神癒技術者訓練 – セッション4

神癒技術者訓練 – セッション4
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神癒技術者訓練(Divine Healing Technician Training [DHTT] )

1997年ミネソタ州ダルース市でのDHTT(日本語訳)

By Curry Blake

John G. Lake Ministries

 

セッション4

癒しについての質問はたくさんありますが、そのうちのいくつかに答えていきます。それらは、「死人から生き返らせることのできない年齢はありますか?」「癒しのための祈りをやめるべき年齢はありますか?」「死んでから、数週間が経った後や、埋められた後、火葬された人を、生き返らせることはできますか?」「もし、その祈りの必要な人が、年配で、生きる気力がない場合はどうしたらいいですか?」

まず第一に、死人から生き返らせることのできない年齢はありますか?いいえ、ありません。ここに私達の癒しの教えと一般の癒しのミニストリーの教えの違いがあります。彼らは、聖書によると、私達は70歳まで生きることを約束されていて、健やかであっても80歳まで生きることができると教えます。(詩篇90:10)それは真実です。ウィグルワースは、何歳まで生きる予定でいるかと聞かれた時に答えました。「私は70歳まで生きると約束されています。」彼が70歳になった時に、彼らは言いました。「じゃあ今からはどうするのですか?」ウィグルワースは言いました。「健やかであっても、80歳までです。私はまだ健やかです。」そして、彼が80歳を超えたときには、彼らは言いました。「今はどのような聖句を信じているんですか?」彼は言いました。「詩篇91章です。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、とあります。私が満足した時に私はこの世を去ります。」

癒しの祈りをもう行うべきでない年齢はありますか?詩篇90章にあるように、私達は70歳から80歳を約束されています。創世記の6章2節には120歳まで約束されています。医学は、人間が120歳以上生き続けられない理由は見つけることができません。120歳は私達の寿命の限界として考えられています。科学者達はなぜ私達が120歳よりも長く生きることができないのかは証明することができません。ある一定の年齢まで生きることを約束されていることと、私達が死人を生き返らせるように命令されている年齢とは何の関係もありません。聖書はただ、「死人を生き返らせなさい。」(マタイ10:8)とだけ言っています。聖書は、80歳前に死んでしまったら生き返らせなさい、80歳後は死なせなさい、とは言っていません。

でも、私達がそれを行う上で、考慮するべきことはあります。例えば、死んだ人が、90歳で、罪人なら、恐らくその人は地獄に行くので、生き返らせたほうがいいでしょう。でも、もし彼らが聖徒であって、敬虔な生き方をしてきて、彼らのできることをすべてして、次の世代のために知恵を残して、人生の道のりを終えたなら、生き返らせる前に、思い直した方がいいと思います。特に、彼らが80歳か90歳だったらです。もし、彼らが自分自身の意思でこの世を去ったのなら、どうして彼らを天と比べたらゴミ箱のようなこの世に呼び戻す必要があると思いますか?彼らは自分の人生を全うした後なのに、又戻って来たいと思いますか?例えば、スミス・ウィグルワースは自分の妻を生き返らせました。ポリーは亡くなりましたが、彼は彼女を生き返らせました。でも、彼女が最初に言った言葉は、「スミス、なんて事をしてくれたの?」でした。彼女はこの世には戻ってきたくありませんでした。彼らはしばらくの間話をして、彼は彼女の霊を解放しました。彼女は又死んで、主のもとに帰りました。

私は20世紀に癒しのミニストリーをした人達やその親族達と、彼らと働いた人達と話をしました。ジャック・コウや彼の息子、彼は私の牧師でした、また、AAアランなどです。その中に、93歳まで生きた、シメオン・スチュワートという人がいました。彼は最近亡くなりました。彼をとても愛していたので、彼の死はとてもショックでした。彼は私の人生に深い影響を与えた人でした。神は私に関して、彼にたくさんのことを話しました。彼の住んでいるところに行く時には、必ず彼に会いに行きました。彼はいつも私のために神のことばを預かっていました。私がそれを求めていたからではありません。それは私達の間に特別なつながりがあったからです。彼が亡くなったときには、私は彼をとても恋しく思いましたが、彼は人生を全うしたので、彼を生き返らせることはしませんでした。それは、私にとっては彼を失うことですが、彼にとっては益だからです。

彼が私に語ったことは、あてにならない預言の言葉ではありません。それらは、ここではこのような決断をして、このような決断はしないで、この路を行って、というようなものでした。それは、それはなにか霊的に聞こえるようけれど全く意味の分からない漠然とした言葉ではありませんでした。そのようなものではありませんでした。正直言って、私は他人から、「主のみ告げです。主はあなたを愛しています。」というように言われることが好きではありません。そんなことは知っています。そのようなことは小さい頃から知っています。私はもっと目的を持ったことばを求めます。なので、もし私のところに来て、預言する時には、ちゃんと目的のあることばを持ってきてください。それを全部聞いた後でそれが神からのものであるかを判断します。

次は、人が死んでから、数週間経った後、埋葬や火葬された後に、生き返らせるときについてです。このような質問をされた経験もあります。そんな時はいつもこのように答えます。「あなたの信仰のとおりになれ。」(マタイ9:29)アブラハムはイサクが灰になっても彼を取り戻すつもりでした。何故なら、アブラハムはイサクをいけにえにささげるつもりだったからです。それはただのいけにえではありませんでした。それは全焼のいけにえでした。それでも、アブラハムはイサクを灰の中から取り戻すつもりでした。(ヘブル11:17-19)だから、明らかにアブラハムはイサクが灰の中から生き返るのは可能だと信じていました。もし私達がアブラハムと同じ信仰を持つのなら、私達もそれは可能だと信じるべきです。私はよく冗談で言います。「私は死人を生き返らせることを教え続けて、その結果を出し続けるなら、そのうちミニストリーで新しい商品の開発が必要になるでしょう。シャベルを売る必要がでてくるでしょう。(笑)」(でも、もし誰かを掘り起こすなら、最初に掘り起こしてから、生き返らせてください。それから、私に電話して、結果を教えてください。(笑)

「もし、癒しの祈りが必要な人が高齢で、もう生きる気力がない時にはどうしたらいいでしょうか?」大抵、高齢の人達の癒しのために祈る時には、高齢であることは問題ではありません。私達が変える必要のあることは彼らの意志です。何故なら、長い間、痛みや、苦しみや病気を経験してきた多くの人達は、ほとんどあきらめてしまって、死んでしまった方がましであると考えるからです。私達の信仰によって癒されるとしてもです。多くの人達は身体的には健康であっても、自分はいつも病気であると考えて憂鬱になる人達がいます。医師達は彼らに何の問題も見つけることができません。よくそのような人達は早く亡くなります。でも、ある人達はそのように心気症であっても長生きして、ある日、ポックリと亡くなる人達もいます。なので、これらにはバランスがあります。でも、そのように生きる気力の無い人達を扱う時には、癒しに加えて私達の仕事は、先ず、彼らはまだ人生の目的を達成していなくて、なすべきことがあると説得することです。そのように説得し始める時に弟子訓練が始まります。弟子訓練は自分自身の時間と力を他人のためにささげることです。正直に言います。信じてください。私は何度も、何度も、祈ってきました。「神よ。もしできるのなら、私を取り去ってください。私は気にしません。私は別にこの地上に残っていたくはありません。でも、今この時点では、私がここにいる方が教会にとっても益です。もし私がこの世を去るなら、私にとってはいいことです。でも、もし私がここに残るなら、それは教会にとっての益です。」パウロもこのように言いました。(ピリピ1:22-25)

私には行きたい所があります。私は自分が成すべき仕事を持っていることを知っています。そして、その成すべきいくつかのことが何であるかも知っています。私は個人的に与えられた預言の言葉や他の人達から与えられて真実だと証明された預言の言葉も持っています。なので、私はそれらを死ぬ前に成し遂げることも知っています。でも、このように語るのは私が死を願っているからではありません。私達が死に直面した時に、まだ神が私達に告げたことを成し遂げていないことを知っているなら、そのような状況を克服することができる信仰を持つことができるはずです。現在、私達はイスラエルやパキスタンからの招待を受取っています。多くの人達はそこに観光目的で行きますが、私はそのようには考えません。イスラエルは地上の何処よりも危険な場所だと思います。私の妻は、ある時、私は死を願っているかと訊きました。私は言いました。「もちろん、そんなことないよ。でも、誰でも、海外に行って、命を脅かされたり、何か危険な状況を経験するなら、それらは後になってすばらしい証になる。もし彼らが海外に出て行って死ぬなら、それは殉教になる。どちらにしても良いことだね。」

私は自分は歴史家だ思っています。ペンテコステ派の歴史だけでなく、世界の戦争史や軍隊の歴史です。ストーンウォール・ジャクソンはある時仲間の兵士と一緒にいました。彼らは周りで爆弾が爆発している中、弾丸が飛び交っている戦場にいました。(実際に、ストーンウォール・ジャクソンのユニフォームには弾丸の穴が開いていましたが、彼は無傷でした。)なので、人々は彼に訊きました。「皆が爆弾や弾丸を避けるためにかがんだり、地面に伏せているのに、あなたはどうしてしりごみもせずに戦場を歩き回ることができるんですか?」彼は言いました。「私の信仰は、もし私が神の御心を行っているなら、戦場でもベッドで寝ている時と同じように安全であると教えてくれるからです。」私達もそのような考え方をするべきです。彼は最終的には死にましたが、もし彼が死ななかったなら、恐らく南軍が勝っていたと思います。その時点までは、彼は負けたことがなかったからです。もし彼がゲティスバーグの戦いに参加していたら、彼の軍は勝っていたでしょう。ストーンウォール・ジャクソンがその戦いにいなかったのは、北軍の勝利に貢献したうちの一つの要因だったと思います。とにかく彼は自分自身をすべて神の御手に委ねていました。

私達はこのことについてバランスが取れた考えをする必要があります。私達のいのちは神の御手の内にあって、何処に行っても安全であることを理解しなければいけません。私達は火の燃える炉の中に投げ入れられたへブルの子達のようでなければいけません。「私達の神は私達を助け出すことができることを確信しています。でも、もしそうでなくても、私達の神以外は拝みません。」(ダニエル3:16-18)なので、どちらにしろはっきりしていることは誰も私を打ち負かすことはできないということです。何故なら、何が起きようと、私はそれを克服するからです。何故それができるのでしょうか?私は神と正しい関係を持っているからです。神と共に歩いているからです。私は神の仕事をしているからです。誰でも私を倒そうとして、私を傷つけ、打とうとしたり、殺そうとすればするほど、私はより強く成長します。なので、私は何も恐れません。でも、傷跡を持っていないわけではありません。でも、傷跡は勲章になるべきです。

私達が勉強するべき人物の一人はウィリアム・ブースです。ぜひ彼の人生の話を学んで、勉強してください。彼が救世軍を作り、彼らは路上を行進し始めました。彼は日記のうちの一つにこのように記しています。「今年だけでも私達に対して690の襲撃がありました、そのために法廷に行かなければいけませんでした。」彼らは告発をすることをしませんでした。でも、警察が告発しました。彼らが路上を行進しているうちに、彼らを襲撃している人達を告発しました。彼らのしていたことは、ただ賛美歌を歌っているだけでした。ウィリアム・ブースは人々が彼らに向かって投げたものについても書いています。「今日は、私達の一団において」ここで彼は自分のグループのことを一団と言っています。それから続けてこう言います。「私達は、レンガや、腐ったトマトや、死んだ猫の体の一部などを当てられました。」考えてみてください。何処から死んだ猫の体の一部を持ってきたのでしょうか?死体を見つけて、切った以外には考えられません。でも、彼らはそれらの迫害を勲章として受けました。

彼らはそのような経験をしました。ある人々はこう言います。「イエスの御名を公の場で口にするべきではありません。私達に宗教を押し付けるべきではありません。」でも、私達の宗教は人々に知らせられる必要があります。彼らは自分達の無神論という名の宗教を私に押し付けているのに気にしません。彼らがその宗教について話すなら、私は私の宗教について話します。今日、私達は常識や礼儀正しさを失いつつあります。男も女も悪口を言い、以前は公の場では言わなかったようなことばを平気で口にします。今は人々はそのような悪口を言いますが、誰も気に留めないし、何も言いません。でも、もし悪口を言っている人の隣で、ある人が「神に感謝します」と言うと、人々はその人をおかしな人のように見ます。それなら、私達はそのようにおかしな人になる必要があります。今こそ他人と違う人になるべき時です。今こそ立ち上がる時です。今こそ声を高く上げ、私達の信じていることを人々に知らせる時です。何故なら、もうすぐその時がやって来るからです。人々が私達を捜していて、そして、もし私達が今彼らに伝えないと、彼らはその日には神の前で「何故あなたは私にイエス・キリストのことを知らせてくれなかったのですか?」と言うでしょう。少なくとも「私は伝えようとしましたが、あなたは聞きませんでした。」と言えるようになるべきです。神は立ち上がる人々を捜しています。聖書には「はその御目を持って、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」と書いてあります。(2歴代誌16:9)あなたが他人より目立つことで、神はあなたを見つけることが出来ます。私達が信仰を持って立ち上がり、真理を語り出す時に、神は私達を見つけるでしょう。

もう大半の質問には答えたと思います。生きる気力のない高齢の人に対しては、彼らを説得して、彼らの意志を変える必要があります。私達は彼らを癒すことができますが、その後に彼らは又病気になったりしてしまいます。私達は悟る必要があります。人々が力と神による健康を所有して歩むことができるように訓練しなければいけません。恐らくこのように言い換えることができるでしょう。「守備的な世の中で、攻撃的に生きなさい。」私達は長い間守備的に生きてきすぎました。聖書には「ハデスの門も教会には打ち勝つことはできない」と書いてあります。(マタイ16:18)これは私達は攻撃的であるべきことを意味します。もし私達が守備的なら、私達はすでに潰されていることになります。私達はこの世界を勝ち取っているべきです。小さな土地にただ小さな穴を掘って、その穴にとどまるべきではありません。ジョージ・パットンはよくこう言いました。「私達は敵以外の何者にも掴まり続けるべきではない。」私達は敵だけを掴み続けます。小さな土地を守り続け、そこにとどまるのではありません。聖書は「悪魔に機会を与えないように」と書いてあります。(エペソ4:27)この「機会」とはギリシア語で「Topos」といい、「土地」という意味です。私達は敵に土地を与えることはしません。私達は領土を勝ち取ります。私達はどのようにして町を勝ち取るか学ぶ必要があります。私達は「どのようにして霊的に町や都市を勝ち取るか」という教えのCDとDVDを持っています。ある日の午後に、私は教会を始めた(段階の)州リーダーと会いました。私達はある家で会いましたが、そこは満員でした。そこではどのように組織的に町を勝ち取ったらいいかを説明しました。それは単純で、難しいものではありません。思っているよりも、実践的なものです。その教えを録音しました。そして今は益々多くの人からその教えの注文が殺到しています。それは人々が自分達は町や都市にいるただの小さな灯台ではないことに気が付き始めたからです。灯台はいいし、何も反対しているわけではありません。でも、私達がその灯台から発進する船であるべきです。灯台に戻ることもあるかもしれませんが、先に進み続けなければいけません。世界は私達のもとにはやって来ません。私達が彼らのもとに行かなければ行けません。

次です。「自分がいやされて、癒された状態にとどまるためには、何を言って、何をすればいいですか?」多分、多くの人は答えを気に入らないと思いますが、いくつかシェアします。たしか、私が40歳くらいの時だったと思います。私はトランポリンの上で飛び跳ねていて、足首の骨を折りました。それはひどいものでした。2度地面に足を着き、そこにいる子をよけようとして、隅の金具に足を乗せたときに、骨が折れた音を聞きました。それから、隅の方に逃げた時に、又その足が地面に着いた瞬間に完全に折れたのを聞きました。私はブーツを履き直すことができなかったので、家に帰らなければいけませんでした。私の足は、大きく紫色に腫れ上がって、歩くことができませんでした。足を引きずって歩かなければいけませんでした。家に帰ると、車輪つきの椅子に座って、足をそれに乗せたまま、家中を移動していました。妻や他の人達は何か手当てをしたほうがいいと言いました。彼らは医者に行くべきだと考えました。彼らは言いました。「もし医者に行かなかったら、足が不自由になってしまうよ。」なので、私は決断をしなければいけませんでした。

私は人々にこのような決断をするように言っているのではありません。でも、私は私の置かれている立場から、決断しなければなりませんでした。私は医者に行くべきかどうか言うことはできません。それは個人的な選択です。その人次第です。毎日人々が私達のもとにやって来ます。大抵の場合、彼らの問題は小さなものではありません。それらの大半は生きるか死ぬかの問題です。彼らは家族に電話してから、私に電話するので、それは本当に土壇場の状況です。なので、他の人達を癒すなら、私は自分自身の癒しのためにも信仰を持たなければならないと考えました。私は小さな問題がある度に、医者の所に行くことはできませんでした。自分のために戦うことを学ばなければなりませんでした。それは自尊心の問題などではありませんでした。私はもし他の人達を癒すなら、私自身は癒しのために誰の元にも行かないことに決断しました。私は癒しを自分で得るか、それとも、得ることができないか、に決断しました。それは自尊心ではないことを理解してください。私はその癒しを自分で得ることができることができなければいけないと分かっていました。もし私が自分の足を骨折して、すぐに医者のもとに行くなら、どうして私が他の足を骨折した人のための癒しのために祈ることができるでしょうか?だから、あなた達が私と同じ立場に立って考えるように言っているのではありません。私の決断は、私自身の立場からした決断です。

最初にし始めたことは、自分のからだに向かって言い始めました。「足よ。神のことばと一致しろ、イエスの御名によって、癒されよ。お前に、今、癒されるように命令する!!」それから、私は声を大きくして、足を叩いて、命令し始めました。大きなハンマーで強くたたくと、ゲージが上まで上がり、鐘が鳴るマシーンを知っていますか?私が足を叩くと毎回そんな感じでした。足を叩く度に、激痛が走って、意識を失いそうになりました。目の前が真っ黒になりました。それを繰り返しました。痛かったです。そのような状態が3日か4日続きましたが、それ以来、歩くことができるようになりました。そして次の週にはクラスに行くことができました。まだ、少し痛みましたが、ブーツを履くことはできました。その時は、まだ何が起きるかわからなかったので、その足にあまり体重はかけませんでした。そんな感じで歩かなければいけませんでした。2週間くらいかかりましたが。癒されました。そのようにして、自分の癒しの為に信仰を持つと決心しました。

少し違う状況でしたが、他にも同じような決断をしたことがあります。その時には、夜にコンビニエンスストアで働いていました。虫歯があり、腫れ上がっていました。普段薬を取ることはしませんが、その時にはアドビルか何かを飲んでいました。それは4時間か6時間おきに、2錠を飲んでください、と書いてありましたが、私は毎時間4錠飲んでいました。それは絶え間ない痛みでした。痛みはひどく、私は歯医者に行くこともできないと知っていました。なので、真夜中に、トイレに行き、鍵を閉めました。そして、ポケットナイフを取り出して、その歯を抜きました。その後に、警察が来て、血が一面にあるのを見つけました。彼は私がそこで働いているとは信じませんでした。彼らは死体を捜していました(笑)。

そのように、私は思い切った決断をしてきました。なので、私はあなた達にも同じようにするようにするようには言いません。でも、同時に、私はしなければいけないことは何でもするように自分自身に言い聞かせてきました。ウィグルズワースは以前によく、「疑いながら生きるくらいなら、信じながら死ぬほうがましだ。」と言いました。私も決断を下す時にそのように考えていました。人々は私に薬を飲むべきかと訊きます。すでに言いましたが、こう答えます。「それに関してはコメントできません。」そうすると、彼らは言います。「じゃあ、あなただったらどうしますか?」それは、遠まわしに、何をしたらいいかと訊いていることと同じです。そのような時には、私は言います。「もし薬か何かが必要なら、医者のところに行きます。でも、もう薬が必要であると認める時には、私は医者に行けるような状態では無くなっていると思います。だから、あの時も私はトイレに行くことに決めました。私が誰かに頭を下げ治療をお願いする前に、私は死んでいると思います。」

1997年に南アフリカで教えている時、昼食から帰ってくると、会堂の人々は2倍に増えていました。朝のセッション後に私が牧師達と食事に行っている間に、人々は出て行って、祈り始めて、癒された人々がやって来たからです。昼食は短いものでした。私は驚いて牧師に尋ねました、「どうしたら人々がすぐに出て行って癒しを行うようにできたのですか?あなたが一度言っただけで、彼らはそれに従って癒しを行いました。アメリカでは、人々が癒しを行うようになるために、ギリシア語やヘブル語など神学などを用いていちいち説明して、説得しなければなりません。」私は決して彼の答えを忘れることができません。彼は言いました。「カリー兄、あなたにはわからないことでしょう。ここにはあちこちに病院はありません。ここでは私達は神を信じるか、死ぬかのどちらかの選択しかありません。」その時、私達の持っている祝福が、私達にとってのろいとなってしまっていることに気がつきました。何故なら、私達は生活の中で他の多くの本当の神でない神々を持っているからです。

もし金銭が必要なら、備えてくださる(創世記22:14)の代わりに、XXX銀行に行って、お金を借ります。もし心配事があり、問題があるなら平和の神(士師記6:24)の代わりに、精神科医から安定剤やその他の薬を貰います。もし癒しを必要としていたら、癒す神(出エジプト記15:26)の代わりに、医師に頼ります。医師は痛みがあればそれを取り除くか、痛みを消すための何かをくれます。私達には多くの神々がいます。なので、ある時点で誰が私達の神なのか決めなければなりません。最終的にはそのような神々はあなたを失望させるでしょう。本当の神であれば別ですが。だから、今のうちに本当の神を選んでおいたほうが賢明です。

以前に私はアルコール飲料を一度も飲んだことがないことを話したのを覚えていますか?私はサタデーナイトフィーバーが流行っている時に、ナイトクラブにいました。ナイトクラブにいましたが、アルコール飲料は飲んでいませんでした。毎週火曜日から日曜日までナイトクラブにいました。たしか、月曜日はナイトクラブが休みだったと思います。ナイトクラブに開店時の夜の8時から閉店時の朝の2時までいました。ナイトクラブが閉まると、デニーズのようなファミレスに行き、朝の3時まで食べてから、家に帰って、シャワーを浴びました。私は4時か、5時までも起きていて、考えていました。「8時から仕事に行かなくちゃ。」私はそれまで、寝て、そして仕事に行き、そして、帰ってきては、次の夜に、同じように繰り返しました。「じゃあ、いつ寝るんですか?」と訊く人がいるかもしれません。私はいつも答えました。「寝る時間は後でいつでもあります。クラブは月曜日には閉まっています。なので、月曜に寝ます。」そんな感じでした。

人々は今日では日曜日の夜8時以降にはあくびをしています。その当時にナイトクラブにいた人達と同じ人達が教会にいるように思います。実際に今の教会とナイトクラブは似ています。気づいているかは分かりませんが、ただの違いは、私達はナイトクラブでダンスするには少し歳を取りすぎただけです。でも、教会ではダンスします。ただ少し静かなだけです。ただの違いは、ナイトクラブでは入り口でサービス料を払いますが、教会では座っている間に献金を払います。どちらにしろ、似たようなものです(笑)。

私が以前には一緒にダンスしに行った人達で教会にいる人達は今でも同じような言葉を使っています。以前は、私達は酒に酔うことについて話していましたが、今では御霊に酔うことについて話しています。彼らは以前は言っていました。「私は酔いすぎて、車を見つけることができませんでした。」今では彼らは言います。「あなたもここに先週の日曜日にもいるべきでした。すごく良かったです。私は御霊に酔って、車まで、抱えて運んでもらわなければいけませんでした。(笑)」同じ言葉遣いです。それらは驚くほど似ています。

ある日、考えていました。「私達が以前は一緒に4時までダンスしていた人達が、今では8時になってあくびをして言っています。今日の説教は長かったです。今から、早く家に帰って、睡眠を取らないと。」それで、私は考えます。「彼らは長い間人生を悪魔のために費やしてきたのに、今では見てください。すぐに疲れて、結局何もしていません。8時、9時には寝なければなりません。それは賢い選択ではありませんでした。その時間を神のために費やす必要がありました。」でも、以前のナイトクラブ時代のことを思い返すと、私達が持っていた姿勢だけは、活気にあふれて、どんどん行こう、人生の毎秒を精一杯に生きようというものでした。

ある時にバーである人が私のところに来て酒を手渡してきました。私はいつもコーラをワイングラスの中に入れて歩き回っていました。彼らは私を知っていて、無料でドリンクをくれました。彼らはコーラをプラスティクのコップに入れようとしました。でも、私は言いました。「いいえ、グラスに入れてください。」それは酒を飲む人達は、酒を飲まない人は信頼しないからです。なので、ワイングラスにコーラを入れていました。人々は私が酒を飲んでいると思いましたが実際には飲んでいませんでした。酒を勧められましたが、私はそれを拒否しました。拒否した理由は私はその決断をその時にしたのではないからです。

私は9歳の時にアルコール飲料に飲まないと決心しました。戦いの最中は何か決断をする時ではありません。何でも前もって決断をして、あらかじめパラメーター、つまり制限範囲をつくっておいてください。私は何年も前に神に伝えました。「もし私がミニストリーの立場に立ったなら、私は誰にもびた一文お金を頼むことはしません。私達は誰にも私達の必要については言いません。私達はただ神を信頼します。いつもこれらの法則に従います。」これが私達は訓練に参加するために料金を取らない理由です。献金は集めますが、何も与られるものがなくても気にしません。何も与えたくないのなら、それはそれでかまいません。私達には出費はあります。もしそれがここで満たされないのなら、神は私達が帰った時に、郵便受けに必要な分を与えてくれます。いつもそうやって成功してきました。それは私達が神を信頼するからです。もし私が他人にお金に関して頼るなら、私は彼らが気に入るメッセージをすることになるからです。そうでないと、お金をもらえないからです。でも、私は神を信頼するから、自分が信じる真理を語ることができます。私は他の人達がそのメッセージを気に入ろうが、どうであろうが気にしません。これはうぬぼれの強い人のように振舞っているのではありません。神が私のすべての源です。彼はそれを証明してくれています。私はただのテキサス州からの一人の人にすぎませんが、神は私を世界中に連れて行ってくれています。

私はこのミニストリーの立場にいますが、神が私をここに置いてくれました。それはどのミニストリーも私を雇ってはくれないからです(笑)。恐らく私は他の組織のメンバーにはならないだろうということです。いつもそのように感じています。私には他の人達が持っているべきであるような、資格はありません。私の持っている唯一の強みは、あきらめないし、やめないし、引き下がらないし、何が起きようと前進し続けることです。資格など持っていません。神学校で学んだ資格もありません。ただインディアナ州のサウスベンにあるサムラル氏の学校に行きました。でも結局は、すべての時間をサムラル氏と過ごすことになりました。でも、それは神学校よりも益になりました。それは座っているだけのアカデミックな学びではありませんでした。でも神は私に神学校を与え、又いろいろな神学校で教えることを許してくれました。

私達はマイケル・ブラウン氏と友人です。彼はブラウンズヒル・リバイバルとファイヤースクールのためによく知られています。彼は私達を支持してくれました。彼は、私達の教えは神学的にも正確で、聖書的にも間違えはないと言ってくれました。彼の資格はそれはすばらしいものです。

神がテキサス州出身の私のような者を用いてこのようなことを行うことをできることに神に栄光を帰します。何故なら、私一人ではこのようなことは到底できないからです。なので、神が私を用いることができるなら、彼はあなたも用います。私は物事を行うときによく間違えを犯します。私はすべてのことの順序を逆から行ってしまいます。ミニストリーを建て上げる為に、何でも一般に行うべき手順では行いません。私はミニストリーを建て上げるつもりはありませんでした。ただ役に立つものを求めていました。そして、今はそれをシェアしています。なので重要なことはミニストリーを立ち上げることではありません。重要なことは世界を変えることです。このメッセージには力があります。私達は今まで2万人以上の人達にこれを教えてきました。2万人です。私は今まで誰からも、Eメールや電話や手紙などを通して 「あなたの教えたことを試してみたけれども、効果はありませんでした。」 という返事を受け取ったことはありません。

証は何時間でもシェアすることができますが、いつも、すばらしい証がいくつかあります。それらはいつも同じような調子で始まります。ある夫婦がいました。彼女と夫は二人とも80歳後半でした。彼は原子力物理学者でした。とても頭のいい人です。彼と話すと頭の良さに驚かせられました。私は彼の言っていることの、部分部分を理解することができました。とにかく、彼女が今から一年ほど前に手紙を書いてくれました。それにはこう書いてありました。「カリー兄、私は今まで私は神に用いられることなどないと思っていたのに、でも…」このような口調で手紙は始まりました。この女性は80代後半でした。ある日、彼女は電話を受けて、病院へ行きました。私達はオレゴン州のポートランドにネットワークを持っています。もし誰かが病院に行くなら、その前にジョンG.レイクミニストリー(JGLM)の人達がその人に電話をして、その人が医師に会う前に祈ります。

彼女は手紙に、ある女性が糖尿病を持っていたのでそのために祈るように電話を受けたことが書いてありました。彼女がそこに着いた時には、女性の片足はすでに切断されていました。そして、もう片方の足も、血塊の為に切断するところでした。彼女がその場に着いて、自己紹介をしました。その女性は言いました。「何故あなたはここにいるんですか?」彼女は言いました。「私はあなたの為に祈るために来ました。でも、最初に謝らなければいけません」その横たわっている女性は言いました。「何のためにですか?」彼女は言いました。「もっと早くここに来なかったことです。もし、もっと早く着いていたら、足を切断しなくても良かったからです。」 考えてみてください。確か彼女は50年の間と言っていたと思いますが、教会に50年間も座り続けていた、80歳の女性が、突然、このいのちについてのメッセージを聞いて、それを理解して、外に出て行って癒しのために祈っています。彼女はその女性の為に祈り、その女性は病院に行きました。それから1週間ほど経って、彼らは彼女に再び電話をかけて言いました。「病院に戻らなければいけません。あの女性はまた病院に行くことになりました。」彼女は病院に行き、その女性が病院に運ばれたのは、彼女が摂取していたインスリンにからだが過剰反応したことが分かりました。彼女は癒されました。なので、彼らは彼女に検査を受けるように言いました。血塊は無くなり、彼女は足を失くさずに済み、糖尿病からも癒されました。医師もそれを認めました。

このようなことは日常茶飯事のように起こっています。これは普通の証です。私がシェアする証はその中でも際立つものです。そのうちの多くは、古いものです。何故なら、私達が最初に始めた時には証は沢山はないので、すべてが際立つものです。証が多ければ多くなるほど、それらをいちいちチェックすることが難しくなります。そのうちそれらの証もあまり目立たなくなってきてしまいます。

多くの証は古いものですが、新しい証をシェアします。ある退職した夫婦がいました。彼らは少し前に私に手紙を書いてくれました。それにはこう書いてありました。「カリー兄、私達はタイの南部にあなたの息子が宣教師としていることを知っています。でも、タイの北部にも、JGLMの宣教師がいることを知ってほしいと思います。」彼女と夫の子供達が大きくなって、孫達と共に全員でタイに行きました。彼女は言いました。「私達は皆座って神癒技術者訓練のセミナーに参加してそしてその後もCDを何度も聞きました。」彼らは一般的な夫婦です。誰も彼らをサポートしていないし、誰もお金を払っていません。彼らは退職して、年金をもらっています。彼女は言いました。「私達の前回の旅では、数百人の救いが起きました。それと同時に2週間のうちに600もの癒しが起き、記録されました。それらの大半には私達の9歳と12歳の孫達も携わりました。私達にはすでに3世代目の神癒技術者達がいます。」

癒しを行う上で年齢は関係ありません。ある私のクラスで8歳の少女が癒しを学んでしました。席にすわりノートを取っていましたが、彼女自身癒しを必要としていました。彼女は家での学びにやって来て、願いました。「私は食物アレルギーがあります。祈ってくれますか?」私は尋ねました。「何を食べることができませんか?」彼女は答えました「魚介類を食べることができません。」私は言いました。「わかりました。では行って、それらを食べなさい。」夜の11時だったので、どこで魚介類の食べ物を見つけることができるだろうかと考えていました。その家の人がたまたま冷凍された魚介類の食べ物があったので、彼女はそれを食べました。少女はこう言いました。「あなたがここに一緒にいるから、これを今から食べます。」彼女はそれを食べました。その後に私が他の人と話していると、ある人がやって来て言いました。「少女がその魚介類を食べていると、アレルギー反応を少し起こし始めました。しかし、彼女は「イエスの御名によって、反応よ、去れ」と命令し、その反応は去りました。」そして現在、その少女は他の人々のために、祈っています。もう一度言います。年齢は関係ありません。

恐らく今から私の言うことを聞くとあなたは苛立つかもしれません。でも、もしそれらのことについてよく考えて、聖書を勉強すれば、それらは真理だと分かると思います。一つ目は、神の力は機械的であることです。私達は通常そのようなことを好みません。何故でしょうか?それは神の力が怪奇で、神秘的であることを好むからです。神が信頼できる方であればあるほど、私達に責任が伴ないます。私達は曖昧なことが好きなので、神秘的なことを好みます。私は自分の子供達にいわゆる「ゴミ探知機」を教え込みました。彼らが特に癒しに関して「神は~できない。神は~をしないでしょう」というようなフレーズを聞くと、その探知機は反応します。何故なら、そのような教えはいつも人による教えだからです。神は聖徒、罪人に関わらず、すべての人を癒しました。神には限界はありません。私達の限界は、私達自身が決めたものです。もしあなたが、神が癒しを行うためには断食しないといけないなど、神のつけなかった条件をつけるなら、神はまず私達を癒しのために用いることはしないでしょう。もしそのようなことを教えるなら、偽りの教えを広めていることになります。

神は本当に癒します。その人が罪を行っていても、その人を癒します。もちろん神は人の人生に罪があることは望みません。私は罪を犯し続けてもよいと言っているのではありません。たとえ私達が罪を犯していても、神は私達を通して人々を癒します。でも、彼は私達が罪から離れることを望みます。解りますか?神はあなたを本当に愛しているのです。もし私達がこのメッセージを真に理解したら。もし神の心を理解したら、それはこの世界を変えます。神の心を真に理解する為には古い契約的な考え方から、新しい契約的な考え方に移る必要があります。

古い契約的な考え方は、私達はしもべであって、神は私達のうちから離れている、と考えます。神は怒っている神であり、私達が少しでも間違いを犯すと、私達を激しく打つか、私達に差し伸べた助けの手を引っ込めると考えます。そのような考え方は私達自身を神から離す考え方です。でも、新しい契約的な考え方は、神は私達と共にいるというものです。神は私のうちにいて、私(信じる者)の感じる感情は本来神のものです。何故なら、もし私が人々へのあわれみを感じるなら、神はどれだけのあわれみを感じることでしょうか?私がこの場に立って、「神よ。この人を癒して欲しいです。この人を癒してください。」と言うと、それはまるで私は神よりもあわれみがあるように聞こえます。癒しは私達の行いとは関係ないことを覚えていなければなりません。癒しは私達が思いついたことではありません。私達が聖書を書いたのではありません。私達が病人の為に祈り始めることを決めたのではありません。癒しは神の計画でした。神が癒しを聖書に書きました。神はそこに「信じる者が病人に手を置けば、彼らはいやされます」と書きました。(マルコ16:18)神がこれを決めました。私達が思いついたことではありません。でも、私達はそれをまるで自分が思いつた事のように振舞います。私達は神が癒しを行うように神を説得しようとします。現実は、神が癒しを思いつき、神が私達を癒しを行うように説得しようとしています。病人の為に祈る時、神の心を知ります。でも、目の前の病人を見て、「神よ。あなたはこの人を癒すことができます。もしこの人を癒してくれるなら、癒してください」と言うなら、それは神に対して最悪な言葉です。

もし、私の息子が来て次のように言ったとします。「お父さん、お父さんがお金のないのは知っているけれど、もしお金があったなら、お父さんは僕を助けてくれると思っています。」そして、私は次のように言うでしょう。「そうだよ。少なくてもお前に対しての私の心は知っているようだね。」また、息子が来て次のように言ったとします。「お父さん、お金を持っているのは知ってるけど、そのお金で僕を助けてくれるとは思いません。」この場合、息子は父親の力は知っています。彼が疑っているのは私の意志です。この違いが分かりますか?子が親の自分の子を助けたい、という意志を疑う時、親の心は痛みます。何故なら、親は自分の子がいつも簡単ではないにしろ、何とか困難を乗りきることができるように手助けをしたいと思うからです。この様な親の心を私達は知っているのに、父である神をとても冷たい心を持った人のように考えます。まだ神の力を疑ったほうが、神のみこころを疑うよりもましです。でも、現実は、私達はよく彼の力は疑わずに、彼のみこころを疑います。そして、その子のように言います。「あなたはそれをすることができると知っていますが、でも、どうしてもそれをするとは思いません。」 いいですか、これはしもべの考え方です。このようなことばは、古い契約的な考え方からのものです。旧約聖書の古い契約の下の人々でさえ、これよりも神に対して信仰を持っていました。新しい契約の下の私達のうちの多くは古い契約の規準にさえ達していません。でも、私達はさらにすぐれた新しい契約を授かっています。

新しい契約の中心は神の御霊が私達のうちに住むためにやって来られることであるのを再認識する必要があります。私達が至聖所になります。私達が神の幕屋となります。(1コリント6:19)古い契約的な考え方はいつも、「神はどこか離れたところにいます。神を見つけに行きましょう。神の御顔を求めに行きましょう。彼の心を見つけに行きましょう。神様。私のもとに来て下さい。神様。私達に現われてください。主よ。あなたの栄光が下りますように。」このようなことはすべて聖書では非難されています。でも、多くの人々はこれらのことばを唱えることで、自分達が霊的であると勘違いしています。何故でしょうか?彼らにはそれが霊的に聞こえるからです。彼らは霊的ではなく、宗教的です。

私はアイダホ州のチャリスにいました。私はデイビッド・ホーガンやクリス・バロトンやローランド・ベイカーやビル・ムラサ達といました。私は2つのDVDを作りました。一つは「神の国の福音」と言うもので、もう一つは「悪魔の教え」というものです。そのうちのいくつかは今このセミナーで教えています。正直に言うと、私達は彼らを怒らせました。実際に、私が去った後に、彼らは集会を持ちました。本当です。私達の知っている何人かの人達がその場に残っていました。彼らは集会を持って、それで私の話したことを検討していました。デイビッドと私は仲良くなりました。デイビッドは彼らの集会に参加はしないで、私が去ったすぐ後に去りました。これらの人達は集まって話し始めました。「私達はこの集会をもっと霊的にしなければいけません。」私が立って話すときには、大きな看板が立っていました。それには、「もしあなたの臨在が行かないのなら、私は行きません。」と書いてありました(出エジプト記33:15)。それは聖句でした。でも、それは古い契約からのものです。それは私達には当てはまりません。私は彼らに言いました。「あなたはこの聖句を信じますか?もしそうなら、それがあなた達の問題です。あなた達は神の臨在が無いところに行くことができると思っています。でも、ダビデ自身が言いました。‘私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。’(詩篇139:7-8)」私は続けて言いました。「あなた達は古い契約が好きです。それなら、私も古い契約からの聖書箇所を使います。同じ聖書がこのように言っているのに、何で私はもしあなたの臨在が行かないのなら、私は行きません、と言えますか?私の行くところには何処にでも、神の臨在は共に行きます。」

もしこの新しい契約的考え方のメッセージを真に理解するなら、それは人生を変えるでしょう。驚くほどにです。約束します。これは完全にあなたを変えます。何故なら、これからは神に乞い願うことを辞めて、神と共に支配するようになるからです。高慢な視点からではなく、人々を助けることができるものを自分の内に持っているので、神と共に支配することを決心しだします。人々を助けることができるように、いつも準備していてください。私達はいつも、「天が開くように祈っています。」と言い続けます。でも、私達自身が開いた天そのものです。なので開いた天を求める必要はありません。

もし部屋に罪人とクリスチャンがいるなら、そこには開いた天と閉じた天があります。罪人は祈りますが、彼らの祈りは多くの場合聞き入れられません。でも、私達は開いた天です。天につながっている導管です。天につながる導管として、私達がいるところには開いた天があります。天に届く為に、祈り続ける必要はありません。私達が一言、「イエスの御名によって」と言えば、私達は天に届きます。私達は天にいます。何故でしょうか?それは神は私と共にいて、私達が行くところには何処でも神も私と共に行くからです。人々は「祈りましょう。主よ。あなたは私達があなたの現われを望んでいることを知っています。神様。感謝します。どうかあなたの臨在を私達に現してください。」と言います。聖書ははっきりとそのようなことは言わないように言っています。聖書は「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」と言っています。(ローマ10:6-8)神は私達のうちにいます。彼は人となったことばです。そのみことばをあなたのうちに蓄えてください。そして、みことばを語ってください。そうすれば、そこに神はいます。

私の教えていることはとても単純です。私がこのように繰り返し言うのを聞くと思います。恐らく、すべてのことを手っ取り早く言う方法は異言で話してしまうことです。でも、私達は解き明かしをしなければいけませんね(笑)。聖書の教えは難しくされすぎてきました。単純に、私達は神はいつも私達と共に働こうとしているのを信じることが必要です。彼はあなたと共にいます、彼は私と共にいます。私はいちいち朝起きたときに、神を探しに行く必要はありません。私は、「おはよう、聖霊様!」と言う必要はありません。そう言うことは何も悪くありませんが、そのように言う必要はありません。彼は何処にも行きません。私が寝ている時が、彼が一番私に話すときです。何故なら、私が自分の考えをなくすときだからです。多くの場合、日中は私は忙しいです。夜の間に、彼は何かを私のうちに与えてくれます。そして、朝起きた時にはそれがそこにあります。それらは、その時に私の口から出てきます。「わあ、自分がもう知ってるってことを知らなかった。」それでその夜までそんなこと知らなかったことに気が付きます。なので、神が寝ているうちに私のうちに与えてくれました。それは自然と私のうちから溢れ出てきます。

古い契約的考え方の本質は、私達は満たされていない、というものです。それは、何かがもっと必要です、何かをもっと得なければならない、私はまだ準備ができていない、というようなものです。もしこれらのような考え方、つまり私達は満たされていないというような考え方をしているのなら、それは古い契約的考え方です。でも、新しい契約的考え方は、「私はキリストによって、何でもできるのです。」というようなものです。(ピリピ4:13)もしすべてのことができるなら、それは死人を生き返らせ、病人を癒すようなことです。そうではありませんか?新しい契約的考え方は私はすでにキリストにあって完璧にされ、完全にされたという考え方です。なので、何故まだ他に私達に何か加えられる必要があるでしょうか?何故未だに油注ぎや、新しい油注ぎを求めるのでしょうか?新しい契約の下のクリスチャンとして、私達には何か欠けたところがあると考える必要はありません。ただ神に造られた者として振舞う必要があるだけです。神のみこころどおりの人として歩むだけです。

聖書を読むときには、私達はいつも自分自身を次のうちの誰かの立場に置きます。例えば、私達がイエスが群集の中を歩いていくのを見ているとします。そこには、イエスと、弟子達と、病人がいます。もし、私達がいつも病気なら、私達は自分自身を病人の立場に置きます。そして、病人が癒されるためにしようとすることと同じ事をします。イエスが地上を歩いていた時の人々は、古い契約の下にいました。彼らは皆しもべの考え方を持っていました。彼らは新しい契約を理解していませんでした。福音書の病人は私達の見本ではありません。そして、私達は彼らと同じではありません。「誰でもキリストのうちにいるなら、古いものは過ぎ去りました。」(2コリント5:17-18)先ず第一に、私達は新しい創造です。新しく造られた者です。「古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。」次の節は言います。「すべてのものは神から出たものです。」「すべてのもの」とは何でしょうか?それは、「私達のうちにあるすべてのものです。」私達はよく言います。「私達の頭の中にある知識は心の知識になる必要があります。」そうではなくて、私達の心の知識が、頭の知識になる必要があります。聖書の何処にも私達の心(HEART)を一新しなさいと言っていません。聖書は考え(MIND)を一新しなさいと言っています。(ローマ12:2)何故でしょうか?何故なら、私達の心は新しく造りかえられて、完璧であり、完全だからです。それはまるでキリストが私達のうちに複製されたようなものです。私達が成長する時には、私達はキリストのようになります。私達はキリストのように歩み、彼のように話すようになります。彼が私達の見本です。

弟子達でさえ、私達の見本ではありません。彼らは問題だらけでした。私達はよく「教会は問題だらけです。」と言います。それは、私達がそのような人々を見本にしているからです。彼らを見本にすることを辞めて、イエスを見本にしてください。イエスには問題はありません。彼の行ったことを見てください。そして、彼のしなかったことにも注目してください。彼の弟子達は言いました。「主よ。私達の信仰を増してください。」(ルカ17:15)彼はまず初めに人を集めて、「皆さん、並んでください。今からあなた達に手を置いて、信仰と油注ぎを与えます」とは言いませんでした。彼はそのようなことはしませんでした。イエスは言いました、「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があるならば、あなたは言うでしょう…」(ルカ17:6)。なので、彼らはイエスに信仰を増してくれるように頼みました。でも、イエスは「もし、信仰を増したいのなら、それを話し、告白し始めなさいと言いました。」何故なら、私達はまず語り、そしてそのように歩むからです。もし私達がそれを語り、そのように歩んでいないなら、うそつきです。なので、語り、それに専念して、語ることば通りに歩んでください。私達は決して私達が現在誰であるか、又どこにいるかを語るべきではありません。それが問題です。人々は彼らが現在誰であるか、又どこにいるかを語ります。もし私達がいつもそれについて語るなら、現在いるところに留まり続けることになります。私達がなるべき姿を語るべきです。私達は自分がなるべき姿を知り、それについて語り、そのレベルにまで達するべきです。いきなりそのレベルにまで達するでしょうか?恐らく達しないでしょう。間違えも犯すでしょう。それは私達が神ではなく、人であることを証明するだけです。それでも私達は進み続けます。前進し続けます。それが私達のすることです。

私達は「頭での知識を得ました。あとは頭の知識が心の知識になる必要があります。」と考えます。でも、そうではありません。私達はその真理の知識にしたがって一新された考えと完璧な心を得る必要があります。もし、いつもこの心の声を聞くならば問題は起こしません。でも、問題はこの新しくされた心の代わりに、一新されていない考えに従うことです。これは他の旧約聖書の、古い契約的考えのわなです。一新されていない考えは古い契約的考え方です。人々は真理の知識があると言いますが、まだ新しい契約的な考え方に従って一新されていない部分の考えに沿って歩かない限り、古い契約的考え方に基づいて歩みます。人々は頭に知識があると言いますが、それだけではまだ古い契約的考え方、つまり一新されていない考え方に基づいて歩んでいます。たとえ間違えを犯しても、決して自己卑下をしないでください。何故なら聖書には私達にはキリストの考えがあると書いてあるからです。(1コリント2:16)

癒しを行うときに、私が人々に、「行って、食べなさい。これをしてみなさい。」と言うと、彼らは訊きます。「カリー兄、そのことばは聖霊からですか?それともあなたのことばですか?」私の答えはいつも同じです。「はい、そうです。」(笑)。それで、彼らは私を見て言います。「私の質問を分かっていません。その言葉を話したのは聖霊ですか?それともあなたですか?」私は答えます。「はい、そうです。」(笑)。このような答えは、彼らを苛立たせます。特に宗教的な人達をです。そして、彼らは言います。「あなたは自分を何様だと思っているんですか?」私は自分が誰であるかを知っています。私は私が誰であるかは関係ありません。でも私は神が造ってくれた自分を知っています。神は私のうちやって来てくれました。私が神に代わって物事を行うときには、私は神のことばを話すことができて、それは力を持ちます。

まず私達の心が正しくならなければいけません。それから、その心が私達の考えを一新するように教えます。これについて考えてみてください、ローマ12:1-3では「この世と調子を合わせてはいけません」と書いてあります。この世にしたがって自分を型にはまった人になるようにさせてはいけません。今日の教会を見てください。それらの多くはこの世のものを成功の動機としています。

神は私達に成功してほしいと願っています。疑いの余地はありません。あなたにとって成功とは何ですか?それは銀行口座にあるお金や、持っている鍵の数ですか?それとも、救われたたましいの数ですか?癒されたからだの数ですか?神の国のトロフィーですか?それが成功です。成功とは他の誰もできないことをすることです。イエスのしたことをし始めてください。それはこの世の誰もできないことです。この世はそれを与えることはできません。このようにして私は私達が成功しているかを知ることができます。もし私達がこの世の人達ができることをしているとしたら、どうして私達しかできないことをしていると言えるでしょう?でも、もし私達が神の御霊を持っているとしたら、私達がイエスのしたことができるはずです。もし、私達がイエスのしたことと同じことができないなら、どのようにして、私達が神の御霊を持っていることを知ることができるでしょうか?彼は同じ御霊です。なので、彼と同じことを行うべきです。

聖書が教える通りのことをする必要があることを私達は認識するべきです。聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ考えの一新によって自分を変えなさい。」と言っています。(ローマ12:2)何故でしょうか?それは「神のみこころは何か、何が神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」 です。私達が新生したときには、正しい心は持っていますが、考えは完全ではありません。考えを聖書のみことばを一致させる時、神のみこころをわきまえ知ることができます。私達の考えがみことばと一致するまでは、理解していないことは何も語るべきではありません。何故なら、みことばと一致しないことを語り、他の人々を困惑させることになるからです。

ローマ12:1-2は私達がどのように変えられるかについて言っていることに注目してください。それは考えを一新することによってです。多くの人は新しい目的を決意をしたり、新しいことに専念することによって、変わろうとします。そのように試みますが、それで私達は変わりません。すべてを理路整然とさせようとしますが、それは一新することではありません。私達は考えを一新することによって変わります。考えをみことばに従って変えてください。

みことばをただ記憶することではありません。私は文脈に沿って、人間から出た教えなしで、正確に聖書のみことばを解釈することについて言っています。それをし出すと、どうなるでしょうか?私達は周りの他の人達と全く反対の考え方をし出します。私はいつもこのように教えます。「もし癒しを行いたいなら、大半の教会が教えることと全く反対のことをしなさい、そうすれば聖書の教えていることともっと近いことを行うことができます。(笑)」 多くの教会は神が私達を通して働き、私達を癒せるようになる為に、まずその人の罪を見つけ、生活の中から全く取り除く必要があると言います。聖書にはそのようなことは書いてありません。

私達は生活の中で、罪を犯しているべきでしょうか?もちろん、そんなはずはありません。神の御前で聖く、正しく生きているべきです。他の人達をもそのようにするように導くべきです。でも、もし神が私達を用いることができるようになる前に私達が完璧になるように待つ必要があったり、もし、誰かを用いるためには神はそれまで待たなければいけないのなら、聖書は書かれていなかったはずです。何故なら、聖書に書いてある人々と、聖書を書いた人々は誰一人として完璧な人ではなかったからです。12使徒達でさえも完璧ではありませんでした。ペテロは元々口の悪い漁師でした。雷の子と呼ばれる、ヤコブとヨハネ、は天から火を呼んで、町を焼き尽くすつもりでした。(ルカ9:54)誰もが神に誰かに対して何かをしてくれるように願ったことがあると思います。でも、天から火を呼んで町を焼き尽くすようには願ったことはないと思いますが(笑)。例えばユダは盗人でした。(ヨハネ12:6)トマスは大抵のことを疑いました。(ヨハネ20:24-29)彼は大抵、何でも目で見るまでは信じませんでした。それからヨハネはナルシスト的な問題を持っていたと思います。何故なら、彼はいつも昔を振り返り、自分のことを、イエスの愛した弟子、と言ったからです。彼は、イエスが復活したときでさえ、その問題を持っていました。彼自身が書いています。「ペテロと私は彼の墓まで走りました。私達は競いました。それで私は勝ちました。」彼はそのように書いています(笑)。彼は、「私達は墓に向かって走って、私が先に着きました。」(ヨハネ20:3-4)そうですよね?なので、そのような時まで、彼らには問題だらけでした。

私達はよく次のような考え方をします。「私達がすべての事を整えた時に、すべてのものが統一されている時に、すべてのことが完璧になった時に、神は現われます。」でも、すべてが完璧な時には、私達には神は必要ありません。すべてが問題だらけのときに、神が必要です。私達はいつもすべてのことを完璧に行おうとします。ペテロを見てください。パウロはペテロについて、聖書に書きました。「ペテロに非難すべきところがあったので、私は面と向かって抗議しました。」私は彼らのところに行って、言いました。「あなたはエルサレムからの人達がいないときには、異邦人とも仲良くやっていたが、エルサレムから有名な人達が来ると、いきなりあなたは異邦人達と食事をしなくなる。あなたは偽善者だ。パリサイ人のようなものだ。自分でも人の負えない重荷を人に負わせている。」(ガラテヤ2:10-14)私は彼らは喧嘩をしたとは言いませんが、少なくともパウロはペテロに面と向かって抗議しました。

パウロとバルナバは喧嘩をしました。それは激しいものだったので、結果的に、二人が別れる時になりました。使徒的なチームも分裂して、互いに違った方向に向かいました。(使徒の働き15:37-40)聖書は後で言っています。「神はパウロの手によってすばらしい奇蹟を行いました。」(使徒19:11)不和も神の御霊の働きを止めることはしませんでした。議論や喧嘩が起こっていても、神の奇蹟は起こります。

パウロは、コリントの教会の人達に言いました。「あなた達は肉的です。あなた達の間にはねたみなどがあります。あなた達は言っています。私はパウロにつく、私はアポロにつく。」(1コリント3:1-4)そして、彼は言いました。「あなた達がそのようにしている限り、肉的な考えをしています。肉的な考えは死であることを知らないのですか?」(ローマ8:6)パウロはローマ人への手紙でそのように言いませんでしたか?このように1コリントへの手紙(3章)で、「あなた達は肉的だ。」と言っていて、それで、その後の12章で、彼は言ってます。「聖霊の賜物があり、それらはこのように用いるべきです。先ず第一に、あなた達はひどい問題を抱えた教会ですが、あなた達はどんな賜物にも欠けるところはありません。」(1コリント12、1:7)彼らは肉的でしたが、それでも、聖霊の賜物は働いていました。驚くべきことですよね?それでも、私達は考えます。「もし私達が十分断食するなら、十分祈るなら、私達が十分霊的になるなら、神は私を用いることができます。」でも、神は肉的で、ひどい問題を抱えていたコリントの教会の人々も用いていました。そこには、一人の自分の父の妻と寝ている人がいました。明らかに、書かれたことばによると、それは継母でした。(1コリント5:2)パウロはさらに言っています。「あなた達の中には、異邦人の中にも見られないような罪があります。」それでも、その罪は聖霊の賜物の働きを止めることはなかったようでした。不思議ではないですか?

私達はもしすべてがうまくいっていないなら、罪があるなら、すべてはもうだめだと考えます。何故もうだめだか知っていますか?何故なら、それは、私達がだめだと信じるからです。私達がすべてはもうだめだと信じるとき、思い切って事を行いません。たとえどんなに問題だらけの人であっても、神はその人を何とかして助けたいのです。

ある人が私に言いました。「私が世界に出て行き多くのたましいを勝ち取る前に、神はむしろ私がすべてを彼に明け渡すことを願います。」そのような考えをする人は、相当自分が重要であると思っているのでしょうね!そのような人は高慢です!そのような人は、世にいる他の迷ったたましい達よりも自分が重要だと思っているでしょう。それはパウロが言ったこととは一致しません。彼は「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に福音を述べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないためです。」(1コリント9:27)これは今日教えられている神学とは全く相反するものです。その神学によると、神はパウロにこのように言ったはずです。「パウロ、私があなたを正すまで、退いて、ミニストリーを辞めなさい。」でも、パウロは「私が正しくあり続けるのは、私自身の責任です。」と言いました。何故でしょうか?何故なら、イエスはそれらの迷える人々の為に死なれたからです。イエスは彼らを解放にする為に死なれました。それが私達が理解しなければならないことです。イエスはそのために死なれました。

最近、私は一人の人がテープの中で次のような話をするのを聞いたのを覚えています。「私は異教の人達を救おうと考え、アフリカに行きました。それは彼らは地獄に行くには値しない思ったからです。」そして彼は続けて言いました。「アフリカに行き、イエス・キリストを証していて、彼らが神を望んでいないことに気がつきました。彼らは神とは一切関わりたくないと思っていました。そして突然私は思いました。‘彼らは確かに地獄に行くに値する。’ 」そして、私はアフリカから帰ってくるつもりでしたが、神が私に話しかけました。「あなたは彼らのたましいを勝ち取る必要があります。それは彼らが地獄に行くのに値しないからではなく、彼らは地獄行きに値するからです。あなたは彼らを勝ち取る必要があります。何故ならイエスは彼らのために死に、イエスは彼らが救われるに値するからです。」

私達は焦点を間違えてきました。私達はまるで神よりもあわれみがあるように振舞ってきました。私達は自分の子を他の人々が救われる為にいけにえとしてささげていません。あなたの子は人々の罪の為に死ぬためにこの世にはやって来ませんでした。もし、あなたの子が死んだなら、それは何人分の価値がありますか?その子の死はどれだけの価値がありますか?その子の死は一人の人が救われるだけの価値ですか?それとも、あなたはこのように言うと思います、「私の子の死は、すべての人が救われるだけの価値があります。」神もそのような気持ちです。神は自分の息子のいのちを与えました。それによってすべての人が救われて、すべての人が癒されるためです。誰でも癒される為には、救われる必要はありません。でも、もし私達が誰かを癒し、その人が救われなかったら、その人が神の御前で申し開きをしなければいけません。彼らは癒されれば、本当に神がいることを知ります。私達は神の慈愛を人々に見せる必要があります。このことに気付く必要があります。神の慈愛が人々を悔い改めに導きます。(ローマ2:4)イザヤ58で断食について教えていることの焦点は、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除くことです。「あなたは種蒔きの法則でその問題を刈り取っているんです。」、「その問題は世代ののろいです。だから諦めてください。」というように問題だけを指摘して、さばくことを止めることです。私達がするべきことは罪を犯していればそれを止めて、すべての肉的な考え方を捨てていくことです。アーメン。

Neylor Stevo