ジョンGレイク 紹介
1870年3月18日-1935年9月16日
10年間の間に、250,000以上の証拠が残る癒しを行いました。
1918年には、ワシントン州のスポーケン市はアメリカ合衆国で最も健康な都市だと報告されました。
レイク氏は16人の神癒技術者達を訓練し、その当時最も結果を出した癒しの訓練プログラムの先駆者でもありました。
ジョン G.レイク氏は20世紀初頭に始まったペンテコステ運動のリーダー達の一人であり、信仰による癒しで、又、南アフリカへの宣教師としてよく知られています。彼は、トーマス・へズマルチと共にApostolic Faith Mission of South Africaを創設しました。
南アフリカでの宣教師としての働きでは、レイク氏はペンテコステ運動の南アフリカでの拡大に重要な役割を果たしました。それは、アフリカ南部において20世紀で最も成功した宗教運動でした。南アフリカでの宣教活動から帰国後、レイク氏は主にアメリカ合衆国の西海岸において、20年間ヒーリングルームを設立したり、癒しの活動を行い、教会を開拓したりして福音を宣べ伝えました。
彼の主なヴィジョンは人々が神の力にあって歩む事ができるように訓練する事でした。彼は多くのDHT(神癒技術者)を訓練しました。レイク氏はアレクサンダー・ダーウィー氏の癒しのミニストリーに大きな影響を受けました。
ジョン G. レイク氏はカナダにて生まれました。
1886年、16歳の時にアメリカ合衆国に家族と共に移り、同じ16歳の時に、救世軍による集会で救われました
最初に彼が見た病気の癒しは、メソジスト教会で若い女性が癒された時でした。
1908年、12月22日、彼の最初の妻である「ジェニー」が亡くなる。(南アフリカに宣教師として到着してから、たった6ヵ月後の事でした。)
しかし、レイク氏は、妻の死後も、なおも4年間アフリカに留まりました。
(妹のアイリーンの助けを借りて、7人の子供達も育てました。)
1913年、2月13日、レイク氏がアメリカ合衆国に帰ってきました
1913年、9月、フローレンス・スウィッザーと結婚しました。
1914年の4月まで、レイク氏はメッセージをして、色々な人々と交流してアメリカ中をさまよいました。
1914年の初頭、レイク氏はペンテコステ派のリーダー達の集会に参加する為にイギリスへ行きました。
イギリス滞在中に、レイク氏はInternational Apostolic Council(国際使徒協議会)を設立しました。これは、イギリスのInternational Pentecostal Council(国際ペンテコステ評議会)に基づいたものでした。
レイク氏がアメリカに帰った後、彼はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド(A/G)の理事会の設立式に参加しました。
A/Gの組織のとの名前の困惑を避ける為に、自分が設立した組織の名前を使う事をやめました。
1914年9月、レイク氏はワシントン州のスポーケン市に移りました。
そこで、「真理の教会」という名の教会で働きを始める。6ヵ月後には、建物を借りて「レイクのヒーリングルーム」と名づけたものを始めました。
Divine Healing Institute(神癒協会)という組織を設立して、「Divine Healing Technicians(DHT)」(神癒技術者)を訓練し始めました。
1915年2月から1920年5月までの期間に、レイク氏と彼の訓練したDHT達は10万件以上の癒しが起こったと報告しています。
その後、レイク氏は、オレゴン州のポートランド市に移り、教会とヒーリングルームを設立して、同じように5年間の内に10万件以上の癒しを行いました。
5年間、ポートランド市に住んだ後、レイク氏はカリフォルニア州の西海岸沿いを旅して、数々のヒーリングルームや教会を開拓しました。
1927年、彼はテキサス州のヒューストン市に移り、教会といくつかのヒーリングルームを開拓しました。
1931年、レイク氏は再びスポーケン市に戻る。そこで、古いメソジスト教会の建物を買い取り、彼の最後の働きを始める。その建物内で、教会とヒーリングルームを始めます。以前1920年にスポーケン市を去った時に、彼はそこの建物内(Rookery’s Building)にあったヒーリングルームは閉鎖して、決して再び再開することはしませんでした。(その元々の建物(Rookery’s Building)は1930年代に燃え崩れました。そして、その跡には、完全に新しい建物が建てられて、レイク氏はそこには全く足を踏み入れていません。)
1936年、9月16日、ワシントン州のスポーケン市でレイク氏は亡くなる。
レイク氏は、アーサー・コナン・ドイル(探偵シャーロックホームズの作者)、ウェイス・エリック(奇術師ハリー・フーディー二)やW・T・ステッド(イギリス人ライター、ウィリアム・ブースの親友)の親友でした。ステッドはタイタニック号と共に海に沈みました。ステッドは、レイク氏をタイタニック号の最後の航海に招待しましたが、レイク氏は断りました。
(これらの情報はカリー・ブレイク氏による、これから出版される「ジョン.G レイクの働きと生涯」という本からの抜粋です。)
ジョンG. レイク氏は、20世紀前半に神に大いに用いられた人です。恐らく、彼は病気の癒しのミニストリーでよく知られていると思います。その彼の働きの代表的なものに1915年に彼がスポーケン市で始めたヒーリングルームがあります。1915年から1920年の、5年間の間に、レイク氏と彼のチームの「神癒技術者達」は神に用いられ、10万件以上の癒しを行いました。レイク氏は神癒技術者達を一連の神の癒しの教えをもって訓練しました。
1870年、3月18日、ジョンG. レイク氏は、カナダのオンタリオ州にて生まれました。1886年には、家族でアメリカ合衆国に移りました。そして、救世軍の集会で救われました。21歳になるまでに、彼は結婚して、メソジスト教会の牧師として任命されました。レイク氏の生涯前半の記憶は病気、死、葬式と悲しむ両親の姿で満ちていました。16人の兄弟姉妹のうちの8人は様々な病気で亡くなりました。彼の新婚の妻も病気になり、死にかけていました。
この様な境遇の中で、レイク氏は始めて病気の癒しのメッセージを聞きました。彼はすぐさま神の癒しについて学び始めました。彼の妻は、遠くにいたジョン・アレクサンダー・ダーウィという人の祈りによって癒されました。1901年、彼は家族を連れてイリノイ州のシオン市へ移りました。「その目的は、神の癒しを学んで、それを他の人に教える為でした。」
1908年、レイク氏と数人の宣教師達は、信仰により、アメリカを発ち、南アフリカへと出発する。南アフリカ到着後、すぐに宣教師達は現地の人々や宗教的な人達の中で騒動を引き起こす。「Apostolic Faith Mission of South Africa」(レイク氏の設立した組織)は700以上の教会を開拓しました(125の白人牧会教会と600の現地のアフリカ人牧会教会)。その結果、約2000年以上も経験されていなかった、奇跡や癒しが日常茶飯事の事のようになる。
レイク氏が南アフリカに到着後の1年目に、彼の妻のジェニーは、彼がジャングルに宣教の働きに出かけている間に亡くなりました。
彼が戻る頃には、彼女の葬儀が終わってから12時間以上経っていました。彼はこの事件を「サタンの絶妙な技」と言い表しています。
それでも、彼はその後も4年間、7人の子供達を育てながら留まり、彼のリーダーシップの下に約250,000人から成る組織を設立しました。
1913年2月1日、彼はアメリカ合衆国に帰国しました。南アフリカでの働きで肉体的に疲労しきっていました。
到着後、彼はあちこちと国内を旅をして、伝道して、休養して、長い間会っていなかった旧友との交わりの時を持ちました。
1913年9月には、レイク氏は彼自身だけでなく、全世界にとって祝福となる女性と結婚しました。フローレンス・スウィッザーは秘書であり、速記者でした。彼女は、レイク氏がメッセージする時には、毎回集会の最前列に座り、彼のメッセージを残らず紙に書き残しました。今日、私達の読むことのできるレイク氏のメッセージがそれです。もし彼女がレイク氏の妻となっていなければ、今日のような豊富なレイク氏のメッセージは記録されていなかったでしょう。
1914年9月、レイク氏はワシントン州のスポーケン市に移りました。そして、ある教会で6ヶ月間奉仕をして、その後自分のミニストリーを立ち上げました。そのミニストリーは「レイクのヒーリングルーム」として知られるようになりました。レイク氏が1920年にスポーケン市を去った後に、そのヒーリングルームが再開されることはありませんでした。(その建物は1930年代後半に完全にやけ崩れました。そして、全く新しい建物が建てられました。)1920年、レイク氏は、大きな家族(レイク氏、フローレンス婦人と(前妻との間の)7人の子供達とフローレンス婦人との間の5人の子供達)を連れて、オレゴン州のポートランド市に移りました。そして、ポートランド市でもスポーケン市でした働きと同じ事をしようとしました。そして、見事それを成し遂げました。ポートランド市に移ってから5年間で10万以上の癒しを行いました。
レイク氏は落ち着く事が無く、6年間の巡回のミニストリーに発ちました。そして、ミニストリーの結果、数々の教会、ヒーリングルームが生まれました。また、カリフォルニア州のサクラメント市、サンディエゴ市やテキサス州のヒューストン市で癒しの集会を開きました。
1931年、レイク氏がワシントン州のスポーケン市に戻ってきた時に、彼は古いメソジスト教会堂を買い取り、そこで働きを始めました。しばらくの間、その教会堂の中でヒーリングルームを行っていましたが、まもなく、教会を移動させました。
1935年、9月16日、レイク氏(この「氏」(Dr.)という敬称は彼が地元の医者よりも多くの人達を癒していたから、教会の人達がつけたものです。)は亡くなりました。彼のミニストリーはレイク氏の娘であるガートルードと彼女の夫のウィルフォードが引き継ぎました。1986年にガートルードが亡くなり、1987年6月にウィルフォードが亡くなるまで彼らはミニストリーを続けました。ウィルフォードが亡くなる少し前に、彼はカリーR.ブレイクをジョンG.レイクミニストリーの総監督者として任命しました。
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