神癒技術者訓練 – セッション18

神癒技術者訓練 – セッション18
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション18

よく色々な質問を受けますが、世代の呪いについてはここで少し触れます。何故このことについて話すかというと、教会の間で世代の呪いについて多くのことが話されているからです。呪いから解放される為に、呪いを人から離す為に、あんなことや、こんなことをしなければいけない、と話さているからです。また、この世代の呪いを金儲けなどにしている人達もいるからです。ここでは時間をかけて説明しませんが、2つのポイントを話したいと思います。

出エジプト記の20章の5節にはこう書いてあります。「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」では、あなたは神を憎んでいますか?そんなことはないと思います。じゃあ、その聖書箇所はあなたには当てはまりません。分かりますか?神は彼を愛し、彼の命令を守るものには、恵みを千代にまで施す、と言っています。私達は神を愛していますよね。ですので、呪いやそのようなものが先祖代々伝わってきたというような考えを捨ててください。私達は呪いとは何の関係もありません。もし、この呪いを理解しようとするとこうなります。例えば、あなたの父親が問題を持っていたとします。そうすると、あなたが彼の一代、あなたの子供達が二代、あなたの孫達が三代というように続いていきます。そうであれば、あなたが一代目で、あなたの父の罪はあなたに継がれ、二代、三代とどんどん続いていきます。でも、あなたは父親の一代目で、彼が亡くなると、あなたは彼の問題を受け継ぎます。そして、今度はあなたの子供達が一代目となり、そのまま永遠に続いていきます。最終的には、すべての世代が、一代、二代、三代になっていきます。決して終わりません。

では、次のことに注目してください。出エジプト記の34章についてです。もしかしたら、この聖書箇所についての本を読んだことがあるかもしれません。出エジプト記の34章の7節からです。「恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」」ここで、何かに気づくべきです。「罰すべき者は必ず罰して報いる者。」と書いてあります。私達の代わりにイエスキリストが罰せられて、私達の罪は赦されていませんか?そうです。だから、この聖句は私達に関して言っているものではありません。何故なら、この聖句では誰も赦されることはないと言ってるからです。私達は赦されています。だから、世代の呪いは私達には関係ありません。

では、民数記の14章を見てください。18節です。「『は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。」

次は、申命記の5章です。9節からで、途中まで同じことを言っています。「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(9-10節)じゃあ、今から普段、呪いについて教える人達が教えないことを教えましょう。エゼキエル書の18章を見てください。1節からです。「次のようなのことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(1-2節)これは何について言っているのでしょう?これは世代の呪いについて言っています。人々は、父たちがしたことの罰や報いなどを彼らの子達が受けている、と言っていました。注意して聞いてください。神は続けて言います。「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ‐」(神がこのように言う時には、神は真剣だということです。)彼は続けて言います。「あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。」(3節)言い換えると、このことわざの効力はなくなるということです。続けてこう言っています。「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。もし、正しい者なら、その人は公義と正義とを行い、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、だれをもしいたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行おう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。―神である主の御告げ―」(4-9節)「しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で」と続きます。では、ここで神は父がその子の無法な行いの罰を負わなければいけないと言うと思いますか?いいえ、そうではないです。彼は14節で言います。「しかし、彼が子を生み、その子が父の行ったすべての罪を見て」ここでは、罪を犯す父がいて、その子について話しています。「反省し、そのようなことを行わず、」(14節)言い換えると、父親が罪を犯すのを見ても、子がその罪を行わないなら、「丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、」16節にはそのような数々の罪が書いてあります。そして、もし彼の子がそれらの罪を行わないなら、17節でこう言っています。「卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行い、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。」

このように、エゼキエル18章のすべては世代の呪いについて書いてあります。ここでは神は、2節に書いてあるような、このことわざはもうこれ以上使わなくてもいい、と言っています。誰もそのことわざを使う必要はありません。罪を犯す人は死にます。誰も他人の罪に対して責任を負う必要はありません。私達は自分自身の罪だけに責任があります。(エゼキエル18:13)

でも、こういう人もいます。「でも、私の飲酒癖は世代の呪いです。辞めることができません。それは、叔父から来たものだからです。」それは、世代の呪いではなく、ただの自分の犯す罪です。辞めることができます。分かりますか?その人が辞めることができないからと言って、それは先祖から来たものではありません。その人が自分で酒を飲んでいるだけです。その人が自分で選んだことです。誰でも選んだ時に、その罪に入ります。そうして問題を抱えることになります。いいですか?

だから、自分の罪を先祖や他人のせいにすることをやめましょう。たとえ、自分の親族が悪い見本だったとしても、私達には正しく生きる責任があります。私達は他人の為に罪は犯さないし、他人は私達のために罪は犯しません。他人のせいにすることをやめて、立ち上がってください。自分に対して責任を持ってください。するべきことをしましょう。正しく生きてください。言い訳をしないで、決して誰かの罪を他の人に押しつけないでください。

ですので、もし今からこの世代の呪いを取り扱う時には、「それは世代の呪いです。その呪いの理由は~で、じゃあ、私達がその呪いを破ってあげましょう。」とは言わないでください。誰も世代の呪いを破ることはできません。今は他人のために世代の呪いをどう扱うかについて話しています。どのようにして、その人が世代の呪いを破ることができるか知っていますか?だた罪を犯すのを辞めるだけです。分かりましたか?誰も他人の罪を破ることはできません。彼らが自分が辞めなければいけません。

ですので、もし私が父親の飲酒を見ても、彼は私の飲酒に対して責任はありません。私が彼の飲酒を見てもです。彼は悪い見本かもしれません。それでも、私の飲酒は自分の責任です。

だから、絶対に、誰かの世代の呪いを探して、見つける必要はありません。呪いはもう関係ないからです。私達がするべき会話は次のようなものです。「何をしているのですか?」「飲酒です。」「分かりました。じゃあ、飲酒を辞めてください。」これだけです。私達は祈ることも、その飲酒の力を壊すこともできます。でも最終的には、その人が辞める決断をしなければいけません。それはその人の罪だからです。私達は自動的に奴隷にされるのではありません。居酒屋の前を歩いていて、いきなり、飲酒の悪魔に飛びつかれて、飲酒を辞められなくなるというようなことはありません。店に入って、酒を頼んで、その酒を飲む必要があります。そうですよね?悪霊は勝手に私達に飛びかかるわけではありません。これで、もう世代の呪いについて話す必要はありませんね?アーメン。

聖書には聖霊を表わす言葉がいくつか出てきます。そのうちの一つの言葉は、ギリシア語で、「パラクレイトス」と言います。この「パラクレイトス」とは「~に対して共に制する為に傍らに呼ばれた者」という意味です。これは長く分かりにくい訳です。簡単に言うと、パラクレイトスとは「助けの為に傍らに呼ばれた者」という意味です。だから、聖霊は傍らに立って私達を助けるために呼ばれた者です。もしそれを信じるのなら、実は聖書もそのように言ったことに気づきましたか?聖霊は私達の助け主です。(ヨハネ14:16、26、15:26、16:7)これは一般に教会で教えられていることと全く反対です。何で私達はいつも物事をひっくり返して、逆にしたがるのでしょうか?何故かは分かりませんが、私達はいつもそのようにします。いつもこう言おうとします。「私達はただ聖霊について行きます」。一見、これは響き良く聞こえます。でも、言い換えると、こういう意味です。「私は何も責任は取りたくありません。聖霊はしたいことは何でもするし、できます。私はただここに立って、彼を見ています。」そうですよね?でも、聖霊は私達を通して働きます。

それが古い契約と新しい契約との大きな違いです。古い契約の下では、神は私達の為に戦ってくれました。新しい契約の下では、神は私達を通して戦います。そうですよね?もし私達が戦わないなら、神も戦いません。よくこう言うのを聞きます。「神は何であんなことや、このようなことを許したんでしょうか?」それは私達がそれを許したからです。でも言います。「ええでも、私はそうは信じません。」そうですか?何でも私達が地上でつなぐものは、天でもつながれます。(マタイ16:19,18:18)それは何処で始まりますか?ここ、地上です。何故神はあることが起きることを許したんでしょうか?それは私達がこの地上でつながなかったからです。神は天でつなぐことができる前に、私達が地上でつなぐのを待っています。何故でしょうか?それは神は地を人の子に与えられたからです。地は主のものですが、彼は地を人に与えました。(詩篇115:16)マタイの福音書の9章の1節から8節では同じ事を言っています。そこでは、彼らは神をあがめた。神がこんな権威を人に与えたからである、と言っています。神は私達に権威を与えてくれました。でも、私達はそれを使わなければなりません。もし私達がその権威を使わないなら、何も起きません。「なんで神はこんなことをするのか?なんで神はあることをしてくれないのか?なんで神はこのようなことを許すのか?」と言って、神を責めることをやめてください。それは私達が許すからです。単純です。それは私達の責任です。

では、聖霊について行くことについて話します。聖霊のことに戻ります。私は聖霊について話していないように見えますがそうではありません。私達は聖霊について行くとよく言います。でも、考えてみてください。やっぱり聖書を開いてください、自分で実際に読んでみる必要があると思います。そうでないと、私の言うことを信じないでしょう。もし、それが聖書に書いてあることだと示す事ができたら、私の言ってる事が造り話ではないことが分かります。

私の仕事はすごく簡単だと知っていますか?聖書を読むだけでいいからです。そうですよね?私のしていることはそれだけです。それは何か不思議な、神秘的なことでも何でもありません。ただ聖書を読んで、それを書いてある通りに理解して、あなた達に伝えるだけです。私の仕事は簡単です。

マルコの福音書16章の15節からです。「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」(マルコ16:15-20)

ここで2つのことに気が付いてください。まず17節で、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」とあります。それから、20節でも、「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。ここで2回も同じことについて書いてあります。両方ともしるしについてです。両方ともしるしが信じる者についていくと言っています。そうですよね?では質問させてください。これはひねった質問でも何でもありません。でも、ちゃんと考えてみてください。あなたは自分で病人を癒したり、死人を生き返らせたりすることができますか?あなたにそのようなことができますか?できませんよね?誰がするでしょうか?それを行うのはイエス、神の御霊です。イエスさえもこう言いました。「私が自分から話しているのではありません。私のうちにおられる父が、御自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10)そうですよね?聖霊がわざを行います。そうですよね?ですので、私が話したように、すべての奇蹟、すべての癒し、すべての死人のよみがえり、そのようなすべてのことを行ったのは聖霊です。聖霊が実際に奇跡や癒しのわざを行います。私達は行いません。私達はただ手を置き、信じて、話します。でも、聖霊が実際に癒しなどは行います。

では、次のことについて考えてみてください。まず、これらのしるしは信じる者についていきます(伴います)、と書いてあります。そして、主は彼らと共にいて、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされました。ですので、彼らは行って、福音を宣べ伝えて、しるしが彼らに付き従いました。そうですよね?彼らは行って行動しました。彼らがまず手を置いたりすることにより、癒しや奇蹟や死人がよみがえったりしました。ということは、しるしは信じる者達についてきます。では、もししるしが信じる者についてくるなら、誰がしるしを行なっていることになりますか?私達が手を置きますが、わざを行うのは聖霊ですよね?じゃあ、次のことついて考えてみてください。これについてよく考えてみて、理解するなら、人生が変わると思います。保証します。もし私達が行って、福音を宣べ伝え、病人に手を置いて、聖霊が病人を癒しているのなら、そして、癒しはしるしで、しるしは信じる者についていきます。もしあるクリスチャンがいて、病人がそこにいたとします。その人に手を置いて、聖霊がわざを行うなら、そこにしるしがあります。じゃあ、クリスチャンはどこにいるでしょう?ここです。そうですよね?じゃあ、聖霊は何処にいますか?ここにしるしがあって、聖霊はここでしるしを行っています。じゃあ、誰が誰について行っているのでしょうか?あなたが聖霊について行っているのでしょうか?それとも聖霊があなたについて行っているのですか?もし、あなたが福音を宣べ伝えていて、しるしがついて行っているのなら、聖霊がそのしるしを行っています。聖霊があなたについて行っていませんか?そうです。分かりますか?何故なら、一度、私達の行く所には、聖霊も行きます。私達が行かないなら、聖霊も行きません。じゃあ、誰が主導権を握っていますか?これが分かりますか?このことばを使うのは嫌いですが、人々を怖がらせるので。じゃあ、今は誰が聖霊の行く所を決めますか?私達です。聖霊は私達の内にいるからです。いいですか?あなたはこのことが気に入らなくて、私は異端に近いと思っているかもしれません。でもイエスも異端呼ばわりされました。そうですよね?でも、聖霊は私達の内にいます。そして、私達についてきます。私達が福音を宣べ伝えて、聖霊がしるしを行って、みことばを証明します。それでもある人は言います。「でも、私は聖霊について行くだけです。」それじゃあ、聖霊は何処にも行きません。何故なら、聖霊は私達の内にいて、私達が動くのを待っているからです。イエスは「全世界に出て行きなさい。」と言いました。イエスは、「まず、私が何処にいるかを見つけて、それから私について来なさい。」とは言いませんでした。彼は、「私について来なさい」とさえ言いませんでした。

その時には、彼は誰にも、「聞きなさい。聖霊に満たされたら、聖霊について行きなさい。」とは言いませんでした。彼はそのようなことは言わないで、こう言いました。「あなたが全世界に出て行って、あなたが福音を宣べ伝えなさい、あなたが病人を癒しなさい、あなたが手を置きなさい、それらのことを行いなさい。」そうしたら何が起きると思いますか?聖霊があなたと共に行きます。そして、彼があなたと共に行くに連れて、彼はわざを行います。そしてしるしがあなたに伴ないます。でも、もし私達が行かないなら、しるしもついてきません。そうですよね?分かりますか?

では、今から話すことについて考えてみてください。私が聖書から話したように聖霊がわざを行います。じゃあ、私達は何をしますか?手を置きます。そうすることは何と呼ばれていますか?それはみことばを聞くだけの人にならないで、実行する人になることです。(ヤコブ1:22)そうですよね?ですので、私達はみことばを行わなければなりません。そうすれば、聖霊がわざを行います。そうです。私達がみことばを行い、聖霊がわざを行います。

聖霊はパラクレイトスと呼ばれることを話しました。助ける為に傍らに呼ばれた者です。私は技術者やメカニックではありませんが、そうだとして、誰かが私に、「今、この教会で電気関係の問題があるのですが、カリーさんがいる間に見てもらえないでしょうか。もしかしたら、直せるかもしれないので。」と言ったとします。それで、私が息子と一緒にそれを修理しようと現場へ行きます。そして、彼が言います。「カリーさん、ここにいる間にこの部屋の電線をつなげてもらえますか?」私は「分かりました」と依頼を引き受けます。そして、私は歩き回って、助手の、息子のジョンが一緒にいます。そして、私は歩きながら言います。「じゃあ、たくさんの道具が必要だね。ワイヤーや3メートルのはしごなどが必要。それとこれらのものすべてが必要。」そして、ジョンは歩きながらメモを取ります。そして、言います。「分かりました。じゃあ、3つ束のワイヤーと2つのはしごが必要ですね。」その後に、ジョンが言います。「あとここに当てはめるための導管はどうですか?」と言います。「あ、そうだね。気がつかなかった。」そして彼は導管をメモします。何故メモするのでしょうか?それは彼は有能な助手だからです。そうですよね?彼は自分の仕事をしています。私達はこの問題を調べて必要なものを用意します。そして、そのうちに私は言います。「じゃあ、これだけ物が必要だから用意しておいて。私は今から昼食を食べに行きますが、帰ってくるまでに、すべての道具を並べておいてね。」私が帰ってきた時には、彼はワイヤーやはしごなど必要なものはすべて並べられて用意しています。そして、私ははしごを立てて、そしてそれに登って、修理をし始めます。私が何か必要な時には、もし、彼が有能な助手なら、私が「じゃあ、ちょっと…」と彼に頼む前に、その必要なものは私に手渡されます。そうです。でも、注目してください。彼は私のしていることは見ていません。彼が見ているのは、私が何処に行って、これから何をするかです。それに必要なことを私がそこに着く前に用意しています。そうですよね?何故でしょうか?何故なら、彼は有能な助手だからです。だから、私はすべての修理を終えることができます。

その修理が終わった後には料金は誰に支払われますか?私にです。電気技術師だからです。彼は助手です。彼に支払うのは、私の責任です。でも、彼らは私が修理をする人なので、私に料金を払います。私は実際に修理を行う者だからです。私が実際にそれを行う人です。

聖霊も同じです。しかし、何故か今の教会は聖霊を電気技術師にして、自分達は助手になりたがります。でも、聖書は聖霊が助け主で、私達がみことばを実行する者であると言っています。そうですよね?聖霊は私達を助けます。彼は助け主なのに、何で私達は聖霊をみことばを実行する者にしようとするのでしょうか?私達はいつも物事を逆にするのが分かりますか?彼は実行する者ではありません。助ける人です。私達がみことばを実行する時にはいつでも彼はわざを行って助けてくれます。分かりましたか?彼は私達を助ける者です。パラクレイトス、聖霊です。彼に「あれ聖霊は何処行ったの?私はまずあそこに行って、ここに来て、あれををします。(聖霊に)分かりましたか?」と言う必要はありません。父なる神の仕事を行うのに忙しくしてください。どんな仕事でも成し遂げるために、神は私達に助け主である聖霊を与えてくれました。分かりましたか?

ここに私達がいつも持ち歩いている本、「ジョンG.レイク、アフリカへの使徒」、ゴードンリンゼイによって書かれたものがあります。この本の最初の部分に、「ジョンG.レイクについての回想録」というセクションがあります。(これはマニュアルに含まれている)ゴードンリンゼイはジョンG.レイクの教会で育ち、救われました。そして、彼はレイク氏を知っていました。彼はこう書いています。「ジョン G. レイク氏の働きは特異なものであるというのは過小評価です。彼は聞き手に信仰を与えることのできる力を持っていました。」また、彼の下で学んだ人達も彼ら自身も驚くような癒しを伴なった癒しのミニストリーをできることに気が付きました。レイク氏一人だけでは多くの人の癒しの需要に答えることはできなかったので、彼はいつも「神癒技術者」と呼ばれる人々を、電話など、彼が手を回すことができない仕事を共にするために連れていました。

著者のうちの一人の(ゴードンリンゼイ)の最初の癒しの記憶は、レイク氏の仲間の祈りによって瞬時に癒された女性についてです。レイク氏が祈ったのではなく、彼の仲間です。「彼女の名前はワット氏でした。彼女は地元の教会の役人の妻でした。彼女は病気になり、医者は唯一の望みは手術しかないと告げました。その手術の費用はその家族のまかなえる費用を遥かに越えたものでした。

しかし、死に物狂いの夫は地元の銀行へ行き、手術のためのお金を借りるように手配しました。それからまもなくして、神の癒しの信仰を持った著者の母親はその家族のために重荷を負い、彼らのために祈りました。彼女は病気の女の人を訪れて、神の癒しに信仰を置くように勇気づけました。しかし、彼女の教会は神の癒しには反対していました。(その病気の女性の教会です。)事実、彼女自身神も癒しには興味はありませんでした。しかし、誰でも死や病気に直面したときは何にでもすがる気持ちになるように、彼らの考えも変わりました。その女性は癒しのために祈ってもらうことを受け入れました。(神に感謝ですね。私達はこのように正しい選択をすぐにするべきですね)

そして、彼女の母はポートランドに病気の女性のために祈ってもらうためにレイク氏を呼びに行きました。しかしながら、彼女が到着したときにはレイク氏は来ることができませんでした。しかし、代わりにその母親は彼の同労者のうちの一人を送るように頼みました。そのために送られた兄弟は社会的な常識をあまり知らない人でした。」これは、彼は人々の周りでどのように振舞るまえばいいかについて無知だった、という意味です。「事実、彼は荒っぽい人でした。その態度から教会で働いている人とは考えにくい人でした。」 私がこれを読んだ時、彼については何も知りませんが、私は彼のことが好きになりました。「しかし、彼の神に対する信仰は強いものでした。彼は無愛想であり、病人に対しても軽率であり、彼の態度は気難しい人々を苛立たせるものでした。」 ここまで、これを読んでいてこの男性がどんな人であったか想像がつきますか?

著者は続けて書いています。「その母親と遣わされた人が病気の女性の家に着いたとき、彼は彼女の病状を見て、ためらいもなく彼女の病気は悪魔のしわざであると言いました。」多分、彼女はそのように言われて不快だったと思います。彼女は地元の教会の役人の妻でした。彼女は尊敬されていたはずだし、社交的な人だったと思います。その彼女に向かって彼は、「あ~、あなたは悪魔を持っています。」と言ったからです。そのようには言うべきでないです。特に裕福で宗教的な人には、です。では、続けてこう書いてあります。「その女性に説明を与えたあと、彼は大声でその病気をしかりつけました。その声は家の隅々まで届くものでした。そして、彼は荒々しくその女性に彼女はすでに癒されたのでベッドから出て立つように言いました。彼女は最初は戸惑っていましたが、彼に従わないことを恐れて、」‐ここで、考えてみてください。彼女は悪魔や痛みよりも、その男性の方を怖がりました。「彼に従わないことを恐れて、言われたようにベッドから立ち上がり、自分が癒されていることに気づきました。」

「地元の教会の牧師はその当時はこの癒しのミニストリーにはとても反対していました。この奇跡はそのような彼の考えを変える第一の出来事でした。」この教会は癒しの教えに反対していたことを覚えておいてください。しかし、「最終的に、彼は聖書に基づいた癒しの教えを学び、彼自身も癒されました。」恐らく彼が癒しの教えに反対していたのは彼自信が病気を持っていたからではないでしょうか?過去の癒しに反対する教えの数々は病気から癒されない人々が自分を正当化するために、神が何故癒さないかの理由を並べて作ったものです。それによって、彼らは面目を失わなくて良かったからです。だから、彼らは癒しに反対しました。

では、続けてこう書いてあります。「そして、銀行で手術のためにお金を貸し出した人は、その数日後に夫がお金を返しに来たことに驚きました。その癒しはその地域の人々の間に驚き与える証となりました。このような癒しの方法と結果がジョン G.レイク ミニストリーを人々の間で際立たせました。」

この証についていくつかコメントをします。まず第一に彼は病気を大きな荒々しい声でしかりました。こう質問するかもしれません。「じゃあ、カリーさん、私達もそのように大きな声で祈る必要がありますか?」そうしなくてもいいです。でも、大きな声を出すことは、自分を燃え立たせる一番早い方法です。私は一度も2人の人が静かに口論しているのを見たことはありません。そうですよね?何故でしょうか?それは彼らは燃え立っているからです。祈る時も同じです。声の音量には力はありません。でも、大きな声を出すことで自分を(霊を)燃え立たせることはできます。癒しを始めた初期には、自分を燃え立たせる為に大きな声で祈る必要があるかもしれません。でも一度自分の燃え立たせ方を学べば、いつも大きな声になる必要はありません。最初はそうする必要があると思います。私も最初はそうしました。でも、本来は私はおとなしい性格なので、それは楽しいものではありませんでした。でも、病人を自由にする為には馬鹿に見えても、必要ならば、大きな声で祈ることに決断しました。ですので、大きな声で祈っていました。でも、どのように静かに祈るかを学ぶ必要がありました。何故かというと、病院では大きな声では1回しか祈ることはできないからです。そうですよね?一度しか祈ることはできません。その後は警備員がやって来て、連れて行かれるからです。だから、私は力を静かに解放する方法を学ばなければいけませんでした。だから、荒々しく大声になることは何も間違ってはいません。ペンテコステ運動の初期には彼らはやかましいことで知られていました。今日では、私達は人からの賞賛は買うようになりましたが、神からの承認は失ってしまいました。

では、もう一つマニュアルから読みます。えーと、マニュアルの142ページです。レイク氏はこの文書を、説教の一部として書きました。「どのようにして神のみこころに入るか」というものです。それには2つの段階があります。

「神のみこころに入るためには2つの段階があります。」

「一つ目は私達の意志を神の御心に明け渡し、それと一致させることです。」もし、これをしていないなら、私達はクリスチャンではありません。これが第一段階です。「多くの人々にとって神の御心を行うことは自分が機械的な人になることだと考えます。」言い換えると、じゃあ私は自分を明け渡すから、神がしたいことは何でも、もしそれが彼の御心なら、後は自動的に彼が行ってくれます。それは違います。それは神のみ御心ではありません。神は私達の意志を彼の御心に明け渡してほしいと思っています。それは彼の御心を行うためです。それは、私達が自分で神の御心を行うことを自分の意思で決断しなければいけません。彼は続けてこう書いています。「私達がロボットや機械のようにあちこちに振り回されて動くのは神が理想としていることではありません。」

「2つ目は自分自身を神の子、人に仕える者として認識することです。」これはもう聞いたことだと思います。私達はここに「悪魔を支配する者」というのを加えることができます。

レイク氏は言っています。「私が思うに、この真理を明らかにする為に神が私達に与えてくれるもっともすばらしいことは、神が彼のために用いるために聖霊を贈ってくれたことです。」このように、神が聖霊を神のために用いるために与えてくれた、とは多くの人にとってはすごい冒涜のように聞こえます。聖霊がなんか道具のように聞こえますよね?レイク氏は言います。「例えば、主は言います、「病人に手を置けば病人は癒されます。」

「しかし、もし誰かに手を置かないなら、その人は癒されません。」

「しかしながら、もしあなたのうちにいる聖霊を神が彼のために用いるという信仰があるなら、心とからだは準備万端です。」それは準備ができているということです。彼は言います。「私はいつも、神がいちいち彼のための働きをさせる目的で人々を奮い立たせるために動かなければならないことを悲しく思います。」でも、それは大半のクリスチャンがしようとしていることです。「もし、神が私に教えてくれるなら、もし神からの承認を得られるなら、もし神からの確信が得られるなら、私はそれをします。」と言います。言い換えると、もし神が私にそれをさせてくれるなら、神のために働きます、ということです。神は私達に何もさせる必要はありません。私達はわくわくして神に言うべきです。「神様、私には何ができますか?何かさせてください。私は何かします。私に何をして欲しいか教えてください。病人を癒すことですか?喜んでします。手を置いてでも、どのようにしてでも、かまいません。」私達はこのようであるべきです。

レイク氏は続けて言います。「オハイオ州のある神学校では人々は断食と祈りを9ヶ月もの間行い、聖霊の賜物を待っていました。私は彼らに言いました。「あなた達が10年9ヶ月も待ち続けていたら、聖霊の賜物を逃してしまいそうですね。でも、もし本気になって外に出て行って、他の人を祝福する為に神がすでに与えたものを用いるなら、神はより多くのものをあなたに与えるでしょう。」分かりましたか?でも、私達はいつも何をしますか?私達はリバイバルを欲しがります。ですので、何をしますか?私達は祈りの会を開きます。そして、私達は10年間祈り続けます。でも、私達がする必要なことはただ燃え立って、神のわざをし始めることです。道端に行って人々のために祈り始めることです。もし、彼らが癒されれば、彼らは教会に来ます。そして、彼らが教会にやって来た時に、リバイバルは起きます。実際には、それがいわゆるリバイバルです。でも、それは真のリバイバルではありません。真のリバイバルは私達が神のわざを行いだすことです。人々が集まってきた時には、それは伝道と呼ばれます。でも、私達はいつも、まるで神がいつかやって来て、自動的にリバイバルが起こることを待っています。でも神はこう言っています。「リバイバルが起こらないのは私の失態ではありません。あなた達が忙しくなりなさい。あなた達が忙しくなれば、人々もやってきます。」そうですよね?

もしビジネスでクリスチャンがミニストリーで使っているのと同じ原理をマーケットに当てはめて実践すると、ビジネスは破産します。それはクリスチャンは決して宣伝しないからです。彼らは決して外にでて行かないからです。彼らは決して外に出て行って、家々を周って、人々に商品を買わせようとしないからです。だから多くのビジネスが倒産します。それは彼らは人々を引き付ける方法を持たないからです。それでも、まだ私達は言います、「教会を始めましょう。ああ、もし人々が私達を必要とするなら何処にいるか知っているので、教会にやって来るでしょう?」聖書はそのようなことは言ってません。聖書は出て行って、彼らを福音に従順にしなさい、と言っています。(マタイ28:18-20,ローマ1:5)座って、人々が教会に来るのを待っていなさい、とは言っていません。彼らは私達のことを知りません。なのに、何で彼らはキングダムホールではなくて私達の所に来ると思いますか?彼らはキリスト教とエホバの証人との違いは分かりません。彼らは誰が正しくて、誰が間違っているかも知りません。そうですよね?なので、私達は人々に何が正しいものかを見せる必要があります。

次はマニュアルの140ページです。ジョン G. レイクのJudd Carrie Montomomeryへの手紙です。1908年から1913年まで、レイク氏は南アフリカにいました。何人かの人々がレイク氏についての偽のうわさを広めました。それらは彼は話を作り上げている、彼は資金を不正に用いているなどです。なので、彼への資金供給は止りました。そこで、彼は言いました。「じゃあ、誰かをここによこして、自分の目で確かめてください。」なので、彼らはある人を南アフリカに送りました。これがその人の見たことです。ステファンソン牧師はレイク氏たちの行っていたことをすべて見て、そして、レイク氏はそのことについて手紙を書きました。ステファンソン氏がその手紙をJudd Carrie Montomomeryという宣教師の中では良く知られている女性に送りました。そして、彼女はその手紙を複写して、人々に送りました。嘘のうわさを鎮めるためです。

その手紙は、「キリストにあっての姉妹へ」から始まっています。この手紙は1911年4月22日に書かれました。100年ほど前です。考えてみてください。100年間の間、この手紙はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの書庫に保管されていました。私はそこによく行って、すべてのものを調べました。時には何週間もの間そこで調べていました。この手紙はその書庫にずっと置かれていましたが、誰も読む人はいませんでした。手紙にはこう書いてあります。「この手紙には主が私達の間で行われているいくつかの出来事についての手紙が含まれています…Stephenson氏がこれらの手紙を送ることを手助けしてくれました。」

恐らく、ここでは彼はこの手紙以外にも書かれた手紙のことを言及しています。続けてこのように書いてあります。「この福音が神に心を開いた人々に伝わったことは神の力によるものだと思います。また彼のような学識のある人がこの働きに手を貸してくれていることをうれしく思います。もちろん、彼はその日には神の御霊が力強く働いてたことを知っていました。それはすばらしい日でした。そのような力は他のどの集会でも体験はしませんでした。」

「しかしながら、私達は神が力強く、堅く、はっきりと働いていることをほめたたえます。」

「“Triumph of Faith”というAnderson夫人の証を読んでいて、あなたに書こうとしていたことを思い出しました」Triumph of FaithはCarrie Judd Montomomery氏が毎月送っていた小冊子のことです。彼は続けて言います。「チリのバルパライソ市にいるフーヴァーという宣教師に書いた神の癒しの議題についての手紙を今は持っていません。この議題は南アフリカでペンテコステ運動が行っている積極的な癒しのミニストリーについての秘密について書いてあります。」考えてみてください。このフーヴァーという人の本名はウィリス・フーヴァーといい、チリのバルパライソ市へのメゾジスト宣教師でした。彼はチリへ、レイク氏が南アフリカにいる間に行きました。そして、南アフリカでは、御霊の強い注ぎがあり、様々なことが起こっていました。フーヴァーはレイク氏に手紙を書き、そして、レイク氏は彼に返信しました。そして、レイク氏は彼に返信した手紙には南アフリカで起きている成功の秘密を書いたと言っています。それは、どのようにしてレイク氏達は多くの奇蹟などを見ることができたかです。レイク氏はその秘密をその手紙の中に書きました。

私はこれを読んだ時に、こう考えました。「その手紙が欲しい。その秘密を知りたい。それらの手紙すべて欲しい。」と思いました。ですので、私は捜し始めました。誰もそれを見たことはないし、誰も知らないし、誰も手掛かりを持っていません。私はすべての文書庫もすべての人々をも調べました。

その何年後かに、私はデルウェア市にいました。私は説教をしていました。そして、ある夜に、一時間ほど説教をした後に、ある男の人が私のところにやって来て、尋ねました。「どこでその手紙を見つけたのですか?」私は答えました。「その手紙は見つかりませんでした。」彼は言いました。「一度もそれを見たことはないのですか?」私は、「見たことはないですよ。」それでも、彼は訊いてきました,「本当に一度も見たことはないのですか?」。私は、「ほんとに、見たことなんかないです。分かりましたか?」終に彼は、言いました。「私はチリのバルパライソ市への宣教師でした。私はその手紙を見たことがあります。実際に今チリにあります。」私は興奮して言いました。「本当ですか?その手紙にはなんと書いてあるのですか?」彼は言いました。「本当にあなたはそれを見たことはないのですか?」私は答えました。「本当に見たことはない!」彼は言いました。「それは不思議ですね」私は切り返しました。「何故ですか?」彼は言いました。「何故かというと、今夜あなたはその手紙に書かれているのと全く同じ事を話したからです。言葉さえもほとんど同じでした。」何故こんなことが起きたのでしょうか?それは、私はその手紙を見つけることができませんでした。しかし、レイク氏がその手紙を書くことを手伝ったのと同じ聖霊が、私にも同じ事を説教させてくれたのです。

その夜に私が何を説教したか気になると思います。それは、神は、またこの地上のすべてのものは神の子達の現われを待ち望んでいる、ということです。(ローマ8:19)それは、私達はイエスのように歩む必要があるということです。弟子達のようにではありません。イエスのようにです。分かりましたか?彼の御名を使って、彼が話したように話すことです。このようにその時も説教しました。

このウィリス・フーヴァーという宣教師に、レイク氏は、「まず聖霊のバプテスマを受けなさい。」と書きました。彼はそれを受けました。彼が聖霊のバプテスマを受けたと途端にメソジストは彼を追い出しました。ですので、彼は道を挟んだところでペンテコステ・メソジスト教会を始めました。その教会はチリで最も大きな教会になりました。その当時200万人以上もの会員がいました。ですので、彼は聖霊の強い注ぎをレイク氏の助言に従ったことによって経験しました。彼は南アフリカのリバイバルだけではなく、チリでのリバイバルにも貢献したことが分かりますか?その炎は下にあるアルゼンチンにも広がり、未だに広がり続けています。レイク氏はその始まりに関わりました。

私はウィリス・フーヴァーの孫を見つけました。彼はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの書庫で働いています。そこでペンテコステ、カリスマ派の辞書を見つけました。その中にウィリス・フーヴァーの写真を見つけました。もし機会があるなら、彼の写真を見てみてください。彼の写真を見る為だけに本を買うのに値します(笑)。何故かというと、このフーヴァーという男はポパイにそっくりだからです。まるで実際に生きたポパイのようです。彼は小さなメガネをかけていて、灰色のひげがあり、そして、彼は頭に変わった、小さな帽子をかぶっていました。本当に彼を見るべきです。完全に実写版のポパイです。彼を見たらきっと、「アレはポパイだ!」と言うと思います(笑)。誰でもポパイを書いた人は、きっとウィリス・フーヴァーを見ました。本当に似てるから。

では、手紙に戻りましょう。私は後でこの手紙にも載っていることに気が付きましたが、レイク氏はそのアフリカでの成功の秘密について書いています。彼は言っています。「あなたにそれと同じ手紙を送ることができるかは分かりません。しかし、できるだけ早くあなたにもその手紙を用意して送るつもりです。」

「このミニストリーには通常のペンテコステ運動にはない進んだものがあると感じます。」このミニストリーとは南アフリカでの働きのことです。言い換えると、レイク達は、癒しの分野においては(彼らの働きは)アメリカのペンテコステ運動が経験していることよりも先を行っている、と言っています。そして、続けてこのように書いてあります。「神はこのミニストリーの伝えるイエスキリストの支配権の行使を教えるように私のたましいに重荷を置いています。そのような支配権の行使がこのミニストリーの成功の秘訣です。」レイク氏はここで、それが何であるかを書いています。「私達の教えや働きは聖霊をとおしての神の支配権の行使を反映しています。そして神はすでに彼らにバプテスマを授けたときに、彼らのたましいにすでにその支配権を与えました。」

言い換えると、私達が神の御霊に満たされた時にすべてのものが与えられた、ということです。私達は待つ必要はありません。すべてを受取りました。神は銃を与えて、弾丸を与えないことはしません。神は聖霊のバプテスマを与えた時に、弾の入った銃を与えてくれます。だから、私達は準備ができています。

それから、彼はこう言っています。「私達の教えや働きは聖霊をとおしての神の支配権の行使を反映しています。そして神は彼らにバプテスマを授けたときに、彼らのたましいにすでにその支配権を与えました。しかし、他の多くのミニストリーは(これはアメリカのさまざまなミニストリーのことです。)病人のためにとりなしの祈りをしています。」

これについて考えてみてください。それは未だに教会がしていることと同じではありませんか?彼らはとりなしをします。神に乞い願います。神に何かしてもらおうとします。病人のためにとりなしをします。これがレイク氏の言ったことです。分かりますか?彼はこれを100年以上前に言いました。彼は、「私達はアメリカの人々が経験しているよりも進んでいます。何故なら、彼らはまだ古い方法で神に何かしてくれるように頼むことをしているからです。でも、私達は神が私達に聖霊のバプテスマを授けた時に、私達に力を与えてくれたので、私達はその支配権を行使します。神に何かをしてもらう為に乞い願うことはしません。」と言いました。

レイク氏はこれを100年以上前に言いました。でも、100年後の今でも私達は理解していません。それで思うのですが、彼は私達よりも100年も進んでいました。

そして彼は手紙で言っています。「私達は昔のように神が下ってきて人を癒すようには祈りません。しかし、神は私達に聖霊のバプテスマを授けたこと、そのバプテスマを通して神の力を受けたことを信じて、イエスの御名によって悪魔とそのしわざが去るように命じます。」これが違いです。

「しかしながら、神が私達に病人などのために真のとりなしの祈りの霊を与えることも時にはあります。」これについて、私はレイク氏を知っている人々に、彼が何のことを話しているのか訊きました。彼らはレイク氏は、「遠距離から誰かの人のために祈ることについて話している」と教えてくれました。多くの場合、私達が遠く離れた誰かのために祈る時には、私達は彼らとつながるためにとりなしをします。

彼は続けて言います。「病人のためにはよりすぐれた秘密のとりなしの祈りの領域があると確信しました。それは悪魔に対しての神の支配権を行使することで可能なことです。ペンテコステ運動がこのことを学ぶなら、そのミニストリーは今の時点よりもさらに飛躍したものとなるでしょう。」残念ながら、彼らはそれを学んではきませんでした。

それから彼は、1914年にアメリカに帰ってきて、それを実践しました。彼はヒーリングルームを始めました。そして、10万の癒しを確認しました。でも、教会はまだそれから学びませんでした。

レイク氏はここで秘密を書いています。「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。」これは聞いたことがあることばではないですか?「しかし、私にあるものを上げよう。」(使徒の働き3:6),「 アイネヤ。イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。」(使徒の働き9:34)など覚えていますか?私達は決して「捕らわれ人には赦免を」宣言するイエスの言葉の真の潜在的な力を経験してはいません。分かりますか?多くの人は福音が宣べ伝えられるのを一度も聞いたことはありません。彼らは福音を提供されるのしか聞いたことはありません。福音は宣言され、私達がすでに自由であると告げます。私達は自由になることができます、とは言いません。

「あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」(マタイ16:19)

(手紙の続き)「ミシガン州のデトロイト市からの男の子がバッファロー市にあるFaith Homeで癒されたことがきっかけとなって私はこの癒しのミニストリーに興味を持ち始めました。私が神のことがらを真に理解し、私の中で癒しのミニストリーの知識が必要不可欠となったのはJohn Alexansar Dowieの教えを通して学んだ後でした。そして、聖霊のバプテスマを受けた後に、神の支配権が私のたましいの中に入ってきました。それによって、私は人々のために主とともにとりなしの祈りをするのではなく、病気や悪魔が去るように命じるようになりました。」ジョンG.レイク(手紙の終わり)。これが秘密です。これがこの神癒技術者訓練であなた達が学んでいることです。違いますか?私達がする必要のあることは、ただ学んだことを実行していくことだけです。

では2つのトピックについて話したいことがあります。ジョンGレイク霊的な力の秘密とジョンGレイク神の癒しの秘密です。片方は、神の癒しについてで、もう片方はどのように強くなり、どのようにして強さを維持するかについてです。今夜それらのことについて話せるかは分かりませんが、それらはマニュアルに書いてあります。読めば分かります。15のことがあります。うんざりする。すべての病気を同じように扱う、などです。そこには神の力にあって強くなるための7つのことが書いてあります。いいですか?その15個のことをチェックリストとして使ってください。どんどん学んで、実践してください。でも、これを覚えて置いてください。もし、新生して、聖霊のバプテスマを受けているなら、あなたは神の仕事を成すために必要なものはすべて得ています。私達が提供する必要があるものは、神の癒しのためのABCと呼ばれるものです。神に用いられる状態でいること、大胆さ、あわれみ、決心です。これらのものをそれらのページに書いてあることに付け足す時に、神の力は働きます。アーメン。

Neylor Stevo