「正しいものが見捨てられたり、その子孫が食べ物を乞うのを見たことがない。」(詩篇37:25)私達がクリスチャンテレビチャンネルをつけると、いつもクリスチャンが自分の必要の為に乞うたり、すべてのものに乞うているのを見ます。

神の民は乞う必要はありません。その人は神の祝福にあって歩みます。祝福は私達を満たします。祝福が私達を追い、私達を圧倒します。(詩篇23:6)私達は人々を祝福するのに忙しくあるべきです。そして、祝福が私達に追いつくべきです。わかりますか?私達がただ座っていても、祝福は私達にやって来ません。祝福が圧倒するとは、私達が逃げても、私達を追いかけて、私達を捕まえるということです。それが神の祝福です。ただ立っているだけでは祝福されません。

ある時、私はノースカロライナ州のシャーロット市にいました。シャーロット市はとても宗教的な町です。そして私は説教しながら言いました。「あなたは川のようでなければいけません。神もあなたにそのようになるように望んでいます。彼はあなたに聖霊を注ぎ、あなたを通して、その力を注ぎだしたいと思っています。」又、「なんでもせき止められたものは、停滞して、その中にいるものはすべて死んでしまいます。何故なら、すべてのものはそこで止ってしまって、何も外に出て行かないからです。」そうですよね?「問題は、私達は、川にならなければいけないのに、ダムになっていることです。私達のうちの多くは、川クリスチャンではなく、ダムクリスチャンであることです。」

驚くことに、私達は、神が私達を祝福することを期待しますが、それを受取ると、それに蓋をしようとします。私達は、溜め込むことができる為に、祝福を受けようとします。その祝福が私達を通して他の人々にも広がる為ではありません。私達がより与えるにつれて、神はより多く私達に与えます。力がほしいですか?今持っているものを用いてください。ある人は、「でも、私は何も十分に持っていません。」というかもしれません。しかし、自分に与えられたものも十分に使っていないのに、どうして十分持っていないと分かりますか?種蒔きと刈り取りの法則を用いてください。力を使えば使うほど、より多くの力を受取ります。そうですよね?最初に与えたよりも多くの力を受取ることができます。それが種蒔きと刈り取りの法則です。ですので、もし私達がより多くの力がほしいなら、今あるだけの力を使ってください。それがイエスが、からし種ほどの信仰を教えた理由です。

たくさんの人々が、「どのようにして偉大な信仰を得ることができますか?もっと信仰が欲しいです。偉大な信仰が欲しいです。」と尋ねます。偉大な信仰は必要ありません。もしそれを持っているなら、それは素晴らしいです。でも、もしそうでないにしても、大丈夫です。からし種ほどの大きさの信仰で必要な仕事を果たすことができます。イエスは、決して私達のうちにはある特定の量の信仰を持たなければならないとは言いませんでした。イエスは、人のうちに信仰があるのを見た時には、それを認めました。

面白いことは、聖書で偉大な信仰を持っていると賞賛されていた人は2人だけです。私達が偉大な信仰を持つには遅すぎるので、それを持とうとするのは諦めてください。何故でしょうか?何故なら、イエスはただ2人の人達だけを偉大な信仰を持っていることで賞賛しました。イエスは、その2人だけに、「あなたは偉大な信仰を持っています。」と言いました。一人はローマの百人隊長と、もう一人はスロフェニキア人の女性でした。彼らはユダヤ人でもなかったし、神との契約も持っていませんでした。それが彼らが偉大な信仰を持っていた理由です。もし彼らが神との契約を持っていたなら、彼らは偉大な信仰を持っているとは呼ばれませんでした。分かりますか?私達が神との契約を持っている時には、それは偉大な信仰ではありません。イエスは言います。「あなた達は、私にすべてを明け渡しなさい、私はあなた達に私のすべてを与えます。」これを私達が信じるときには、私達の信仰は、偉大な信仰ではありません。ただの信仰です。何故ローマの百人隊長とスロフェニキア人の女が偉大な信仰を持っていると賞賛されたか分かりますか?それは、彼らはイエスに何も願う権利は持っていなかったからです。私達には願う権利があります。ですので、それは偉大な信仰にはなりません。

それが使徒の働き、ローマへの手紙から先の手紙には信仰を持っていることや、神を信じているかどうかについての記述は書いてないと言った理由です。神に対して信仰を持っていることは当たり前のことだと認識されていました。十分な信仰を持っているかについてではありません。私達が、自分が十分な信仰を持っているかと心配するなら、私達は古い契約の下にいる人々や救われていない人達と同じようなもので、いつも心配することになります。あのことのために、このことのために十分な信仰をもっているかどうか、というような感じにです。十分な信仰を持っているかについてではありません。信仰は愛によって働きます。(ガラテヤ5:6)心配する事が仮にあるならば、私達は十分な愛を持っているかを心配するべきです。でも聖書には、聖霊を通して神の愛は私達の心に注がれていると書いてあります。(ローマ5:5)ですので、神は私達に十分な愛を与えてくれています。だから、もし私達が十分な愛を持っていないなら、それは神の失態になります。しかし、神は私達の心に愛を注いでくれました。

いくらでもこのことについては証明することができます。信じてください。私は、この教えを論破しようとしました、そしてこれを教えないでもいい理由を見つけようとしました。このような、いつも完全な勝利のメッセージをすることは簡単なことではありません。何故なら、私がちょうど誰かを亡くした人や、何か敗北を経験した人のところに来た時には、その人に、「あなたはこのような敗北に苦しむ必要はありませんでした。」と言うことだからです。それを聞くと彼らは私に対して怒ります。

ある時、ある人に胸倉をつかまれて文句を言われたこともあります。実際に、ある時に、人々はデイビッドホーガンを裏庭に連れ出して、墓を見せて言いました。「あなたのメッセージは素晴らしいですが、じゃあこれらの死んだ人達はどうなんですか?」デイビッドは彼らを見て言いました。「ここに早く来れなくて申し訳なかった。もし私がもっと早く来たなら、これらの墓は無かったでしょう。」私も、私の娘が死んだ時に、そのような誓いを神にしました。私はいつも誰でも私にコンタクトすることができるようにしようとしました。何故なら、私は人々がやって来て、墓に連れて行って、「私はあなたにコンタクトすることができませんでした。ですので、私は、今は墓を持つことになりました。本当は、今頃は子供を抱いていてもおかしくないのに、代わりに、墓があります。」そのようになって欲しくないからです。

クリスチャンは、多くの場合、霊的領域について話しますが、まるでその領域が存在していないかのように生活しています。私達は霊的領域に生きなければいけません。霊的領域に生きることは、いつもすべてが神秘的なことのように考えることではありません。霊的領域に生きることは肉的な事柄と、霊的な事柄を全く別々に区切って考えることではありません。肉と霊は同じスペクトルの両極端にあるものです。そして私達が肉から離れて、霊に近づくにつれて、私達は地上にいながら霊的な領域において生きます。

人々は、「霊において生きたい。」と言います。聖書はキリストの霊が私達のうちに宿っていると言っています。それゆえ、私達は御霊のうちにいます。(ローマ8:9)それが聖書が私達について言っていることです。一般に、それは教会の教えることではありません。何故なら、私達は、聖霊は自分の上に注がれるものだと考えるからです。でも、すでに聖霊は私達の上に注がれました。では、私達は新しく満たされることはできますか?それはあります。スポルジョン氏は一度、「何故私達は再び新しく満たされようとするのでしょうか?私達はすでに聖霊のバプテスマを受けていると、御霊に満たされていると思うのですが…私達はすでに満たされています。何故新しい満たしを求める必要があるでしょうか?」と言いました。彼は続けて、「満たしが必要なのは、それは漏れるからです。」と言いました。確かに、実際に時々御霊は私達から漏れてしまいます。そのような時は、御霊を燃え立たせて、再び満たされる必要があります。では、どのようにして再び満たされた状態に戻るのでしょうか?単純には、自分達に向かって詩と賛美と霊の歌を歌うことによってです。(エペソ5:18-19)その聖書箇所では、「聖霊に満たされなさい」と書いてあります。ここでの「満たされる」ということばはギリシア語に忠実には「御霊に満たされ続ける」と訳すことができます。言い換えると、私達は常に満たされ続けるべきです。私達の人生は聖霊で満たされたものであるべきです。

ある人からの質問です。「ペテロの影についてはどうですか?ペテロはただそのように信じたのですか?それともそれはただ偶然起きたことですか?」ペテロの影によって人々は癒されました。聖書には、その奇蹟はペテロが通り過ぎるに連れて、人々は病人を大通りへと運び出し彼の影が病人にかかるようにしたと書いてあります。(使徒の働き5:14-15)これより、ペテロの影に触った人々は癒されたという印象を得ることができます。

これは私の解釈ですが、癒したのはペテロの影そのものではありませんでした。例えば、もし私がこのようにここに立ったなら、私の影をこの時点まで見ることができます。でも、もし光が私の真上から照っているなら、私の影を見ることはできません。光がより斜めから照るほど、影も長くなります。そうですよね?神の御霊の力学についての私の経験からの解釈は次のようなものです。例えば、誰でも個人の空間がありますよね?つまり自分の居心地のいい空間を知っています。もし誰かがその空間に入るなら、自動的に、私達は少し引き下がり、間を空けて、その空間を確保しようとすると思います。私達は肉を着た霊です。肉(身体)は霊を完全に閉じ込めることはできません。私達の霊は肉を通して放射されます。肉の服を通してです。例えば、私達が暗い部屋にいて、その部屋の中を歩くに連れて、誰かがその部屋にいることを感じ取ります。それか、私達が立っている時に、ふと横を見ると、誰かがあなたを見つめているようなこともありますね。それは私達の霊の働きです。私達の霊は縛られてはいません。霊は外に流れ出ます。私達の霊はいつも外に放出され続けています。でも、それがより遠くに放出されればされるほど、弱くなります。ちょうどレーダーのようなものです。

それが多くの場合、旧約聖書の時代の預言者達が予見者であった理由です。彼らは遠くの事や物を見ることができました。それは神の御霊によることでしたが、御霊の力学によるものでした。

大抵の場合、私達は「神の御霊」について話すときには、御霊は機械的でもなく、ただ超自然的に起きるものである、と考えがちです。神の御霊は、実際に万有引力の法則や自然界の法則を確立しました。そうですよね?それらの法則は神が確立しました。それらは自然界の法則ですが、神が確立したものなので、超自然的な法則でもあります。分かりますか?自然界の法則は霊によって成り立っています。

ですので、より私達が御霊に満たされれば、御霊は私達を通して放出されます。私達が霊的に強くなればなるほど、霊の放出は広範囲になり、感知されやすくなります。

例を挙げると、スミス・ウィグルワースが電車に乗り込むと、人々は床に倒れました。どのようにしてそれは起きたのでしょうか?何故、ある人が通り過ぎる時には、人々は倒れるのでしょうか?それは御霊の放出によるものです。聖霊が彼らのところへ行き、彼らを倒すのではありません。彼らは神の御霊の放出をウィグルワースのうちから感じました。

何でも私達が聖書のある領域を勉強して、自分をそれにささげるなら、それは私達を通して現実化されます。分かりますか?ウィグルワースは伝道と癒しの領域で自分自身を神の御霊にささげました。ですので、神の御霊が彼から放出され、それら伝道や癒しの為に働きました。チャールズフィニーは伝道とリバイバルに自分をささげました。フィニーがある工場に歩いてはいると、突然、そこにいるすべての人々の上に静けさが舞い降りました。それは数百人の人々でした。どのようにしてでしょうか?何故でしょうか?神の御霊が彼から放出されていました。静けさがすべての人の上に舞い降りて、一人の少女がその場の雰囲気を明るくしようとして冗談を言うと、突然、彼女は泣き出しました。そして、すぐにその場にいたすべての人々が泣き出して、悔い改め始めました。何故でしょうか?何故、彼らは癒されなかったのでしょうか?それは、フィニーは自分を癒しにささげていなかったからです。彼は自分を伝道にささげていました。それが彼が蒔いたものです。そして、何を刈り取りましたか?伝道です。

私は、時々神の御霊は水のようなものであると考えます。水は、私達がある色の着色剤を入れるなら、その色になります。私は、時々、神の御霊には色があったらいいなと思います。癒しの為に、悪霊追い出しの為に、伝道の為に、それぞれの色があることを望みます。このように誰でも聖書のある領域を勉強して、自分をそれにささげて、神の御霊に満たされるなら、その領域のある一定の色を見ることができるでしょう。それは全く常識はずれのことように聞こえるかもしれませんが。私はただ目に見えるたとえで霊の領域を説明しようとしているだけです。神の御霊は私達が自分自身をささげる事柄の領域での力を現します。何故でしょうか?それは私達がその領域で神の御霊が働きやすい環境を作るからです。それが私達は自分が勉強して、時間を費やすものになる理由です。

それを聖書で証明しましょう。例えば、1サムエル記10では預言者サムエルがサウルに、「あなたがべテルと呼ばれる神の丘まで来ると、預言者の団体に会います。彼らがやって来ると、彼らはあなたに預言します。そして、彼らがあなたの周りに来ると、あなたも預言しだします。」と言いました。(1サムエル記10:5-6)何故サムエルは預言者たちが周りに来るまで預言しなかったのでしょうか?それは私達は周りにいる者になるからです。

私がクリスチャンインターナショナルの人々の周りにいる時には、驚かされます。クリスチャンインターナショナルを知っていますか?とても預言的な人々です。私が彼らの周りにいて働く時にはより多くの知識のことばを得ます。何故でしょうか?それは私は彼らの周りにいるからです。それは神の御霊だからです。私は彼らの周りにいるので、神の御霊は預言の領域において私を通してより働くようになります。ある人はそれを雰囲気というかもしれません。それが私が人々にこう言う理由です。「私はこのセミナーを教えたいですが、それよりもできるなら2週間あなた達を癒しを行うために連れて周りたいです。あなた達は癒しになるからです。それが私が以前に言った理由です。私はもう癒しを教えることはしません。私自身が癒しです。癒しは私から溢れ出ます。私は癒しについて考える必要はありません。私は癒しを命令する必要はありません。癒しはいのちです。癒しはただ私から放出されます。」

ペテロが歩いている時に、彼の影にかかった人々が癒されたというのは、それは神の御霊が彼の影の先の距離まで放出されていたからです。これはまだ推測にすぎませんが、私は真実であると信じます。

もう2つの例を取り上げてみましょう。一つ目はレイク氏です。彼が南アフリカにいた頃、彼らは休もうとしましたが、休むことができないでいました。そして、ある村を見つけて、やっと休むことができると思いました。しかし、一度村の中に入ると、人々が彼らを見つけて続々やって来ました。そして終に、レイク氏とその仲間は、「ここでも休むことはできません。やって来たとてもたくさんの人々の為に祈る必要があります。」と言いました。そして彼らはその村の中心に行きました、そこにはカールと呼ばれる馬を縛っておく柱がありました。彼らはそこまで行き言いました。「私達は疲労して、身体的にはもう祈ることはできません。もう去らなければいけません。」しかし、7万2千から7万3千人の人々が集まっていました。彼らは、「休まなければいけません。私達は休む必要があります。」と言いました。そして、その柱に手を置いて、「イエスの御名によって」と言って、油注ぎをその柱に注ぎました。これはおかしなことのように聞こえますが、聖書に基づいて、祈りの布などがあります。そして、彼らは言いました。「私達が去った時に、もしあなた達が列に並んで、この柱に向かって歩いて、誰でもこの柱に触るなら、その人は癒されます。」彼らはこのようにして、去りました。それによって、一週間で7万人以上の人々が癒されました。

それでも、どうしてそれが本当だと知ることができますか?と言うでしょう。他にもいくつかそのような例を知っています。これがもう一つの例です。

私がレーマにいる時のことでした。レーマを知っていますか?そうです。タルサ市にある神学校のことです。祈りと癒しの学校です。そこにはジム・ハカデイという人がいます。彼はすばらしい人です。ある人はこの話を聞いたことがあるかもしれません。それはまだケネスハーゲンが生きている頃のことです。私達はオフィスに座って色々と話して、フェローシップを持っていました。そして、彼が祈りと癒しの学校に行く時になったので、彼は言いました。「もう、時間なので教室に行かなければ行けません。じゃあ、一緒に行きましょう。」私達がそこに向かっている途中に、耳の聞こえない少女の為に祈りました。その場では何も起きませんでしたが、私達が道の反対側に着く頃には、彼女は完全に聞くことができるようになりました。彼女が癒されるのにはそれだけの時間がかかりました。そこについて、彼は説教をし始めて、それが終わると、癒しを行い始めました。そこにいる人々が癒しを行っていました。そして、ある時点で彼は言いました。「もし私に直接祈ってもらいたい人は舞台まで来てください。」そして、ある女性が前に出てきました。その時までには、彼は汗をかいていました。それは癒しには体力を使うからです。信じてください。癒しはいつも楽しいゲームではありません。私が教えたようにもし霊的な領域からではなく、身体的な領域から癒しを行うなら、多くのスタミナを使います。彼は壁のところまで行って、そこにもたれ掛かって、少し休んでしました。そこで彼女は彼のところまで行って、言いました。「私の為に祈ってもらえますか?」そこで、彼は手を動かして、彼女の背中を壁に向けて立たせて、祈り始めました。そして、彼女の頭が彼の手が置いてあった壁に当たると、彼女は壁に沿って、倒れて、立ち上がった時には癒されていました。彼は彼女には触れませんでした。じゃあ、彼の手があった場所に彼は何を残したのでしょうか?痕跡です。

私達は最近ではCSIなどテレビ番組で、人々は指紋によってDNAなどを残すことを見ることができます。私達のDNAは霊的なものです。私達はDNAの指紋と、同時に、霊的なDNAの指紋を残します。聖書は、「私達は行くところ何処においても香ばしい香りである。」と言っています。(2コリント2:15-16)

例えば、私達がデパートに行くとします。その中を歩いていると、突然、ある香りを見つけます。誰かの香水の香りです。数歩前に行くとその香りを嗅ぐことができますが、数歩下がるとできません。私達が、その香りの中に歩いていくこともできるし、その中から歩き出て行くこともできます。

そのようなことが霊においても起こります。私達は目で見ることはできませんが、私達のいく所においては何処にでも、痕跡を残します。その痕跡は目で見ることはできませんが、まるで粒子はそこに残っているようなものです。もし私達がその痕跡を通るなら、粒子は私達にくっつきます。何故でしょうか?何故なら、私達はその痕跡の残された場所を通ったからです。それは放射能のようなものです。放射能を目で見ることはできませんが、その効果は見ることができます。そうですよね?そして、もし私達がガイガーカウンターのように敏感な装置になったなら、私達は放射能を探知することができます。御霊においても同じことが起きます。何処にでも行くところには、私達はいのちの御霊の香りを残します。そして、その後に、誰かが、私達が香りを残した場所を通るなら、もしその人が松葉杖をついていたら、その人は癒されることも可能でしょう。

このようなことを聞いて人々は、「そのようなことは聞いたこともないし、狂っていると思うかもしれません。」悪いが、私は狂っていません。そのように言う人が狂っています。その人は考えの許容量を広げるべきです。そして、これが普通の生き方だと気がつく必要があります。これが普通です。いのちの御霊です。私達は霊的な香りを残します。でも、ある人は、「そんなことは今まで聞いた事はありません。」と言うでしょう。しかし、神は、「彼の血が地から叫んでいる」と言わなかったでしょうか。(創世記4:10)ここでは、それについては、今は詳しく話しません。

私はカール・バー博士と知り合いです。彼を知っている人はいますか?グレン・ローズ市にいる、Creation Evidence Museum of Texasで創造科学を研究する人です。私達は涸れの所に行って、聖書的な空間など、さまざまな魅惑的な物を作るのを手伝ったことがあります。彼は科学によって、キリスト教を証明しています。彼がどのようなキリスト教を証明しているか知っていますか?御霊に満たされたカリスマ派のキリスト教の教えです。キリスト教は伝統的には中身のないものと見られますが、彼はそうではない事を科学的な実験によって証明しています。

日本のある科学者が私達の話すことばには影響力がある事を証明した事を知っていますか?私達は「霊的な物理学」という教えでその事についても教えています。彼の行った実験では、一切れの紙にことばを書いてそれを水の入ったグラスに貼り付けました。そして、それらの水を凍らせました。そして、それらのことばは、神や、祝福や、幸せ、などでした。それらが凍った時に、取り出して、結晶を見ると、それらの結晶はすべて均衡の取れた、美しいものになりました。そして、ことばをサタンや、のろいや、憎しみなどにして凍らせました。彼らがしたことはただ水を凍らせて、その結晶を取って見ました。それらの結晶は不均衡で混沌としていました。ただ、ことばを書いただけでです。

テキサスにある科学者がいますが、彼は聖書のことばを水のグラスに貼り付けて、いわゆる、バイオレゾナンスというものを水に当てて、7年か10年間の間、そのような水を飲み続けていました。その間は彼は病気になりませんでした。彼らは、実際に、その水はミネラル化されました。そして、それは「癒しの水」でした。私はまるでサイエンスフィクションで、そんなことがあるのかと思いましたが、これはただ科学は聖書に追いついてきていることを証明しています。

神は、私達は自分の言うことを得ると言いました。彼は私達が山に向かって動いて海に入れと言えばそのようになると言いました。(マルコ11:22-14)私達の身体の約60%は水でできているので、それに話せば、それは反応します。私達の身体は他人のことばよりも自分のことばの方によく反応する事を知っていましたか?何故なら、私達の声はそのように適するように作られているからです。

私達は科学が聖書に追いついてきている事は、おかしなことでないことを認識する必要があります。私達は、イエスは何について話していたかを知っていた事を、そして、それには科学的な証拠があったことに気が付く必要があります。

問題は、悲しいことに、私がこのように科学で説明するから聖書を信じることです。もしそうなら、私達は、科学は信じるけれど、聖書自体を信じないことになります。私達は聖書に信仰を置いているのか、科学に信仰を置いているのかどちらですか?科学がこのようなことを証明する前に、私は聖書を信じて、それらのことを行っていました。今では科学がそれらの事を証明したので、私は信仰を持っていた事を知ります。何故なら、私は科学により証明される以前から、信仰によって身体などの物事に命じていたからです。遅かれ早かれ、私達は神のことばを信じる必要があります。今から神のことばを信じ始めてください。

人々は何でもっと多くの癒しを見れないのかと考えます。その理由は私達は祈っている間だけは、自分の言うことばに気を配りますが、それ以外の時には何でも好き勝手なことばを話すからです。これについて考えてみてください。私は自分の口から出ることばを見張ることの大切さを信じています。私は自分の口から悪口が出てくることを信じません。私は、「死ぬほどそこに行きたい。」などとは言いません。先ず第一に、それは信仰告白の問題だけではなく、嘘をつくことです。私達は死ぬほどそこに行きたいわけではありません。又ある人は言います。「死ぬほど笑えました。」それは嘘です。その人は死にませんでした。ただ笑っただけです。何で大げさにする必要があるでしょうか?私達はただ真実なことだけを語る必要があります。そうでなければ、私達は自分で言うことばを信じません。それなのに何で悪魔が私達のことばを信じるべきでしょうか?私達が誰かに「イエスの御名によって、あなたは癒されました。」と言う時に、もし私達が自分のことばを信じないなら、何で悪魔が信じるでしょうか?これは重要なことです。私達はことばで遊ぶべきではありません。これは生死についてです。私達は普段の生活からこれらのことを離して考えることはできません。私達は他の人に向かって愚かなことばを言いながら、人々の為に命を祈りに行く事をするべきではありません。聖書はのろいと賛美を同じ口から出させてはいけません、と言っています。(ヤコブ3:10)

私達は命を与える口を持つべきです。私は誰かの為に祈っている時にも、そうでない時にも、何かを言う時には、同じ焦点を持って話します。私が冗談を言う時にでさえも、ネガティブな影響を残すようなことは言いません。私は自分の口から出るすべてのことばは長く続く力を持っていると信じています。私の話すどのようなことばもネガティブな影響を及ぼすものであって欲しくありません。

私は何かおかしなことについて話しているのではありません。私達は恵みに満ちたことばを話すべきです。人々の徳を養い、力づけるために話すべきです。人々を抑圧したり、馬鹿にする為ではありません。誰かを馬鹿にするようなことばは神のものではありません。神はそのようなことばは話しません。聖書には、エペソ1:3には、神は私達をキリストにあって、天にあるあらゆる霊的祝福を持って祝福してくれた、と書いてあります。この「祝福」ということばは文字通りにはどのような意味か分かりますか?神は私達について言えるすべての良いことを言ってくれたという意味です。祝福されるという意味は、神が私達について良いことを言ってくれるという意味です。

ですので、私達はお互いに祝福するべきであって、呪うべきではないことに気が付くべきです。もしこれを理解しないなら、私達が癒しの為に祈る時に、「癒されよ」と言っても、強い影響はないでしょう。それが、私達が何かネガティブな事を言った時には、それが起こるのを経験をする理由です。私達が「インフルエンザがやって来ます。それが来た時には、私は風邪を引きます。」と言っていながら、どうして 「私のことばには何も影響力がありません。」と言うのでしょうか。そんなことを一生言い続けながら、あなたの人生に何も影響しないと思いますか?私達は、自分の言うことばの通りのものを得ます。もし私達がいつもネガティブな事を言いながら、必要な時だけに、向きを変えて、誰かについて良いことを言うなら、私達はポジティブなことよりもネガティブなことに信仰を持っていることになります。

私は神のことばに信仰を持っているので、自分のすべてのことばが神のことばと一致して欲しいと思っています。私が説教をしていない時もです。私は、何故自分の言うことに注意するべきかについて語った「口を見張れ」という教えのCDを作りました。もう一度言いますが、私は告白についてめちゃくちゃ捕らわれている訳ではありません。私が今しようとしていることは人々を助けることです。なので要点は、もし私が神のことばをできるだけ私のうちに蓄えるなら、私はイエスのように人々を祝福できるということです。

Neylor Stevo