神癒技術者訓練 – セッション16

神癒技術者訓練 – セッション16
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション16

マニュアルを見てみてください。そうすると、そこのマニュアルの77ページのセッション9に古い契約的な考え方VS新しい契約的考え方と書いてあると思います。このセッションではこのことについて話していきます。マニュアルのこのページの下の部分を見てください。ヘブル1:1-2にはこう書いてあります。「(1節)神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、(2節)この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」この1節と2節の間には区切りがあります。1節では、昔は神がどのようにして人々を通して語ったか書いてあります。2節には、今日、神はどのようにして人々に語りかけるかについて書いてあります。これが私達が考え方を変えなければならない点です。1節の言う考え方に留まって、神が誰か他人を通して語りかけると期待する限り、私達は古い契約の下での仕える者の考え方をし続けます。新しい契約の下での神の子としての考え方ではありません。

確かに神は誰かを通して私達に語りかけることもあります。それを受け入れないように言っているのではありません。又、神は教会に使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を与えなかったと言っているのではありません。ただ一番の私達と神との会話の手段は御子を通してのものです。それは、例えば、人々は教師のいる学校に行きます。でも学校に教師はいますが、教師は両親に取って代わることができないのと同じことです。そうですよね?神は預言者を通して、人々に語りかけました。神は人々に直接話しかけることはできなかったからです。しかし、今はその壁は取り除かれ、人々に直接話しかけることができます。各人にいつも話しかけれられます。これが私達が最初に覚えておくべきことです。

ここでは昔は預言者達を通して父祖達に話しかけたと書いてあります。そして、終わりの日には、とあります。今は終わりの日ですか?はい、そうです。私達は今日は終わりの日であることを知っています。何故なら、ペテロが、今は預言者ヨエルが語った神が彼の霊をすべての人に注ぐと言った終わりの日である、と言ったからです。(使徒の働き2:17-21)ペテロがそのように言った時以来、終わりの日は始まりました。ですので、今も終わりの日であることが分かります。だから、今日のこの終わりの日に神は私達に語られました。しかし、昔は父祖達に語られました。終わりの日には御子を通して私達に語られました。

ヘブル書について覚えておくべきことは、ヘブル書は、イエスはすべての点においてモーセに勝っていることを説明する目的で書かれました。それは、新しい契約は古い契約よりも優れたものであり、モーセの律法に従っての祭司職よりもイエスを通しての祭司職の方が優れていることを説明するものでした。これがパウロがヘブル書を書いた目的です。

またパウロはガラテヤの信徒への手紙も書きました。ガラテヤの信徒への手紙はガラテヤにある教会に向けて書かれたものです。ヘブル書は、各地に散ったヘブル人へ書かれたものです。これらの2つの手紙は一つに編集されてまるで一つの書物であるかのように人々の間で回されて読まれました。書いてある内容には違いがありますが、一つの書物として回されました。

でもある人々は言います。「でも本当にパウロがヘブル書を書いたかなんて分かりません。」先ず最初に、二つの手紙を一つのものにするなら、2番目の手紙には著者の名前を記す必要はありません。それが2つ目のヘブル書には著者の名前が書いてない理由です。2つ目の理由としてパウロはヘブル人、特にクリスチャンの間では、評判が悪かったので名前を書かなかったのは妥当なことです。

もし私達がこれらの手紙の書かれた歴史的な背景を知らないのなら、ヘブル書に著者名が書かれていないことなどは説明が付きません。でも、もしそれらの背景を知っていたらすべてが明確になってきます。それらの手紙の書かれた目的について考えてみましょう。それらの手紙は新しい契約が古い契約よりも優れていることについて書いてあります。そして、神と人とのコミュニケーションのあり方が全く変わったことについて書いてあります。いいですか。私達の考え方を古い契約的なものから新しい契約的な考え方へ変えることは完全な変化です。私達が古い契約的な考え方をしている限り、私達は決して自分から率先して物事をすることはしないでしょう。私達が古い契約的な考え方をしている限りは、神が私達に何かをするように語るまで待つことでしょう。すべてのことが整うまで待つことでしょう。いつまでも待ち続けるでしょう。

ですので、古い契約的な考え方は羊の毛を地面に置こうとします。ギデオンがしたような、そのようなことは私達はしないことを望みます。(士師記6:36-4)私達は羊の毛を置く必要はありません。私達のうちには神の御霊がとどまっています。確かに、神は時々何かを証明や承認するためにしるしを与えることはするかもしれませんが、私達はまず御言葉を行うべきです。御言葉を行うために神からの許可は必要ありません。

誰か軍隊の経験がある人はいますか?一般的に、軍隊経験者はその他の人よりもこの神癒技術者訓練の原理を早く理解することができるようです。何故なら、彼らは命令がどのようなものであるかを理解しているからです。

私達は次のことを理解していなければなりません。それは、命令を実行する為にはいちいち導きは必要ないということです。そうですよね?命令自体のうちにすでに導きが含まれています。命令にはそれ以上の外部からの導きは加えられる必要はありません。もし、何かを実行する為に導きが必要ならそれは命令ではありません。それはただの提案です。しかし、そのことば自体に導きが含まれているなら、そのことばは命令です。アーメン。

大宣教命令は命令です。イエスは、「あなた達がもしその気になって、もしそのような気持ちになったら、全世界に出て行きなさい。」とは言いませんでした。でも、イエスは、「あなたは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えて、病人を癒しなさい。」と言いました。(マタイ28:18-20、マルコ16:15-20)彼の命令は「もし」の付いたものではありません。ですので、私があなたに全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさいと言わなくても、あなた達はすでに命令を受けています。私にそのように言われる必要はありません。

私達にはどの御言葉を実行して、どの御言葉を実行しないと選択する権利はありません。もし選ぶことができると考えるなら、私達は救われていません。クリスチャンになる初めのステップは私達の意志を神の御心に従わせることです。私達はイエスを主として受け入れました。彼は私達の友とは告白して救われはしませんでした。主です。彼は私達の王であり、司令官でもあります。そして、私達の友です。

私達の問題は親しみ易さのためにイエスとの深い関係を軽いものとして捉えてしまうということです。これは人間同士の関係でもありがちなことです。私達が相手を知れば知るほど、お互いの欠点や、間違いが見えてきます。そして、時々何故私達はその人を知ることになったのかを忘れてしまいます。それは私達はその人の中に何か求めているものがあったからです。なので、イエスとの関係を軽いものにしないように気をつけてください。

問題は次のようなものです。それは例えば、もし私が自分は普通の人です、と言うとします。すると人々は私を持ち上げようとします。そして、私を謙遜な人であると思うでしょう。あなた達が私をただの普通の人間として見るならそのうち他の人の方に向いてしまうでしょう。そして私の言うことに耳を傾けなくなります。それが人間的な問題です。しかし、気づかなければいけないことは私達は人間ですが神からの命令を受けていることです。神からの戒めを預かり、神から成し遂げるべき任務を預かっていることです。

軍隊の大佐も一般兵と同じように人間です。しかし、彼の欠点と間違えや人間性にも関わらず、彼には権威と成し遂げるべき任務を与えられています。そして、人々が彼に与えられた権威を認めて、彼の下に来て、チームとして共に働こうとする時に彼らは何かを成し遂げることができます。でも、それを成し遂げるまでは、共に働き続けなければいけません。もし彼らが共に働くことを止めるなら、チームはバラバラになってしまいます。

教会でも同じことです。私達はお互いに平等であるけれども、教会内での受け入れるべき権威もあることに気が付かなければいけません。神は人々にヴィジョンや任務や目的を与えます。もしあなたが他の人々の人生の中にあなたの抱いている目的と一致する目的を見つけるなら、彼らがその働きをしているなら、その人達とつながり、彼らと共に学んでください。彼らの持っているヴィジョンに反対しない限り、そうすることに何も悪いことはありません。何故なら、もし私達が彼らのヴィジョンに反対するなら、分裂を生んで、問題を起こし、人々を傷つけてしまうからです。

以前にこのような質問した人々がいます。「もし自分の教会があなたの教えているようなことを教えていないなら、私は何をどうするべきですか?」その教会を去ってください。単純です。それでも人々はこう言うかもしれません。「でも、私は彼らを導くためにここに留まっています。牧師を説得しようとしています。」それは間違いです。いいですか。その牧師は説得してくれるように頼みましたか?もし牧師が頼んでもいないのにそのようなことをしているなら、牧師の立場を覆そうとしていることと同じです。そのような人は、密かにやって来て、秘密に何かをしようとしています。それは間違いです。いいですか。同じような信仰を持っている人々を見つけて、彼らと一緒に歩んでください。彼らのヴィジョンに乗ってください。もしそのヴィジョンについていくことができないのなら、離れてください。このどちらかの選択しかありません。それでもある人々は言うでしょう。「でも、その教会を去ることなんてできません。だって40年もの間そこにいるのですから。私の母も、叔父も叔母もその教会に通いました。」それなら、彼らが死んだら、そこを去ってください。それでもある人は言います。「でも私の友人がその教会にいます。」友人関係を大切にするがために私達は地獄に落ちてしまうこともありえるのです。もし友人が間違った道を歩み始めたら、彼らを残して去ってください。彼らはもう友人ではありません。ただ一緒に集まる仲間ではなく、「これが正しくて、あれは間違っています」と真実を言ってくれる友人を持つ方がましです。

私達は決心をしなければいけません。何が真理であるかを決断しなければいけません。聖書では聖霊は私達を真理のみに導くものであると言っています。(ヨハネ16:13)もし私達が聖霊に導かれるなら、真理に導かれるべきです。

何故このようなことについて話したのでしょうか?それは次のような質問があるからです。その質問は、マタイの福音書で、もし私達に赦していないことがあるなら、天にいる父は私達を赦さないのですか、というようなものです。(マタイ6:15)覚えておいてください。私達の大半は、ユダヤ人ではありません。もし私達がユダヤ人なら、私達は会堂に行かなければいけません。でも、ある人は、「でも、私はユダヤ人であるクリスチャンです」と言うかもしれません。いいえ、そのような人はクリスチャンです。分かりますか?私達はユダヤ人ではありません。クリスチャンです。分かりましたか?ユダヤ人とクリスチャンは同一ではありません。ユダヤ人かクリスチャンのうちどちらになるかを決めなければいけません。もしユダヤ教の事柄に従うことにするなら、ユダヤ教の事柄に従いなさい。もしクリスチャンになろうと決めるなら、クリスチャンには文化はありません。そうですよね?キリスト教にはタリートを着なければいけないような掟はありません。キリスト教にはそのような様々な掟はありません。ユダヤ教はそのような様々な掟を持っています。神はユダヤ教にあるようなさまざまな習慣や掟を決めることはしませんでした。それらはただの文化でした。アブラハムは異邦人であることを知っていましたか?彼はユダヤ人ではありませんでした。異邦人でした。わかりますか?アブラハムは今でいうイラクに住んでいました。

私は多くの人々がユダヤ教の律法に戻ったり、ユダヤ教の祭りを行なおうと努力するのを見てきました。しかし、私の聖日、つまりどの日にイエスに仕えるなどの事柄について、私をさばくことはできません。私にとっては毎日が聖なる日です。私は毎日を同じように扱います。

でも、もしキリスト教に文化があるなら、それは聖さでしょう。それは身なりとか、言葉使いについてではありません。これが新しい契約の根本です。私達はこれを理解しなければいけません。

では、私が旧約聖書と新約聖書を持ってクリスチャンを見たことのない人々が住んでいるどこかの島の上空を飛んだとします。そして、旧約聖書と新約聖書を落としていって5年後に戻ってきたとします。そこで、恐らく2つのグループを見つけることができるでしょう。彼らは完全に分裂していて、神が何を要求していて、何を求めているのか分からないので困惑しているでしょう。何故なら、片方の聖書は古い契約の下で歩むように教えていて、もう片方は新しい契約の下に歩むように教えているからです。これら2つの契約はお互いに調和することはありません。

それが古い契約と新しい契約がある理由です。新しい契約があるということは、古い契約はもう適用しないということです。分かりましたか?問題は多くの人々は古い契約の規則の下で、新しい契約に従って歩もうとしていることです。そのようなことはできません。そのようなことをすれば私達は困惑してしまいます。

逆に、もし私が新約聖書だけをその島の上空からそれを落として5年後に戻ってきたとします。そうしたら、新しい契約に基づいた教会を見つけることができるでしょう。でも、その教会はアメリカ人のような人々ではありません。何故なら、アメリカの文化は聖書の文化ではないからです。私達は時には宣教師を送り出して、その派遣先の地元の人達をアメリカ人化しようとします。聖書のどこにもアメリカ人をつくりなさいとは書いてありません。ただ聖書は「弟子をつくりなさい」と言っています。(マタイ28:19)イエスの弟子を、です。

もし古い契約の下に生きているなら、私達はいつも神が何かするのを待つことでしょう。古い契約的な考え方はいつも、「私には十分なものがありません。私はよい人ではありません。もっと何かが必要です。」と言います。多くの場合、人々が教会でそのようなことを口にすることを見ます。教会ではよくそのような考え方を歌詞に含んだ歌が歌われています。私は決してそのような歌は歌いません。そのように自分を訓練しました。教会で歌われる大半の歌はそのようなものです。

では、そのような歌の例の一つは次のようなものです。以前にも少し話しましたが、私がアイダホ州のチャリス市にある山の上にある施設で教えている時のことです。私の立っていた教壇の後ろの壁には「私達はあなたの臨在無しでは何処へも行くことはできません。」と書かれたバナーが掛けてありました。そして、そこには大きな契約の箱の複製が置いてありました。それは本物の金で装飾をされているかのようにきれいなものでした。私はそこにいたスピーカー以外の人々に言いました。「私はあの箱の後ろに立っては話しません。あれは古い契約の箱です。私自身が新しい契約の箱です。神の御霊が私のうちに宿っています。神の御霊はもう人間の作った箱の中には宿っていません。だから、私はあの箱の後ろに立って、説教はしません。」そして、続けて言いました。「彼らは私が前に言って話すまでに、あの箱をどける必要があります。」私は当事者には言いませんでしたが、人々にはあの箱の後ろでは話はしないと言いました。すると、前の人々が話し終わって、私の話す番になりました。すると突然、当事者が言いました。「えーと、皆さん、ちょっとこの箱を動かしましょう。」そして、彼らはその箱を持ち上げて扉の側に置きました。教壇の上に来たときに、私は言いました。「あの箱をまあ十分遠くに動かしました。箱は古い契約を象徴するものです。今は私達が神の御霊の宿る新しい契約の箱です。」でも、個人的には彼らが箱を動かしたのは私が箱の後ろに立つと箱が私を隠して私が見えなくなってしまうからだと思いました(笑)。いいですか、古い契約から完全に離れる必要があります。

カトリック教会を見てください。あれはユダヤ教を複製したようものです。その規則、儀式、大聖堂などを見ても同じようなものです。法王は、ユダヤ教の大祭司のようなものです。聖書の何処にもあのようなことをするようには書いてありません。

私達はキリストにあって自由です。すべての人は神に仕える者です。すべての人(信じる者)が神の御霊を持っています。私達は一緒にチームとして働きます。軍隊の中では権威やそれぞれの立場がありますが、同時に、皆兵士であることも理解します。(2テモテ2:3-4)大佐は、一般兵士と同じように兵士です。ただ負っている責任が違うだけです。大佐も一般兵士と同じように銃を撃てるようでなければいけません。海軍には、「すべての海兵は狙撃手である。」ということわざがあります。彼らがどの階級にいるかなんて関係ありません。何故でしょうか?それはすべての人は兵士の仕事ができなければならないからです。それが私が説明しようとしていることです。あるクリスチャンは言います。「私はゴスペルフラダンスに夢中です」それは良いことです。しかし、その人は病人を癒すことができますか?その人は答えます。「いいえ、でも私はゴスペルフラダンスができます」それではその人は兵士ではありません。クリスチャンになってください。イエスが私達に言わなかったことをする前に、イエスが命じたことを行ってください。病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出して、福音を宣べ伝えてください。(マタイ10:7-8)それらの基礎的なことをまずできるようになってください。わかりましたか?

何故みんなゴスペルフラダンスのようなことをしたがるのでしょうか?それは、そのようなことは神の御霊が無くてもできるからです。イエスが行うように命じたこと以外は神の御霊が無くてもできることです。気が付きましたが?神の御霊が無くてもゴスペルフラダンスをすることができます。神の御霊が無くても旗を振ることはできます。それらのことはすべて神の御霊が無くてもできます。それなのに私達は教会では何をしていますか?私達はキリスト教とは関係の無いものを建て上げて、そのまま横にそれ続けて、すべての行うことがキリスト教とは全く関係のないことばかりになるまで横にそれて行っています。ゴスペルフラダンスのようなことはキリスト教とは全く関係のないものです。人々を癒したり、自由にしたりするというようなものではありません。しかし、今の教会の中ではそのようなキリスト教とは全く関係のない事柄の上にすべてのことが建て上げられています。そしてそれに疑問を持つことをしません。何故なら、彼らはうまく納得させられているからです。しかし、教会の外にいるような人々から見れば、彼らは、「あの教会の人々は何をしているんだ?」と思います。そのような人々の大半は、「よい見世物を見たのでお金を払っていきます。」という考えを持ってしまうのです。

私達は基礎に戻らなければなりません。基礎に留まっているべきなので、このように基礎に戻らなければならないことは悲しいことです。イエスは決して癒しを教えることはしませんでした。イエスは癒しを教えず、ただ癒しを行いました。何故イエスが癒しを行ったか分かりますか?それは彼の教えることを証明する為です。私達は御言葉を使って癒しを証明しようとします。しかし、イエスは癒しを御言葉を証明する為に行いました。私達は本来癒しのセミナーを開いているべきではありません。癒しは私達のライフスタイルの一部となるべきです。癒しは本当に私達の生活の一部となり、癒しについて考えたり、話したりする必要さえもなくなるべきです。今のこの現状を見ると、教会が最初に始まった頃からどれだけ後退してしまったのかが分かります。初代教会時代のすべての弟子達は癒しを行っていたからです。アナニアは有名な人ではありませんでした。突然死んだアナニアについて言っているのではありません。パウロに手を置いて、その目を開かせたアナニアについて言っています。ある記録によればアナニアはイエスの遣わした70人のうちの一人であって、後にエペソの教会の執事になったとも言われています。しかし、私達はある特定の人々を高みに上げることを止めるべきです。すべての人々がイエスから与えられた仕事ができるようにならなければなりません。神の御霊によって実を実らせることができるようにならなければなりません。

このマニュアルのすべてを読み上げることはしません。もし読み上げるなら、ただ皆さんにマニュアルを送るだけでよかったでしょう。マニュアルを端から端まできちんと読んで、私の教えていることが正しいかどうかを聖書のことばによって確認してください。旧約聖書は神のすべての性格は反映しないで、代わりに、神の正義と聖さを反映します。旧約聖書は神の完全な性格を表すことはしません。自分の子供のおしりをたたいたことがありますか?それはあなたがしたくてしたことですか?それともしなければならなかったのでしたことですか?恐らく、あなたはそれはその子にとってしたほうが良いことだと考えたのでしたと思います。旧約聖書もそれと同じです。それが神が旧約聖書で行ったことです。聖書でさえ旧約聖書の律法は、私達人間は律法を守ることができないので、キリストによる救いが必要であることを悟らせる為に与えられたものであると、言っています。(ガラテヤ3:21-24)それが律法の目的です。

キリストなしでは聖く生きることができませんよね?誰かキリストなしでも聖く生きることができると思う人はいますか?キリストなしでは私達は何にも値しませんよね?キリストなしでは私達は何もできません。キリストなしでは何事もうまくいきません。キリストなしの人生は問題ばかりのものです。ここにいるすべての人がこのことは知っていることだと思います。また、私達には律法は必要ありません。何故なら、律法は私達が問題だらけであることを証明するだけだからです、しかし、今私達はキリスト共にいます。そうですよね?

ある人は言います。「知っていますか?私はキリストなしでは何もすることができません。」でも、今私達はキリスト共にいます。それでもある人は言います。「そうです。キリストは私と共にいます。でも、私はキリストなしでは、何もできません。」その人は訳の分からないことを言っていることが分かりますか?それはまるでこう言うようなものです。「私の車なしでは、ここまで来ることなどできなかったでしょう。しかし、その車なしではここに来ることはできなかったでしょう。私には車があります。でも、その車なしでは、私はここに着くことはできなかったでしょう。」もし私が繰り返し、「もし私が車を持っていなかったなら、私はここに来ることはできなかったでしょう。」と言うなら、あなた達は、「彼は車が必要なのだろうか?何故彼はそのようなことを言い続けるのか?彼は車を持っているのだろうか?」と思うことでしょう。私は車を持っています。では私はそのように車なしでは何もできないと言う必要なんかありません。

分かりますか?そのように私達はどうでもよくて、重要ではないことばかりに気を配ります。イエスなしでは何もできないことなんて誰でも知っています。しかし、イエスが私達と共にいないわけではありません。古い契約的な考え方では、イエスなしでは何もできないと言うようなものです。新しい契約的な考え方は、イエスと共に私達はすべてのことをすることができます、(ピリピ4:13)というようなものです。違いが分かりますか?古い契約的な考え方では、私達のできないこと、私達の必要なもの、私達に足りないことなどを強調します。しかし、新しい契約的な考え方では、いつも神が私達に与えてくれたもの、その与えられたものを使って何ができるか、どのように人々を助けることができるかを強調します。理解できましたか?これが2つの考え方の違いです。そのような新しい契約的な考え方は宗教的な人々を怒らせるものです。

いつでも人々がこのメッセージを受取るとき、そこには自由があります。このメッセージは聖書のメッセージだからです。それは自分は特別な人であるというものではありません。もしあなたが自分は何か特別な者であると考えているなら、このメッセージを理解していません。何故なら、このメッセージは、もし誰でも癒しを行うことができるなら、癒しを行う人は何ら特別な人でもないということだからです。そうですよね?もし誰でもできる事なら、それは何もすごい事ではありません。しかし、古い契約的な考え方のメッセージは、ある人は癒しなどを行うことができるから、その人は何か特別な人に違いありません、と言うものです。そのようなメッセージがどれだけ人々を高慢なものにするか分かりますか?そのようなメッセージは、どれだけ人々に自分が何か特別な者であるかと考えさせるものであるかということが分かりますか?しかし、この神癒技術者訓練のメッセージは、「違います。誰でもそのようなことはできます。だから私達は癒しなどを行っていかなければいけません。」というものです。実際に、もし私達がそのようなことを行っていないなら、私達はなすべきことを行っていません。

私達の問題はジョン・G・レイクやスミス・ウィグルワースなどの特定の人々を「信仰の巨人」として見ることです。そうではありません。彼らは普通のクリスチャンでした。彼らが巨人のように見えたのは、教会が普通の基準以下を歩んできたからです。彼らはただなすべきことをしただけの人達です。彼らは私達が本来しているべきことをしていただけです。すべての人がなすべきことを行うときには、私達の間には巨人に見えるような人々はいなくなるでしょう。私達は誰をも見上げて、「あの人はすごい」と高みに上げることはしなくなるでしょう。何故でしょうか?それは、そのような人々自身が、「私は何者でもありません」と言うからです。

神はいちいち、「私達はウィグルワースというような苗字を見つけなければいけません。その苗字の人は奇蹟を行うからです。」とは言いませんでした。神はそのようなことはレイクに関しても言うことはしませんでした。奇蹟にふさわしいのはイエスの名だけです。そうですよね?そしてイエスはその名を受取る者には誰にでも彼の名を与えることができます。アーメン。それが素晴らしいことです。

知っていますか?もし私達が数人の油を多く注がれたと呼ばれている才能を持った人達だけをミニストリーの舞台の上に立たせるなら、彼らを高く上げることで悪魔の格好の標的にしてしまいます。そして、悪魔が彼らをその地位から失脚させると、彼らに従っていた人達は言います。「彼のしたことを見てください。私は以前から彼は誠実な人とは思っていませんでした。」いいえ、彼は私達が高く上げて、悪魔の格好の標的にするまでは誠実な人でした。悪魔は彼に集中攻撃して、あらゆる圧力をかけます。私が人々から高く上げられたくない理由が分かりますか?悪魔の格好の標的にはなりたくありません。だから、私はあなた達に同じ所にまで上がってきて欲しいのです。そうすれば、私達全員が悪魔の標的になります。私はその標的のグループの中に混ざることができます。私は敵が一人の人だけを集中して攻撃するよりは、私達100人を攻撃することを好みます。私は悪魔に標的をたくさん持ってもらいたいのです(笑)。

古い契約の下では人は堕落して、その性質は罪でした。神は聖く、正義であるから、その聖い、正義の基準に従って人を扱わなければいけませんでした。その頃は、罪が覆われることによって、人は神との交わりが許されていました。しかし、神は人を御自分が本当に扱いたいようには扱うことができませんでした。何故なら、人の罪(の性質)が人を神から引き離していたからです。でも、新しい契約の下では、(新しい遺言の下では、)神はイエスキリストを通して人を御自分の扱いたいように扱うことができます。また、イエスの行ったすべてのことは神との正しい関係を持つ人が、神の御霊に満たされた人がどのように歩むべきかの私達の見本でした。

私達の問題は次のようなものです。新約聖書、特に福音書を読むときに人物が出てきます。通常はイエスと弟子達と、そして、癒されたり、悪霊から開放される人達です。聖書を読む時には、自然と自分自身をその中の誰かの立場に置いて読みます。自分をそのうちの誰かになったつもりで読みます。それは例えば、ヒーローの映画を見た時のようです、もしあなたが男性なら、あなたは自分をヒーローの立場において、映画を見るでしょう。通常、自分を助けられる人の立場において見ることはしないでしょう。しかし、もしあなたが女性なら、自分を助けられる立場に置くかもしれません。大抵は男性はいつも自分をヒーローの立場に置きます。では、何故私達は映画を見るときにはそのようなヒーローの立場に置くのに、聖書を読むときには、自分を助けを乞う人の立場に置くのでしょうか?何故でしょう?その理由は教会が私達を卑下し続けてきたからです。教会は私達を受身的な人にし続けてきました。教会は私達を女々しくしてきました。私達から雄雄しさを奪い、女々しさを教会に取り入れました。ある教会ではフェミニズムもです。そのために私達は自分自身を弟子達の立場に置くようになりました。滅多に自分をイエスの立場に置く人はいません。イエスだけが唯一私達が見本にするべき人なのにです。

私達は新しい創造です。新しく造られた者です。(2コリント5:17、ガラテヤ6:15)天より生まれた、神の御霊に満たされた者です。福音書の中で私達に近い唯一の人物はイエスだけです。私達はツロフェニキアの女性のように神との契約を持っていない者ではありません。イエスの母であるマリアのような人でもありません。マグダラのマリアでもありません。私達の過去がその様であったとしてもです。私達はイエスのような者です。私達が自分自身を見るときにはイエスを見ます。そして、聖書を読む時には自分をイエスの立場に置きます。何故なら、彼だけが私達の見本だからです。弟子達は私達の見本ではありません。ペテロは私達の見本ではありません。本当にイエスを3回も否定したいですか?それが彼のしたことです。なので、私達に一番似ている人を見本とするべきです。神の御霊に満たされて、神と完璧に歩んでる人はイエスだけです。自分自身をイエスの立場に置いてください。他の人の立場に置くことをやめてください。

例えば、マタイの福音書で、「しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14)と書いてあります。それは本当ですが、私達のことではありません。何故なら、もしそれが私達に当てはまるなら、私達はクリスチャンではありません。私達は新生してはいません。もし私達がクリスチャンなら、私達はキリストのうちにあり、私達の罪は赦されています。(エペソ1:7)

まず第一に、もし誰かが私のもとに来て、過去のことを取り上げて、「知っていますか?過去に人々は私を傷つけました。」と言うなら、私は言います。「私も同じですよ。傷ついたことが無い人がいるでしょうか?あなたがそのようなことを私に言う時には、あなたが何と言っているように聞こえるか知っていますか?「私はまだ自分に死んでいません」と言っているように聞こえます。あなたは私に自分はまだ死んでいないと言っています。誰かに傷つけられたと言うことは自分はまだ死んでいないと言っているだけです。何故だか知っていますか?それは死んだ人は文句を言うことはしないからです。死んだ人は、「私は傷つきました」とは言わないからです。私達が、「傷ついた」と言うことは、「まだ私は死んでいない」と言うことです。

私はそんな人に「かわいそうに」とは言いません。だから神は私を牧師になるように呼びませんでした(笑)。私は牧師に適した人ではありません。私は病で床についている人に対しても丁寧には接しません。もしあなたが病気の時に牧師の訪問を期待しているなら、尚更のことです。私は来て、「ここにチキンスープがあります。これを飲めば気分も少しは良くなるでしょう。」と言いながら、肩に手を置くことはしません。私はそんな人ではありません。私は来て、病室に入り、祈り、「イエスの御名によって癒されなさい。手を貸してください、そして起き上がってください。起き上がって、今までできなかったことをしてください。」と言います。でも、あなたは言うでしょう。「でも直ったようには、感じません。」私は気にしません。癒しは私達の感覚とは何も関係ありません。

誰が一番癒すのが難しい人か知っていますか?それは信仰を持っている人達です。一番癒すのが難しい人々です。何故でしょうか?何故なら、彼らからは決して明確な答えを得ることはできないからです。質問すると、彼らはうまい答えを思いつきます。例えば私が病人を前にして、「何をして欲しいですか?」と訊くなら、彼らは言います。「えーと、私は彼の打ち傷によって癒されていると信じています。」それは嘘つきです。その人は嘘をついています。しかし、その人は、「いえいえ、私は癒されたと信じています。」と言います。ではそのような人は私の目の前に癒しの祈りのために並んで何をしているのですか?この列は病気の人の為のものです。その人は、「でも、私は…」と口を濁すでしょう。ちょっと待ってください、その人は自分が癒されたと言いましたよね?それならここで何をしているのでしょうか?癒されたのではないですか?どちらですか?自分が癒されたと信じているのか?まだ病気だと信じているのか、どちらでしょうか?その人は、「私は信仰に立っています」と言うかもしれません。そんな言い方はただの聞こえのいいクリスチャン用語です。それは、「私は癒されていないと言いたくはありません。でも、痛みを感じています。」と言っているようなものです。なので、多くの場合私は彼らに何も質問することはしません。もし私が質問するなら、祈った後に「どうですか、良くなりましたか、それとも悪くなりましたか?」と訊きます。何故でしょうか?何故なら、もし私がただ、「どうですか?癒されましたか?」と訊くなら、その人は、「私は彼の打ち傷によって癒された、と信じます」と言うからです。また、もし霊的だと思っている人ならば、スミス・ウィグルワースが言ったように言うでしょう。「私は感じる事よっては動かされません。私は神の言葉によって動かされます。私は見る事によっても動かされません。私は神の言葉によって癒されたと信じます。」じゃあ今ここで、私の目の前で何をしているのですか?私の目の前にいるということは明らかに癒されたと信じていないからです。それだけ単純なものです。

なので、私があなたの為に祈った時には、あなたが何を信じるか気にしません。分かりますか?あなたが何を信じているかは気にしません。何故なら、あなたが信じていると告白することは、本当に信じてることと一致するとは限らないからです。もしあなたがキリストのうち傷により癒されていると信じていると言うなら、私の目の前にいるはずはありません。あなたの信仰は働いてあなたを癒すからです。分かりますか?ですので、もし私のもとに来るのなら、ただ質問に答えてください。もし私がどんな感覚かと訊くなら、何を信じているかは答えないでください。あなたが何を信じているかは知りたくありません。あなたが何を信じているかは訊きません。どんな感覚なのかを訊いたのです。もし、「何も変わっていません」と言うのなら、「では、もう一度その問題の解決の為に祈りましょう」と言います。そして、また同じようにどんな感覚か訊きます。もし、その人が、「私は~だと信じます。」と言うのなら、ちょっと待ってください。私は何を信じているかは訊きませんでした。どのように感じているかを訊きました。その人の答えは信仰を持っている人々を困惑させます。彼らはどのように感じるかを伝えることに慣れていません。彼らは何を信じてるかを伝えたがります。私はあなたが何を信じているかは分かります。あなたはクリスチャンなので、御言葉を信じています。御言葉を唱えないでください。私は御言葉を知っています。私が知りたいことは、「私達は祈りました。では、何か変化があるかということです。」それが私が信仰のある人々に「良くなりましたか?悪くなりましたか?それとも同じですか?」と訊く理由です。何故なら、もし私がただ単に、「どのように感じていますか?」と訊くなら、その人は全く見当はずれの答えを与えるからです。その人は、「私は悪くもないです」と答えるからです。だから代わりに私は、「では、祈りましたが、良くなりましたか、悪くなりましたか?それとも前と同じですか?」と訊きます。そして、完全に良くなるまでそれを繰り返します。

私は人々が10年や15年も癒されるために信仰に立っていると聞くことに飽き飽きしました。今から話すことをよく理解してください。癒しのために祈った時には、次のようなことが起こります。癒しのために祈るにつれて、私達の信仰の成長するレベルがあります。癒しの結果を見れば見るほど、私達の信仰はその癒しの結果を見た領域において成長します。ですので、もしある領域において信仰を成長させたいと思うなら、その領域において成功している人を見つけて、その人と一緒に過ごして、その人のすることを観察してください。そうすることによって、信仰は成長します。何故なら、私達はその人がその領域においてどのように行動するかを見るからです。なので、それが一番の近道です。

今自分が立っている地点を認識して、そこから歩み始めなければいけません。 自分には今私にどれくらいの信仰があるでしょうか?まず、病人の為に祈ってください。例えば、癌だとします。一度癌のために祈って、何か変化はありましたか?何も変化はありませんでしたか?そして、何か変化を見るまで、祈り続けてください。何か変化を見た時には、その変化が起こるまでに、何回祈ったかを数えてください。例えば、もしその人が直るまでに10回祈ったなら、あなたは癒す為に10%の信仰で祈っています。何故なら、10X10 =100%だからです。そうですよね?では、癌のために10回祈って、肺炎の為にも祈ったとします。肺炎の人が癒される為には4回祈ったとします。それならあなたは肺炎の為には25%の信仰で祈っています。また、これには相乗効果もあります。私達がある領域でより多い結果を得るにつれて、信仰はその領域において成長し、またその成長は他の領域での信仰の成長につながることもあります。

癒しを行う上での教会の抱える問題があります。例えばある人の癒しのために祈りに行ったとします。しかし、何も変化は起きませんでした。そして、私達は、「何も起きませんでした。私は信仰もないし、その他必要なものも持っていません。」のように言うでしょう。そして、その人の為に再び祈る時にはまた一から祈り直しているように感じるでしょう。

私達JGLMがどうして癒しの領域で多くの結果を出しているか知っていますか?それはJGLMに癒しの祈りの為にやって来る人々はすでに何度も祈られている人々だからです。私達はクリスチャンが病人の為に手を置く時には、いのちがクリスチャンからその人に転移されると信じています。時には一度の手を置く時に与えられるいのちはわずかなものかもしれませんが、毎回手を置くたびに私達はさらにいのちを与えます。そして、もしいのちを十分に与えるなら、そのいのちは病気やわずらいを身体から追い出します。

なので、大半の人々は私の所へ癒しの祈りの為にやって来るまでに様々な人々に祈ってもらい、癒されるまでにとても近くなっています。彼らのうちにいのちが他の人々に手を置いて祈ってもらった分だけ蓄積しているので、私が手を置いて少し足すだけで彼らは癒されます。

振り返ってみると、中には私達が4回、8回、10回と祈った人々もいます。ある男の子のためには2年間祈り続けました。毎回その男の子を見るたびに、その教会に行き、年に3回ほど2年間祈り続けました。目に見えるような変化がでてくるまでには2年間かかりました。しかし、その変化が起き始めると、瞬く間に進展が起きて、その子は早く回復しました。

癒しを行う上での打ち破りとは何でしょうか?それは私達が祈って、癒しに向けて押し続け、いのちを加え続けて、その人の内で大体70%まで癒しが起こった時に目に見えた形で変化が出てくることです。そのようにその人のうちで70%まで癒しがを起きた時に目に見える形で変化が起き始めます。一度祈るだけでその人のうちで70%の癒しが起きる時もあるし、そのためには3回祈らないといけない時もあります。そのような時は私達は毎回癒しの為に25%の信仰で祈っていることになります。

いつも毎回祈る度に、また始めから祈ることになると考えられています。でも、私達は決して再び最初から始めません。毎回祈るごとに、いのちを足していきます。聖書は加えなさいと言っています。例えば、信仰には徳を、徳にはその他さまざまなものをなど、と書いてあります。(Iペテロ1:5)そうですよね。また、もし預言するならその人の信仰の量りに従って預言しなさい、とも書いてあります。(ローマ12:6)

私達すべてにはある同じ信仰の量りが与えられています。ある一定の信仰の量りがすべての人に与えられています。(ローマ12:3)私達はすべて同じように、同じ数の筋肉を与えられていることを知っていますか?誰でも同じ数の筋肉を持っていますが、その発達具合はそれぞれ違うものです。もし運動をして、鍛えるなら、筋肉は大きくなります。マッチョな人もガリガリに痩せた人と同じ数の筋肉を持っています。彼らの違いは筋肉の発達具合です。信仰も同じことです。私達も、イエスも、パウロも、ジョンレイクもすべて同じ信仰の量りが与えられました。しかし、違いは各人の信仰の鍛錬の度合いと発達具合です。

どのようにして信仰を成長させたらよいのでしょうか?それは与えることによってです。より与えることにより、信仰はより強くなります。より与えることによって、より多くの抵抗を受けます。しかし、その抵抗は、信仰を強めます。ですので、困難や抵抗から逃げないでください。ダビデも、巨人から逃げませんでした。彼はその巨人に向かっていきました。だから、私達も問題や困難に立ち向かっていきましょう。そのようにして少しずつ与えてゆき、訓練していきましょう。

私達が2年間祈り続けた男の子についての話を覚えていますか?2年間の間何の変化もありませんでした。そして、2年後に突然変化が現れました。何故でしょうか?それは彼が内で70%癒されたからです。どのような変化が現れたのでしょうか。病院の人々はまだ彼を検査していますが医学的な証拠はでています。彼の体の変化はDNAレベルのものでした。彼のDNAが変化しました。私達が彼に会った時には彼は重度のダウン症でした。今では彼の鼻の形も変わり、頭は後方へ引っ込みました。私が彼に最初に会った時に、人々が彼に質問しました。「カリー兄に将来あなたが何になりたいか教えてあげてください。」その当時彼は21歳でしたが、考えは8歳の子と同じものでした。そして、彼は答えました。「大きくなったら、テキサスの武装パトロール隊員になりたいです。」私は言いました。「分かりました。それでは祈りましょう。」そして祈りました。そのように2年間祈り続けました。そして、前回私が彼に会った時に、彼が「カリー兄に将来あなたが何になりたいか教えてあげてください。」と質問された時に、何と答えたか知っていますか?彼は言いました。「私はカリー兄、あなたのように説教者になりたいです。」その彼が今はヒーリングルームのために、ニュースレターを書いて、タイプして、それを編集しています。

考えてみてください。彼が2年前からどれくらい進展したのかを。大半の人々は一度祈って結果が出なかっただけで、「癒しも起きてはいないし、私には癒しのためには信仰はないんだ。諦めよう」と言うでしょう。でも、私達はそこで諦めないで、祈り続けて、決して諦めません。

数年前のある映画の話をしましょう。でも本来は映画を使って何かについて説明することはあまりしません。それは、(間違った理解をして)困惑する人もいるからです。その映画を勧めているわけではないです。その映画は、「比類なき勇気」(Uncommon Valour)というものです。その映画を見たことがある人はいますか?それはベトナムに戦争囚人として残された人々についてのものです。ジーン・ハックマンやパトリック・スワイジーなどが出演していました。その中に、テックス・コブという人がいました。彼はボクシングやプロレスの選手のような体格の良い人でした。そのテックス・コブはベトナム戦争から帰国しましたが、再び仲間を救出するために現地へ戻らなければなりませんでした。パトリック・スワイジーは一度も戦闘の経験がありませんでした。彼は軍には所属していましたが、戦闘のための部署にはいませんでした。なので、軍がパトリックス・ワイジーを戦闘のために訓練するという内容でした。そのために、彼らはテックス・コブとパトリック・スワイジーにそれぞれ斧を渡しました。彼らは全くといっていい程体格が反対でした。その彼らは指示を受けました。「あなた達の目標はあれを切り倒すことです。そして、先に切り倒したほうが勝者です。」そして、彼らが斧で木を切り始めます。テックス・コブが先に彼の木を切り倒します。そして、パトリック・スワイジーは地面に倒れて、彼の木を切り倒すことを辞めます。すると、テックス・コブはパトリック・スワイジーを押しのけて、彼の木も切り倒してしまいます。そして、パトリックス・ワイジーを見て言います。「絶対に諦めるな、絶対に止めるな、絶対に退くな、絶対に諦めるな。」分かりますか?ここでの要点は競技することではなく、決して諦めない根性を鍛え上げることです。何故なら、私達がその根性を身につければ、決して負けることはなくなります。もし私達が戦うことを楽しむことを学ぶなら、敵は私達と戦うことを嫌います。私達がそのような姿勢を身につけるまでは、敵は私達と戦うことを好みます。ですので、私達のしなければいけないことは、戦うことを学ぶことです。敵が私達と戦うのを嫌うくらい、戦うことを好きになってください。

では、本題に戻りましょう。ヘブル書の8章の6節を開いてください。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」

さらにすぐれた約束に基づいた、さらにすぐれた契約を持っていたら、まだ古い契約の下で歩もうとしますか?

こう考えている人もいるかもしれません。「このセミナーは癒しについてのものだと思ったのに、何故古い契約について話しているのだろうか?」そうです。今癒しについて話しています。古い契約に基づいた癒しは、新しい契約に基づいた癒しとは異なります。イエスがいた当時のユダヤ人達は古い契約の人達でした。

今から言うことを理解してください。私達は、いつもは新約聖書というとマタイの福音書から始まるものだと考えます。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の中でイエスが扱った人々はクリスチャンではありませんでした。ですので、イエスの扱った人々は私達のような者ではありません。自分を古い契約の下にいたようなユダヤ人の立場に置くことをやめてください。

しかし、ある人は言うでしょう。「でも次のようなものも私達に向けては言っていないのですか?他の人の罪を赦すなら、天の父も私達を赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、父も私達の罪をお赦しになりません。」(マタイ6:13-14)それは真理です。でも、これはイエスはある特定の約束に基づいた神との契約を持っていたイスラエルの人々に対して言ったことでした。神は言いました。「もしあなたがこの道を選んで歩むなら、祝福します。しかし、もしそうでないなら、のろわれます。」このことについては申命記28章に明確に書いてあります。神は人々の前にいのちと死を置き、私達がどちらかを選びなさい、と言いました。(申命記30:19-20)

考えてみてください。ある人々は自分にわざわざのろいを持ってこようとします。そのような人は言います、「私は神の守りの外にいるので、のろいのもとにいます。」では、新約聖書がイエスが私達のためにのろいとなってくれた、(ガラテヤ3:13)と言っているのはどう説明するのですか?実際には古い契約は神とアブラハムとの間で結ばれたものだということを理解しなければいけません。アブラハムは人間の代表であり、その当時は、アブラハムは後に来るイエスを代表していて、古い契約は父とイエスとの間で結ばれたものでした。(ガラテヤ3:15-16)アブラハムはイエスを代表していました。何故なら、イエスはアブラハムの血筋から生まれたからです。しかし、その日が来ると、イエス自身がやって来て、新しい契約が結ばれました。聖書にも「その日にわたしは彼らと結ぼうとしている契約を結ぶ」と書いてあります。(ヘブル8:8)そして、今新しい契約は父とイエスとの間で結ばれました。そうですよね?私達はイエスのうちに入る(継ぎ合わされる)ことによって、新しい契約にあずかるものとなりました。(ローマ6:3-6)私達は神との契約を結びませんでした。イエスが神との契約を結びました。そうですよね?イエスは神と契約を結び、その契約を成就して、その契約を破ることなく死にました。その契約は破られなかったので、その契約のうちにはのろいはありません。そして、イエスは死んで、復活しました。

私達がその契約を破ることはできますか?いいえ、できません。そうですよね?私達は自分が結んでないものは破ることができません。例えば、あなたは私が他の人と結んだ契約を破ることはできません。私しか破ることはできません。イエスは神と契約を結んで、死にました。ですので、彼が一度死んだ以上は、もう決してその契約は破られることはありません。何故なら、あなたが死んだ時点で、あなたが結んだ契約が破られる可能性はなくなるからです。

新しい遺言が有効になるのは、誰かが死んだ時です。イエスが死んだ時に新しい契約は施行されました。そして、良い知らせは、イエスは死んで、復活して、その新しい契約を施行するために戻ってきました。

ですので、ここに私達はイエスと神である父との間に結ばれた契約を得ました。その契約は完全に結ばれ、完全に成就されました。その契約にはのろいはありません。何故なら、のろいは契約を破ることによって伴なうものだからです。新しい契約は破られることはありませんでした。そして、今は決して破られることありません。だから、新しい契約にはのろいはありません。分かりましたか?ですので、今は私達はキリストのうちにあり、新しい契約の特権に預かっています。そして、たとえ私達が失敗しても、私達は神の御前に行き、赦しを得て、新しい契約にあって歩み続けることができます。新しい契約にはのろいの記述はありません。のろいは無視してください。のろいは古い契約の下にあるものです。そうですよね?何故人々はのろいを新しい契約の中に持って来ようとするのか分かりません。のろいは取り扱わないでください。それは古い契約の下のものです。だから古い契約は新しい契約に勝りません。新しい契約はよりすぐれたものであり、よりぐれた約束を伴ない、のろいを伴ないません。

それでもある人々は言います。「でも私は神の守りの下からはずれました。」誰がそのようなことを言ったでしょうか?イエスはあなたに害を加えるものは何もありません、と言いました。(ルカ10:19-20)あなたはどれだけの間神の守りの外にいますか?3年ですか?それなら新しい契約の外にいます。もしそうなら、自分自身をクリスチャンと呼ばないでください。もしクリスチャンなら、新しい契約の下にあります。新しい契約の下にあるなら、神の守りの下にあります。私の言っていることが分かりますか?のろいは契約の外にあるのに自分にのろいをつけようとすることを辞めてください。私達はクリスチャンであるか、ないかのどちらかです。

恐らく、ここでクリスチャンの定義について考えてみる必要があるでしょう。何故なら、多くの人が考えているクリスチャンの定義は、聖書的なクリスチャンの定義ではないからです。聖書の定義は、キリストのように歩みだして、最終的にあらゆる点において完全にキリストのように歩む者のことです。(エペソ4:15)私達はこの成長の過程にいなければいけません。キリストのうちにあるということは、以前と同じ生き方をして、罪を犯しつづけて、軽率に、「ああ、ごめんなさい。赦してね。」と言うようなことではありません。何故なら、そのような人は本当に悔い改めてはいません。もし本当に悔い改めるなら、その罪を辞めるはずです。真の悔い改めは、しょっちゅう悔い改めが必要なものではありません。つまり、考え方を全く変えてしまうことです。もう、いつも変えようと努力しないでもいいくらい考えを一新することです。そのように考えを一度完全に変えてしまえば、罪から完全に足を洗います。私達は罪を犯し続けるべきではありません。最低でも罪はライフルタイルではなく、一時的なイベントであるべきです。だから、自分にのろいをつけようとすることを辞めてください。私達は新しい契約、さらにすぐれた約束に基づいたさらにすぐれた契約にあずかっています。この本当の意味が分かりますか?

マニュアルにこう書いてあります。「私達は神のことばを信じ、それに堅く立って、それを実行することにより、神のことばを地上において確立します。御心はその人の性質と性格を表します。」神の御心を知りたいと思いますか?聖書を読んでください。それが神の御心です。

では、少し考えてみてください。「神は御自分の名にまさって、御自分の御言葉を高く上げられました。」(詩篇138:2)とよく引用されますが、人は誰でもこれと同じことをします。例えば、次のような会話を聞くことがあります。「知っていますか?あの人の言葉は信頼できません。」「何故ですか?その人は誰ですか?」「彼の名前は~といいます。」「ああ分かりました。あの人ですよね。」何故このような会話になるのでしょうか?それはその人は嘘つきとして知られてるからです。ですので、その人の言葉はその人の名に優っています。その人の言葉がその人の人格の価値を決めてしまっています。これはすべての人に当てはまります。神にも当てはまります。

神は、私達に16個の異なるヤハウェから始まる名前を与えられました。それらの名前は神が私達にとってどのような方で、私達が彼とどのような関係を持って欲しいかを説明します。平和の神、万軍の神や正義である神のような名前があります。これらの名前は神が私達にとって誰であるかです。(出エジプト記3:14)そのうちに一つは、癒す神です。もし神が私達を「癒す」方でないなら、「私はあなたを癒す者である」と言うことはできないでしょう。(出エジプト記15:26)ですので、神は自分自身を誰であるかと宣言する方であることを認識する必要があります。「癒す者」は神の名前であり、彼の性質であり、彼のことばはその性質を証明します。

もし私達の言葉が私達が誰であるか(性質)と一致しないなら、嘘つきです。そうですよね。私達の言葉は、自分の性質と一致しなければなりません。人々は私達の言葉によって私達が誰であるかを知ります。真実であるか、嘘つきであるかです。だから、私達はどちらになるか決心しなければなりません。

神は真実であって、「私はある、私は癒す者である。」と言いました。たとえ、彼がどのように癒しを行うのかを言わなくても、神は癒す者です。

というように、神の性質は神の言葉を表わします。同時に、私達が神の言葉を見ても、それは神の性質を表わします。そうですよね?なので、神の言葉を見るとき神の性質を見ます。

もし古い契約に従って神の性質を見るなら、人々は、「神はあんなことや、こんなこともします。」と文句を言うでしょう。まず第一に、何故私達は、その昔の時のことを見て、今の自分のことを心配するのでしょうか?その当時は、神は古い契約の下で人々を扱いました。しかし、私達はその当時の人々とは違います。私達は新しい契約の下にある人々です。分かりますか?

いいですか?これがレイク氏が理解していたことです。その理解が彼が5年間の間に10万人の癒しを成し遂げることに貢献しました。それは計算すると年間2万5千の癒しを彼らが見ていたことになります。彼と16人の仲間がです。そして、今まで私達はアメリカと世界中で2万人の人々を訓練してきました。そして、毎月平均1500から1800個の癒しの報告を受け取ります。(1998年時点、2017年時点では約24万人)通常、神癒技術者達は25から30の癒しを毎月体験します。これは統計の内のほんのわずかなものです。ですので、現在ではJGLMとしては毎月約3万の癒しを行っています。(1998年時点)毎年2万の癒しではありません。神癒技術者達が癒しを行っているので、毎月3万の癒しが起こっています。その中には何百ものエイズが癒された例もあります。私達は今まで癒されなかった病気の名前を知りません。すべて打ち破ってきました。それは神の言葉が真理だからです。私達はいつも同じことを信じています。それは私達はいつも勝つということです。

癒しのために祈る時には、「私達が祈りを辞めるのは、いつであるか、どのようにして分かるのですか?」と疑問に思うかもしれません。それは私達が病気に勝った時です。では、「いつ戦いが終わったことを知ることができるのでしょうか?」私達が勝つ時です。分かりますか?信仰は目的地を定めて、それに行き着くまでにたとえ何が立ちふさがろうとも、その目的に着くまで決して止りません。だから、私達がその目的地に着くまでは、辞めません。では、どのようにしていつ辞めるか分かりますか?その目的地に着いた時です。

目的地は神の言葉です。神の言葉を目的地に定めるべきです。私達と目的地である神の言葉の成就、神の御心、神の計画、神のミッションの成就と間に立ちはだかるものは悪魔からのものです。その立ちはだかるものを打ち破ってください、追い出してください、蹴り飛ばしてください、何でも必要なことをして、その立ちはだかるものを取り除けてください。単純に、決して諦めないで立ちはだかるものを打ち砕いてください。

でも、ある人はこう言うでしょう。「そうはいっても、私は様々な方法で癒しを行ったことがあります。何が違うのですか?」今、あなたに言います。このセミナーが終わって、あなた達が癒しのために祈りに行く時には結果に違いが出てくることでしょう。以前とは違った祈り方をするでしょう。でも、癒しの結果を出すのは祈り方の違いではないことをよく覚えておいてください。私が始まりに言ったことを覚えていますか?重要なのは私達が何を言うかでではなく、誰として言うかです。そうでしたよね?なので、今あなた達が行って癒しの為に祈るなら、同じ言葉で祈るかもしれませんが、癒しは起きるでしょう。何故でしょうか?それは人による教えが取り除かれたからです。私達がセミナーの中でそれらの教えを打ち壊しました。ですから、神の言葉が働いています。何故人々が癒されるべきでないのか?何故神が病気を与えるのか?今は神の癒しの時ではない、癒しの為に十分な信仰を持っていない、といったような人による教えが取り除かれたからです。あとする必要があることは御言葉どおりの結果が出るまで諦めないことです。それだけです。ですので、今あなたが依然と同じように祈っても違った結果が出てくるでしょう。

以前にこのような質問をされたことがあります。「では、このセミナーの教えは他で教えられている癒しの方法に応用することができますか?又、他の癒しの方法についてはどう思いますか?」この癒しの方法は他の癒しの方法には当てはまりません。しかし、逆にそれはこのメッセージが神の言葉であることがはっきりと分かります。何故なら、本来神の言葉は決して他のものと混ざることはしません。神の言葉はそれに絶対的に従う従順さと御言葉によって歩むために他の一切のものをキリストの為に捨てることを要求します。もし神の言葉とその他の教えを混ぜるなら、イエスのような結果を出すことはできません。ですので、私達は何を求めるのかを決断しなければなりません。神の言葉以外にも、気孔、指圧、ニューエイジなど様々なものがあります。それらのどれでも選ぶことができます。でも、もし神の言葉以外を選んでもクリスチャンと名乗ることはしないでください。何故なら、イエスは神の御言葉以外は何も選ばなかったからです。わかりましたか?それでもある人は言うでしょう。「でもそれらの癒しを行って、助かる人もいます。」確かにそうです。ハイチでは人々はブードゥーなどを行い、それによって必要な助けを得る人もいます。しかし、それが神からのものではありません。ただ単に人を助けることができるからといって、それは神からのものであるとは限りません。私がよく見かけるのは、人々は神の言葉とそれらのものを混ぜ合わせることです。そのようなことは聖書的な言葉では「異なった火」と言います。それは人々が神とは全く関係の無いものを神の事柄に混ぜ合わせて、そのために死んでしまうこという話です。(レビ記10:1-2)私は人々が祈ってもらい、その場では癒されたように見えますが、数ヵ月後には、不慮の事故などで死んでしまうというような例を見たことがあります。それは偶然ではありません。

ヨガでも同じようなものを見ることができます。ちょうど今日そのことについて話していました。本物のヨガの教師のための参考書にはチャクラのことについて書いてあります。ただのエクササイズのようなヨガのこのについて話しているんではないです。本物のヨガです。チャクラとは体の霊的なつぼです。それを開くことで霊の領域のことに関して敏感になるというものです。その目的は、ヨガのマニュアルにも書いてあると思います。人は通常それらの6つのチャクラを開くことができます。そして、体を健康にすることができます。そして、外見上の害はありません。しかし、7つ目のチャクラを開くことはしないようにと警告しています。8つ目を開くと、大半の人は精神が錯乱します。彼らが警告を与えるのは、ヨガを通して霊の領域に入ることは正しい方法ではないからです。イエスの御名以外の方法はすべて正しくありません。

それでも人々は何か新しいものをほしがるのでヨガなどを試します。何故クリスチャン達がそれらのものを試すか知っていますか?その理由はするべき仕事で忙しくしていないからです。彼らは手に暇を持て余しているので、座ってそれらのゴミのようなことを勉強して何か少しでも多く知った気になっているのです。はっきり言いますが聖書には多くのことが書かれています。でも、私はそれらの多くのことを知りません。私はただ役に立つ少しのことを知っているだけです。やり手の武術家やチャンピオンである格闘家達はたくさんの技のレパートリーを持ってはいません。彼らは通常いつも勝利をもたらす3個か4個の技を持っています。何故彼らが強いかというと、彼らはいつもそれらの3つか4つの技を使える体制に自分を持っていくからです。何故それらの技がそんなにも効果的なのか知っていますか?それは彼らはそれらの技が効果的なことを知っており、それらに完全な自信を置いて使っているからです。私達の問題はすべての技を会得しようとして、どれ一つとして会得できないことです。この技を2倍練習して、あの技も2倍練習して、これも試しに練習してみてなどと、多くのものを混ぜ合わせてしまいます。そして、最終的にはすべての人の技が正しくなり、誰の技も間違っていないというような結果になってしまいます。

イエスは、「私が道である。」と言いました。(ヨハネ14:6)イエスはとても狭い考え方をしていました。彼は言います。「私が道であり、私を通して出なければ誰も父のみもとにくることはありません。」そうですよね?役に立つ方法は一つしかありません。それは聖書的な方法です、と言うと、いつも人々は腹を立てます。

他にもよく次のような質問を受けます。「イエスの御姿を頭の中で思い描いて呼び出す?彼の御姿を頭の中で想像することは安全なことですか?」いいえ、安全ではありません。何故なら、誰もイエスがどのような御姿であるかは知らないからです。仮に彼の正確な絵があるならそれを見て想像するなら良いかもしれません。でも誰もイエスの御姿は知りません。もしイエスの御姿を想像するなら、それは肉的なものか、それか悪魔に影響をされて出てきたものです。言っておきますが、もしそのような御姿を想像し続けるなら、そのような姿をした悪霊が現れて、何をして、何をしないか導こうとしてくるようになるでしょう。そして、あなたはそれをイエスだと思い込んでしまうでしょう。その悪霊の言うことは、始めは何も害のあるようには見えないでしょうが、最終的には私達を滅ぼすでしょう。

ある今有名になりつつあるジョン・G・レイクからの御使いを持っていると主張しているミニストリーのリーダーがいます。彼がその典型的な例です。その御使いは彼と共にいて、彼に何をどのように行ったらよいか指示するそうです。でも彼のミニストリーの重要なリーダー達は彼のもとを離れていっています。何故なら、彼がその御使いのようなものばかりを見て、導きを求めているからです。聖書の何処にも導きを得るために御使いを見るようにとは書いてありません。私達は導かれるために御言葉に基づいて神の御霊に従うべきです。

私はとても考えの狭い人であると言うかもしれません。私は考え方が狭くても気にしません。私の考え方は正しいからです。単純です。デイビー・クロチェットは、「あなたは自分自身が正しいかを確認して、もしそうなら、そのまま行って、実行しなさい。」と言いました。今の私達とイエスとの間に違いを生じさせている問題は次のようなものです。イエスがその当時の誰よりも卓越していた理由は、「彼[イエス]はパリサイ人や律法学者のようにではなく、権威のある者として話した」ことです。(マタイ7:29)何故でしょうか?何故なら、パリサイ人や律法学者が立ち上がって教える時には言います、「この聖句は、~と言っています。では、私は~を意味するように思います。しかし、教授である~氏は~を意味すると言っています。しかし、私はそうは思いません。何故なら、その聖句は~のようにも解釈できるからです。なので、自分で考えて何を意味するかを決めてください。」このように彼らは教えました。しかし、イエスは立ち上がって、「あなた達は~と言われていたのを聞いています。しかし、私はあなたに言います。」というように教えました。イエスが毎回そのように教えた時には、彼はいつも彼らの教えを変えました。何故なら、彼らの教えはいつも間違ったものだったからです。なので、イエスは彼らに向き直って、「あなた達は~と言われていたのを聞いています。しかし、私はあなたに言います。」と言いました。そして、「~と書かれています」と言いました。いつもイエスは聖書のことばに戻りました。また、彼は言いました、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」(ヨハネ6:53)そして、皆は腹を立てて、彼の弟子たちでさえも、イエスを残して去りました。そして、イエスは彼らに向かって、「あなた達も離れたいと思うのですか?」と訊きました。ペテロは答えました、「主よ。私達が誰のところに行きましょう?あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:53-69)少なくとも、ペテロは自分の言っていることは真理であると知っていました。

キリスト教にはお金はかかりません。でも私達のいのちはささげなければなりません。(マタイ16:24,マルコ8:34,ルカ9:23)しかし、お金はかかりません。お金を出してキリストのうちに入るようなことはできません。でも、ある団体は癒しのプログラムに参加するために何十万円ものお金を要求します。いいですか。そのような人達はクリスチャンではありません。それが私達はこのセミナーの参加費を取らない理由です。何故なら、福音は無料だからです。しかし、ある人々は言います。「でもあなた達はCDや本などを売っているじゃあないですか。」そうですが、別にそれを買う必要はありません。もし私が、「私のCDや本を聞かないなら地獄に行きます。それらが唯一の天への道です。」と言うのならそれは明らかに間違いです。それと同じように、「本当に癒されたいなら参加費を払ってこのセミナーに参加する必要があります。」と言うのならそれは間違っています。何故なら、真理は無料だからです。真理を売ることはできません。誰も真理を売る権利はありません。私が話していることの意味が分かりますか?それがイスラム教は偽りの宗教であることの理由です。何故でしょうか?それはイスラム教にはお金がかかるからです。アメリカのテレビで見るキリスト教も偽りの宗教になってきています。それは多くの人々がキリスト教にはお金がかかると考えるからです。私達のミニストリーはパートナープログラムを持っていますが、5千円献金パートナー、1万円献金チャンピオンパートナー、2万円献金ヒーローパートナーというように格をつけるようなことはしません。誰でもこのミニストリーを助けようと信じて献金してくれる人々がパートナーです。たとえ、千円献金するだけでも、十万円献金した人と同じCDを受け取ります。私達がこのようにしている理由は、キリスト教は無料であるべきだからです。前にも言ったように、キリスト教にはただ私達のいのちの代価が必要です。しかし、キリストに属するものとなるためにはお金は必要はありません。分かりますか?

どうして神はキリスト教において信仰を重要なものにしたのか分かりますか?私がイスラム教にはお金がかかると言ったことを覚えていますか?それはすべてのイスラム教徒は一生のうちに少なくとも一度はメッカに行かなければならないからです。航空機代にお金がかかります。他の人に代わりに行ってもらうことはできません。ですので、すべてはお金の問題に戻ってきます。それが私達はお金に従って事を行わない理由です。キリスト教は私達自身のすべてを要求します。しかし、神がキリスト教において信仰を最も重要なものとした理由は、もしお金が重要なら、誰でも$100を持っていて教会にそれを支払うならその人は救われますと神は言うことができたからです。それは中世の時代に売られた免罪符のようなものです。

マーチン・ルターは免罪符に腹を立てて、95ケ条を書いて改革を始めました。そのおかげで私達にはこのような聖書の教えがあります。だた問題はそれは革命の代わりに改革であったことです。彼らはすべてのものを何もない状態から始めるべきでした。でも私達教会はその改革された地点から始めました。だから、それぞれの教派がそれぞれ異なることを教えて、そして、そのためにお金を取るようになってしまいました。大半の教会はお金中心になってしまいました。正直に言ってキリスト教はお金は全くかかりません。私達は建物を持つ必要は全くありません。初代教会は会堂などは300年間もの間持っていませんでした。むしろ会堂から追い出されました。基本的にキリスト教が堕落していった始まりは、会堂などの建物を持ち始めた時でした。そして、教会はユダヤ教的な説教的なものになっていきました。

これは癒しと何の関係があるのかと思うかもしれません。しかし、これは人々に対する神の愛をどのように理解しているかと関係があります。神は宗教を望んではいません。神は人々と父と子の関係を持ちたいと望んでいます。神は人々が奴隷のように鎖につながれていることを嫌っています。神は人々が自由になるのを見たいと願っています。だから、問題の原因を忘れて、人々を自由にしてください。そして、自由になった人々を弟子訓練して、彼らが神との関係を持てるように訓練してください。そうすれば、問題の原因や発端などを探り、扱う必要はありません。私達は多くの時間を、「それをしてはいけません。あれをしてはいけません。」などと教えることに費やしてきました。なので、誰も何をするべきかを知りません。なので、多くの人々はしてはいけないことは知っていますが、何をするべきかは知りません。それが私が今ここに来て、「私達は病人を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせるべきです。」と言っている理由です。人々は言います、「そうなのですか?私は悪口を言わないで、酒を飲まないで、タバコを吸わないで、それらが私のするべきでないことだと思っていました。」

ある時ジョン・G・レイクが浜辺を散歩してる時に、ロブスターを見つけました。彼はそのロブスターのところまで歩いていって、それを見て言いました。「ロブスター君じゃあないですか。あなたはタバコを吸いますか?ののしりますか?もちろんののしったりしませんよね?」そして、レイク氏は続けて言いました。(皮肉って)「私と同じクリスチャンに会えて光栄です。」

分かりましたか?大切なことは、「何かをしないこと」ではなく、「キリストのようなものでいる」ことです。私達が、キリストのようなもので「いる」とき、「行い」が伴います。なので、私達は正しいことを行うことによってキリストのような者になることはできません。でも、私達がキリストのような者で「いる」なら、キリストのような行動が伴います。

最後に、ここにいる何人の人が聖書の天地創造を信じますか?又、ここにいる何人の人が進化論を信じますか?人は猿から進化したというものです。多くの人は天地創造を信じると言います。でも自分自身の生活や生き方は進化論を信じていることを証明します。何故なら、多くの人は毎週教会に来るなら、最終的には、彼らはどうにかしてなるべきクリスチャンに変身すると考えているからです。クリスチャンが生まれたのは進化することによってではなく、神による創造によって生まれました。神の新しい創造は私達を一瞬のうちになるべき人に造り変えました。(2コリント5:17)

だから、あなたがキリストのようになろうとしているなら、それが問題です。重要なのは私達がすでにキリストのようなものであることを悟り(1ヨハネ4:17)、キリストのように行動し始めることです。あなたはもうキリストのようにはなりません。あなたはすでにキリストのような者になりました。(ガラテヤ3:27)問題は、外側から内側に入ってくるこの世の影響に調子を合わせてしまっていることです。むしろ、内側から外側へと出てくる神の性質により内側から変えられるべきです。(ローマ12:2)それが鍵です。あなたはもうすでになるべき人になっています。誰かになろうとせずに、歩むべきキリストのような人生を生きてください。なりたいクリスチャンのように行動してください。イエスのようにです。イエスのように行動しだすときに、彼と同じわざを行い始めます。単純です。

「本当に単純なことです」と言われるのを聞いたことがあります。人々も同じことをイエスにも言いました。そして、イエス自身も同じことを言いました。彼は、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(ルカ10:21)と言いました。あなたは、聖書のすべての真理の細かい知識を理解しようとして、キリスト教の基礎を逃してしまっていると思いますか?あなたは神学者になろうとしたりしてないですか?神は神学者になるようには言っていません。すでに神学者は十分います。そうですよね?チャールズ・フィニーは以前よく言いました、「聖書はとても単純ものです。間違って解釈する為には手助けが必要です。不幸にも、私達は多くの助けを得てきました」。今私達はそんな助けから脱却する時です。幼子のように素直になり、基礎に戻りましょう。そうですよね?神を愛して、神の戒めを守りましょう。隣人を自分自身のように愛しましょう。自分にしてもらいたいことを他人にもしましょう。もし私達がそのようにするなら、私達は病人を癒し、死人をよみがえらせて、悪霊を追い出して、福音を宣べ伝えることになるでしょう。

Neylor Stevo