神癒技術者訓練 – セッション5

神癒技術者訓練 – セッション5
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション5

このセッションではもっと多くの質問に答えていきたいと思います。最初の質問は、「苦しんでいる人には触らなければいけませんか?離れていて距離があっても癒されますか?」です。癒しのために私達が人に触る必要はありません。イエスは何人かの人達をことばによって、離れていながらに癒しました。一番遠くではオーストラリアから電話を受けたことがあります。その人のために祈り、その人は私達が話している間に癒されました。それは距離を置いての癒しでした。また、ある男の人が心臓発作で突然死にました。私達は彼のことをほとんど何も知りませんでした。それは集会の最中に起きました。私はセブンイレブンにコーラを買いに行くために車を駐車した時に、携帯が鳴りました。ただコーラを買うつもりでしたが、電話の女性は混乱して、夫が死んだと言いました。彼女は彼は床に横たわっていて、緊急医療班が彼を連れて行くところだと言いました。彼女は彼らに言いました。「私が電話でこの人と話し終わるまでは、夫を連れて行かないでください。」私は彼女に言いました。「彼らを引き止めていてください。あなたの電話を夫の胸に当てて、30秒間待ってください。」彼女は言いました。「わかりました。」それで、彼女は電話を彼の胸の上に置きました。そのような音が聞こえたら、私は言い始めました。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」私がウィグルスミスはパンチされたので、癒しのときに人々をパンチすることを話したのを覚えていますか?私はいいつもこのような言い回しを使います。「あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって!」

でも、これは型ではありません。おまじないの言葉でも、魔法の言葉でもありません。でも、私の経験からそれは結果を出すので、いつもそれを使うだけです。私は考えません。自然にその言葉が口から出てきます。だから、その言い回しを型のように使わないでください。スワケの7人の息子達のようにはならないでください。「じゃあカリー兄が言ったので、あなたは生きる、死なない。イエスの御名によって」とは言わないでください。(使徒の働き19:14-16)祈る時には、あなたのうちにあることばを外に出してください。それが私の使うものとは違う言葉でも、働き、結果を出します。

なので、私はそのように言い始めました。「イエスの御名によって、あなたは生きる、死なない。」それから30秒ほど経って、彼女は言いました。「彼らが夫を連れて行きます。」彼らは夫を救急車の中に入れて病院へ向かいました。彼女は車で彼らについて行きました。私は後になって彼女が電話と手紙で連絡してきた時のことを覚えています。彼は生き返りました。彼女は教えてくれました。「私は車で救急車の後を追いましたが、彼が生き返った時がみてとれました。救急車の後ろで、混乱が起こったからです。ドサクサしていたので、分かりました。」

ある日、オーストラリアの人のために祈った後に、妻に言いました。「ジョン・レイクは、この時代に生きていたら電話や、Eメールで癒しを行うことができる今日をすごく楽しんだと思う。」私達は多くのEメールを受け取ります。私は毎日、何百通ものメールを受け取りますが、今ではそれらの多くは他の人達に請け負ってもらっています。主に祈りのリクエストやいくらかの質問のメールを受け取りますが。いつか私は癒しや、祈りのリクエストを受取ったら、ウェブページに返信のためにクリックできるボタンを作って、そこには「これを読んだ時には、このボタンに手を置いてください。」と書きます。それで、そこに手を置いた人々は癒されるように神の力を働かせます。コンピューター画面のボタンに手を置いて癒されるのは、21世紀の祈りの布です。あなたは神を制限したいですか?私は神を制限したくはありません。私はいつもどれだけ多くの可能性を用いていけるかを模索しています。もちろん、聖書に定められた制限内でです。

なので癒す為に人に触れる必要はありますか?いいえ、ありません。しばしば「どのように祈るか?」「祈る時に何を言ったらいいか?」という質問をされます。聖書は祈る時には何か言う必要があるとは教えていません。聖書には祈る必要があるとさえ言っていません。ヤコブ書では「長老を呼んで…」と書いてあります。(ヤコブ5:15)聖書が祈るように教えているのは長老達だけです。マルコ16:18には「祈りなさい」と書いてありません。マルコ16:18にはただ「信じる者は病人に手を置き」とだけしか書いてありません。そこには祈りについては何も書かれていません。では何故、私達は癒しのために祈らなければいけないと自動的に考えてしまうのでしょうか?私達が勝手にマルコ16:18に「祈る必要がある」と付け加え、「私達は手を置いて祈る必要がある。」と思い込みました。聖書は「手を置いて祈る」とは書いてありません。ただ、「手を置く」とだけ書いてあります。

私達が手を置くと、転移が起こります。多くの人々はこの転移を理解しません。神より出た神の御霊の流れが私達を伝って病人に転移します。これによって病人は直接神の力によって癒されます。これは現実に起こることです。でも、その為には私達が手を置く必要があります。葬儀に出席したことがありますか?そこで前の列に亡くなった人の親族が座っているとします。彼らはとても悲しんでいます。そして私達は何とかして慰めたいと思いますが、どのようなことばが愛する人を亡くしたばかりの人を慰めることができますか?どんなことばも慰めることはできないでしょう。できることは彼らに気遣っていることを見せることだけです。多くの場合、彼らに近づく時、私達は語ることばには気を配りません。そのように悲しんでいる人々には決まりきった言葉をかけることはできません。私達は彼らに近づいて、「お悔やみ申し上げます。もし私達に何かできることがあれば…」と言うことができるだけです。それ以外に何ができますか?それ以外には彼らに近づいて、触れるだけです。そのように、彼らを見つめ、手で軽く触ることによって彼らを愛していることを伝えることができます。私達は触ることによって、言葉よりも多くのことを伝えることができます。何故でしょうか?それはその触れることによって、愛とあわれみが彼らに転移されるからです。これと同じ法則を癒しにも用いて、病人に手を置いてください。

私達は同じようにしてあわれみを病人に対しても持つことができます。私にもそのような経験があります。私には奇形を持って生まれてきた子がいました。私は人々がそのような子に対してどのような反応をするかを知っています。自分の子供が病院で管などでつながれ、医師に自分の子が残りどれだけ生きるか分からないかを告げられることがどのようなものかを知っています。そんな状況では、あなたも私と同じように、「ああ神様、この子と私の立場を取り替えてください。私はどうなってもいいですから。」と祈るでしょう。これが親の心ですよね?神もクリスチャンだけでなく、人を見るとき、このように感じています。神は考えていました。「もし私が彼らの代わりになれるのなら...」それで、神は何をしたでしょうか?彼は自分の息子を遣わしました。何故でしょうか?それは彼が私達の身代わりになるためです。イエスがやって来たことは、父の愛によることでした。神は御自分の唯一の息子を私達の為にささげました。考えてみてください。自分の息子の命を他の人が苦しむ必要がなくなるためにささげる人のことを考えてください。

ある子達は手も、足もなく生まれてきます。このような子達には驚かされます。足がなくて生まれてきた子供達は人口器具をはめることによって普通の子供達と同じくらい早く走ることができるようになります。これは事実です。もし子供達がそのような環境に、子供の頃からいるのなら、それに順応して、障害によって心が傷つくことはまずありません。いくらかの不備なことはありますが、今日のアメリカ社会では彼らは大半普通の生活を送ることができます。成長する上でいくらか不利なことがあっても、乗りこえることが出来ます。たぶん多少の不備があっても、普通の暮らしが出来ます。でも、覚えておいてください、そのような子供を見たときには、その子は他人と違うことは気にしません。生まれつき手足がなくて、手足を失った経験がないからです。手足を持つことがどのようなものであるかを知りません。なので、彼らを見たときには、あわれみはどこに向けられますか?まさにイエスがされたように、ナインのやもめである母親の場合と同じように、母親に向けられると思います。多くの場合、両親は子供よりも心を痛めています。自分の子供がそのような状態であるのを見るほど心を痛めることはありません。その状況を変えることができるなら、何でもするでしょう。これを理解する時、両親に対してあわれみを持ちます、そして、彼らの子供を癒すためには何でもするようになるでしょう。それがあわれみです。そのあわれみが病気を癒し、すべての状況を変えます。このあわれみが世界を変えます。

私達は癒しを行う時、いつもその時に必要なものはすべて持っていて、その時にこの病人を癒すのは神のみこころにかなっていて、その病人がちょうどその癒しの為に必要な信仰を持っていなければならないと考えます。それはまるで税金の書類のようなものです。私達は多くの規則を作り、癒しを行うことがまるで税金の書類を記入することよりも難しいもののようにしてしまいました。現実には、イエスはそのような多くの規則は作りませんでした。彼は簡単に癒しを行いました。

では、このように考えて見ましょう。イエスは巡り歩いて人々を癒しました。しかし、時にはイエスは群衆の間を通り過ぎ、群集は彼に触れることもありました。考えてみてください。長血を患った女の人の話は神学では説明できないことを知っていますか?(マタイ9:20-22,マルコ5:25-34)その話は現在の神学を打ち壊すものです。その当時はイエスはこの地上においての神のことばでしたよね?イエスは神のみこころ、ことば、心の完全な現われではありませんでしたか?イエスはそれらのすべてでした。彼は神の完全な本質の現われでした。(ヘブル1:3)このイエスが群衆の間を歩いている時に、長血を患っている女性は彼の着物の縁をさわりました。そして、イエスは振り返り「誰かが私にさわりました」と言いました。彼は誰がさわったかさえ知りませんでした。でも、その女性は癒されました。これはどういう意味でしょうか?これは神は天にいて、癒したい時にだけ、「では、あなたを癒しましょう」と言って、癒しのスイッチを押して、誰が、いつ、癒されるかを決めるのではありません。分かりますか?彼は彼女の癒しが起こった場にいました。イエスから流れ出たいのちとそれによって癒しは起こりました。神はその場にいました。この女性はイエスのみもとにやって来て心の中で言っていました、「もし彼のお着物の縁にでも触ることができれば…」この場合、誰が癒されるための条件を決めましたか?彼女が決めました。聖書には「イエスの着物の縁にさわれば、癒される」とは一切書いてありません。聖書には着物の縁が何を表わすかについては書いてありますが、それを触るから癒されるとは書いてありません。古い契約の下では癒されるためにはとても具体的な規則がありました。これをして、このいけにえをささげて、祭司のところに行き…などでした。でも、この女性は聖書の書かれたそれらのことは一切しませんでした。でも、癒されました。イエスは振り返り、誰が彼に触ったかさえも分かりませんでした。私達はイエスは神の力が彼女の中に流れていったことを知っているにきまっていると考えます。でも、この聖書箇所より誰が神の力をコントロールしていたかが分かります。イエスが人々への神の力であり、その女性がその時に神の力をコントロールして癒されました。

これが神の力は機械的であるという理由です。私がこのように言うと、ある人々は怒ります。でも私はそれが真実であることを発見しました。いろいろな例で説明できます。そのうちの一つはこれです。例えば、今朝起きた時も、時間はいつも決まっています。太陽のことです。神は毎朝起きて、「太陽よ昇れ」と言う必要があると思いますか?そんな必要はありません。何故でしょうか?それは太陽は軌道に乗せられているからです。神が一度、口で言ったので、彼がそれを変えるまでは、太陽は同じように働きます。神は毎朝起きて、太陽に向かって、「日よ、昇れ」と言う必要はありません。神はもうすでに一度言いました。キング・ジェームズ訳の聖書では、「神は言った、そこに光をあらせよう」と書いてありますが、ヘブル語では、「神は言った、光 あれ」と書いてあります。神は「そこにあらせよう」とは言いませんでした。彼はただ、「光あれ」と言いました。そして、次の節は、「すると、光があった」と書いてあります。これについて考えてみてください。神が一度言ったので、それは今も一定して変わらずに働いています。神は毎朝起きて、同じ事をする必要はありません。科学によると光はすべての方向に、必ずしも同じとは限りませんが、すべての方向に広がっていることを知っていますか?毎秒約300,000kmの速さでです。とても速いですね。

じゃあ、神は言いました。「光あれ!」この場合、ことばが最初でしたか?それとも光が最初でしたか?ことばが最初に来ました。神がそのように言ったから、光が生まれました。イザヤ書では神は彼のことばを送って、彼のことばは成就する、と書いてあります。神は彼の願うことを成し遂げるために神はことばを彼の口から送り、そのことばは彼の言ったことを成し遂げます。彼のことばはむなしく彼のもとには帰ってきません。(イザヤ55:11)何故、光が未だに広がり続けているか知っていますか?それはまだ光に満たされていない空間である闇があるからです。なので、彼のことばはすべての闇を照らすまで、神のもとに帰ることはできません。

これがこの3日間のセミナーで説明する唯一の理論です。論理的に、想像してみてください。あなたは広くおびただしい宇宙の闇の終わりに向かって、光がまだ届いていない、先に立っているとします。そして、光があなたの方に向かって走って行っています。そのうちに光があなたに当たり、通り過ぎる瞬間が来ます。私の推測はこのようなものです。その光が通り過ぎるとき、「光 あれ」という神の声を聞くことができると私は心底信じます。何故なら、神のことばはその後ろに光を引っ張りながら広がり続けているからです。では、その神のことばは神のもとに戻りましたか?いいえ、まだです。光はまだ広がっているからです。

では、考えてみてください。光は闇に向かって出て行っています。神が一度言っただけで、光は未だに広がっています。又、神は言いました。「彼の打ち傷によって、あなたは癒された。」(1ペテロ2:24)何故神は私達のためにもう一度同じ事を言う必要があると思いますか?彼は一度そのことばを言い、そのことばはまだ出て行っています。神のもとに帰っていません。すべての人が癒されましたか?論理的に考えてみてください。イエスは癒しを買い取りました。でも、すべての人達が癒しを経験しましたか?まだです。それじゃあ、そのことばはまだ出て行っています。すべての人が癒されるか、そのことばがむなしくならない限りは、そのことばは神のもとには戻りません。私達は今科学について話しています。量子物理学について話しています。イエスがどのようにして壁の間をすり抜けたかを知りたいですか?量子物理学を勉強してください、それは説明することができます。それは驚くものです。肢体をどのように成長させるか知りたいですか?それも量子物理学で説明できます。ことばは肉となりました。(ヨハネ1:14)誰かが腕を持っていないときに、それは幻肢と呼ばれます。ある人が足や手を切断したら、彼らはそれを搔くことができないにもかかわらず、その部分はかゆくなります。これはどういう意味か知っていますか?彼らは霊を感じています。だから、私達の仕事は新しい腕を創造することではありません。何故なら、そこにはすでに本物の腕は霊においてはあるからです。そこにある霊の腕が本当のその人自身です。このからだは本当の私達ではありません。ただのこの世での宇宙服のようなものです。子供の頃の写真を手にとって、見てみてください。それは本当の私達ではありません。私達は変わったからです。本当のあなたは変わっていません。そうですよね?本当の私達は霊です。肉はただ着るだけのものです。なので、あなたの霊のあるところはどこでも、手足を切断しても、霊はそこに残ります。なので、もし新しい手足がほしいなら、十分なことばを肉にするだけです。そして、加え続けます。そうすれば、そのうちに新しい腕が現われます。そのようにことばは働き肉となります。ある人は考えるでしょう。「それは気が狂っている」そうかもしれません。でも、私はそれで結果を見てきています。単純です。

神のことばは未だに出て行っていることを覚えておく必要があります。神は癒しのためにスイッチを押す必要はありません。神は「あなたは今癒されていいです」という必要はありません。彼は「癒しは一度で全てとこしえに完了した」と言いました。イエスは十字架の上で、「完了した」と言いました。(ヨハネ19:30)それは癒しは完了した、という意味です。もし、まだ未だに神が癒されるための了承を与えなければならないのなら癒しは完了していません。

他の例を使っても説明できます。もし古い契約が好きなら、古い契約からの例を使って反対する人達に説明しましょう。聖書は、「文字は殺します。」と言っています。(2コリント3:6)私達は文字で肉的な考えを断ちます。モーセを例に取ります。彼は最初に岩が割れて水が出てきた時に、その場にいました。(民数記20:7-13)それから、彼は戻って、岩を二度打ちました。彼が二回目に岩を打った時のことを覚えていますか?彼は何を得ようとしていたのでしょうか?彼は水を得ようとしていました。彼は水を得ましたか?はい、得ました。では、彼が岩を打ったときには、どんな代価を支払いましたか?神は言いました。「あなたは約束の地には入れません。」このように、彼は神に背いて、岩を打って、罪を犯して、それには代価が伴ないました。私達が一般に受け入れている神学は、神の御心に従わないことは起こらない、と言います。私達はそのように考えますよね?でも、事実、モーセは、罪を犯したにもかかわらず、奇蹟を行いました。それは神の力は機械的であるのを証明します。何故でしょうか?それは彼が杖を持っていたからです。でも、彼のしたことには代価が伴ないました。私は神の御心に従わないことをするように言っているのではありません。私が言いたいことは、私達はモーセよりも偉大な潜在能力を与えられているということです。

もう一つの例を取り上げます。ウジヤは彼らが契約の箱をエルサレムに戻しに持って来ようとしている時に、契約の箱に触りました。契約の箱はぺリシテ人達に持ち去られていましたが、彼らはエルサレムに運んでくる途中でした。神は言いました。「契約の箱に触ってはいけません。契約の箱に触るならその人は死にます。」彼らが進んでいくと、契約の箱はよろけました。そして、ウジヤはそれに対して、手を差し伸べようとしました。彼は契約の箱が地面に倒れてほしくありませんでした。彼はそこに立って、契約の箱を押さえました。そして、死にました。(2サムエル6:1-8)その時に、神は契約の箱を見張っていたとは思いますか?「その箱には触ってはいけません。私が見張っています。ああ!あなたは触った!あなたは・・・・死ななければならない。」と神は言うと思いますか?そうではありません!神がそのように話したので、それは変わらない律法になりました。たとえ神がこの世界から別の世界に移ったとしても関係ありません。誰でもその契約の箱に触ったら、その人は死にます。何故でしょうか?それは律法だからです。

神が重力の法則を作りました。神は今でも重力をいちいち働かせなくてはならないと思いますか?いいえ、その必要はありません。何故でしょうか?それは重力は法則だからです。もしスズメが地に落ちるなら、神はそのことを知っていますが、それは神が落ちるように命令するからではありません。(マタイ10:29)

私達は堕落した世に生きています。理解しなければならないことは、私達の任務はことばを語ることによって天国を地上にもたらすことです。ある人は「そうは思いません」と言います。でもイエスは彼らに「あなたの御心が天国でおこなわれるように地でもなされますように」と祈るように言いました。(マタイ6:10)天国には病人や、肢体不自由な人、死にそうな人々はいますか?いいえ、いません。誰でもこのようなことは知っています。それなら、病気などはこの地上にあるべきではありません。今から、いくつかの聖書箇所を見せます。それによって、もし病人が私達の町にいるならそれは私達の失態であることを証明します。癒しを行う為に必要なことを知ることはあなたの責任です。この神癒技術者訓練でそれらを凝縮して教えています。いくつかのことは実際に癒しを行うにつれて学んでいくことができます。大半の問題と向かい合っても、あなた達がそれらに対処することができるように訓練することはできます。でも、私達は決心をして、癒しの義務を負わなければなりません。何故なら、何でも始めたことは最終的に私達自身にのしかかってくるからです。癒しを成し遂げるためには何でも必要なことをすることを学ばなければなりません。それには責任も伴ないます。

もし私達がどのように人々に仕え、癒すかを学び、同時に癒しを神に任せることができないなら約束します、今から一年以内に私があなた達の神経衰弱のために祈ることになります。でも、これを祈るのを諦める言い訳にしないでください。私はそれを経験しました。私はすべてを負いすぎて、目を閉じると、祈っているすべての人達の顔が浮かびました。店の中を歩いていて、途端に、泣き出すことまでありました。時には震え出したりしました。その経験を他のスタッフに話しました。私は言いました。「何故このようなことが起きているのかわかりません。何でからだがこのように反応するのかわかりません。」ある時には、レストランに入って、途端に泣き始めました。その時には立って、誰にも見られないように、トイレに行きました。そこで泣き始めて、このように考えていたことを覚えています。「このまま泣き続けてたらだめだ。そうしたら、もう正気には戻れない。」私はそのトイレの隅に、座って、震えながら、泣きながら、神経衰弱になっていました。こうなった理由は、私はどのようにしてそのような煩いをイエスに委ねるのかを知らなかったからです。私は病人達の癒しの責任を負っていました。癒しを行う上で、私達は際どいラインの上を歩かなければなりません。すべての責任を取りつつ、神にすべての煩いを任せなければなりません。それは際どいラインですが、そのラインの上をどのように歩くかを学ばなければなりません。もしその歩き方を知らないなら、誰の助けにもなることはできないからです。

その歩み方はこの様なものです。もし病人が癒されたら、それはただ神の栄光です。でも、もし癒されなかったら、それは私達の失敗です。これは神にとってはとても都合の良く聞こえるものですが、私達はこのように考える必要があります。私達はいつも何が起きているかを把握しなければいけません。何故なら、私達は勝利ではなく失敗のみを分析するべきです。でも、ある時点で、過去の失敗などの苦い経験から自分自身を解放する必要があります。

例えば、モーセとイスラエル人はエジプト軍から逃げ、紅海までやって来ました。イスラエル人達は戦士ではありませんでした。その時モーセはエジプト軍を背にし、紅海を前にしました。そして、エジプト軍が向かって来て、驚くべきことに最初に起きたことは、イスラエル人達は、 「私達はここで死ぬのだ」と叫び始めました。(出エジプト記14:10-12)まさか、呆れてきます。イスラエル人とエジプト軍の間には神の火の柱が立っていました。それなのに、イスラエル人は何故叫びながら自分達は死ぬと言うのでしょうか?

でも、このイスラエル人と全く同じようなことを私達もよくします。神は私達をさまざまな困難から救い出し、助け出し、祝福してくれました。でも、新しい問題が起こると、私達は、「おお神よ。何故このような状況に私を置くのですか?何故このような状況を許すのですか?」と弱音を吐いて泣きます。神は私達が許したことが起こることを許します。何故神はこのようなことを許したのでしょうか?それは私達が許したからです。これは単純な真理です。聖書には「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」と書いてあります。(マタイ16:19)このことばによるとつなぐことと、解くことは何処で始まりますか?ここでです。この地上で始まります!天では始まりません。それはこの地上で始まります。私達がつなぎ、解くことは、この地上でつなぎ、解かれます。すべて私達次第です。

これが新しい契約のキリスト教です。イエスはこのように考えました。イエスのみが私達の見本です。弟子達や病人は私達の見本ではありません。イエスが私達の見本です。何故でしょうか?それはイエスは新しい種(しゅ)として最初に地上で生きた人だからです。彼は全く違う生き方をしました。(これについては注意して説明しなければなりません。でないと、人々はおかしなこととして理解してしまいます。)私達は新しい創造です。(2コリント5:17)イエスが最初のこの新しい創造でした。これを聞いて、ある人達は言うでしょう、「まるであなたは自分が何か特別で、異なった人間であると言っているようです。」そうです。私達は特別です。イエス自身が最初にそう言いました。彼らがバプテスマのヨハネについて話している時にイエスはこのように言いました。「女から生まれたものの中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」(ルカ7:28)イエスはヨハネを最も偉大な預言者であると言いました。もし私がイエスがそのように言う前にあなたに誰が一番偉大な預言者であるか聞いたなら、「それはイエスでしょう。何故なら、彼は預言者だったから。」と言うでしょう。イエスはそうは言いませんでした。又、ある人は言うでしょう。「モーセや多くの奇蹟を行ったエリヤやエリシャこそ偉大な預言者」と言うでしょう。しかし、聖書が何といっているかを良く知らない限りは、バプテストのヨハネとは答えないでしょう。何故なら、彼は奇蹟は何も行わなかったからです。

私はそのことに注目しました。そして、イエスが何も奇蹟を行わなかったバプテスマのヨハネを最も偉大な預言者と言ったのを読んで、奇蹟を行うことは、偉大な預言者であることとは何も関係がないことに気がつきました。なので、預言者は何をする人であるかを考えました。預言者は神のために語る人です。それゆえ、バプテスマのヨハネは偉大なメッセージを持っていたに違いありません。彼の語った偉大なメッセージとは何でしょう?旧約聖書を読むとその時代の預言者達は「救世主がやって来る。救世主がやって来る。」と繰り返し言っていたことを見ることができます。では、バプテスマのヨハネは何と言っていたでしょうか?彼は「その救世主はいまここにいます。」と言いました。では、イエスは何と言ったでしょうか?彼は「女から生まれたものの中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」と言いました。何故でしょうか?それはバプテスマのヨハネはイエスが彼の前を歩き去っていくのを見て「彼はここにいる」と言うだけでしたが、神の国でも最も小さな者の中にでも、その人は「彼は今ここに私のうちにいる」(つまり、彼はここに、私達の内側にいるからです。)と言うことができるからです。それはここにいて歩き去るのではなく、イエスはここにいて、私達のうちに生き、歩み、話します。彼は私達のもとを去ることはしません彼は来ないし、行くこともありません。それゆえ、油注ぎは私達を去ることも、強くなることも、弱くなることもないと教えます。強くも、弱くもなるのは油そそぎではありません。

それは何か知りたいですか?多くの人々は油注ぎについておかしな考えを持っています。ある人々は油注ぎは増すものだと考えます。私はいろいろな人々から「神は新しい油注ぎを注ごうとしている」と手紙やEメールを通して聞きます。なので、私はこのように考えました。「神がその油注ぎを引き止めていたせいで、私達は油注ぎを受取ることができなかった。これは神のせいだ。」これで、私達はすべてを神の責任にすることがわかりますか?神は何も新しいものを注ぐことはしません。もうすでに注ぎました。神が教会に何を言うか知っていますか?「目を覚ましなさい」と言っています。新約聖書を読んでください。神は「私が新しいものを注ぐまで待っていなさい」とは一言も言っていません。むしろ、彼は「義に目覚めなさい。立ち上がって、あなたのうちにある聖霊の賜物を奮い立たせなさい。」と言いました。(King James Version 1コリント15:34、2テモテ1:6)新約聖書を読んでください。何事でも責任は完全に、100%クリスチャンにあります。決して神ではありません。もしそうでないのなら、いつの日か、私達は神の御前に立ち、神に向かって「あなたは私が必要なものを与えてくれなかった」と言うことになるでしょう。私はあなたに保証します。誰も神の御前に立ち、まるで自分の方が神よりも一所懸命で、人々を愛しているかのように非難することはするべきではありません。神はすでに私達に彼の御名、ことば、御霊を与えてくれました。神は私達に彼の賜物、力、すべてを与えてくれました。もし、何か欠乏があるのなら、その欠乏は私達が必要なものを持っていないからではなく、私達がその受けたものを用いるための従順に欠けているからです。

知っていましたか?神はランボー(Rambo)のような人達を教会に望みました。扉を蹴り開けて、M60の機関銃をドッドッドッと撃つような戦闘的な人達です。M60には特別な銃声があります。神は教会にそのようになってほしいと願っています。代わりに、神はバーニー・ファイフ(Barnie Fifes:メイベリー110番)のような人達を得ました。私達はそのような人達になってしまいました。私達は銃を持っています。権威のバッジを得ています。でも私達の銃には銃弾が入っていなくて、銃弾はポケットに入っています。そんな感じですよね?私達はアンディ(Andy)に銃弾を代わりに込めてもらうように頼まなければいけません。そして、終に銃弾を込めた時には、私達は誤って自分の足を撃ちます。でも、神はランボーのような人達であってほしいと願っています。神は言います。「行きなさい。そして、私が来るまで、忙しくしていなさい。あなた達は行って、病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出しなさい。」(ルカ19:13、マタイ10:8)

私達のバイブルスクールやチームでは、いつも私達が電話を切るときや、さよならを言う時には同じ事を言います。その時にはこう言います。「栄光と自由!」どういう意味かと言うと、「神には栄光を、人には自由を!」という意味です。何故そのように言うのでしょうか?それは私達はそれを自分自身に教え込んでいるからです。何故でしょうか?それは私達はしいたげられている人達に自由を与えるためにこの地上にいるからです。

もし私達がアメリカのレンジャーのウェブサイトに行くと、そこにはイザヤ書からの聖書箇所があります。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)このような言葉がアメリカのレンジャーのウェブサイトにあります。それは彼らの公式の聖句です。アメリカの軍隊の、アメリカ特別部隊のモットーでさえ「Oppressor Libera」です。それは「しいたげられた者に自由を」という意味です。それはイエスがやって来たときに、言った言葉です。彼は言いました。「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を宣べ伝えるようにと」それから、続けて言いますが、そのうちの一つが、しいたげられている人々を自由にすることです。それがイエスが油を注がれた理由です。(ルカ4:18)

私達はよく言います。「私は油を注がれています。主の御霊が私の上にあるからです。」それはイエスの言ったことと正反対です。イエスは言いました。「主の御霊が私の上にあります。神が私に油を注がれたからです。」(ルカ4:18)これらは同じことではありません。神の御霊が私達の上にあるのは、私達が油を注がれたからです。油を注がれるとは、ある事柄を行うために指名されるということです。サウルは油を注がれた王でした。彼は王となるように任命されたからです。わかりますか?油注ぎは、任命されることです。私達はよくこれらの言葉を間違って使います。私達はよく油注ぎはこの世の外から私達の上に注がれるものだと考えます。それは、違います。油注ぎは私達が新生したときに受け取ります。そして、神の御霊が私達の上にとどまります。それは聖霊のバプテスマと呼ばれます。そのように、私達は油を注がれて、そして、神の御霊が私達の上にとどまります。何故、御霊は私達の上にとどまるのでしょうか?恐らく、聖書のことばで実際に読まないと信じないと思います。ガラテヤで言っています。神は言いました。「あなたがたは子であるゆえに、神はアバ、父と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしました。」(ガラテヤ4:6)神は私達に聖霊を遣わすことによって、私達を息子達にはしませんでした。神は私達が息子達であるから、私達に御霊を遣わしてくれました。分かりますか?これも教会では反対の考えをしています。私達はいつも物事を逆にします。私達はすでに油を注がれていることに気がつく必要があります。

レイク氏は聖霊のバプテスマを受ける前に今日の大半の聖霊のバプテスマを受けた人々よりも素晴らしい癒しのミニストリーを行いました。彼は大きな癒しのミニストリーを1891年から1907年にかけて行いました。レイク氏は1907年までは聖霊のバプテスマを受けませんでした。でも、それでも彼は顕著な癒しを行いました。ジョン・アレクサンダー・ダーウィも聖霊のバプテスマなしで大きな癒しを行いました。彼は癌をある人の顔から引き剥がし、その人は癒されました。そのような癒しを彼は行いました。何故彼はそのようなことができたのでしょうか?それは私達が新生した時に私達には権威が与えられるからです。新生は神の子となる権威を信じる者に与えます。(ヨハネ1:12)聖霊のバプテスマは神の息子のように歩むことを可能にします。それが新生と聖霊のバプテスマの違いです。このようにレイク氏は聖霊のバプテスマについて理解していました。これが私があなた達に教えようとしていることです。これがレイク氏が10万人の癒しを5年間のうちに見ることができた秘訣です。その秘訣は、神の霊は私達が彼を神の為に用いるために与えられたものであることを理解することです。

大きな橋を制御する機械を見たことがありますか?その機械を操作する人は制御塔に座って、目の前にあるとても小さなハンドルを動かします。彼がそのハンドルを引くと、その大きな橋は持ち上がります。でも、もしその操縦士が橋まで行き、両手でその橋を持ち上げようとしても決して持ち上がりません。そうですよね?そんなことは明らかですが、もう少し聞いてください。その人は両手で橋を持ち上げることはできませんが、もし、制御塔まで行って、小さなハンドルを引きさえすれば、橋を持ち上げることができます。現在では、小さいスイッチさえ押せば、そのようなことができます。それはどういうことを意味するのでしょう?橋が持ち上がるのは、その人のハンドルを上げたり、スイッチを押したりする力の故にでしょうか?それとも、その機械の構造によって力が急激に増幅されたからでしょうか?神から生まれた霊的な者としての私達の力は神の御霊によって急激に増大されます。神の御霊は私達から離れてはいません。神の霊と私達が離れていると考えることは間違いです。聖書は「主と交わる者は一つ霊です」と書いてあります。(1コリント6:17)

誰かが私に「それはあなた自身かそれとも神が言ったことですか?」と尋ねるなら、私の答えは、「そうです」です。何故でしょうか?それは私でも神でもないからです。それは私達です。わかりますか?二人は一体になります。パウロは言います。「あなたに奥義を話します。それは男と女が一体になることと同じことです。」(エペソ5:30-32)それは教会についても同じことです。私達はキリストと一体となります。一体です。思いにおいて一つ、方向において一つ、目的において一つです。これが大半の新生しているという言う人々は実は新生していない理由です。彼らはイエスを付随的に自分の人生を良いものとして、問題を修正して、汚い人生をきれいにする為に信じようとします。問題は現実には人々は真に死ぬことをしないで、復活した者としての歩みを歩もうとすることです。死ぬことなしには、復活することはできません。多くの人は自分に死ぬことは望みません。彼らはイエスを傷の上につけるバンドエイドとしてほしがります。自分のいのちを交換する対象としては求めません。パウロは言いました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)これこそが私が今話していることそのものそのものです。これがあなたに話しているように話すことのできる理由です。イエスは、「もしあなたが私を遣わした人を受け入れるなら、あなたは私を受け入れます」と言いました。(マタイ10:40)何故でしょうか?それは私は神のことばを語っているからです。それはまるでイエスがこの場にいるようなものです。私はイエスではありませんが、彼のことばを語り、彼の霊は私のうちにいます。私の霊がここにあったり、神の霊があそこにあったりするのではありません。私達は一体です。昔のスキューバタンクを人々が使っていた頃のことを覚えていますか?彼らは2つのチューブと、2つのタンクを装備していました。しかし、現在では彼らは一つのチューブとタンクを使っています。新生もそのようなものです。天にいた神の御霊と私の中にいた私の霊は一つ霊となりました。そして今神の御霊は私のうちに充満しています。いつどこで御霊が動き出し止るか、いつどこで私が止まり、彼が動き出すのを見分けることはできません。私達は一体だからです。私達の考えが一新されればされるほど自分と御霊との見分けはよりつかなくなります。私達はキリストのように話し、行動するまで考えを一新し続けます。人々はあなたを避け出し、遠ざけて言います。「あなたは一体誰様だと思っているのか?まったく、彼は自分を誰か特別だと思っているのか?」いいえ、そうではありません。私達は何者でもありません。私達が自分は何者でもないことを知れば知るほど、イエスは私達のうちにより強く生きることができます。

人々はレイク氏について言いました。「彼はこのようなことや、あのようなことができる。何故なら、彼は油が注がれており、このような賜物が与えられているからだ。」それを聞いて、彼の妻のジェニーはすでに亡くなっていましたが、彼は笑ってこう言いました。「もし妻のジェニーがそれを聞いたならきっと笑うでしょう。何故なら、彼女は私の間違いや欠点をよく知り尽くしていたから。」そして、続けて言いました。「人々は私が特別な人なので今私のしていることができると言います。でも、秘密はこれです。私が癒しなどを行うことができる理由は、自分自身が誰であるかよく知っているからではなく、むしろ、私は自分自身が誰であるかを忘れることができるからです。」このように、私達の問題は私達自身です。私達は「私はまだ準備ができていない、私にはまだ~できない」と考え続けます。そうです。私達は決して準備万端にはならず、決して何も行うことはできません。なので、さっさと自分を殺して、キリストがあなたを通して生きることができるようにしてください。そのようにするとき、私達は自分自身について何も考えません。自分が誰であるかについてなどは全く考えません。あなたは言うでしょう。「えーと、でも私はこれも知らないし、あれも知らない。」だから何ですか?

私は数年前にジョージア州にいました。実際に私は少しの間そこに移って、教会を建てるのを手伝いました。私は時間を無駄にすることを嫌います。私は何年も無駄にしてきました。なので、今は時間を無駄にすることが嫌いです。今は穴埋めをしようとしてます。私の妻と、2人の娘と、息子とジョージアのモールに行きました。私の妻と娘は服を返品していました。いつもは、私は本を持って歩きます。待っている間にそれを読むことができるからです。でも、その時には私は何も持っていませんでした。なので、その場にはいたくはありませんでした。彼らは列に並んでいました。長い時間がかかっていたので、私は機嫌が悪かったです。霊的でもなかったし。異言で祈ってもいませんでした。ぶつぶつ文句を言っていました。イスラエル人達が地に飲み込まれたの時と同じようなものでした。いいですか?私は同じことをしていました(笑)。なので、私は霊的でもなく、その場に立って、待っていました。私は言いました。「何のためにここにいなければいけないんだ。」私はついに妻に言いました。「私は本屋に行って、本を買ってくる。そうすれば待っている間、立って本を読めるから。」彼女達はしばらくの間話していました。そうこうしているうちに、私達は人々がやってくるのを見ました。人々が近くにやってきても、彼らを見ないようにしているのに、横目で見ることができるようなことを知っていますか?二人の女性達と若い女の子でした。彼女達が近くにやって来たときには、私は注意を払っていませんでしたが、私の横で何かを感じました。それは私の手のサイズでした。私は何かが私から彼女達の方向に向かっていくことを感じました。その当時、私は祈っていました。「神よ。何か変わったこと、普通でないことをしてください。何か奇蹟的なことを行ってください。」でも本当にそのようなことが起きた時には、「何だ?」と驚きます。多くの場合には、人は自分の祈りさえも信じません。この何かが出て行くのを感じ出した時には、私はその方向を向きました。私が振り向くと、それはその若い女の子がいた方向でした。彼女はお母さんに寄りかかってしがみついていたので、気分が良くないことが見て分かりました。私はそこに立っていて、何が起こっているか知っていました。でも私は眺めていました。ある人は訊くと思います。「彼女に手を置いて祈りましたか?」いいえ、私はあなた達のようでした。私はそこに立って、考えていました。「よし、みことばよ行け、そうです、行きなさい。」(笑)。私は彼女達を助けたかったけど、そこまで行きたくありませんでした。私は他の人達と同じように、拒否されることは嫌いです。私達は他人がどのように反応するか分かりません。なので、私はそこに立っていて、2分ほどすると、彼女は言いました。「お母さん、気分が良くなった。もう行けるよ。」私は、「よしっ」と思っていました。そのようなことが起きて、彼女達が去ろうとしている時には、つい言いたくなります。「今何が起きたか知っていますか?神の油そそぎが働きました。」でも、その時にはもう遅すぎました。なので、そのように言う必要はありません。預言のことばを9月12日に言わないでください。もし預言するなら、9月11日に何が起きるのかを、前日の10日に預言してください。そうしたら、信じます。それが起きた後には、誰でも預言者になることができます。前もって預言を教えてください。でも、そのような偽預言者のような人達は実際に沢山います。

それから、私は家に帰ってその体験について考えていました。数日後に、ビデオをテレビで見ながら、ラップトップを使って働いていました。人々は私に世界中からさまざまなビデオテープを送ってくれます。そのうちの一つはアフリカからの癒しの集会のビデオです。その中には、実際に癒しが起きている映像がありました。癌などが剥げ落ちていました。私はそれらの癒しを見ながら、つぶやいていました。「すごいな」と。私は働いていたので、音声なしでビデオを見ていました。そのビデオを見ているうちに、私はモールで起きたと同じものが私のうちからテレビに向かって出て行くのを感じました。私はタイプしていましたが、何かが出て行くのを感じたので、顔を上げて、テレビの癒しの集会を見ました。このビデオは1年以上も前に録音されたものだったので、もうすでに起きたことです。もうその場面で神は働く必要はありません。私がそのビデオの中の人達に何かする必要もありませんでした。なので、私は仕事を一旦とめて、言いました。「神よ。これは一体何ですか?意味が分かりません。」イエスは質問に質問で答えることに気がつきますか?彼はいつもそのように答えました。今でも同じです。彼は私に訊き始めました。「今まで経験した命が危うかった状況を覚えていますか?」「はい、今までに何回か経験したことがあります。」彼は言いました。「あなたがそれについて話すときには何が起きますか?」私は考えました。「その経験を再び体験します。より詳細について考えれば、考えるほど、それを再び体験します。詳細について思い起こせば思い起こすほど、心臓の鼓動は早くなります。血圧が上がり、呼吸も苦しくなります。私はそれを再び体験するからです。」私はこれを神はまるで知らないかのように説明していました。神は言いました。「それが今起こっていることです。」私は答えました。「は?どういう意味?」神は言いました。「聖霊はその人を癒したときのことを覚えています。」このことについて考えてみてください。聖霊はビデオの中で人を癒したときのことを覚えていて、私は聖霊がそのときに感じていたことを感じていました。私はそのように感じていました。

私は何年もの間、次の聖書箇所を宣べ伝えてきました。「もしイエスを死者の中からよみがえらせたのと同じ御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、イエスキリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)私はいつも癒しについての箇所でもある 「あなたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです、という部分を強調して来ました。」その時には、神の御霊はその聖書箇所を繰り返し始めました。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」私は何でか考えました。彼は繰り返して言いました。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」私は言いました。「はい、わかりました。」聖霊は答えました。「違う、違う。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」と。その時に、終に理解できました。「私達は違う御霊を持っていません!」

これについて考えてみてください。私達のうちにイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのと同じ御霊が宿っているのだから、「私は何をしたら良いか分かりません。私はそのような状況を経験したことはありません。」とどうして言うことができるでしょうか?もちろん私達はそのような状況を経験したことはありません。でも、私達のうちに宿る聖霊は経験したことがあります。すべての死者をよみがえらせた場面に聖霊はいました。すべての癒しの場面に彼はいました。私達のうちに宿る聖霊なしではどのような奇蹟も起こらなかったことを知っていますか?それでもある人は「でも私は(癒しや死者をよみがえらせるためになど)用意ができていません」と言います。そうですね。でも、聖霊は用意ができています。又ある人は「でも、私は準備ができていません。」そうですね。でも、聖霊は準備ができています。それでもある人は、「私はこのような状況を経験したことはありません。」と言います。そうですね。でも、聖霊は経験したことがあります。なので、私達は用意ができる為には何をしなければいけませんか?私達が用意万端になることは決してありません。何故あなたは用意ができないか知っていますか?それは人々は様々だし、すべての癌も異なっているからです。

私達はすべての問題を同じものとして考えようとしますが、すべてのものは異なっています。いつも変わらず同じものは、解決策です。その解決策は聖霊です。彼だけがいつも変わらず同じです。分かりましたか?それはネイビー・シールズのようなものです。彼らのモットーを知っていますか?それはこのようなものです。「C-4(爆薬)が解決できないような問題はありません。」それは十分な爆薬を使えばどのような問題も解決できるということです。それは私達にとっても同じようなことです。もし私達が十分な神の御霊をその人達に与えれば、その人はどんな問題からも癒されます。

私達が理解しなければいけないことは何でしょうか?何故他人の生死は私達が準備できているかどうかにかかっていると考えるのですか?私達はそんなに重要でしょうか?ある人は言います、「神が彼らを癒さなかったのは、私が高慢だからだ。」そのように考えるなら、私達はすでに高慢です。私達がそのように話している事実が高慢であることを示しています。それはイエスに向かって「主よ。迷える人々の為に重荷をください。」と言うようなものです。もしそのように祈っているなら、すでにその重荷を持っていることを意味します。ある人は「私が癒しを行うことができるようになる前に神は私を正してくれます。」と言います。しかし、私達はそんなに重要ではありません。イエスはすべての人が癒されるために死なれました。何故彼は私達に何か問題だらけだからと言ってその病人を癒さないことがあるでしょうか?癒しを行うためにあなたは自分が完璧でないといけないと考えていますか?そのような考えは、この宇宙やすべては私達を中心に周っていると考えるようなものです。そうではありません。すべてのものは神を中心に周っています。

私達の仕事は出て行くことです。そして、神の栄光を現すことです。どのようにしてそれを行うのでしょうか?行って、病人を癒し、死人を生き返らせて、悪霊を追い出してください。(マタイ10:8)私達がそのようなことを私達を知っている人達の周りでするときには、彼らはそれが私達でないことを知ります。彼らは私達のことを良く知っているからです。彼らは言います。「私は彼を知っているけれども、彼はあんなことは以前はしませんでした。」彼らはいつも私達は問題だらけであったことを知っています。そして、言うべきでないことを言っていたことも知っています。彼らはそれらのことを行ったのは私達でなかったを知ります。そして、言うでしょう。「神はすごいですね。神はあなたを用いました。それなら神は誰でも用いられますね。」私自身が、神は誰でも用いることができることの生きた証明です。もし信じることができないなら、私の妻に訊いてください。彼女は言うでしょう。「神はカリーを用いることができる。それならは誰でも用いることができます。」それが筋です。完璧になることや、準備万端になることについてではありません。

私達はより多くの油そそぎが必要だと考えます。ここで少し、あそこで少しずつ油注ぎを得るなら、そのうちに油注ぎは増えて、遅かれ早かれ溢れ出るようになると考えます。そのようなことは起きません。私達はすでに神から受取ることができるものはすべて受取りました。では問題は何か知っていますか?それは私達のうちには自己中心さがたくさん残っていることです。キリストはすでに私達の中にいます。たとえば、もし私が炎を鉛の箱の中に入れたとすると、その箱が大きければ大きいほど、その鉛が熱くなるのに時間がかかります。鉛の中に炎を持っていても、炎が外に触れなければ、外からは熱すら感じず、触ることさえ出来ます。でも、もしその炎を燃やし続けると、最終的にはその熱は外まで伝わります。例えば、私が紙をちょうちん形にしてその中に炎を置くなら、紙はとても薄いので熱はすぐに外まで伝わります。紙は直ちに燃えます。これが油注ぎへの答えです。私達は新しい油注ぎを得ることはありません。私達が自分の皮を一枚一枚脱ぎ捨てていき、ほんのわずかな自分しか残らなくなるまでそれを続けるので、神の全てが私達を通して流れ出て、放射するようになります。分かりますか?私達はたまねぎのようなものです。要するに自分という皮を剥き続ける必要があるということです。私達の人生での仕事は自分の皮を剥いていくことです。より皮を剥けば剥くほど、神は表面に出てきます。そして、人々が私達を通して神を見ます。なので私達の仕事はすべての自己中心の皮を剥くことです。それだけです。それは「自分に死ぬ」ことです。自分に死ねば死ぬほど、神はより表に出てきます。これによって油注ぎは増えますか?いいえ、そうではありません。でも、私達が減少します。それはまるでバプテストのヨハネのようなものです。「あの方は盛んになり私は衰えなければならなりません。(ヨハネ3:30)」聖霊は増えますか?いいえ。でも私達が小さくなればなるほど、神は大きくなるように見えます、それは私達が小さくなり、神のことをもっと見るようになるからです。より多くの聖霊や油注ぎを得ようとすることをやめてください。あなたがすでに受けているものを用いてください。種蒔きと刈り取りの法則について考えてください。あなたが受けたものを使い、それが空になるとき、神はその空になった部分を満たしてくれるでしょう。そうしていけば、神はより多くのもので最初の頃よりあなたを満たしてくれるでしょう。

Neylor Stevo