神癒技術者訓練 – セッション14

神癒技術者訓練 – セッション14
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション14

教会が取り戻さなければならないものは殉教者の心構えです。私はいつも次のように人々に伝えます。「もしあなたが死ぬに値する福音を見つけていないなら、まだ生きるに値する福音を見つけてはいません。」ムスリム達の自らの道のための熱心な清めと献身は私達に恥の心を抱かせるほどです。しかも、私達には真理の道があります。彼らにとっては信じている道のために死ぬことは最高の栄誉です。しかし、私達クリスチャンはどうにかして死なずに、長く生きようといつも奮闘しています。でも病気やわずらいでは死なないでください。もし人々があなたをイエスキリストのために殺そうとするようなことをすれば、賛美を歌いながら、イエスキリストの御腕の中に入っていくことを知りながら、司令官であるイエスキリストに栄光をもたらす為に栄誉の死を遂げるようであってください。それをただ栄誉と誉れだけを持って成し遂げてください。いくじなしのようにはふるまわないことを願います。

では、引き続き癒しは贖いに含まれていることについてです。ヤコブ書5章13節から20節です。ヤコブ書は新しいクリスチャン達のために書かれたものです。ヤコブ書には多くのことが書かれていますが、成熟した人ではなく幼子にとってのことです。例えば、成熟したクリスチャンは癒しの為に油を塗られる必要はありません。逆に、他の人達に油を塗って祈る必要があります。こう書いてあります。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは…」、この信仰による祈りは、長老による祈りですが、これは、「病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」(ヤコブ5:13-15)ここより、すべての病気は罪の結果ではないことが分かります。何故なら、その罪は赦されると書いてあるからです。

ここでいくつか注目してほしい点があります。先ず第一に、「苦しんでいる人がいますか?」その人は何をしますか?「祈りなさい。」次の節にはこう書いてあります。「病気の人がいますか?」これよりここでの苦しみは、病気ではないことが分かります。何故なら、神はここでは癒しの為に2つの選択肢を与えませんでした。片方は、もし苦しんでいる人がいるなら、祈りなさい。もう片方は、病気の人がいるなら、誰か他の人を呼んで祈ってもらいなさい、と書いてあります。苦しみには外部的と内部的なものがあります。刑罰というと行き過ぎですが、外部的な苦しみは誰かが外から苦しみを与えているというようなものです。例えば、迫害などです。内部的な苦しみは、例えば、断食です。私達が断食をする時にはたましいを苦しめます。断食はたましいを懲罰するか、鍛錬します。それが断食の目的です。でも苦しみは病気ではありません。

次に、ヤコブ書には、教会の長老達を呼んで、祈ってもらいなさいと書いてあります。呼んだ本人は祈りません。これがヤコブ書は初心のクリスチャンのためであると言った理由です。何故なら、病人は自分の為に祈らないからです。長老達がそれをしています。そして彼らが来た時には、彼らが病人にオリーブ油を塗り、主の御名によって祈ります。ここで注目してください。彼らは信仰による祈りをします。そして、信仰による祈りは病人を回復させます。ここではもし神の御心なら、癒される、とは書いてないことに注目してください。私達は、癒しは神の御心であるのを知っています。ここで私が言いたいのは、彼らが祈り、もしそれが神の御心なら、病人は癒されるとは書いてはありません。そこには長老の信仰による祈りは病人を回復させます、と書いてあります。この箇所によると癒しは長老達の祈りによって起こります。彼らを呼んだ病人自身の信仰は必要ありません。病人がすることは長老達を呼ぶことだけです。わかりましたか?長老達が信仰による祈りをします。それなら誰が信仰を持っていますか?長老達です。病人ではありません。もし病人が癒されるための信仰を持っているなら、長老達が来て祈る必要はありません。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。「と書いてあります。次の節に注目してください。「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」ここでは罪のことについてどのタイミングで書かれていますか?病人が癒された後です。だから、癒しと罪の赦しはどちらが先に起きてますか?癒しが最初です。そうですよね。もしあなたが「癒される為には、まず最初に罪を犯すのを止めないといけません。祈っても癒されないなら、あなたの生活の中に罪があるからです。」と言うなら、聖書とは反対のことを言うことになります。今からそのようなことを言えば、あなたは聖書の言葉にそむくことになります。その教えは間違っており、もうあなたも間違っていることを学んで知っているからです。もしそれでもそのように言い続けるなら、あなたにはその病人を癒すだけの力がないから、そのような宗教的な言い訳をしているだけでしょう。だから、聖書に従ってください。病人を責めるようなことはしないでください。癒しが起きるときには2つの種類の人がいます。信じる人と病人です。病人は病気なので自分の役割を果たしてます。信じる者の役割は病人に手を置くことです。そして、主が病人を癒します。

次はマニュアルの27ページの4つ目のポイントです。癒しは贖いの中に含まれているでしょうか?ヨハネの福音書3:14を読んでみましょう。ヨハネの福音書3:16はよく知られていますが、その前後の節でイエスが何を話したかはあまり知られていません。ヨハネの福音書3:14では、イエスはこう言っています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ここに書いてあることに注目してください。次のように書いてあります。「モーセが荒野で蛇を上げたように、」。「~のように」ということは~と同じ目的と同じ結果を伴うということです。そして「人の子もまた上げられなければなりません。」と書いてあります。モーセが蛇を上げたことについては、民数記21章に書いてあります。もしマニュアルを持っているなら、そこに書いてあります。民数記21章4節にはこう書いてあります。「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。」神は彼らの言った事を神に逆らったと見なしました。彼らは言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」なので神の動機を疑ったり、神は何故自分をこんな不幸な状態にしたのかと神を非難することが神に逆うことです。私は別にそのようなことをしてきたかを非難することはしません。誰もがそのようなことをしたことがあると思います。でも神の赦しがあることに感謝します。

彼らはこう言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」それから、こう書いてあります。「そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」彼らは罪を犯したことに気が付いたのは、賢かったと思います。続けてこう書いてあります。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」ここには、「それを仰ぎ見れば、生きる」とあります。続けて読みます。 「はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

この民数記21章とヨハネの福音書3章14節は同じ出来事について書いてあるのでしょうか?そうです。よく考えてみてください。青銅の蛇が旗に付けられて上げられたのは、それは、誰でもその蛇を見た者の罪は赦されて、そして、癒されるためでした。彼らは神のもとに行きました。それは罪への罪悪感が強かったよりも、むしろ死にかけていたからです。なので、これより蛇を上げた目に見えない背景的な理由は罪の赦しですが、目に見える理由は身体的な癒しでした。彼らは死にかけていたからです。蛇が上げられることはキリストの十字架の型です。ですので、キリストの十字架にあって罪の赦しと癒しが一つに関連付けられていることが分かります。これは以前には二重の治癒と呼ばれていました。それは罪の赦しと病気の癒しです。

聖書は彼(イエス)の打ち傷によって私達は癒されたと言っています。(1ペテロ2:24)彼はいつその打ち傷を負ったのでしょうか?十字架につけられる前です。そうですよね?ここから私達の癒しは、私達の救いの為の代価が支払われる前に、支払われたことが分かります。昨日言ったように、もしイエスがむちで打たれて十字架に付けられなかったら、私達の癒しは買い取られますが、救いは買い取られないということになります。聖書には罪がある所にはいつも病気やわずらいが伴ったり、癒しが罪の赦しの前に起こることなどが書かれているのに注目してください。とても興味深いです。神はいつも罪を赦す前に、癒しました。(その反対も可能ですが)今から私達が学ぼうとしている例を見てもそれは同じです。それにもかかわらず、私達はいつも言います。「罪をやめて、神と正しい関係を持ちなさい、そうすればあなたは癒されます。」ヤコブ書では罪の赦しの前に癒しが起きると書いてあります。(ヤコブ5:13-15)まず最初に、イエスの打ち傷によって私達は癒されました。そしてイエスの血が十字架の上で注がれたことによって、私達の罪は赦されて、救われました。しかし、イエスはある時には弟子達に、「行って、福音を宣べ伝えて、病人を癒しなさい。」とも言いました。(ルカ10:9)また他の時には「癒して、福音を宣べ伝えなさい。」とも言いました。(マタイ10:7)

よく「先に癒すべきですか?それとも福音を宣べ伝えるべきですか?」と質問されます。関係ありません。都合の良いほうを選んだらいいと思います。人々に宣教する機会があれば神の国はここにあると伝えてください。その時に何を宣べ伝えるかに注意してください。神学的な説教ではありません。基本的にイエスは私達に「神の国は近づいたと伝えて、病人を癒しなさい」と言いました。すごく短いです。ただ神の国はここにあると宣べ伝えて、そのことを人々を自由にすることによって証明してください。何故でしょうか?それは神の国には抑圧はないからです。アーメン。

癒される為の信仰を持っていない人もいます。罪を犯し続けている人もいます。クリスチャンでもない人もいます。そのような人は癒されるでしょうか? はい、癒されます。クリスチャンではない人々は、キリストの贖いによって与えられる特権を持ってはいません。しかし、クリスチャンとして私達に与えられた神との契約の特権のうちの一つはすべてのしいたげられている人々を自由にすることです。なので、たとえ彼らが信仰を持っていなくても、贖いによる特権について知らなくても、私達には人々を自由にする為の神との契約があります。だから彼らも私達が持っている神との契約に基づいて癒されます。私達の神との契約に基づいてです。ある人は、「本当ですか?私はそのようなことは信じません。彼らが神との関係を持っていなければ癒されないと思います。」と言うかもしれません。本当ですか?ではアブラハムの場合はどうですか?ロトは、アブラハムが持っていた神との関係の故に救われました。(創世記19:29)彼(ロト)自身が持っていた神との関係によったのではありません。そうですよね?事実、ロトには問題がありました。そうですよね。ロトはそのソドムにはもともといるべきではありませんでした。彼は自分の道を求めてソドムへ行き、その町の事件にかかりきりになりました。よくソドムが神によって滅ぼされた理由は、「神がソドムを憎んだ理由は同性愛であった。」と言われます。しかし、聖書はそうは言っていません。本当の理由は人々が貧困者や弱いものを不当に扱い、彼らを抑圧したからでした。(エゼキエル16:49-50)誰でもそのようなことを続けていると道徳が崩壊して放蕩が蔓延り、同性愛などのようなことも生じてくるでしょう。なので、一般に教えられていることは必ずしもすべての真理とは限らないということです。

次です。マニュアルの29ページを開いてください。どのようにしてイザヤ53章と1ペテロ2:24の2つの聖句が同じ癒しに関連していることが分かるでしょうか?その決め手はマタイ8:16-17です。こう書いてあります。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜいみもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、」ここでは、手を置いてと書いてないことに気がついてください。イエスはみことばをもって悪霊を追い出しました。「また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。」では、何故彼は病人を癒したのでしょうか?イエスはただ病人を癒しただけでなく、すべての病人を癒したことに注目してください。何故病人をみな癒したのでしょうか?それは預言者イザヤが言ったことが成就する為でした。それは、「「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」」このマタイ8:17の聖句は神によるイザヤ53章についての注解です。

英語の聖書でイザヤ53:4を読んでみると、このマタイ8:17とは少し違う言葉が訳に使われているのがわかります。残念ながら、旧約聖書と新約聖書を英訳した時に、欽定訳でも同じ英語の単語を使わなかったところもあります。まあ、とにかくこのマタイ8:16-17は神によるイザヤ53:4の注解です。

イザヤ53章に書いてある「痛み」は精神的な苦悩や悲しみなどと考えられがちです。でも、それは文字通りには弱さや病気や疾病を意味します。それは人間を苦しめるすべてのものを意味します。それから、このマタイ8:17節には書いてあります。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

ある人々は、「イエスはその当時にその預言を成就したので、もうイエスは誰をも癒すことはしない」と言います。でも同じ理屈に基づいて考えると、それは馬鹿げたことです。何故なら、「イエスはすでに十字架に付けられてしまったので、イエスが救うことができたのはその当時に彼と共にいた人々だけです」と言わなければいけないからです。もしイエスがその当時にしたことが現在まで影響していないなら、イエスの十字架の死もその後には何の力もありません。なので、成就したということは、その成就したことが無効になったということではありません。その預言されたことが達成されたということを意味します。私は病人に手を置いて癒すたびに、毎回預言を成就します。何故なら、聖書には、「信じる者は病人に手を置けば、彼らはいやされます。」と書いてあるからです。この言葉は預言でした。私が病人に手を置くたびに、これは成就されます。これはただ一回成就されて終わるものではありません。毎回手を置くたびに成就されます。

マタイは神の霊感によってマタイ8章16-17節で起こった癒しとイザヤ53章を関連付ける聖書の注解をしました。何故イエスが癒しを行ったかが分かりましたか?それは預言が成就する為です。イエスはそれが成就する為に癒しを行いました。言い換えると、イエスは神が預言者イザヤを通して預言したイザヤ53:4を知っていて、それを成就する目的でその癒しを行いました。ですので、イエスは意図的にそのイザヤ53章の内容を身体的な癒しと関連付けました。1ペテロ2:24でもイザヤ53にある成句が引用されています。この成句についてある人は言います。「これは霊的な病気について言っているのであって、身体的な癒しについてではありません。」でも、イエスはマタイ8:16-17を引用することでイザヤ53章の内容は身体的な癒しについてであることを証明しました。なので、1ペテロ2:24は身体的な癒しについてです。だから、それを霊的な癒しと言うなら、その人はその成句を理解していません。みことばを信じてください。ある人々は自分が何について話しているか知らないのに、それについて話しています。それは驚くことかも知れませんが、そのような人達がいます。

なので、身体的な癒しはイザヤ53のようなキリストによる贖いについての聖書箇所と関連しています。そして、1ペテロ2:24は罪の赦しである霊的な癒しについてだけでなく、身体的な癒しについても書いてあることが分かります。

もし癒しが贖いのうちに含まれているならそれは事実です。それはすでに完了したことです。恐らくこれが私達がしなければいけない思考変化の中で一番大きなものです。私達は神が誰かを癒すように願うことをやめて、神の言葉はとこしえから天において定まっていることを認識しなければいけません。そして神は人々をすでに癒して、自由にして、リンカーンが奴隷解放宣言を宣言したように人々の自由を宣言したことを信じなければなりません。しかし、奴隷の実際の解放には100年かかってしまいました。

同じように、私達もある時点で神に癒してもらおうとすることをやめて、神はすでに癒しと自由を宣言したことを確信しなければいけません。奴隷達は1863年にその奴隷解放宣言が宣言された時点から自由になりました。まだ鎖につながれていてもです。そうですよね?法律によるとそうです。彼らを鎖につなごうとする人々はその法律に違反しています。そうですよね?その宣言がなされた当時にはまだ奴隷はいましたか?当然、いました。それは合法でしたか?いいえ、違法でした。ある人々は言います。「でも、私は理解できません。あなたは癒されていても、私はまだ病気です。」そんな人に私は答えます、「神は、あなたはすでに自由だと宣言しました。」神は私達を自由する法律を確立しました。悪魔はその法律を見て、その法律に従い、「わかりました。ごめんなさい。あなたはすでに自由でしたね。もうこれ以上はあなたを煩わすことはしません。」なんて言いません。何故なら、彼は犯罪者だからです。悪魔は神の法律に背いています。悪魔は病気などさまざまな形で私達に近づこうとします。しかし、それは違法です。すべての病気やわずらいは違法です。

それが私が癒される人を目の前にした時にその人に何故その病気にかかったのかなどを尋ねない理由です。世代の呪いなど、どのような罪がその問題を引き起こしているかなどについては何も尋ねません。私は神の国の警官として働きます。私の前に誰かが立っている時には、いちいち神とは話しません。その人の問題が何なのかは尋ねるかもしれません。でも、それはその人が自分を攻撃している犯罪者に対してどのような問題のために訴訟を起こしたいのかを知りたいからです。一旦その問題の名前が分かれば、(その問題が病気、わずらいなどどのようなものであっても)私は病人に意識を集中することを止めます。そして、その犯罪者(病気など)に向かって何でも私が望むことをするように命令します。私はよく、「お前は今このからだを去れ。すべての症状よ、去れ。お前と一緒に連れてきた他の者と一緒に今去れ!!」と命令します。

このように私がすることは基本的に立ち退きの命令を与えることです。神は2000年以上も前に、病気や悪魔に対して立ち退き命令を出しました。私は今それを敵に強制するためにここにいます。分かりますか?それが私達の仕事です。

多くのクリスチャンは次のように考えます。これは法律的には正しいことでないかもしれませんが、多くのクリスチャンは時々次のように考えます。例えば、警官がある地域に呼ばれたとします。そして、警官はそこの家の中にいる人々を以前から知っていて、彼らが麻薬密売者であるとします。けれど彼らが密売者である事を知ってはいるけれども、それを証明するだけの十分な証拠はありません。でも、何かの理由で彼らの家に誰かが押し入って、争いが起きたので、通報を受けました。麻薬密売者達は通報することはしませんが、今回は彼らが通報したとします。その警官はその家に入り、押し入った人を逮捕して出てきます。

でも私達クリスチャンのよくする間違えはその家に入り込んで、そこに侵入した人を捕まえて自分の仕事を終えて出てくるよりも、その家に住んでいる密売者達を責め立てる理由をできるだけ多く見つけようとすることです。法律によるとその家に入って彼らを責める証拠を見つけたからといって、彼らを逮捕する権利は与えられません。何故なら、それは本件とは外れた状況の下に自分を置くことになるからです。分かりますか?そのように他人の間違えを見つける為には別の法的な許可が必要です。もちろん、私達がそのような家に行くまでに、彼らはすべて麻薬などは片付けてしまうでしょう。でも、クリスチャンとしてよくしようとすることは、助けを求めて私達を呼んだ人達の問題を最初に見つけようとします。そうではなくて、ただ最初に彼らを自由にして、その後でその人が正しく生きることができるようにしてください。

他人を責める理由を見つけて、それに対して指をさす事をやめて、人々を自由にしてください。私達はさばく者ではありません。私達が選ぶ立場は2つしかありません。へりくだるか、自分を高くすることです。もし高ぶること選ぶなら、もう片方のへりくだらすことは神がします。でも、へりくだるなら、高くすることは神がします。なので、信じてください、私達はへりくだるべきです。私達は神に私達をへりくだらせることをさせたくはないはずです。でも、もし私達がへりくだるなら、神は私達を高くしてくださいます。自分でへりくだるほうが、神が私達をへりくだらすことよりも良いことです。その方がよっぽど良いことです。なので、へりくだって、神に高くしてもらいましょう。同じ様に私達は人をさばく者ではありません。さばく者の立場をとることをやめてください。私達は警官です。警官として行動してください。警官はさばく者ではありません。さばくことを辞めてください。警官の仕事をしてください。捕らわれた人々を自由にしてください。そして、一旦彼らが自由になれば、それから弟子訓練が始まります。多くの人々は言います、「じゃあ、何処でカウンセリングなどが必要になるのですか?」カウンセリングはいわゆる弟子訓練の一貫です。自由が先に来て、それから、弟子訓練です。大半の人達は弟子訓練を通して、人々を自由にしようとします。そうではありません。何故なら、多くの病人は弟子訓練がされる前に死んでしまうからです。彼らを自由にしてください、それから、弟子訓練をしてください。

癒しは贖いの中に含まれています。癒しは確立された事実です。神は私達に十字架において罪の赦しと癒しを喜んで提供してくれました。人々は言います。「でも、それらの2つのうちの片方の方がより重要です。」そうかもしれません。でも、私達はそれらの2つのうちのどちらか一つを選ぶ必要はありません。それでもある人は言うかもしれません。「でも、私がどちらかを選ぶなら、私は癒しよりも救いを選びます。」悪魔や彼の為に働いている人々はそれらのうちの片方を選ばせようとするでしょう。癒しよりも、救いを選ばないでください。癒しと救いの両方を選んでください。何故なら、癒しは救いの一部だからです。妥協はしないでください。私は人々の為に祈っていて驚かされます。彼らは言います。「これらが深刻な問題です。」私は訊きます。「それでは他にも問題があるのですか?」彼らは言います。「はいそうですが、それらを抱えていても、まだ生き続けることができます。」私は言います。「もし私達が深刻な方の問題を解決することができるなら、そんなに深刻でない問題も解決することができます。」どうして妥協する必要があるでしょうか?イエスは癌も、関節炎も負ってくれました。それらを妥協することはしないでください。

私達は実際に行動を起こしていくことによって多くの事を学んでいきます。私が癒しを行うに連れて学んだことは、攻撃的な人と、消極的な人の、2種類の人がいるということです。一般に消極的な人も訓練されて攻撃的な人に変わることができます。私はいつも人々を攻撃的になるように訓練しようと心がけています。そのようにした方が癒しの成功率も上がります。一般に教会は攻撃的な人々を消極的になるように訓練してきました。それは東洋の哲学が教会に入り込むことによって始まりました。教会の受身的な姿勢はそこから始まりました。

今朝はマクドナルドで朝食を食べました。メニューの中には東洋風のサラダというものがあり、キャッチフレーズに、「(東洋風に)内なる調和を成し遂げよう」という文句が使われていました。ですので、私は堅く立ってそれに立ち向かいました(笑)。妥協はしません。ある人は言うでしょう、「でも、聖書には目の前に出されたものは何でも食べなさい、と書いてありませんか?」。そうです。だから私はどこに座るかに注意します(笑)。

実際に私達がそのような哲学を受け入れ始めた理由は東洋哲学やそのような考え方をした人をまるで霊的な人であるように見てしまうからです。東洋の哲学を受け入れる人々は彼らをまるで調和や平和などを持ってるように見るからです。現実はそうではありません。彼らは霊的ではあるかもしれませんが、敬虔ではありません。世間には沢山の霊的なことがありますが、それらは敬虔ではありません。そして、心(知性)を無にするというような考えは敬虔ではありません。(エペソ4:17-19)聖書は決して私達に心(知性)を無にするようには教えていません。聖書は心(知性)を一新しなさいと教えています。(ローマ12:1-2)もし、私達が心(知性)を無にしようとするなら、悪魔が入り込んできます。単純ですね。人々は、「私はクリスチャンなので悪魔が入り込むことはありません。」と言います。それは分かりました。でも、もしあなたが知性を無にするなら、問題を抱えることになるでしょう。はっきり言うと、そうすると悪魔と問題を抱えることになります。

それでは例えばある人がアルコール依存症であって、それは悪魔によるものだとします。もしその人が教会にやって来たら、その教会にいる人々もアルコールによる問題を持ち始めるとします。それならその人々のアルコールの問題は悪魔によるものではないでしょうか?人々はすぐに何でも判断を下そうとします。教会の外であったら悪魔の働きと言い、教会のうちでは同じ問題であってもそうは言いません。それでもある人は。「ええ、でも教会のうちでの問題が悪魔によるものなんて納得いきません。」と言うかもしれません。私は、問題は私達の霊にあるものだとは言っていません。悪魔がその人を乗っ取ってしまうと言っているのではありません。私達は新生した時に、霊は神より生まれました。しかし、私達の心(知性)やたましいはまだ混乱して、問題だらけのままです。そのようなたましいの領域において悪魔は働くと思いませんか?悪魔は考え(たましい)の領域で働くので、聖書は要塞を打ち壊すように、教えています。(IIコリント10:3-5)

その要塞は考え方の中にあります。今は力や主権などについて話しているのではありません。聖書は私達の武器は肉によるものではなく、神の御前にあって要塞をも破るほどに力があるものです(IIコリント10:3-5)、と言っています、そのことについて話しています。その要塞は私達の考え方にあるものです。力や主権についてはエペソへの手紙に書いてあります。IIコリントでは、間違った教え、間違った教義、間違った考え方、間違ったアイデアなどすべて神の知識に逆らって立つものについて話しています。そのようなものの中に悪魔はいます。そして、そのようなもののうちにあって働いています。悪霊は身体やたましいなどの領域に住みつくことができます。でも、もし私達が病気などそのような悪魔的なものを持って死んだとしても、天に行かないというわけではありません。何故なら悪魔は私達の霊を所有することはできないからです。しかし、身体の部分には影響できます。癌は身体にあります。それは霊にあるのではありません。そして、もし癌が霊であるなら、ある人は、「霊は身体に住まうことはできないと思うのですが?」と考えるかもしれません。しかし、私達は身体に住まうことができます。何故なら、私達は霊だからです。私達は身体に住んでいます。そうですよね?

サムラル氏の下で仕えることができたことは私にとって祝福でした。彼の教えはとても単純で、分かりやすいものでした。彼の教えの中に「完全な人」というものがあります。それは霊、たましい、からだ、についてそれぞれがどのようなもので、どのように機能するかを説明します。私はそれを聞いて思いました。「これはとても単純だ。それぞれ異なる部分で、それらは互いに重なり合っている。それでそれら霊、たましい、からだは一体として働きます。」そして、この教えは私が特に病の霊や、トラウマ的な体験をした人達のために祈り、彼らを扱う上でとても役に立ちました。

1つの例を話したいと思います。例えば、ある女性が子供の頃に乱暴されたりレイプされたりしたとします。性欲の霊はその乱暴をする人(その人がどのような年齢にしろ)その人を通して、そのレイプや乱暴の行為を通して自分を現そうとします。そのトラウマ的な出来事の時に何が起きるかを説明しましょう。まず聖書には神のことばは生きていて、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊の分かれ目をも刺し通し、と書いてあります。(へブル4:12)たましいと霊はそれぞれ異なるものですが、それらは重なりあって相互に影響し合います。トラウマ的な出来事の時に何が起きるかをもっとよく理解する為にもう一つ、車の事故の例を取り上げます。

例えば、ある人が車に衝突されたとします。それは一瞬の出来事ですよね?その一瞬に、その人はすばやく硬直します。その硬直時に多くの人は頭痛のようなものを経験します。それはただ血圧だけからくるものではありません。それはその瞬間にその人のたましいと霊が裂けるからです。それはまるでひどく緊張するようなものです。そのような緊張の状態を突き進める時にはたましいと霊が開きます。それは強い恐れのようなものです。その恐怖の瞬間にその強い恐れがたましいと霊を開きます。通常、車の事故の場合には病の霊がそのたましいと霊の間に入り込みます。時には同時に恐れの霊も入り込みます。その極度の緊張が終わると、たましいと霊は閉じます。

聖書を見てみるとギリシア語の違いにより悪霊について2通りの表現方法があります。「私の娘が悪霊を持っています。」(KJV使徒16:16)というものと「ある人は悪霊に憑かれている」(KJVマタイ12:22)と書いてあります。通常、私達はこれ2つは同じことだと考えますが、それは違います。ある時には、人が悪霊を所有してたり、またある時には、悪霊が人を所有していたりします。悪霊が人を所有している場合は、例えば、ガダラ人の男に見ることができます。(マタイ8:28)悪霊が彼を所有していました。彼は自分を傷つけたり、鎖を破ったりしていました。でも、ツロフェニキヤの少女の場合には、「私の娘は悪霊に取り付かれています。」(ギリシア語では、「悪霊を持っています。」)(マルコ7:25)この場合には、彼女が悪霊を持っています。でも人が悪霊を持つなんて、どうしてそのようなことが起きるのかと思うでしょう。通常はそれはトラウマ的な経験によって起きます。その時には、たましいと霊が開けて、そこに悪霊が入り込みます。そして、それが閉じた後には悪霊は去ることができなくなります。その悪霊はそこに捕らわれた状態になります。なので、その人は悪霊を持っています。これで悪霊に所有されることと、悪霊を所有することの違いが分かりましたか。

私はこのことを人々の為に祈ることにより学びました。人々の為に祈っている時に、自分でそのようなことを扱っていることに気がつきました。その時は自分が何をしているのか気がつきませんでした。明らかにその時には御霊に導かれていたと思います。多くの場合には、私は祈っている最中に自分が、「今、イエスの御名によって去れ、今!!(すごい大声で)」と言っていることに気がつきました。私がこのように叫ぶと、祈られている人は痙攣したような動きをして、それから自由になります。この時に私は何をしたのでしょうか?私はその人に逆トラウマ的な経験を引き起こしました。それによって、たましいと霊を再び開きました。そして、その間に捕らわれていた悪霊が出て行きました。

例えば、病の霊が働く場合には車の事故などが起こった時に、その後には何も気が付きませんが、数日、数週間、数ヶ月経つと、鞭打ちのような痛みを感じます。でも、身体的な原因は何もありません。それは悪霊がたましいと霊の間にいるからです。ですので、私達はその霊を追い出す必要があります。大声で追い出す必要はありません。普通に追い出すことができます。

乱暴を受けた場合に戻ります。ここでも同じようなことが言えます。私は人々を解放するために祈ります。今から話すのは乱暴を受けた女性の例ですが、これは男性の場合にも同じことが言えます。ただ男性の例は少ないだけです。女性が乱暴されたり、レイプされたりすると、年齢が若くあれ、年配であれ次のようなことが起きます。その悪霊は乱暴をしている人の行為を通して、自分を現そうとします。いつでも乱暴には開始時と終了時があります。その乱暴が終了する時にその悪霊は被害者に移ります。そして、被害者はその同じ性欲の霊を受取ります。その乱暴を引き起こした同じ性欲の霊です。

性欲の霊は次に説明する2種類の形をとって自分を現します。特に女性においてです。男性の場合もそうですが、特に女性の場合にです。私達が経験して(特に女性の間で)見てきた性欲の霊の2種類の現れの形は次のようなものです。一つは極端な形を取ります。私達はもし女性が男性に乱暴を受けたならその女性のうちに移った性欲の霊は男性に反対するようになると考えます。何故なら、男性が彼女にそのような行為をしたからです。多くの場合にはその女性は男性を避けてレズビアンになります。

その一方で、もう1つその性欲の霊が自分を現す形は、これは通常考えると意味が通りませんが、霊的な説明をすれば意味が通ります。多くの場合には、彼女達はレズビアンになる代わりに、逆に、多くの男性とやたらと体の関係を持つようになります。いいですか?彼女達も何故そのような事をするのかを知りません。でも、そのようなことをする理由は、乱暴を行った男性のうちにいて今はその女性に移った性欲の霊が今度は彼女を通して男性との関係を持つことで自分(性欲)を現そうとするからです。普通なら、私達はもし女性が男性に乱暴されたなら逆に男性を嫌うようになると考えます。でも、そのようなことが起きる理由は男性のうちにいた性欲の霊が女性に移ったからです。ここで重要なことは、性欲の霊を追い出すことです。いいですか?

乱暴されている人の同意もなにもなくその霊はその人に入り込みます。だからその人にとっては不公平です。でも、その霊は乱暴を受けている人に対して強制されました。誰も何もしなければ、その人はその悪霊から一生解放されないまま歩み続けます。でも、そのような人も私達は自由にすることができます。

では、男性の場合について考えてみましょう。同性愛者が教会に自由を求めてやって来るとします。教会での問題はその悪霊を彼らのうちから追い出しても、悪霊はある特徴をその人に残していきます。私達がこの人から悪霊を追い出すなら、彼らは自由になりますが、特に教会では、他の男性達はその人を避ける傾向にあります。その人が以前に同性愛者だったからです。それなら、彼は何をしますか?もし彼が男性達の周りにいることができないなら、誰の周りにいるようになると思いますか?何故でしょうか?何故なら、彼は以前からより女性のような性格を持っているからです。

だから、私達は彼らから悪霊を追い出します。その人は自由になります。でも、もしその人から悪霊を追い出して自由にするなら、その後にその人を弟子訓練ができなければなりません。彼らを弟子訓練をする為には、彼らを男性達の周りに置かなければいけません。何故なら、悪霊はその人達を去ったと時には、それは戻ってくることもあるからです。悪霊たちが戻ってくる時には、それらは何か、「私は悪霊をほしがっています。」という特徴を探します。ここでは説明の為に典型的な場合にについて話しますが、男性の同性愛者はいつも一定の特徴を持っています。彼らは女性のような特徴を持ちます。ですので、彼らが自由になったあとも、筋肉には記憶というものがあるので、彼らの身体は以前にしていたある特定のことをしようとします。

私は一年間の間コーラを飲む事をやめました。それは私がそれに捕らわれないで、いつでも辞めることができるか確認する為でした。なので、一年間の間、コーラを飲みませんでした。でも、面白いことに、コンビニエンスストアに入ると、私は自然とコーラのところ足を運びます。何故でしょうか?それは私は自分をコーラを買うように長年の間、訓練してきたからです。そして、コーラの前に立った時点で、私は水を買おうとしていたことに気が付きます。

そのように、筋肉には記憶があります。これは事実です。これはすべての罪に関しても同じです。すべての私達の癖についても同じ事を言うことができます。訓練が可能な敬虔についても同じです。逆に、私達は訓練と経験によって、敬虔に生きることができるようになります。(へブル5:13-14)

典型的に話しますが、同性愛者は多くの場合には、何か特定の事をします。彼らは特定のしぐさを持っています。例えば、彼らの手首に力が入らないで、ひ弱です。彼らは手をお尻のほうに持っていったり、というようなしぐさです。これらが典型的な特徴です。彼らが自由になったとしても、彼らの筋肉は記憶しているので、同じ男性の周りにいても、意識しないうちにそのようなしぐさをします。筋肉が記憶しているからです。彼らが話して、笑う時には、その人は女性のようなしぐさをして、女性のような笑い方をします。でも、そのような時には、それに気が付いて言うべきです。「いいえ、違います。男は、手を振らないで、指を指します。そして、男は深い声で笑います。」そのようにしてその人を自由になった後も訓練するべきです。そのような手をはたく位でもいいかもしれません。何故でしょうか?何故なら、ある一定の特徴は悪霊を招くための信号を与えるからです。

このような法則はすべてに当てはまります。もしヨガをしているなら、ヨガの型がそうです。ヨガのすべての型はそれぞれのヒンドゥー教の神への祈りです。クリスチャンはヨガとは何の関わりも持つべきではありません。ヨガと言う名前は、「神との一体」という意味です。それは聖書の神ではありません。ヒンドゥー教の神々のことです。私が武術をしている時には、4段の黒帯を取る為に、私はある技術を習得して、その歴史を勉強しなければいけませんでした。このようにして、私達は相手をブロックする為に、手を引き上げて、引き下げるような技を学びました。それはトンサウという技です。この技はどのようなパンチも防ぐことができます。私がそれを勉強し始めた理由は、誰もその技を習得することができなかったからです。でも、私はそれを練習しました。そして、私が勉強するにつれて、その技の中国語での名前は、「仏陀に助けを求める」ということが分かりました。誰もそのようなことは教えてはくれませんでした。彼らはただこの技はトンサウだと言いました。でも、それはその技の本当の名前ではありません。本当の名前は、仏陀に助けを求める、仏陀の手の平という名前です。なので、私がその技をするたびに、知らずに、私は悪霊に向かって助けを求めていました。そして、その技は、私に力を与え、そして、私を強くして、この不可能な技をすることができるまでに力を与えました。

例えば、私は以前はよく、実演をして見せました。よく一番体格のいい男の人達を呼んで、私は彼らに言いました。「じゃあ、腕を伸ばしてください。」そして、彼らの腕が私を殴ることができるだけ十分な距離にあるのを量り、その場に立って用意して、彼らに言いました。「それでは、私が、GOと言ったら、あなた達は一緒に私の腹に向かってパンチをしてください。」そして、いくら彼らがパンチをしても、私はノックダウンも、息を切らすこともしませんでした。彼らがどれだけ体格のいい人達でも関係ありませんでした。何故でしょうか?それは私は悪霊によって強くされていたからです。

それから、私はそれよりも悪霊の力であるのをより明らかに見ることのできる技の実演もしていました。それは「根を張る」という技です。私はただ立って、言います。「誰か来て、私を持ち上げてください。」私は身体の大きい人を選びました。大きければ大きいほど、技の実演の効果が出るからです。そして、彼らはやって来て、私を持ち上げます。その当時は私の体重は58キログラム程でした。なので、彼らは簡単に私を持ち上げることができました。それから、彼らに言いました。「では、30秒数えてください。そして、30秒数え終わったら、また私を持ち上げてください。」そのように彼らが数えている間に私はリラックスして、根を張りました。彼らは数え終わった後に、私を前回のように簡単に持ち上げることができると思いましたが、持ち上げることはできませんでした。彼らは私の下にもぐり込んで、私の腕の下に彼らの腕をまわし込んでまでして持ち上げようとしましたが、私の足は決して地面を離れることはしませんでした。彼らが何をしても、私を持ち上げることはできませんでした。それは根を張るという技です。どのようにしてそのようなことが可能だったのでしょうか?悪霊の力によってです。

もし、私がそのようなことを行っている間に、私はクリスチャンだったかと聞かれたら、私はクリスチャンです、と答えたことでしょう。でも、私は完全に悪霊に取り付かれていました。そして、私が武術をやめたときに、私は神にこれらの悪霊から解放してくださいと願いました。そして、27日間の間に、22の悪霊が私を去りました。私はどの悪霊が去って、それらの悪霊がどのような能力をもたらしていたのかも分かりました。武術が約束するよい知らせはすべて偽者です。武術は平安を約束しますが、それは偽の平安です。武術は安全を約束しますが、それは偽の安全です。武術は力を約束しますが、それは偽の力です。

実際には、武術を教会と照らし合わせて見てみると、それらは互いに、どのように成長して言ったか、鏡のように似通っています。それらは両者とも、ある人がある新しい戦い方を始めたことから始まりました。その人は弟子達を集めて、彼らを訓練して、教えました。彼が死んだ時には、それらの弟子達が他の弟子達に教えるようにして続いていきました。そして、それからさまざまなグループに分かれていきました。イエスの場合も、彼には弟子達がいて、彼が去った後には、それらの弟子達が弟子達をつくるようにして、それがさまざまな教派になっていきました。わかりますか。これらは全く同じパターンです。これは霊的です。クリスチャンは武術と一切関わるべきではありません。分かりましたか?

Neylor Stevo