神癒技術者訓練 – セッション19

神癒技術者訓練 – セッション19
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション19

では聖書を見ていきましょう。いくつか見ていく点があります。最初は士師記16章です。でもその前に、始めに士師記の13章を見ていきましょう。士師記13章を早く終えて、癒しの祈りをしていきたいと思います。ですので、時間をかけては見ていきません。それでは今からボランティアの人達に頼んで誰も逃げることができるように扉に鍵をかけてもらいます(笑)。(冗談です)何故かというと、これはカリーの見せ場などではないからです。私は24時間いつも癒しのために祈っています。今回はあなた達(会場にいる人達)が祈ります。

(会場で)ここにいる人のうちの何人がこの神癒技術者訓練を受けたことがありますか?手を上げてください。では、訓練を受けたことのない人はいますか?では、癒しが必要な人はどれくらいいますか?ん~、大体90%ですね。じゃあ、この訓練を受けてきた人達、今夜はあなた達の番です。いいですか?私が今回教えてきたのは、私ではなく、あなた達が癒しを行えるようになるためです。今夜はあなた達が癒しを行う番です。ですので、この訓練を受けた人、またリーダーの人達は今夜、癒しの為に祈ります。それと、私はいわゆる致死の病気を持っている人達のために祈ります。あなた達はその他の人たちのために祈ってください。だから、今夜は癒しを行う機会です。私は歩いて回りますが、癒しはとても機械的に見えるかもしれません。でも、それは働きます。神の力は機械的だからです。その理由は、神はすべての人がその力を使えるようにしたからです。だから、怖れないでください。大丈夫です。今から、ちゃんと何を、どのようにしたらいいかを教えます。でもその前に、最後のセッションを終えたいと思います。

先程、私達が話していたことを思い出してください。覚えていますか?思い出してください。聖霊のバプテスマがどのように捕らわれ人を解放し、しいたげられている人を自由にする力を与えるかについて話しました。そして、手を置くことや、ことばなど様々な方法により、神の御霊の力を解放することで彼らを自由にすることについて話していました。覚えていますか?実際には、それらのいくつかについてはレイク氏の手紙で読みました。その中で、その秘訣は聖霊のバプテスマを通しての支配権の行使と言っていました。今から、それを聖書に従って証明します。その後で癒しを行っていきます。

では、士師記13章を見ていきます。24節から見ていきます。これはサムソンの話です。彼がちょうど生まれたところです。こう書いてあります。「その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、は彼を祝福された。」次の25節に注目してください。「そして、の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」。ここで、の霊は彼を揺り動かし始めた、と書いてあることに注目してください。今でも教会は通常このように働いています。彼らは、の霊に時々揺り動かされます。でも、ダビデの生涯を勉強すると、サムエルが彼に次のイスラエルの王になるために油を注がれた時から、神の霊がダビデの上にその日からとどまった、と書いてあります。(1サムエル記16:13)そうですよね?教会はサムソンのように力を使うのをやめて、ダビデのように力を使う必要があります。「あ~あ、2週間前に教会にきてあの礼拝に出ているべきだったな。あの礼拝は最高でした。あんな礼拝は今までに一度も経験したことはなかった。神の霊がそのように働いてから6ヶ月間くらいになります。」のようには言うべきではありません。教会はこのようであるべきではありません。いつも同じであるべきです。神である主は変わることはありません。(マラキ3:6)そうですよね?イエスはどうですか?きのうも今日も、とこしえに同じです。(ヘブル13:8)なので、神の霊も昨日も、今日も、とこしえに同じです。だから、神の霊が動いていないように見えるときは、それは、私達が動いていないからです。神の御霊はいつも変わらないからです。

では、女は男の子を生み、サムソンと名づけた、彼は大きくなり、神は彼を祝福した、と書いてあります。サムソンの話を知っていますか?あまりいい話ではないです。終わりは悪くはありませんが、途中は良くありません。士師記16章を読むと、デリラの話が書いてあります。サムソンはこのぺリシテ人と関わり始め、それは問題を引き起こします。彼の両親は彼女を気に入らないで、彼に同じ部族の中から女の人を捜すように言っていました。しかし、聖書はこう言っています。両親は神がぺリシテ人と戦いを引き起こそうとしていることに気が付きませんでした。(士師記14:4)それがサムソンがぺリシテ人達のところに行き続けた理由です。彼がそこに行くたびに、サムソンは戦い、彼らを打ち負かして帰ってきました。

では、15節から読んでいきましょう。「そこで、彼女はサムソンに言った。『あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。』」。ここで3回も彼女はサムソンに「あなたの強い力がどこに:あるのか?」と訊いていることに注目してください。彼は3回とも彼女に嘘をつきました。そうですよね?そして、彼女は彼に言われたことをして、彼は奮い立って、多くのぺリシテ人を打ち殺します。普通、2、3回目の嘘の後なら、彼女も学習しているべきです。

考えてみてください。サムソンを想像した時には、自動的にシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルシュネッガーなどが思い浮かぶと思います。彼らは筋肉ムキムキです。恐らく、シルヴェスター・スタローンが演じているサムソンが、「おい、デリラ!」と言っているのを、想像できると思います(笑)。でも、実はサムソンはシルヴェスター・スタローンのようではありませんでした。アーノルド・シュワルシュネッガーのようでもありませんでした。もしそうなら、ぺリシテ人達がデリラのところに行って、「サムソンの力がどこから来るのか見つけなさい」と言う必要はなかったはずです。もしシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルシュネッガーを見るなら、彼らの力がどこから来るかは分かるからです。それは大きな上腕筋からです。そうですよね?彼らの力の源に疑いの余地はありません。でも、ぺリシテ人達はどこからサムソンの力が来るのか分かりませんでした。なので、恐らくサムソンは彼らのようではなかったはずです。多分、ウディ・アレンのように見えたかもしれません。考えてみてください。もしウディ・アレンが町への門を粉々にしたら、どんな反応をしますか?「彼の力がどこから来るか調べなさい。」と言いますよね?彼には強い筋肉はないからです。

サムソンは彼女に3回も嘘をついて、神の力について黙っていました。彼女に一度力がどこから来るかを話したら、それを失ってしまうからですか?本当にそうですか?この話のモットーは何でしょうか?嘘をついて、神の力を保つことですか?それとも、それを伝えて、力を失うことですか?違います。それがモットーではありません。しかし、驚くべき事は、神の力がどれだけ機械的なものであるかです。サムソンは神との契約を持っていました。そして、その契約はいつも働いていました。

では、彼がここで何をしたかに注目してください。彼は3回嘘をついて、終に17節で、真実を言います。そして、18節でこう言っています。「デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。『今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。』。ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。」。20節です。「彼女が、『サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます』と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼はが自分から去られたことを知らなかった。」。

これが私の強調したい点です。これが理解しなければいけないことです。神の力を自由に働かせる為には、私達は神の力自体、聖霊自体は全く五感で感じることができるものではないことを悟らなければなりません。神の力は感じるものではありません。あなたが神の力を働かせている時には、何か感じるかもしれません。でも、その感覚自体は神の力ではないです。何故なら、もしそれが本当なら誰もが同じことを感じていなければいけないからです。でも、もし人々にどう感じるか訊くなら、それぞれ違ったことを感じています。なので、人が感じることが神の力ではありません。でも、それはただの私達の身体の神の力への反応です。いいですか?

では覚えておくべきことは次のことです。サムソンが言ったことに注目してください。彼は立ち上がって言いました。今度も、いつもと同じように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう、と言いました。彼は自分をひとゆすりしてやろうと言いました。その「ひとゆすり」はプロレスのように立ち上がって、自分の身体をひっぱたいて気合を入れることなのかは、分かりません。でも、それが何であれ、サムソンは出て行ってぺリシテ人達を打ち殺すつもりでした。そうですよね?それから、聖書はサムソンは、が、神の霊が彼から去ったことを知らなかった、と書いてあります。(士師記16:20)

考えてみてください。サムソンは立ち上がって、ひとゆすりして、ぺリシテ人達に飛びかかります。でも、今回は、彼らが彼を捕まえて、連れて行きます。彼には力は無かったからです。これは彼が神の力をいつも五感で感じてはいなかったからです。

よく考えてみてください。いいですか?もし彼がいつもの力を感じていたのなら、彼がひとゆすりしたときに、彼は神の力を感じなかったはずです。ですので、彼は神の御霊が彼と共にいないのに気が付いたはずです。でなければ、彼はこう言ったはずです。「よし、じゃあ行こう?あれ?主よ。どこにいるのですか?ちょっと待ってください。主を見つけなきゃ。主よ。どこですか?」そうですよね?サムソンがひとゆすりした時に油注ぎを感じたはずです。なので、彼は神の御霊が自分のうちにいないことに気が付いたはずです。なので、サムソンはいつも戦いに行く時には何も感じてはいなかったはずです。それは、彼が毎回戦った時には、彼は信仰を持って出て行ったということです。彼は神との契約を信じていました。何も感じてはいませんでした。単純です。

それが私達がしなければいけないことです。それは私達のする部分です。つまり神の力はいつも私達のうちにあることを信じて、それはいつも働くと信じて、言い送ったことを必ず成し遂げることを信じて、思い切って行動することです。

では質問させてください。油注ぎは何をする為に送られましたか?くびきを砕くためです。(King James Versionイザヤ10:27)そうですよね?その油注ぎは人々のくびきを砕きました。聖書はそう言っています。じゃあ、もう一箇所聖書で見てみましょう。1サムエル記の10章です。この油注ぎについてもう少ししたら詳しく話すので、覚えておいてください。1サムエル記の10章1節です。これはサムエルがサウルをイスラエルの王として油を注ぎに行く時のことです。

では、質問です。サウルは善良な王でしたか?いいえ、そうではありませんでした。良い王として始まりましたが、終わりは悪いものでした。そうですよね?彼が悪に走った時には神は驚きましたか?いいえ、神は何が起きるかを知っていました。でも、サウルに油を注ぎました。そうですよね?それでもサウルは王でした。神はサウルの権威と地位を認めていました。彼が悪に走るのを知っていてもです。それは「あなたは神に信頼されるような人ではないので、力を与えることはしません。もし神はあなたが悪で、間違いの方向に走ると知っているなら、油を注ぐことはしません。」というような考えを否定します。そうではないですか?神はサウルに油を注がれました。何が起こるかを知っていてもです。サウルの転向は神を驚かせることはありませんでした。いいですか、サウルが悪に走った時には、毎回、神は、「どこからそのような悪がやって来たのですか?そんなことは思ってもいませんでした。」とは言いませんでした。神はそんな考えはありませんでした。彼はサウルが悪に走るのを見て言ったでしょう。「私は知っていました。」。何故でしょうか?何故なら、彼はサウルをある仕事を成し遂げるためにその地位に置いたからです。神はサウルにこう言っています。注目してください。こう書いてあります。「サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」」(1サムエル記10:1)

ここでは、まずサムエルは油のつぼを取って、サウルに油を注いでいます。これが油そそぎです。次に、彼は、「が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」と言っています。そうですよね?ですので、ここでは2つの油注ぎについて話しています。それらは、まず、すでに起こった霊的な油そそぎがあります。そして、その霊的な油そそぎが起こったことを証明するための目に見える油そそぎです。

ここで、何が起きているかに注目してください。サウルはすでに油を注がれていたけれども、サムエルはまた彼に油を注ぎました。サムエルの言葉に注目してください。「あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は雌ろばのことなど諦めて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。」(2-3節)ここではサムエルは預言しています。これらはとても具体的なものですね。彼は続けて言っています。「彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町に入るとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、」。 (4-6節)この6節に注目してください。「の霊があなたの上に激しく下る」と書いてあります。

ここで止まってください。彼はすでに油を注がれていませんか?このように、彼はすでに油を注がれているのに、聖霊が彼の上に注がれています。私がルカの福音書4:18で言ったことを覚えていますか?イエスは、「神は私に油を注がれました。神の御霊が私の上にあります。神が私に油を注がれたからです。」と言っています。分かりますか?私達はいつも言います。「私達には油そそぎがあります。それは私達の上に神の御霊があるからです。」。でも、イエスは神の御霊が彼の上にあるのは、彼は油を注がれているからであると言っています。油そそぎが先ず起こって、その後に、神の御霊が注がれます。それは油が注がれているからです。それがここで起こったことです。サウルは先ず油を注がれました。そして、神の御霊が彼の上に下りました。それは彼に油が注がれたからです。分かりますか?私達が新生するとき。新しく生まれる時、それが油注ぎです。その「油注ぎ」ということばの意味は、「任命される」という意味です。サウルは油を注がれた王でした。彼は王に任命されました。ですので、あなたが油を注がれた時には、あなたは神の子として任命されました。ヨハネの福音書1章12にはこう書いてあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」。これが新生です。でも、聖霊のバプテスマを受けたときには、聖霊が私たちの上に注がれます。そのように聖霊が私達の上に臨むのは、神の子達として任命されたからです。

私達はいつ祭司と王にされましたか?あなたが新生した時ですよね?ですので、あなたが新生した時に、王になります。どのようにしてサウルは王になりましたか?彼が油を注がれて王になりました。同じように、あなたも王として油を注がれています。あなたも王として任命されています。(1ペテロ2:9、黙示録1:6、5:10)だから、それが起こった時には、あなたには神の子達になるための力と権威を持ちます。そして、神の御霊が私達の上に注がれます。この二つは互いにつながっていても、同じものではないことを説明しようとしています。

では、サムエルは続けてこう言っています。「あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。」。2コリント人への手紙5章17節には、「誰でもキリストのうちにあるなら、新しく造られた者です、古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。それらは神からでたことです」と書いてあります。それは、私達が新しい人、新しい被造物、新しい創造になった時のことです。このサウルの話は、旧約聖書の新生と聖霊のバプテスマの影です。では、私達が新生して、聖霊のバプテスマを受けた後に、神は私達にどのように行動するように言っているか、このサウルの話より見てみましょう。こう言っています。「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」。(1サムエル10:7)分かりますか?じゃあ、新生して、聖霊のバプテスマを受けた後には私達はどのように行動するべきでしょうか?「手当たり次第に、何でもしなさい」です。言い換えると、これは「する必要のあることは何でもしなさい」です。

次のようには言っていません。(宗教的なクリスチャンはこのように理解します。)「そして、このようなしるしがあなたに起こったら、私(神)があなたに語る時に、私があなたに話すことをしなさい、そして、私が語るまで、何もしてはいけません。」。このようには言ってませんよね?でも悲しいことに、大半の教会はこのように理解しています。それなのに、私達は何故神の働きをなかなか見ることができないのかと考えます。ですので、鍵は、レイク氏が言ったように、神は聖霊のバプテスマを通して、私達に力を与えたので、信じる者達にその与えられた支配権を行使するように教えることです。

このように考える人もいます。「神は人にいつでも、どこでも人々を癒して、自由にするような力を与えることはしません。彼はそんな力を自由に使えるための許可を小切手のように簡単に与えはしません。」。その考えは間違えです。神はそれができるようにイエスの御名によって、小切手にサインもしてくれました。そうですよね?ヨハネの福音書では、「またわたしは、あなたがたが、わたしの名によって求めるものは何でも、わたしはそれをしましょう。」と書いてあります。(ヨハネ14:13-14)そうですよね?神自信がその聖書箇所を書きました。私達ではありません。あなた達が私が教えてきたことを信じない限りは、それらの聖書箇所を信じることはできないでしょう。私達はいつも何か資格や条件が必要であると考えます。多くの人は、「あなたがたが求めるものは何でも」という言葉を信じません。彼らは言います、「でも、それはありえません。じゃあ、こんなことや、あんなことを求めたらどうなのですか?」。一度神のことばに従って、考えが一新されれば、そのような質問はしなくなります。私達の考えが一新されていくまでは、何を求めたらいいかも分かりません。何故かというと、何か良くて神に受け入れられ、完全な神の御心なのかを判断することができないからです。(ローマ12:2)でも、この教えの中で私達の考えは神の力と癒しの真理に従って一新されていっているはずです。あなた達は癒しのために必要な情報はすべて受けました。これは私が2万人に与えてきたのと同じ情報です。(1998年の時点で)彼らは私に手紙や電話やメールで、何十、何百という癒しや悪霊追い出しの証を送ってくれます。毎週です。あなた達も同じことができます。神はわけへだてはしません。(ローマ2:11)

ベニー・ヒンがあなたの町に来たことがあるでしょうか?来たことはないですか?それは神がその町をあなたに任せたということでないですか?つまり、神はあなたを信頼しています。ですので、思い切って行動してください。

もう一箇所、聖書を見てきましょう。ルカの福音書10章です。簡単に見ていきます。イエスは死んで、よみがえった後に、弟子達を遣わしました。大宣教命令というものです。その時に、イエスは言いました。全世界に出て行きなさい。福音を宣べ伝えなさい。病人を癒して、弟子を作りなさい。そして、弟子を作る時にはいつも、彼らに私が命じたことをすべて守るように教えなさい、と言いました。(マタイ28:18-20、マルコ16:15-18)ですので、イエスが彼の弟子に伝えたことと同じ事を、すべての人に教えるように命じました。つまり、私達はそれらの12弟子達と同じ事をしなければいけませんよね?1節から、イエスはこう言っています。「その後、主は、別の七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」。(ルカ10:1)これはイエスが70人の弟子たちに言ったことです。12弟子だけではありません。「そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。』」。(2-7節)ここで止ってください。イエスは何について話しているのでしょうか?家です。家に行くことについてです。だから、ここまでは、イエスは家について話しています。次の8節を見てください。「どの町に入っても」。ここで話が家から、町になりました。「どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、だされる物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、」。(8節)ここでは、その町にいる病人を癒すように言っています。そしてイエスは言っています。「彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。」。だから、私達が町に行く時には、そこにいる病人を癒して、神の国が近づいたと言うべきです。どのようにして私達はそのようなことをするのでしょうか?神の国によってです。

ここで、この聖書箇所一つより、私達の町には病人がいるべきでないことが分かります。そうですよね?イエスは数人の病人を癒しなさい、とは言いませんでした。彼は町にいる病人を癒しなさいと言いました。彼はどの病人を癒すようにも、どの病人を癒さないようにも言いませんでした。ただ、「町に行って、病人を癒しなさい」と言いました。重要なことは、私達は病人を癒すことは福音を宣べ伝えることの一部であることに気づく必要があることです。病人を癒すことは、「神の国がやって来た」ということを宣べ伝えることの一部です。それは福音を宣べ伝えることの一部です。実際にそれを見せることは、神の国を宣べ伝えることの一部です。分かりますか?

ここで、多くの人が時に勘違いをしていることがあります。彼らは牧師だけが説教をして、福音を宣べ伝えると考えます。イエスを信じる者なら、福音を宣べ伝えます。クリスチャンなら、宣教をする人です。それなら、私達は何処に行っても、病人を癒し、人々を助けます。聖書には求める人には施しなさい、と書いてあります。(マタイ5:42)私達が行くところ何処でもです。よいサマリア人の話を思い出してください。彼がどのように傷ついた人を助けたか。すべての祭司や、宗教的な人々はその人を通り過ぎました。でも、よいサマリア人はその人を助けました。イエスは,「誰があなたの隣人ですか?」と訊きました。単純に彼らの答えは、隣人とは、すべての助けを必要とする人と、助ける人でした。(ルカ10:30-37)そうですよね?イエスはそれ以外の条件や定義をつけることはしませんでした。私達だけが余分に条件をつけようとします。だから、私達の仕事は捕らわれ人に自由ももたらすことです。

いくつかの証をシェアします。これから話すことは、特に病気の人達ではなく、この訓練を受けてきた人達へのものです。いいですか?ですので、私は病人達が癒しを受取ることができるようになるために、信仰を増す為に、話してはいません。ただ、癒しを行う人達の信仰を強めようとしています。もし、彼らが自信を持って癒しを行うようになるなら、病気の人々はより簡単に癒しを受取れるようになると思います。私達としては受取るよりも、与える方に興味があります。何故でしょうか?それは受けるよりも、与えるほうが幸いだからです。(使徒の働き20:35)このことばを唱えるだけでなく、信じなければいけません。

私達が最初に癒しを始めた時には、何をしているのかは明確ではありませんでした。始めのころは、私は沢山のA・A・アランやジャック・コウなどのビデオを手に入れて、彼らの行う癒しや奇跡や癒しの聖会を見ました。A・A・アランは荒々しく、驚くべき人でした。彼のフルネームはアサ・アロンソ・アランです。それで驚くべきことは、彼がミニストリーを始めた頃には、ある男が歌のディレクターとして彼のために働いていました。その男は楽器も弾けないし、歌うこともできませんでした。悲しいですね。それでも彼はアランの所へ働きに行きました。その仕事だけが、ただ空いていたし、彼はアランの近くで働きたいと思いました。そして、彼はその仕事を受け入れ働き始めました。彼の名前はボブ(またはロバート)といいました。このボブをいくつかのビデオで見ることができます。私は300個以上のA・A・アランやジャック・コウなどのビデオを持っています。私はソファーに座り、それらのビデオを見てました。その当時はVCRでした。スイッチを押して、見ながら、時には眠ってしまうこともありました。そして、そのビデオが終わったら、又巻き戻して始めから見ました。そして、よく言いました。「神様、あのようになりたい。あれができるようになりたい。彼らはみな死んでしまって、教えてくれる人はいないけれど、あれらの力や技術を手に入れたいです。どうしたらいいですか?」。彼らのビデオを見ることが、彼らの一番近くに行って学ぶ手段でした。ですので、私は何度も何度もそれらを見て学びました。アランには驚かされました。彼らはまず歌を歌い、そしてボブは歌を取り仕切っていました。悲しいことに彼の歌声はひどいものでした。その場面は早送りしました(笑)。そして、見ていると、終に「では、今晩の伝道師、力と信仰を持った神の人、伝道師A・A・アラン!!」。彼らがそう言った途端に、アランがカーテンの後ろから出てきて、脇には聖書を挟んでいました。彼はこのようなクリスチャンでした。彼は出てくると、すたすたと歩いて止り、聖書を片手にとって、「みなさん、神は今夜誰かを癒すと信じますか?」と叫びました。群衆は叫びます。そして、彼は言います。「アーメン。誰が私の言っていることを信じますか?」。そして、彼らは病気の人々を連れてきました。彼らは担架の上に寝てたり、ブランケットに包まれていました。そして、彼は言います。「彼らはそのブランケットの下には服を着ていますか?」。そして、彼らは、「そうです」と言い、アランはそのブランケットを跳ね除けて、その人を見て、叫びます。「この状況は悲しいことですよね。私の神よ。ひどいものです。」。そして、彼は病気が、問題が何なのかを聞きました。「この人の足には何の問題がありますか?」。付き添いの人は答えます。「彼の足は動きません。麻痺していて、何も感じません。」。アランは言います。「分かりました。誰か私と共に信じる人はいますか?」。そして、彼はその足をつかんで動かし始めます。その足を動かしながら彼は言います。「イエスの御名によって、足よ、動け、動け。」。彼は足を動かし続け。ある程度してから、「じゃあ、私と一緒に信じてください。」と言い、その人を担架から、ぐいっと引っ張ります。そういうことをする時には、病人は地に着くまでに癒されるべきです。そして、彼らは癒されました。彼らが癒されて、興奮して飛び上がるのを見るのは素晴らしいものでした。私は彼がそのようなさまざまな驚くべきことをするのを見ました。

次はジャック・コウについてです。ジャック・コウもよく見ていました。大柄な人です。彼はどら声を持っていました。ある小さな女性の人が癒しのために舞台の上にやって来たときのことを覚えています。とても小さな、ペンテコステ派の女性です。彼女と比べて、ジャック・コウはとても大柄でした。その当時には大きなマイクを使っていました。そして彼らはそのマイクを首柄下げていました。とても古いものです。彼はそこに座り、そしてこの小柄な女性の人がやって来て、そこにちょこんと立っています。そして、彼が言います。「ご婦人、どのような問題を持ってますか?」。そのマイクを彼女に近づけて、彼女は答えます。「えーと、腰に痛みがあります。」。彼は、「分かりました」と言い、そして、癒しを行います。彼はマイクを置きます。いいですか、コウはとても大柄です。そして、彼女はそこに立っています。ここでアドバイスです。癒しを行っている人を背後に立たせないでください。それはしないでください。いいですか?彼は立ち上がって、両手で彼女の頭をつかんで、そして「下に」と言い彼女をしゃがませます。そして、彼女は下に押されてしゃがみます。そして彼は、「上、下、上、下」と彼女をしゃがませたり、立たせたりします。そして、この女性を実際にその映像で見ると良いのですが。彼女はとても驚いて、頭をつかまれて、下に押されて、毎回下に押される時には彼女は「助けて、助けて」!というような感じです(笑)。終に、すべて終わった時には、彼は彼女を立たせて、「これでどうですか?」と言います。その女性は、めまいを感じながら、でも気が付いて答えます。「癒されました。」。そして、彼は言います、「そう思ってました。」。彼はいつもこのような人でした。私はそれを見ながら独り言を言ってました、「よし、神に栄光があるように。こうやって皆癒されるべきだ。」。そして真夜中にどこかに病気の人はいないかな?と考えたりしていました。

その当時は、このようなビデオを見ていてライトハウス・トライアングルというアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会に行っていました。私は彼らに頼んで言いました、「ドアで挨拶する役でも、何でも必要なことをします。何かさせてください。」。終に私は牧師に言いました。「もし何か私が教えるとしたら、何を教えてほしいですか?」。そして、彼は言いました。「では、木曜日の聖書のクラスを教えたらどうですか?」。私はそれを受け入れ、彼は尋ねました、「何を教えるつもりですか?」。私は、「えーと、聖書の教義はどうですか?」と言いました。私はP・C・ネルソンの聖書教義の本があったので、それを使うことにしました。

そして、最初の木曜日の夜のクラスで話しましたが、私は長い時間話すことに慣れていませんでした。その時には今のように長くは教えていませんでした。一日中や数日間のセミナーではありません。30分後には私の声にはかれてきてました。私は常に水を飲んでいました。それでも私の声は小さかったので、ほとんど聞くことができない状態でした。

ですので、3週目には友人がやって来て言いました。「カリー兄、声がだんだんかれてくるのに気が付きました。」。私は答えました、「そうなんです。長い間話すことに慣れていないんです。」。すると、彼は言いました、「でも、それを改善する為の秘密があります」。私は、「本当ですか?」と言い、彼は続けて言いました、「もしスダフェッドを取るなら、なぜか、長く話すことができます。」。私はそのようなことは聞いたことがありませんでした。彼は、「そうです。それは効きます。」と言って、スダフェッドを持ってきました。私はその時にはそれを受け取りました。私は薬をほとんど飲んだことがありませんでした。

そして、私はこのスダフェッドをクラスを教える前に飲みました。そして、ちょうどその日は聖霊のバプテスマについて話す日でした。スダフェッドを飲んで、教える準備ができていました。教え出して30分程して話していました。「私達には聖霊の力が必要です。彼が私達の上に臨むと、力を受けます。神をほめたたえます。そのような力が必要です。」。それから、40分、45分経った頃に、突然、私は気が付きました、「神に栄光あれ、聖霊の臨在があります。今感じます。指に感覚がありません。膝から下の部分の感覚が無くなりました。ああ、これが聖霊の力です。皆さん、立ってください。壁に沿って立ってください。聖霊のバプテスマをしましょう。」。私達は電気を切って、ペンサコーラリバイバルの音楽をつけました。それは「神をほめたたえます。あなたが通った道を通っています。主よ。あなたと共に行きます。」と言うような歌詞です。私は立ちあがって、歩きながら、「受取りなさい。受取りなさい。」というようにすると、人々はバプテスマを受けました。私は彼らに手を置き始めて、彼らは叫び始め、倒れ始め、癒され、そして、悪霊は追い出されました。そして30分後には、私は歩きながら考えていました。「神よ。あなたをあがめます。すごいです」。誰かApocalypse Nowという映画を見たことはありますか?あれは確かロバート・ドバルだったと思います。爆弾が落とされている中、彼は帽子をかぶり、シャツを着ないで、浜辺を歩きながらサーフィンをしています。彼は言います。「私は朝のナパーム弾のにおいを満喫しています。」。私はそのような気持ちでした(笑)。「神よ。あなたをあがめます。私に誰か与えてください。私はまだまだ手を置き続けます。」というような感じでした。

私達はこれらのすべてのことを経験して家に帰った後に、聖霊が去ったことに気が付きました。その時はそれで終わりました。そして、その次の週に今度は聖霊のバプテスマの証拠について異言を教えていました。異言とは何か?何故異言で話す必要があるか?異言で話すことは祝福です。どのようにして異言によってこの力が生み出されるか?教え始める前に、思いました。「うーん、先週、声がずっとかれることなく教えることができた。」。だから、また今回もスダフェッドを飲みました。そして準備万端でクラスに行きました。また私は話していました。「聖霊のバプテスマが必要です。異言が必要です。それは力を得されてくれます。それはおかしいものでもないです。神をほめたたえます。異言で話すときに、そこに力があります。」。その時突然、私は気が付いて言いました、「ああ、聖霊の臨在が戻りました。みんな立って、壁に沿って並んでください。早く、早く。」。そして、人々は聖霊のバプテスマを受けて異言で話しました。

そして私は次の週の日曜日に牧師にクラスについて報告をしなければいけませんでした。ですので、私は彼に何が起きているのかを伝えました。彼は日曜日の朝の礼拝の後にテキサス特有の話しぶりで言いました。「聖書の教義のクラスで何が起こっているかは分かりませんが、16人が癒されて、14人の人達が悪霊から解放されました。」。彼はある日私のところに来て言いました。「カリー君、私は今まで聖書の教義を学ぶだけのためにこれだけたくさんの人々が、教会にやって来るのを見たことはありません。」。

そして次の木曜日のクラスは2倍に増えました。みんなが何をやっているか見るためにやって来ました。ですので、私は同じように、「ああ、聖霊の臨在があります。早く、早く。」というような感じでした。そんな感じで人数はどんどん増えていきました。

そして、その次の週にクラスの準備をしていました。またスダフェッドを飲もうとしていました。おかげで、私の声もかれずに1時間半も話すことができました。そのスダフェッドをくれた友人が私のところにやって来て言いました。「カリー兄、スダフェッドの効きめはどうかと聞きたかったのですが」。私は答えました。「よく効いてるみたいです。」。彼は言いました。「私は考えていたのですが、知ってますか?スダフェッドを飲めない人もいるんです。」。私は答えました。「そうでなんですか?どういう意味ですか?」。彼は言いました。「時々指などの感覚がなくなったり、そういうことが起こるんです。」。そして、私はそこに座りながら、「う~ん、それは、本当に?知りませんでした。変ですね。」と言いつつ、頭の中では、「誰にも何が起こっているか言わないでおこう。私がその副作用を感じていたことは絶対に黙ってることにしよう。」(笑)。

でも私は考えていました。「じゃあ、何が起きてるのだろう?どのようにして人々は癒されたんだろう?だって彼らは本当に癒されたし、どうやって悪霊が追い出されているんだろう?どしてそれらのことが起こっているんだろう?」。そこで、私は冷静になり、家に帰り神に訊き始めました。「これは何でですか?なんでこのようなことが起きたんでしょうか?」。そして、彼は私に答えました。これが彼の言ったことです。「あなたは感覚を、つまり何か感じることを求めていました。あなたが薬によって何か感じた時に、それが神の力だと思いました。だから、その時は油が注がれた者のように行動しました。でも、本当はあなたには四六時中、力が注がれていました。でも、あなたはが何か感じるまではそのように行動しませんでした。」。分かりますか?教会を見てください。私達は教会を代表する歌は「アメイジング・グレイス」だと考えます。でも、違います。B・J・トマスによって書かれた、「感覚に捕らわれている」という歌じゃないですか?何故かというと、いつも何か感じるのを待っているからです。そうですよね?皆が何かを感じるのを待っています。油注ぎ(又、神の力も)は本来感じるものではありません。でも、私はずっと何か感じるのを待っていました。そして、そのスダフェッドが感覚の麻痺を感じさせてくれたので、私は油が注がれたように行動しました。そして、力は働きました。その結果、私は初めて癒しなどを行いました。その時はただ(聖霊の力を感じているような)ふりをしていました。でも、それ以来は、ふりをする必要はなくなりました。今は神の力はいつでも働くことを知っているからです。

それから後に、私はペンサコーラリバイバルに行きました。そこで、デイビッド・ホーガンという人のビデオテープを手に入れました。彼は私を燃立たせました。私は半年ほど説教も何もしていませんでした。ですので、私は興奮して、祈りたいと思いました。いつでも教える準備ができていました。そして終に13キロほど離れた、私のおばの家を訪れる途中で聖霊派の神の教会に立ち寄って、牧師さんに挨拶をして自己紹介をして、少し話しました。すると彼は言いました、「それじゃあ、いつか私達の前で説教してほしいですね。」。私は答えました。「是非、いつでも話します。」。私は他に何もスケジュールも無かったので、いつでも準備ができていました。

家に帰った後、2,3週間は彼から何も連絡はありませんでした。普通、連絡が無い場合は諦めます。だから、私は代わりに病院に行って、祈っていました。でも、その牧師から妻に電話がありました。彼は言いました。「来週の日曜日に、カリー兄に話してもらえませんか?」。ですので、私が家に帰って、妻からそれを聞いた時には、「やった。じゃあ何について、話そうか?」と考え始めました。話すことはとてもたくさんあるので、どのように一時間の長さにしようかと。それで終に、「考えてみれば、誰も私がどのように説教するかも知りません。」と考え、その当時は私はCDやDVDなどの教えも作ってはいなかったので、私は「じゃあ、ただ行って、彼らは私のことも知らないし、デイビッド・ホーガンのことも知らないので、デイビッド・ホーガンのふりをしよう。」と考えました。

それまで、私は彼のビデオテープをずっと聞いていて、燃え立っていました。もしデイビッドホーガンのことを聞いたことがあるなら分かると思いますが、彼は厳しいです。それで、私は言うことをすべて書き出して、張り切って家族と一緒に彼らの教会へ行きました。デイビッドはこのようなインディアンダンスをします。それで、いつも、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」と言うような感じで、ポケットに小さなハンカチをはさんでいます。それで、彼のせりふもすべて覚えていました。例えば、「あなた達ならこぎれいなやり方でその状況に対処していたと思います。でも居なかったんだから、私のやり方に文句は言う資格はありません。」などです。そんな感じで準備をしました。

そうして当日に私は舞台に上がって、まず、息子と彼の友人に少し話させました。それから娘が歌を歌い賛美の時を持ちました。この教会はいつもは6時には礼拝に来ても7時半には家で夕食を食べているような感じなのが分かりました(笑)。ですので、いつもは長時間の礼拝を持ってはいませんでした。私がついにマイクを手にする時までには、2時間以上過ぎていました。そして、私はそれから2時間説教する準備ができていました。やる気満々でした(笑)。

私はさっと立ち上がって、説教壇の後ろに立ちました。何でも単刀直入に話すつもりだったので、こう言いました。「始めに一つ言わせてください。ここにいる人達の中で、主イエスをまだイエスを受け入れていない人はいますか?その人は手を上げてください。」。人々の顔の反応は、皆、「ああ、彼はもう救われたい人を呼んでいる、もうすぐ家に帰ることができるぞ。」と言っているようでした(笑)。彼らの考えは推測することができました。私は言いました。「もしまだ主イエスを受け入れていないなら、周りの人は知っています。だから、手を上げてください。」

そして二人の人が手を上げました。「わかりました。じゃあ、あなた達に約束します。今夜、イエスが私達の前で働きをされなかったら、あなたはそのままあの扉から、家に帰って、好き勝手に生きていいです。罪でも犯して、何でもしていいです。でも、もしイエスが今夜現働かれなかったらです。何故なら、救いが必要な時に現われない神には仕える価値は無いからです。でも、逆に、もし彼が働くなら、彼に仕えなさい。」。そして彼らはお互いの顔を見て、「私達が勝つに決まってるじゃあないですか、だって、今まで行ったどの教会でもイエスが働くのは見たことがないし」、というような感じでした。彼らはそれを了承したようでした。そして私は言いました。「じゃあ、残りの時間は、あなた達にではなく、クリスチャンに対して話しますね。あなた達にではないです。」。

私は言いました。「では、クリスチャン達に言います。ここにいる人達の誰が先週病人に手を置きましたか?」何人かが手を上げました。私は続けました。「誰が先月病人の上に手を置きましたか?誰が一年間病人の上に手を置かなかったですか?」。そこまで訊いて、やっと一人手が上がりました。その人は、「私は一年間誰にも手を置いて祈っていません。」と言いました。私は彼らを見て言いました。「あなた達はみんな罪にあります。もし今夜死んだら、皆地獄に行くでしょう。」。その時の、彼らの驚いた顔を見るべきでした(笑)。そして、牧師はすぐここに座っていました。彼らは牧師を「あなたは何で彼のこんな話し方を許すんですか?」という感じで見ていました。

私は彼らを見て言いました。「いいですか?私は自分で信仰を持って、自分自身を生き返らせなければなりません。もし私が今からあの扉を出て、そこで、バスに引かれて死ぬなら、あなた達は私を見て言うでしょう、きっと今が彼が地上を去る時間なのでしょう。」。私は続けていいました。「あなた達のうち誰も私を生き返らせようとはしないでしょう。だから、私は自分で自分を生き返らせるために私の信仰を立てる必要があります。」。そして、彼らは「本当にそんなことできるの?いや、できるはずがない。それは神の摂理に沿ってない。」というような顔で私を見てました。そして、私は言いました。「いいですか?イエスは私は彼と同じわざを行うことができる、と言いました。誰も彼のいのちを取る者はいません。彼が自分で捨てるのです。そして、それをもう一度得るのです。(ヨハネ10:18)」。このように私はその間ははったりを話していました。私自身そんなことができるのかは知りませんでした。私も知らなかったし、彼らも知らなかったので、別に問題にならないと思いました。彼らの表情は忘れられません(笑)。彼らは牧師を見て、「頭のおかしい人を説教壇で話させてしまいましたね。どうするんですか?」と言う感じでした。このようにして、彼らはそこに私が2時間ほど話す間ずっと座っていました。誰も動きませんでした。多分、恐がっていたと思います。分かりません。私が何か投げつけるかと思ってたのかもしれません。

そして、終に私は祈って言いました。「それでは、今福音を宣べ伝えました。じゃあ、癒しの必要な人はいますか?」。そして、手が上がりました。私は言いました。「それじゃあ、癒してほしい人は、今立ってここに来てください。もし祈られないまま、この場を病気のまま去るなら、癒されないままです。でも、もしここまで来るなら、神はあなたを癒します。だから、ここまで来てください。」。大体30人くらいの人々が来て並びました。私は左利きなので、普通は自然と左側に行きます。

ですので、私が舞台から降りて彼らのところに行った時には、左側に行きました。そこにきちんとした身なりをした、教会の執事のような男性が立っていました。

私が彼の前に立つと、彼は腕をこのように組んで立っていました。私は何が問題なのかと考えていました。立ち止って、彼を見て、言いました。「すみません。あなたのために何かできることはありますか?」。彼は背の高い人でした。それで、彼は言いました。「私の腕は麻痺していて、肩に痛みがあります。そして、腕は4年間の間動かしていません。」私は彼を見ました。その時には、私は一度も麻痺した人のために祈ったことはありませんでした。A・A・アランやそのような人達のビデオの中以外では麻痺した腕が癒されるのは実際に見た事はありませんでした。彼を見ながら、頭の中で考えていました。「はい、それではあなたの為に何をしましょうか?」という感じで、その人を飛ばして隣の人に話しかけたくなりましたが、もしそうしたら、信用を失って、すべてが失敗することを知っていました。ですので、ここで成功か失敗か、やってみるしかないと思いました。もし成功して彼が癒されれば、リバイバルが起こります。もし失敗すれば早く家に帰れます(笑)。どちらにしろ、さっさと済まそうと思い彼を見ました。でも、何を、どのように始めたらいいのかも分かりませんでした。その時、突然私の頭の中にA・A・アランの映像が浮かびました。私は、「ふむ、ふむ」と思い。彼の腕をつかみ、それを引っ張りました。(覚えて置いてください、彼は腕を4年間もの間動かしてはいませんでした。ですので、関節には、さまざまな体液などはなくなっています。)私が腕を引いた時には、私は「ギー」という音を聞いたと思います。そして、引っ張った後に、手を離すと腕はその状態で固まっていました。私は頭の中で考えていました。「じゃあ、次は何をしよう?彼の腕は元のままの位置の方が良かっただろうな。」。何故かというと、少なくとも、元のままの状態なら家まで運転できたからです(笑)。でも、今は腕は伸びきっていて、そこで固まったままです。私は何を、どのようにしようかと考えていました。彼はそこに立ったままで、何でもしてくれ、というような感じでした(笑)。だから、私は彼の腕をつかんで、押し戻しました。又、「ギーッ」という音が聞こえました。

それで、私はその状況からもうどうにも抜け出せなくなっていました。何をしていいか分からなくて、その腕を引いて、押して、引いて、押して、と繰り返していました。腕を動かすたびに、「ギーッ」というような音が聞こえました。ですので、そのうち、腕を引いたり、押したりしているうちに、のこぎりを引いているような「ギーッギーッギーッギーッギーッ」というような感じになりました(笑)。そして、私は考えていました。「神様、どうやったらこの状況から抜け出せますか?このままだとずっと続きます。どうやって抜け出せますか?(笑)」。

終にその腕から手を離して、彼に任せることにしました。そして言いました。「じゃあ、今から私は手を離しますが、そのまま腕を動かし続けてください。いいですか?」。彼は「わかりました」と答えました。そこで私は言いました。「イエスの御名によって、腕よ。動け!イエスの御名によって、腕よ。動け、働け、本来のように働け、今、腕よ。動け!!」。そして、彼の腕をゆすりました。すると、彼は言いました。「ああ、今癒されました。」。そして、彼は跳ねて躍っていました。私はその彼を見て、彼が驚いているように、私も驚いていました(笑)。「本当に?」と思ってました(笑)。

そこで、私は少し冷静になり、何が起こっているのかを理解できました。癒しが本当に起きていることが分かると、突然、私は「神よ。私達一緒に何でもできます。」というような感じでした。私は次の人のところへ行って、「何をして欲しいですか?」と訊きました。そのようにその夜30人全員癒されました。それまでそのようなことは一度も見たことはありませんでした。本当に驚きました。

それが終わった時には、私は言いました。「それでは自分の席に戻ってください。じゃあ、何人の人達が今私のしたようなことと同じ事をしたいですか?」。11人の人が手を上げました。私は言いました。「それは聖霊のバプテスマと呼ばれます。それを受けるためにここまできてください。」。彼は前まで来て、並びました。私は何をして良いのか分かりませんでした。ですので、そこに立ちながら、考えていました。「確か、聖書には使徒たちは彼らに手を置いて、聖霊を受けなさい、と言って、彼らは聖霊のバプテスマを受けました。」。(使徒の働き8:18)それで彼らにそのように手を置いて言いました。「聖霊を受けなさい。」。そうすると、途端にその人は異言で話し始めました。私は、「すごい!」と心の中で言い、驚きました。そのような感じで聖霊のバプテスマを授けて行きました。そして、11人目は小さな女性でした。彼女の番になった時に、私は彼女に手を置いて言いました。「聖霊を受けなさい。」。そして、振り返って歩き去ろうとしました。でも、何も起きませんでした。ですので、私は向き直って、彼女のところに行って言いました。「あなたは何か問題をもっているのですか?」。何故なら、彼女以外は皆異言で話しだしたからです。彼女が異言で話さないのは何かおかしかったからです。すると、彼女は泣き出して言いました。「私が知っていることは、いつも町の端まで車で運転していく度に、何故か、Uターンして帰ってきてしまうんです。町を出ることができないんです。」。それで、私は言いました。「そうか、悪魔がついているからです。」。それは本来適切な言い方ではありません。何故かというと、彼女の顔は、「本当ですか?どこですか?早く取ってください。」というような感じで驚いていました。突然、彼女は泣きやめて、その悪霊が何処にいるのかと、慌てていました。私は、「これは楽しめるかも。」と考えていました。(冗談で)そうです。もし悪霊は足もとにいます、と言ったなら、彼女は飛び上がって走り回ったと思います笑。でも、そんなことはしないで、私は言いました。「わかりました。じゃあこうしましょう。」。私はサムラル氏がこう言ったのを見て覚えていました。「あなたはいつも悪霊などを追い出す必要はありません。あなたはただそれがしないように言っていることをすれば言いだけです。」。だから、私は彼女に言いました。「これがあなたのすることです。じゃあ、明日の朝車に乗り、そして、この教会まで来て、そして、牧師達はあなたの後ろから車で運転してついてきます。そうして、あなたは町の端に向かって車を運転していきます。そして、もしあなたがそれ以上進むことができないなら、彼らは後ろから無理やりあなたの車を押します。」。牧師達を見たときには、彼らは下を向いて首を横に振っていました。全く何にも関わりたくないという感じでした笑。私は彼女に向き直って言いました。「じゃあ、わかりましたか?」。彼女は答えました。「わかりました」彼女がそれを言った途端に、彼女は異言で話し始めました。神学的に考えようとしてもかまいませんが、これがそのまま起こったことです。

それらを終えて、私は言いました。「じゃあ、今夜は福音を宣べ伝えたし、私達は癒しも聖霊のバプテスマも見ました。じゃあ、今度は誰が救われたいですか?」そして、あの2人の方を向きました。そして、彼らはお互いに見合って、「彼の勝ちですね。今夜は本当にこの場にイエスがいます。」というような感じでした。なので、彼ら2人は立って前まで歩いてきました。また、その他2人も反対側から立って前まで来ました。私は思いました。「彼らは手も上げませんでした。でも、多分彼らは私が説教している間に、まだ救われていないことに気づいたのかもしれません。」私は彼らのために祈り、その教会の人々とつなげて、その場を去りました。

分かりますか?その夜の家に帰るときの運転がすがすがしいものでした。何故なら、その教会に行く前は、私は何をどのようにするかも何も知らなかったからです。それに私は誰かのふりをしていただけでした。いつも私が見ている人のまねをしただけでした。それで、癒しなどが起きました。それ以来は、もう誰かのまねをする必要はありませんでした。今は、そのように癒しなどが起きると分かったからです。私は何も力も感じませんでした。ただ、神のことばが私にするように言った仕事をしただけです。神は私に仕事を成し遂げるための力を与えることをせずに、私にその仕事を成し遂げる責任を任せることはしません。ですので、神は仕事を成すための責任と共に、力も与えてくれました。

私が話した、アランと彼の歌のディレクターのボブの話を覚えていますか?あまり知られていないことは、ボブはアランと一緒に周って働きました。ボブはいつも彼と一緒にいました。そして、70年代前半になって、突然アランは亡くなりました。でも、彼のテント集会の予定はたくさん立っていました。ですので、彼らはボブを呼んで言いました、「ボブ、私達は何かしなければいけません。手付金はもう払ってあります。これらのテント集会を行わなければいけません。本当にどうにかしないと。ボブ、あなたが行って、説教してください。」。ボブは答えました。「でも、私はA・A・アランではないです。」。彼らは言いました。「知っているけれど、私達が他の手を見つけるまでは、説教してください。」。そして、彼はそれを受け入れました。そして、ボブは次の集会に出て、アランの真似をしました。そしたらどうなったか知っていますか?いくつかの奇蹟が起きました。実際には、彼は自分の師であるA・A・アランのようになり、彼自身A・A・アランのように、名前を短くして、R・W・シャンバックと改名しました。これがシャンバックがミニストリーを始めたきっかけです。彼はただアランを見て、学び、彼の不在のために真似をしただけでした。それでも人々はこう言おうとします。「アランの油そそぎが彼に与えられました。」。油注ぎは決して人から人には渡されません。ボブはアランの周りにいました。彼はアランを見て、そして、それに信仰を持って、そのように真似をしただけなのです。そうしたら、力が働きました。私はアランのビデオを見たからと言って、彼の油そそぎを得ることはありませんでした。私はただ大胆さと、信仰を得て、どのように癒しをすることができるか学びました。多くの人は癒しなどを行いたいと思いますが、ただどのようにしたらいいかを知りません。でも、この訓練では私達はそれを学ぶことができます。

最初は、私が教えるやり方で癒しをしばらくの間行うかもしれませんが、そのうち、自分のパーソナリティが出てくると思います。次に私があなたに会う頃には、癒しのやり方は違ったものになっているでしょう。それでも、私が教えるように癒しを行っても、それは働きます。神はえこひいきはしないからです。神は信仰に答えてくれます。彼は聖書のことばに答えます。神は人をえこひいきする方ではありません。そして、私達が信仰を持って、みことばを行うなら、そのようになります。

では、これから実際に癒しを行っていこうと思います。混乱してしまうので、皆が一斉に癒しを行うことはしません。イエスは人々を集めて、座らせて、50人ずつのグループに分けたことを覚えていますか?(ルカ9:14)彼はとても几帳面な人でした。今回は皆自由勝手に癒しを行うことはしません。ちゃんと仕切って行います。それはこうです。まず、ここにこの訓練を受けた人に集まって並んでもらいます。聴衆のほうを向いてください。それから、癒しの必要な人に集まってもらい、ここに列になってもらいます。それから2人の案内人がその列の先頭に立って、一人ずつ、訓練を受けた人達のところに案内してもらいます。では、案内人の人はそのようにしてください。女性は女性のところに、男性は男性のところに案内してください。うまくいかないかもしれませんが、最初はそのようにしてください。それで、もしすべての祈る人が誰かのために祈っている時には、残りの人々を待たせてください。そして、祈り終わった人のところに次の人を送ってください。

いいですか、秩序よく行う必要があります。何故なら、例えば、私達がウォルマートに行って祈る時には、大声を出したりすることはできません。人々は逃げたり、去って行ってしまうからです。それに同じ場所に次の週も戻って祈りたいですよね。癒しは静かに、落ち着いて行うことができます。そうでないと、人々は驚いて、去って行ってしまいます。でも、もし落ち着いて癒しを行うなら、例えば、子供と話すときには、悪霊や悪魔のようなことは話すことはできません。怖がらせてしまうからです。

子供でも、大人にでも話す時には、このようにしてください。悪魔や悪霊のような単語を口にする必要はありません。ただ、例えば、もし彼らは「腫瘍があります」と言うなら、ただこのように言えばいいです。「腫瘍よ。イエスの御名によって、命じる、彼のからだから去れ!」

私のいつもの祈り方はこのような感じです。でも、これは決して、まじないではありません。効果の出る秘訣でもありません。私は経験から学びました。例えば、ある人が腫瘍か血の塊があるなら、それに対して去るように言います。塊は時には分裂します。それらの断片が実際には危険になったりします。何故なら、それらは脳出血や心臓病を起こすことがあるからです。ですので、私が学んだことは、腫瘍や血の塊を持っている人のために祈る時にはこう言います。「腫瘍よ。血の塊よ。イエスキリストの御名によって、彼らのからだを去れ、分解して、退化して、消えてなくなれ、そして、何も悪影響を残すな。」。このように祈ります。

ここで大切なのは「ことば」ではなく、「意図」です。いいですか?

また、私達は具体的になる必要はありません。ただ、「どんな祈りの必要がありますか?どのような問題がありますか?」と訊けばいいです。

それで、病気を持っている人達、あなたは病気の経験や歴史を話すことはしないでください。私達は医者ではありません。私(癒す人)はその病気がそのように始まって、どのような経験をしてきたかは知る必要はありません。いいですか?もしそうするなら、私達に不信仰を起こして、癒されることなく帰ることになりかねません。

(病気の人に向けて語って)ただ問題の名前を教えてください。打ち負かそうとしているものの名前を教えてください。そして、症状を教えてください。それに命令します。でも、もし問題が分からないなら素直に、「わかりません。」と言ってください。

また、もし彼らが問題が分からないというのなら、こう言ってください。「病の霊!命令する。去れ!!」そうですよね?ただ「病」と言うだけでもいいです。同じことです。

覚えていますか?重要なことは、私達が何を意図するかです。いいですか?私達の意図するべきことは完全な癒しです。私はこのように言ったりします。「からだとたましいと霊との完全な癒し、を命令します。」。これはただの例です。ですので、基本的に私達は問題が去るように命令します。

問題を追い出した後には、からだに命令します。「からだよ。すべての機能よ回復しろ!癒されよ!」

これらのことをした後には、その人にこのように訊いてください。「以前は何ができませんでしたか?」。もし彼らが、「歩けませんでした。」と言うなら、何をさせるかわかりますか?彼らに歩かせてください。彼らができなかったことをさせてください。いいですか?そのようにした時には、多くの場合、癒しだけでなく、奇蹟の働きが同時に起きます。でも、「私には奇蹟の働きの賜物はありません」と言うかもしれません。実際に私達が何を持っているかは分かりません。それでもある人は言うかもしれません。「でも、カリーさん、それは私のスタイルじゃあありません。」。あなたはまだ自分のスタイルは訓練していません。私達はあなたが自分のスタイルを鍛え上げるのを手伝う為にいます。それまでは私のまねをしてください。私のやり方は結果を出すからです。いいですか?私達はブーツや服を選んで着る必要はありません。油注ぎは服にあるのではないですよね?その服を着る人のうちにとどまっています。もし服に油そそぎがあるのなら、その服を脱いで、それを地面に投げて、人々がそれに触ればいいだけです。でも、そうではないですよね?癒しにスタイルは関係ありません。重要なものは私達のうちにとどまる、神のことば、神の御霊です。それでは準備はできていますか?癒しを行っていきましょう。

まずは、牧師さんたち、長老の方たち、リーダーの人達は自分の立場は分かっていますよね?前に来て癒しを行う人々はたくさんいますが、えーと、これは前もって話しておくべきでしたが、まあいいでしょう。じゃあ、このようにしましょう。誰かのために祈るために来た人、もし牧師さんたち、長老の方たち、リーダーの人達があなたのところに来たら、彼らについて行ってください。その人は特別に特定の人のために祈りを行います。いいですか?ですので、もし彼らが来たら、彼らと一緒に行ってください。じゃあ、残りの祈る人達!牧師さん達、今からどうするか説明します。この訓練を受けて、今夜誰かの癒しのために祈るために来た人は、前まで来て並んでください。すぐ祈り始めます。

では、癒しの必要な人々は、この真ん中の通路に来て、ここにいる案内人達の前に並んでください。

じゃあ、案内人の人達は、一人ひとり、こちら側から、できるだけ、男性は男性に、女性は女性のもとに送ってください。もしどうしても無理ならそれはそれでいいです。でもできるだけそうしてください。

ここで覚えておいてください。イエスは言いましたね。「あなたはことば数が多ければ聞かれるのではありません。」。(マタイ6:7)私達がどれだけ長く祈るのかが重要なのではありません。イエスは短く祈りました。例えば、「癒されよ!」というようにです。いいですか?長い祈りではなく、義人の祈りは大きな力があります。(ヤコブ5:16)長い祈りではありません。だから、私達はすべての霊的な力を少ない言葉に込めて、目の前にいる問題を力を込めて言葉で打つ、つまり、彼らから追い出します。私達の拳でではなく、言葉で打つことに注意してください。私達はその問題を手で叩くのではなく、その問題を言葉によって打ちます。では、まだ祈らないでください。ちょっと待ってください。まだ、相手に触らないでください。何故なら、このようにするからです。

誰か一人ここまで来てもらえますか?少し協力してもらえますか?今からすることを見てください。ちょっと、みんなが見えるように横を向いてもらえますか?じゃあ、これから祈る人は見てください。相手の頭に手を置くことはしません。彼らの手を取ってください。このやり方は変でないし、適当な方法です。病気のある身体の部分などには手を置かないでください。そのようにするなら、不適切になってしまいかねないので。ただ、相手に言ってください。「手を見せてください」。普通は、私達がこのように手を差し出すと、彼らもこのように手を差し出すと思います。(手の甲を上向きにして差し出す。相手は反対に手の平を上にして差し出す。)もし私達がこのように差し出すなら、彼らはこのように手を差し出します。(手の平を上にして差し出す。相手は手の甲を上にして差し出す。)彼らの手の平が下になるようにしてください。じゃあ、彼らの手を取る時には、これが見えますか?私がどのようにしているかに注目してください。私はこのように手を取ってはいません。何でこういう方法ですると思いますか?理由は、もし相手が倒れ始めたら、彼は私の手をぎゅっと握り、抜け出せなくなって、私も一緒に倒れてしまうからです。そうですよね?何故私が知っていると思いますか?指で相手の指を握ってください、深く握る必要はありません。この場合、もし相手が倒れ出して、あなたの手を強く握っても、簡単に手を引き抜くことができます。それからその人に対応できます。いいですか?私はこの方法をクイックリリースと呼びます。ですので、彼らの手の平は下に向きで、あなたの手の平は上向きで、指で指をつかんでください。いいですか?

まだ相手に触れないでください。まず、何が問題なのかを見つけるんですよね?いいですか?ある人は、「なんでまだ相手に触れてはいけないのですか?」と疑問に思うかもしれません。それはあなたが触ると、いのちがあなたから相手に流れていくからです。時には、私はその人の手を取って、いのちが流れるようにするときもあります。それはちょうどブースターコードのようなものです。ブースターコードを知ってますか?そのコードに触ると充電されます。ゆっくりですが。でも、癒しに必要なのはチョロチョロ流れるケーブルではなく、一気に流れるものです。問題を激しく打つことです。それは次のように行います。先ず、彼らの問題を訊いて下さい。そして、こう言ってください。「イエスの御名によって、問題よ。命令する。イエスの御名によって、」こうして「去れ!」と言ってください。その問題が去るように命令してください。「イエスの御名によって命令する。去れ!!」のようにです。分かりましたか?この声は、肺からでも、のどからでも、口だけで言うのでもありません。ここからです。霊からです。いいですか?霊からです。霊から話します。一気に込めてください。長く祈らないで、すべての力をその「去れ」に込めてください。本当にそのつもりで言ってください。問題にあなたが真剣であることを見せてください。問題を納得させてください。それから、そのように祈るまでは手はこのようなものですが(相手の手はまだ握らない状態)、そのように「去れ!」言った時には、その「去れ」と言った時には、指で相手の指を数秒握ってください。そして、手を放してください。そのように言った瞬間に、相手の指を握り、その時に言葉と共にいのちを相手に流します。それはコンタクトまたは移転と呼ばれます。握った時にいのちが流れ、数秒したら、それを放します。

何で、そんなにすぐに放すのですか?それはいのちが自分に戻ってこないためです。何故かというと、時にはいのちは自分のところに戻ってくるからです。それは波のように出て行って、戻ってくるのを感じることもできます。いのちに戻ってきて欲しくはありません。そうですよね?いいですか?みなさん準備はいいですか?まず、問題が何であるかを訊いて下さい。最初のステップは問題を訊くことです。問題が分かりましたか?そのようにステップに沿って行ってください。覚えて置いてください。尋ねるのは名前だけです。まだ手を握らないでください。問題を聞いた後は、手のひらを下にして、手を伸ばしてもらってください。では、その問題に対して命令して、手を握ってください。どうぞ始めてください。強く、説得力のあるように命令してください。

Neylor Stevo