神癒技術者訓練 – セッション11

神癒技術者訓練 – セッション11
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

セッション11

私が今までにまとめた最も重要なことが2つあります。メモ用紙にそれらの事を書き、図式にしました。又、それらをポスターにして、教会の壁に人々が見るように貼りました。そのポスターには、その他にも私達が神の癒しについて信じていることなども貼ってあります。これらはマニュアルに載っているので、見ることができると思います。

それらの2つの事を説明したいと思います。恐らく、これらのものはとても役に立つでしょう。マニュアルの後ろのページには、質問と答えの欄があります。それは多くの人達がそれらについて質問したので、私達の(古い)ウェブサイトから取って載せたものです。なので、マニュアルに載っている答えを読むこともできます。それらは実際によく人々が私達に訊く質問をまとめたものです。

これらの図式を用いるなら、それは非常に私達の助けになると思います。この図式には6人の人物が載っています。神、イエス、聖霊、クリスチャン、悪魔、人、です。そして、6つの下線があり、そして、6つのいわゆる仕事の記述が書いてあります。天の階級に沿って、これらを書きました。この図式を完成させるためには同じものを2度使うことはできません。ですので、例えば、これらの記述を見て、どれが一番神についての正しい説明かを選ぶ必要があります。そして、選んだ答えをその下線部に書いてください。そして、次はイエス、聖霊などのために記述を選んで記入していってください。でも、同じものは2度は使用できません。この図式は、将来私達が、「これは神からのものか?悪魔からのものか?」と質問するような状況に直面する時に、この図式を取り出すことで、それらを判断することができます。

私達にはしいたげる者、犯罪者、反逆者がいます。それは誰の記述ですか?「悪魔」です。次は、力の行使者です。それは誰ですか?そうです、聖霊です。そのように書いてください。何故なら、彼は神の力を行使します。次は権威を与える者です。誰が権威を与えますか?イエスですよね?彼は「私には権威が与えられています。私はあなた達にその権威を与えます。」と言いました。(マタイ10:1,28:18-20,ルカ9:1)なので、イエスの所に権威を与える者と書いてください。次は、誰が病人で、回復する者ですか?それは人ですよね?裁判官、すべてのしいたげられている人々の為にさばきを下す者は誰ですか?それは神です。(詩篇103:6)最後に執行者です。神との共同労働者です。(1コリント3:9)それはクリスチャンですよね?一旦、この図式を完成させれば、すべての人達が自分の仕事が分かります。一番難しいことは自分の仕事を知ることです。一旦自分の仕事を知れば、何をすればよいかが分かります。そして、他の人達の仕事も分かるので、誰が何に対して責任を持っているのかも分かります。例えば、会社の為に働くとしたら、誰が何に対して責任を持っているのかを知らなければなりません。なので、この図式は私達を助けてくれます。

次は、神の流れ図です。これが天での職務階級を示しています。神はこの流れ図に書いてあるように、天での職務階級を確立しました。最初に、初めの創造の時です。これらは階級のヒエラルキーです。これは少し変える必要があります。それは認めます。初めの創造では神がすべての責任者でした。イエスは神のうちにいて、聖霊も神のうちにいました。なので、彼らは一つでした。その下にアダムがいます。アダムは人です。そして、その下に、天使と悪魔がいました。悪魔は天使だったからです。これが初めの創造の時の階級のヒエラルキーです。これがアダムが地上に置かれた時の状態です。そして、アダムが堕落した時には、これは変わりました。その後は、神、イエス、聖霊、その下に、悪魔と天使、その下にアダム、又は、人です。人は悪魔と天使の下になりました。そうですよね?何故なら、悪魔はこの世の神になったからです。(ルカ4:5-6,2コリント4:4)アダムがその支配権を彼に明け渡したからです。

次にイエスの任務です。これは基本的に、初めの創造の状態に戻すことです。

でもこの場合には、もう少し付け足されたことがあります。ここには堕落した人だけでなく、救われる人がいます。つまり2種類の人がいます。生まれつきの人(肉の人)と霊の人です。私達は人を2つの階級に分けます。1つではありません。なので、ここに神、聖霊、ではここでイエスがやって来た時に、彼は自分を人の立場に置きました。そうですよね?悪魔はその上にいました、この世の神だったからです。でも、イエスが、「完了した」と言った時には(ヨハネ19:30)、悪魔はその階級から引き下げられました。イエスは私達のような者になってくれました。それは私達が彼のようになることができる為です。

なので、今はこのようなものです。先ず、神がいて、そして、イエスと贖われた人です。ある人はここで、「少し待ってください!何で贖われた人が、イエスと一緒の階級にいるのですか?」と考えるでしょう。それは、何故なら、私達はイエスと共に天の座に着いているからです。(エペソ2:6)それから、地上で働く聖霊がいます。でも、これは私達は聖霊よりもすぐれているということではありません。それはわかりますよね?ただ贖われた人と聖霊を同じところに書くのが難しかったので、記述を明確にする為にこのように書きました。その下に、悪魔、天使がいます。そしてその下に生まれつきの人、贖われていない人です。何故なら、生まれつきの人はまだ悪魔の支配下にいるからです。では、私達は何処にいますか?私達はイエスと共にいます。

覚えておいてください。すべての人は階級的に自分の上にも下にも誰かがいます。私達は自分の階級よりも上の者には膝をかがめます。自分の階級よりも下の者には、その上に足を置いて足台にします。

私達の問題は次のようなものです。神は、人に地を支配して、従えるように、言いました。地を這うすべての生き物を、空の鳥、海の魚を支配するように。(創世記1:26-28)そして、人はそのすべてに名をつけました。(創世記2:19-20)神は他の人を支配するようにも言わなかったし、決して、人は他の人に対して支配権を持っているとも言いませんでした。でも、堕落した肉的な人間の歴史を見てみると、人々は何をしてきましたか?人々を支配しようとしてきました。その為に戦争が起こってきました。人が人を支配しようとしてきたからです。

イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20:25-28)と言いました。彼は神の国の道は、私達はお互いに仕えることです。私達は王になるべきであることを知っています。何故なら、神は私達を神のために王、祭司としてくれました。(1ペテロ2:9,黙示録5:10)私達はとこしえに神と共に支配します。これが聖書の言っていることです。問題は、過去に私達は他の人を支配しようとしてきたことです。そして、正しい王は、王であることは他の人々に仕えることであることを知っています。良い王は彼が仕える人々の利益を一番に考えます。彼は統治するかもしれませんが、人々の上に権力はふるいません。

違いが分かりますか?統治と権力をふるうことの違いです。神は私達に支配するように言いました。でも、人の上に権力をふるうようには言いませんでした。彼は私達に、異邦人のように人々の上に権力をふるわないように、言いました。(ルカ22:25-27)イエスは地上にやって来て、私達が悪魔の上に立つことができるようにしてくれました。なので、今、私達は悪魔の上に立っています。ローマ16:20には、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」と書いてあります。悪魔は階級的に私達の下にいます。何故でしょうか?何故なら、私達はキリストのからだであるからです。なので、悪魔は私達の足の下にあります。又、私達には階級的に上の者もいます。自分よりも上の者には膝をかがめます。私達の下にいる者には足を置きます。しかしながら、救われていない生まれつきの人は悪魔の支配と権威の下にいます。彼らは悪魔に属して、悪魔の子です。私達は生まれつきの人に足を置くのではありません。私達は悪魔の上に足を置きます。私達の仕事は彼らを悪魔の奴隷である状態から解放することです。

ある人の質問です、「私は悪霊を手放したくない人に対して、その悪霊を追い出す権威がありますか?」。はい、あります。2つの理由があります。一つは、私達はすべての悪霊に対しての権威があり、そしてすべての(救われていない)人に対しての権威があります。私達は人々に対しては統治して、悪霊に対しては権力をふるいます。分かりましたか?統治するです。それは、こき使う事ではありません。彼らに仕える意味です。ではどの様にして人々に仕えるのでしょうか?

それは次の言葉にまとめられます。それを書き留めておいても良いかもしれません。それは、「私は神の[息]子であり、悪魔を支配する者であり、人に仕える者です。」というものです。人に仕える者になるためには、悪魔を支配する者でなければなりません。何故なら、もし悪魔を支配する者でないなら、病気やわざわいは私達に従わないので、それらから人々を自由にすることができません。なので、人に仕える者になるためには悪魔を支配する者にならなければなりません。しかし、悪魔を支配する者であるためには神の[息]子でなければなりません。とても単純ですよね?

1980年代には、教会の間で、「私は王の子です」というような考え方が流行りました。しかし、実際には彼らの考え方はむしろ「私は王に甘やかされた子です」というものになってしまいました。私達は今でもそのような考え方をする傾向があります。そのような人は、「私はもっと祝福されなければいけない。(自分自身の為に)もっと祝福を受けるべきだ。」と考えます。そうではありません。私達は他の人々に対して祝福となるのに値します。そのような考えであるべきです。なので、もし本当に王の子になりたいのなら、そのような甘やかされた者のような考え方を捨ててください。ただ王の子であるだけでなく、黙示録には、私達は神のために王であり祭司であると書いてあります。(黙示録5:9-10)なので、私達は悪魔を支配する者であり、悪魔に対して権力をふるうものです。そして新生していない人々を統治します。どのように統治するのでしょうか?それは彼らに仕えて、彼らを自由にすることによってです。悪魔を支配する者になる為には、人々を自由にします。悪魔の頭に足を置いて、人々を彼の手から解放することによってです。私達の目的は人々を自由にすることです。

私達は神を礼拝して、神を愛するべきです。それが神の言ったことです。人々は、イエスに何が一番大切な戒めであるか尋ねました。イエスは何と答えましたか?彼は、「すべての心を尽くして、思いを尽くして、知力を尽くして、あなたの主である神を愛せよ。」(マタイ22:37,ルカ10:27)と言いました。そして、彼はこの第一の戒めと同じように大切な2つ目の戒めもあると言いました。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というものです。これを言い換えると、マタイ7:12にあるように、「何事でも、自分にしてもらいたいことは他の人にもそのようにしなさい。」となります。このようにする時、私達は隣人を自分自身のように愛します。それゆえ、本質は、ソロモンも言ったように、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」です。(伝道者の書12:13)これだけです。私達は、「モーセの十戒を守らなければいけません。」と考えます。そうではありません。私達が2つの戒めを守る時、十戒も守ります。わかりますか?もし私達が2つの戒めを守るなら、十戒を破ることはできません。何故、十戒だけを守らなければいけないと考えるのでしょうか?新約聖書には1050個の戒めがあります。しかし、もし私達がこの2つの戒めを守るなら、すべての戒めを成就することになります。これが聖書の教えを簡単に説明しようとしている理由です。私達は戒めを守るために聖書のすべてを知る必要はありません。聖書を読まなくても、勉強しなくてもよいと言っているのではありません。ただ、聖書をすべて理解しなくても、みことばによって歩むことができるということです。聖書を読むことは成長する過程の一部です。クリスチャンなら誰でも最低、神を愛し、彼の戒めを守り、すべての心と、知力と、たましいと、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するべきであることを知っているべきです。どうやって隣人を自分のように愛するのか?それは何事でも自分にして欲しいことは他人にもそのようにすることです。これらにすべて集約されています。これらすべてさえを守っていれば、いつも正しく歩むことができます。

最近、私はこのようなトピックについての教えをしました。何故なら、多くのクリスチャン達がみことばを行うのを妨げているのは、彼らが「神にはその病人を自由にして欲しくない何かしらの理由がある」と考えるからです。彼らは、種蒔きの法則か、自分の人生の中で罪があるからか、自分はまだ(癒しの)準備ができていない、神は、「まだです。」と言っている、と考えます。ガラテヤ人への手紙では、御霊の実について話しています。肉の行いについても話しています。そこでは御霊の実について話しています。これを読むと驚かされます。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和。自制です。最後にあるこの言葉が鍵です。「このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23)これはどのような意味でしょうか?説明させてください。私達は人々を愛することができます。喜びを持つことができます。寛容であることができます。これらすべての9つのことをすることができます。これらを禁じる律法はありません。単純ですよね?

ある人は、考えるでしょう。「じゃあ、誰でも愛することができるとはどういう意味でしょうか?」こういう意味です。もし、私達が隣人を自分自身のように愛するなら、それは、私達は彼らに自分にして欲しいことをすることです。例えば、私達が病気であり、どこかの店に座って誰かを待っているとします。そこで、誰か御霊に満たされた、力に満たされた、神の命に満ちた、クリスチャンが通り過ぎるのを待っているとします。もしそのような人が通り過ぎるなら、自分に手を置いて癒してもらいたいですか?この質問の答えによって、私達は自分自身を癒しを行う立場に置くことになります。何故なら、何でも自分にして欲しいことは、他人にもそうするべきだからです。単純ですよね?ですので、私達が神から生まれて、神の御霊を持っていて、御霊に満たされていると言うなら、他人に自分にして欲しいことをする責任があります。

聖書は、彼らのして欲しい事を、彼らにしなさい、とは書いてないことに注目してください。そうでないことには感謝することです。何故なら、もしそのように書いてあり、もし私達が路上で酒飲みに会って、その人に、「すみません。何をして欲しいですか?」と訊くなら、彼らは、「私にウィスキーを買って欲しい。」と言うでしょう。それで聖書に従うなら、そのようにしなければいけません。でも、聖書は彼らのして欲しい事を彼らにしなさい、とは書いてありません。でも、自分にして欲しい事を他人にもそのようにしなさい、と書いてあります。

このマタイ7:12の御言葉は多くの質問への答えである事が分かりますか?「もし彼らが悪霊をとどめておきたかったらどうしますか?」。聖書は彼らに何をして欲しいか訊くようには言っていません。ただ、自分にして欲しい事を他人にもそのようにしなさい、と言っています。もし、私達が悪霊を持っていたら、それを追い出して欲しいですか?それが答えです。「でも、もし彼らが悪霊をとどめておきたかったら、どのように追い出すことができるでしょうか?」。私達は悪魔に対する権威を持っています。流れ図を見るとそう書いてあります。私達の下にあるすべての者に対しては権威を行使することができます。私達はただ去れと命令するだけです。もし彼らが悪霊に戻ってきて欲しければ、彼らはそれを取り戻すことができます。

私は、あなた達を自由にすることはできるけれど、自由にしておくことはできません。私はすべての病気や、わずらいや悪霊に対する権威があるので、あなた達を自由にすることができます。でも、私はあなた達を自由にしておくことはできません。何故なら、誰でも自由になった後は、自分の好きなように生きるからです。

私達は自然と自分と同じレベルの人々を引き寄せます。今までクリスチャンと自称する人々の周りにいたことがありますか?私はそんな時に思いました。「言葉も、すべて正しいように聞こえますが、何かが正しくありません。」何故でしょうか?それは、彼らは口では神に近いと言いますが、心は神から離れているからです。(マタイ15:8)彼らは教会にいる時には、教会モードでいて、正しい事をしていますが、彼らの心は正しくありません。家に帰ると、彼らは教会ではしないようなことをします。言い換えると、カメレオンクリスチャンです。彼らはクリスチャンの周りにいる時には、「神に感謝します。」と言いますが、彼らが飲み仲間の周りにいる時には、「もう一杯持ってこい。」と言うような口調です。分かりますか?私達は周りにいる人達に調子を合わせます。それが私達は周りにいる人達のレベルに引き寄せられる理由です。

だから私は自分の子供達に言います。「結婚相手は自分よりも劣った人を選ばないで、自分よりもすぐれた人を選びなさい。自分よりも、霊的に強い人を選んで結婚してください。何故なら、相手は成長しようとするので、それによってあなたも成長するからです。もしあなたが成長する気が無いなら、相手もそのレベルに引き下げることになります。」ある人は言うでしょう。「でもそれは正しいことですか?」今は他人のことについては話していません。私は自分の子供達に対して責任があります。

私はある人が、「友人はまるでエレベーターのようなものです。彼らはあなたを上に連れて行くか、下に連れて行きます。でも、彼らは私達を同じ場所には残しておくことはしません。」と言うのを聞いたことがあります。まさにそのとおりです。それが鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる(箴言27:17)と書いてある理由です。あなたを鈍くしてしまうような、鈍い人々の周りにいないでください。

この流れ図は役立ちますか?流れ図を見てそれが教えていることが分かりますか?これはとても明確で、簡潔だと思います。イエスは癒しや悪霊追い出しの為にいちいち細かい事を訊きだすことをしませんでした。

これまで多くの事を話してきましたが、今からはこのことについて話していきます。マニュアルの17ページには、「ここでの法則は」と書いてあります。以前に、神は一度話しただけで、太陽は今でも東から昇って、西に沈み続けている、と話した事を覚えていますか?私達は毎日太陽の光を見ることができます。神は毎朝いちいち起きて、「もう一度やりましょう。」と言う必要はありません。太陽はただ同じように働き続けます。神が一度何か言ったら、それは神が止れと言うまで、働き続けます。そうですよね?それなら、神は全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい、と言ったのに何故、それはある一定の特別な期間のことだけだと考えるのでしょうか?それは続くことですよね?

面白いことに、すべての人は私達が大宣教命令を受けていることは認めます。それなら、もし私達が引き続き大宣教命令を受けているなら、その命令を受けた時に与えられたものも引き続き持ち続けるはずです。

次のことについて考えてみてください。どの軍隊でも、まともな考えを持った将軍は、たとえ訓練されていたとしても、欠陥のある兵士達を送ることはしません。例えば、いつも勝利する者を送り、毎回敵を完全に圧倒している最中に、その人を引き下がらせて、代わりに、何の能力も、道具も、武器も持っていない兵士達を送って、「私は引き下がりますが、後は任せます。」というようなことはしません。それは意味が通りません。それはまるで私が体格の大きい人達と喧嘩をするために出て行って、彼らを殴っておいて、後は私の息子を残して、「じゃあ、あなたが彼らを打ち負かすことを願います。頑張ってください。」と言うようなものです。それでは、ただ敵を怒らせただけです。彼らは私の息子をボコボコにするでしょう。じゃあ、私は何をするべきでしょうか?もし私が責任のある父親なら、私は彼がどんな状況にも対応する事ができるように必要なことすべてを教えます。たとえ私がその場にいなくてもです。そうですよね?私は彼を訓練して、道具を与えて、武器を与えて、すべての事を伝えて、彼が敵に勝つことができる為のすべての秘密を教えます。それが神が私達にしたことです。

神は賜物を教会から取去ることはしませんでした。彼は、「今はもう使徒の時代は終わったので、聖霊の賜物は絶えました。」とは言いませんでした。そのような状況を想像したことはありますか?例えば、ヨハネが最後に残った使徒で、死にかけているとします。教会の歴史によると、人々は油によって彼を煮詰めようとしましたが、できませんでした。なので、彼が長く生きた唯一の使徒でした。考えてみてください、ここに雷の子とも言われた、神の力に満ちた、使徒ヨハネがいます。彼が老年で、ベッドに寝ています。死にそうです。病人は列を成して用意しています。それは彼が最後の使徒だからです。彼がいなくなったら、使徒の時代が終わり、癒しも、聖霊の賜物も絶えてしまいます。多くの病人が彼のベッドの側に並んでいる事を想像してください。そこで、ヨハネの弟子達は言っています。「早く病人をこちらによこしてください。」ヨハネはそのベッドで寝ています。彼は言います。「癒されなさい。」そして、次の人を呼びます。彼は言います。「早くしてください。」。彼はいつ亡くなるか分かりません。彼が亡くなったらすべて終わりです。

もちろんそのようなことは起きませんでした。でも、もしすべてのことが使徒達の死と共に途絶えたなら、そのようなことが起きたことでしょう。私達はいつもある人達を特別だと考えます。12使徒は特別だと考えます。それは違います。特別なのは神の御霊です。彼らの行ったことはすべて神の御霊が、彼らを通して行ったことです。

わかりますか?私達は、いつもイエスキリストの代わりに、人々を賞賛します。私達の教会には決まり文句があります。神を賞賛し、人々の徳を建て、悪魔を消耗させます。これが私達の仕事です。私達は神を賞賛し、人々を勧めて、悪魔を消耗させます。でも今の教会はそれをごちゃ混ぜにしています。

神が一度言った事は、その通りになりました。そうですよね?ここでの法則は、何かが成し遂げられるためには、神はそれを一度語るだけでいい、ということです。そして、そのことばは、神が変えるか、止めるまで、実現し続けます。

聖書には癒しが絶えたと書いてある箇所は一箇所もありません。それでもある人々はみことばを使って癒しが絶えたと説明しようとします。そんなことが書いてある箇所は聖書には一箇所もありません。そのように解釈しようとする一番の聖書箇所は、「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」(Iコリント13:10)です。ここで使われている、「完全」ということばはギリシア語では「Teleos」といい、「時が来た時には、すべてのものが完成し、私達は成長し、もう不完全なものは必要がなくなるということ」を意味します。正直言って、この地上に病気が無くなるまで、癒しは必要です。なので、私達が神の健康によって歩み、すべての病気を根絶した時に、癒しは止むでしょう。でも、それがいつ起きるのかは神学者達が議論すれば良い事であり、私はただ人々を自由にすることに専念しています。

では、これについて見ていきましょう。イザヤ53を見ていきます。マニュアルのセッション3にイザヤ53章がすべて載っていると思います。恐らく次のセッションで、このイザヤ53章はより詳しく見ていくと思います。イザヤ53章の4節は言っています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」5節です。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」

これらの節を通して際立つのは、「私たち」と「彼」、「私たちの」と「彼は」と書いてあることです。イエスは何も自分自身の為にしなかったことに気が付きましたか?彼のしたことすべてにおいてです。彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。私たちは思った。彼は罰せられ、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが、と書いてあります。彼は自分のそむきの罪のために刺し通されたのではありません。彼がしたことすべては、私達の為でした。

5節の最後の部分、「彼の打ち傷によって、私たちは癒された。(キングジェームズ訳:we are healed)に注目してください。それから、1ペテロ2:24を開いてください。そこにはこう書いてあります。「彼の打ち傷によってあなたは癒された。(キングジェームズ訳:ye were healed)

ある人々は言います。「それは霊的な癒しについて言っているのです。救われることについてです。身体的な癒しについてではありません。何故なら、その前にそむきの罪について語っているからです。ですので、それは霊的な癒しについてであって、身体的な癒しについてではありません。」先ず第一に、ここで癒しの為に使われている「癒された」という単語は、ギリシア語ではいつも物理的、身体的な癒しの為に使われています。この単語は、霊的な癒しとしては何処にも使われていません。

実際には、さらに、旧約聖書ではこれと同じ単語が身体的な癒しに使われています。べブル語の旧約聖書はギリシア語に訳された事を覚えておいてください。イエス達はそのギリシア語に訳された聖書を主に使っていました。そして、その1ペテロ2:24で使われているのと同じ言葉がイザヤ53章で使われています。その言葉は身体的な癒し以外の時に使われた時が一度だけあります。でも、その時には、神殿の祭壇を建て直される事についてを意味する為に使われました。なので、その単語は身体的な癒しについて言及してない時にでも、神殿の祭壇の物理的な修復についての言及の為に使われています。だから、その単語は決して霊的な癒しのためには使われていません。なので、誰かがその単語が身体的な癒しについてではないという人はギリシア語を知りません。

私はギリシア語の学者ではありませんが、私には友人のマイケル・ブラウン氏がいます。彼は7ヶ国語話します。それで、私が何か質問がある時には彼に電話をします。そうすれば彼はヘブル語や、ギリシア語について教えてくれます。ある時に、私が妻と車を運転している時に、彼のテープを聞いていました。彼はテープの中で、聖句を読んでいました。私達はそれを聞いていて、言いました。「彼の読んでいるのはキングジェームズ訳ではないわね。彼は何の訳を読んでいるの?」私は答えました。「彼は原語のヘブル語の聖書を読んでいるのさ。それが彼の聖書だから。直接のヘブル語だよ。」ですので、彼らがその単語は霊的な癒しについてで、身体的な癒しについてでないと言うなら、彼らは実際何について話しているのか知りません。

ここにいる人で誰かT.J.マクロッサンによって書かれた「Bodily Healing and the Atonement」という本を知っていますか?いつもは持って歩いていますが、今は手元には持っていません。最近ではその本を見つけるのも難しくなってきました。癒しについての本の中でベストなものです。T.J.マクロッサンという人は、牧師任命の為に長老派の教会のギリシア語やヘブル語を試験する人です。又、彼は神学校のギリシア語とヘブル語の教授でもありました。当時、彼はギリシア語とヘブル語の教授として、多くの人達に認められていました。彼は1930年代まで生きていました。彼はこの本を書きましたが、絶版になったので、ケネス・へーゲンとロイ・ヒックが再出版しました。これはとてもいい本です。小さい本ですが簡単に読める本ではありません。ゆっくり座って読む必要があります。それにはチャプターや、癒しのためのポイントなどは書いてありません。彼が言いました。彼のようなギリシア語とヘブル語の教授としての権威を多くの人に認められた彼がこう言いました。「どんな学者でも、癒しが贖いに含まれていないと言う人は、身体的な癒しが贖いの中に含まれていないと言う人は、2種類のうちのどちらかの人である事を証明します。その人は学者でなくて、ギリシア語もヘブル語も知らないか、それか、その人は嘘つきです。」これはとても大胆な発言です。それはとてもストレートな言葉です。私なら嘘つきとまでは言わないでしょう。でも、彼はそう言いました、彼はそれを勉強したからです。これはすばらしい本です。皆その本を読んで、勉強するべきです。「Bodily Healing and the Atonement」です。

最近、私はニューヨークに行って、彼の孫に会うことができました。彼は牧師をしています。彼と彼の叔父について話すことができ、彼は叔父の書いたものなどを見せてくれました。

この後に癒しが贖いに含まれていることについてもっと詳しく学んでいきますが、これが話したいポイントです。先程はちょうどイザヤ53章の4,5節について学びました。今度は11と12節も読んでいきますが、その前に5節では、「彼の打ち傷によって私たちは癒された。」(英語ではWe are healedと現在形になっている。)1ペテロ2:24には、「彼のうち傷によってあなたは癒された。(英語ではYe were healedと過去形になっている。)なので、ペテロが聖句を現在形から過去形に変えたということは、イザヤ53:5と1ペテロ2:24との間に何かが起きたということです。私達が「癒されている」という現在形から、何かが起きたために「癒された」という、ある時点で完了した、過去形になりました。では、イザヤ53と1ペテロ2:24との間に起こった唯一の事は、キリストが十字架に付かった事だけです。その事をもっと確かなものとして見ることができます。マタイの福音書8章16-17節を開いてください。こう書いてあります。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」ここのマタイの福音書8章16-17節の時点ではイザヤ書から4節が引用されていますが、現在形です。ということはこの時点の後に何かが起こり、それによって、イザヤ書53章5節の「癒された」と言う言葉は過去形になりました。その起きた何かは、イエスが十字架に付けられたことだけです。

偉大な信仰は必要ないと言った事を覚えていますか?癒しの為には信仰は必要ない事を知りたいですか?これを聞くと驚きますよね?「はたして、人の子が来たとき、地上に信仰が見られるでしょうか?」(ルカ18:8)私は正直分かりません。彼は信仰についての多くの本などは見つけると思いますが、でも、彼が実際にどれくらいの信仰を見つけるのかは分かりません。では、これについて考えてみてください。旧約聖書にある、すべての癒しはイザヤ書53章に書いてある「彼の打ち傷によって私たちはいやれた。」を基にして成されました。旧約聖書の癒しは、将来やって来るイエスが打ち傷を負うことがはっきり示されていたので起きました。

これについて少し説明させてください。イエスは十字架に付けられる前に打ち傷を負いましたよね?彼らはまずイエスをむちで打ち、ピラトのもとに連れてきました。(マルコ15:15)彼はイエスを釈放したいと思いましたが、そのようにはしませんでした。そして、イエスを十字架に付けました。では、このことについて考えてみてください。「彼の打ち傷によって私たちは癒された。」と言う聖書箇所を覚えていますよね?じゃあ、もしピラトがイエスを釈放したらどうなったと思いますか?答えは、私たちはまだ癒されています。癒しは未だに起きているでしょう。救いはどうでしょうか?救いは起きていません。論理的な観点から話していますが、でも、私がここで強調しているのは、癒しと救いが別々のものであるということです。彼の打ち傷による癒しが決定的であることを説明しようとしています。分かりますか?私は彼の打ち傷によって癒されています。たとえイエスが十字架に付けられていなかったとしても、身体的な癒しはまだ起きます。そのように考えたくないと思います。でも、彼はちゃんと十字架の上で死なれたので問題は無いと思います。

次はこれについて考えてみてください。私達は今イエスキリストを見ています。旧約聖書の人達は誰も癒されるための権利はありませんでした。そして、旧約聖書の時代に癒された人々は、すべてイザヤ書に記された彼の打ち傷によって癒されました。今まで癒された人々は、すべて彼の打ち傷によって癒されました。旧約聖書の預言者たちが「彼の打ち傷によって私達は癒された。」と言った時には、イエスは私達の病を負っていましたか?いいえ、負っていませんでした。ですので、古い契約の下で起きた癒しはすべて信用によるものでした。それらのすべての癒しはイエスが将来しようとしていることに対しての信用によってなされました。信用とは、言い換えると、信頼、又は信仰です。もし誰かが、私達に信用を与えるなら、それはその人が私達に信仰を置いているということです。そうですよね?私達は言います。「あなたは信頼できるから、銀行口座にお金を預けます。」「彼の言葉は信頼できるので、私は彼に信用を与えます。」もし誰かが私達に信用を与えてくれるなら、彼らは私達に信仰を置いていることになります。なので、旧約聖書でのすべての癒しは信用によるものでした。彼らは信仰によって癒されました。何故、癒しは信用、又は、信仰によったのでしょうか?それはイエスはまだむちで打たれていなかったからです。なので、イエスはまだむちで打たれていなかったので、彼らはこれから起こる未来の出来事を見ていました。もし彼がむちで打たれていなかったら、何が起こっただろうかと想像できますか?もし彼が打ち傷を負っていなかったなら、今まで起きたすべての癒しは違法なものになります。何故なら、癒しの為の代価はまだ支払われていないことになるからです。言っていることが分かりますか?彼は打ち傷を負いましたが、それ以前に起きた古い契約の下での癒しはすべてイエスが将来やって来てむちで打たれることに基づいていました。なので、それらの癒しは信仰によるものでした。

今、私はお金を集めようとしているのではない事を覚えておいてください(笑)。その上で考えてみてください。ここにいる方で銀行口座にお金を持っている人はいますか?手を上げる必要はありません、ただ頭の中で考えていてください。では、どれくらいのお金があるか考えてみてください。じゃあ、何の心配もなく、500円の小切手を書くことはできますか?もし銀行口座に1000円でもあるなら、500円の小切手を書くことはできますよね。何かためらうことはありますか?例えば、口座に10万円あるとします。それなら、500円の小切手を書くのにためらいはありますか?ないですよね?何故なら、十分なお金があることを知っているからです。10万円あるのに、500円の小切手を書くのには信仰は必要でしょうか?少しも必要ありません。何故なら、もうすでにそこにお金があることを知っているからです。私達がその口座にお金を預けました。もし銀行が、「すみません。あなたはここには口座を持っていません。」と言うなら、私達は、「ああ、そうですか、持っていると思ったのに、すみません。」とは言いません。私達はその場に堅く立って、銀行員と顔を合わせて、マネージャーを呼んで言います。「ここにレシートがあります。このようにちゃんとお金を預けました。」もしマネージャーが、「申し訳ないですが、それはただの紙切れとインクです。」と言うなら、私達は答えます。「違います。これはちゃんと私が口座にお金を預けた事を証明します。このレシートは、あなた達が私の預けたお金を受取って、私がお金を預けたということを示す証拠です。これが私の持っている全ての証拠です。私はお金を持っています。口座にお金があります。」こういうやり取りが想像できますか?

イエスは死んで、打ち傷を負いました。これは事実ですか?それとも作り話ですか?事実です。では、事実を信じるためには信仰は必要でしょうか?事実を信じるためには信仰は必要ありませんよね?私達は自分の名前を知っています。自分の名前を語るためには信仰は必要ありません。もし銀行の口座預金があるなら、小切手を書くのに信仰はいりません。何故でしょうか?それは事実だからです。私達は癒されています。それは事実です。ある人は、「癒されたようには感じません。」と言います。関係ありません。それでも人々は、「あなたには口座預金のような証明はありません。なので、癒されていません。」と言います。本当ですか?私達はこの聖書のことばに書かれた証明があります。それは「彼の打ち傷によって、私達は癒された。」(IIペテロ2:24)と書いてあります。誰でも、これに反することを言うなら、その人は嘘つきです。そうですよね?人は偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ3:4)聖書はそう言ってますよね?癒しは事実です。イエスが、私達の病気やわずらいを負ったことは事実です。私達は癒しのために信仰が必要でしょうか?事実を信じるために信仰が必要でしょうか?いいえ、必要ありません。

では、キリストのうちに入るためには信仰が必要でしょうか?はい、必要です。私達はイエスに対しての信仰が必要です。キリストのうちには癒しがあります。そうですよね?例えば、もし私達がある店のメンバーズカードをもっているなら、私達がその建物に歩いて入ろうとしても、止められることはありません。彼らは私達の口座を確認しようとはしません。彼らが確認したいのは何であるか知っていますか?それは、私達のメンバーズカードです。彼らは私達の口座にお金があるかは気にしません。何故なら、私達が何を買うか知らないからです。彼らが確認したいことは、私達がカードを持っているかです。もし私達がカードを持っているなら、その店の何でも買うことができます。彼らは私達が何を買うか気にしません。彼らが知りたいことは私達が店のメンバーであるかどうかだけです。

天もそれと同じです。天は私達が何を買うか気にしません。癒しを買いたいですか?神は気にしません。彼は、「癒しが欲しいのですか?ここにあります。さあイエスのうちにきて、受取りなさい。あなたのカードはありますか?」と言うでしょう。どのようにそのカードを私達は得たのでしょうか?それはイエスの御名です。私達にはイエスの御名があります。私達は信仰があります。

そこで私達は、癒しの為に信仰は必要だろうかと考えるでしょう。私達はイエスのうちに入るためには信仰が必要でした。でも、イエスのうちにいるなら、その中にあるものを得るためには信仰は必要でしょうか?いいえ、必要ありません。何故でしょうか?何故なら、イエスのうちにあるすべてのものは、イエスと共にあるからです。車を買ったときに、トランスミッションも一緒についてくるという信仰はありましたか?いいえ、必要なかったでしょう。トランスミッションは車に本来付いているものです。もし、付いていなかったら、他のディーラーから車を買うべきです。わかりますか?私達はイエスと共に癒しを受取りました。癒しは私達が得ようとするものではありません。癒しを得ようとするのは世の人々です。彼らが癒しを得るためには信仰が必要です。何故なら、彼らには癒される権利はないからです。私達には癒しのために信仰を持つ必要ありません。私達は癒される権利があります。イエスは私達にとってすべてです。もし神が私達にイエスを与えたのなら、どうして神は私達にすべてを与えないことがあるでしょうか?(ローマ8:32)神は私達にいのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくれました。(IIペテロ1:3)癒しはいのちに関することではありませんか?もし私達が病気で癒されなかったら、死にませんか?ですので、癒しはいのちに関することです。私達はいのちを持っています。ただあとはそのいのちを受け取るだけです。

問題は次のようなものです。イエスは、私達に彼を信じる者はいのちを得るという遺言を残しました。彼は死んで、今は肉を離れて霊です。問題は敵である悪魔は、まるで遺言など無かったかのように思わせる為に人々を欺きます。そして、人々はその悪魔の欺きを信じてしまっています。彼らは、「悪魔はうそつきです。聖書にイエスを信じる者はいのちを受けると書いてあります。イエスキリストのいのちは私のものです。私はそれを受取ります。」となかなか言いません。

これが私達が癒しを得るためには信仰が必要ない理由です。イエスのうちに入るために信仰が必要です。イエスのうちに入れば、癒しはイエスの一部分として受取ることができます。私達は自国の国籍を受取ることには信仰などいりません。一度国民となれば、国民に与えられるすべてのものを受取ります。そうですよね?しかし、時には私達は自分のものを勝ち取る為に立ち上がって闘う必要があります。

1863年の1月1日に、一人のやせた男が立ち上がって、奴隷解放宣言を掲げました。これに関しては多少誤解されていることもあるので、よく聞いてください。彼が立ち上がった時に彼は、「私はすべての奴隷を自由にします。」とは言いませんでした。彼は、「私は交戦相手である南のマディソンディクソン区にいる奴隷を自由にする。」と言いました。もし歴史を勉強するなら彼は北の奴隷を解放しなかったことが分かります。時間が経って、後になってそれは行われました。

次のことについて考えてみてください。彼は奴隷を自由にしました。南部はその当時は独立した別の国でした。英国やフランスはそれを認めていました。でも、アメリカ合衆国の大統領であるアブラハム・リンカーンは「南部にいるすべての奴隷は自由だ」と言いました。それは例えば、ブッシュ大統領が英国のすべての国民に対して今年は税金を払わなくてもいいですよと言うようなものです。国民は「やった」と喜びますが、英国政府は「やってみろ」と言うような感じでしょう。そうですよね?何故なら、英国政府はアメリカに、「お前にはそのようなことをする権威はない」と言うからです。しかし、考えてみてください、リンカーンは彼に属していない奴隷も自由にしました。彼は奴隷達に対して権威は持っていませんでした。そうですよね?

彼が奴隷解放宣言を出した瞬間に、アメリカ合衆国政府によると奴隷は自由となりました。しかし、南北戦争はその後も2年続きました。奴隷解放宣言は1863年に制定されましたが、すべての奴隷達が、自分達が自由であることが実現するまでには、その奴隷解放宣言が掲げられてから、およそ100年かかりました。その理由は、彼らが奴隷制度に我慢してきたからです。そして、人々は、「もううんざりです。私達はすべての人に保障されて、彼らの持っているのと同じ権利を持ちます。その権利の為に闘います。」と言いました。そうですよね?そして彼らは行進し始めました。マーチン・ルーサーJrはガンジーの非暴力の原則に従って、抵抗運動を行いました。彼らは自由を得るためには立ち上がって、声を張り上げなければなりませんでした。

これが問題です。イエスは2000年以上も前に癒しを私達にもたらしました。しかし、私達が我慢している限りは、私達は病気につながれて奴隷となります。私達一人一人はある時点で、「よし、この奴隷のようなことは今日で終わりです。私は自由です。癒しは私のものです。悪魔は嘘つきです。そして病気は私の身体に留まることはできません。身体よ。みことばと一致しろ。」と決心する必要があります。

よく質問されます。「どのようにして私達は癒されて、そして、それを保つことができますか?」次のようにしてです。先ず最初に、私自身がいつも癒されていることを信じることによってです。私が信じることは問題が寄って来ることを妨げます。もし何か敵からの攻撃か何かが感じられたら、私は散歩に出かけます。そして、少しの間歩いて、帰って来る頃までには、その兆候はなくなっています。まずそれらのものが私の身体に45分以上も留まることはありません。その理由は、私はそれらのものが私のうちに穴を掘るのを許さないからです。私は何かおかしく感じたら、即座に歩きに出て行きます、特に、攻撃が私の家族などならなおさらです。そして、言います。「おい、サタン。お前が1分間でも長く私の身体に留まる間に、私は5人の病人を見つけて彼らを癒してやる。だから、何人の人達が癒されて欲しい?」私はそのように敵に言います。そして、彼はそれから学びました。

ある人は、「そんなこと何処で学んだのですか?」と訊きます。第2次世界大戦からです。フランスの抵抗派がナチスの大佐一人か誰かを殺すたびに、ナチスは、500人の農民を集めて、仕返しのために、彼らを射殺しました。1にのために500人です。悪魔がそのようなシステムを考え出したので、彼はそれを良く知っていると、私は考えました。

なので、私は悪魔に向かって、言いました。「私の子に手を出したな。それなら、見ていろ。私はお前の子供達を5人叩いて、病人を自由にしてやる。これならどうだ?そして、お前がいなくなるまでそれを続よう。」最初は、私達は彼に私達が本気だと証明する必要があります。でも、そうし始めると、彼が私達を見て、信じ始めます。でも、そのためには、私達はそれを証明する意志がなければいけません。それが問題です。大半のアメリカ人は戦う意志がありません。彼らは立ち上がる意志がありません。彼らはただ寝転がって、何でも起こる事を許して、言います。「これは神の御心に違いない。」違います。神の御心はここにある聖書のうちにあります。神の御心は私達の自由です。神はすべての虐げられている人達の味方です。アーメン

Neylor Stevo